「カタストロフ」。英語だとcatastrophe-カタストロフィー。突然の大災害・大惨事という意味だ。
そもそもの生い立ちが大火事という災害であった「秋葉原」。その後も大きなカタストロフに直面してきたのである。 アキバは今日も、リュック姿で中央通りをゾンビウォークをしている若い衆や近隣構わぬ大声で何事かを囀り合っている中国人観光客で埋め尽くされている。 その平和な風景は、少なくとも過去二回は阿鼻叫喚と死体と瓦礫の山だったことがあるのだ。 言うまでも無く、1923年(大正12)の関東大震災(大正関東地震)と1945年(昭和20)の東京大空襲である。 大正12年9月1日午前11時58分32秒、相模湾沖を震源としたM7.9の巨大地震が関東を襲った。推定死者・行方不明者10万5千余名。日本の自然災害史上未曾有の被害を出した。 これは大阪朝日新聞社『大震災写真画報』から、「震災で焦土と化した東京」とキャプションされた写真である。 どこを写したものかお分かりになるだろうか。「神田駅から上野方面を望む」と解説されている。秋葉原は神田と上野の中間点。つまりこの瓦礫の山の先が「アキバ」なのである。 もう少し秋葉原に近づいてみよう。次の写真は東京市役所が大正15年に発刊した『東京震災録』から。 「神田川筋の灰燼」と題されている。9月下旬の撮影。 「神田万世橋から柳原方面」。これは地震発生直後の9月6日撮影。 神田川にかかる橋の多くが大きな被害を受け、対岸に渡る事ができなくなった地区も多かったようだ。万世橋はなんとか持ちこたえたらしく、当時の被災記録を読むと多くの人々が万世橋を使って移動していた様子が伺える。 同じく「神田万世橋付近」。これも9月6日撮影と記録されている。向こうに見えるのは万世橋駅だと思うが、煉瓦の外壁は残っているが、屋根は焼け落ちて、明らかに中は丸焼けのようだ。 『大震災写真画報』から同じく万世橋駅前の様子。撮影時期はよくわからないが避難民らしき人々が多数写っている。駅前にあった廣瀬中佐の銅像は生き残っている。 再び『東京震災録』から。10月17日に撮影した神田明神である。焼失し影も形も残っていない。 徹底的に打ちのめされた秋葉原が、復興によって立ち直った姿はまた次回。
by SIGNAL-9
| 2008-02-14 00:00
| 秋葉原 研究(笑)
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