どうも火除地というのは本来の目的と機能を失い、だんだんと『公園化』していくのがありがちな事だったようだ(『江戸のファーストフード』大久保洋子、『東京都の百年』石塚裕道・成田龍一など)。
秋葉の原も例外ではなかったようで、昭和10年発行の『神田文化史』(中村薫・神田史蹟研究会)によれば、明治20年前後には見世物興行、食べ物屋、立ち食い屋台、浪花節、居合い抜き、吹き矢といった遊興施設が立ち並ぶ楽天地だった、とされている。 『明治世相百話』山本笑月 中公文庫によると; 神田佐久間町の秋葉の原といえば、神田ッ子には思い出の多い遊び場所、元は火除地で火防の秋葉神社が祀ってあった(引用者注:だからそれは勘違いだってば)。方二、三町の空地で、最初の貸自転車屋があり、借馬屋があり、花相撲や軽業もときどき興行、チャリネの曲馬も第一回はここで大当り、平素もなかなかの賑わいで、明治二十一年鉄道構内になるまでは全くの平民的遊園地。チャリネというのはイタリアの曲馬団(今で言うサーカス)の興行師。本名のChiarini(キアリーニ)を変読したのだな。明治19年9月1日から秋葉の原で興行を打ち、大好評で延長興行、皇居吹上御苑で皇族方にもお見せしたとか。 伊太利亞國チャリネ世界第一大曲馬遊覽之圖 ![]() 余談だが、笑月の文章には『最初の貸自転車屋』すなわち「レンタサイクル発祥の地」であるかのような記述があるが、時期が書いていない。 『明治ものの流行辞典』柏書房によると、明治9年の『花都女新聞』に上野広小路で三輪自転車を借りて広小路一周で1銭5厘、との記事があるそうだ。笑月の言うとおりだとすると秋葉原に貸し自転車屋が出来たのは明治9年以前の話ということだろうが、これは確認できていない。明治20年5月14日付け毎日新聞(明治ニュース事典No3所載)には 自転車は近頃しきりに流行し、神田秋葉の原、下谷佐竹の原を始め各町の同貸車は、車の引き足らぬほど忙し。殊にこの頃は乗客が達者になりたれば、三輪車は乗り手尠なく、重に二輪車の大形を好む由にて、同車製造の註文陸続あり。賃貸は上等三輪車、二輪車一時間およそ四、五銭なりと。とあり、明治20年頃には各地で貸し自転車業が営まれていたようである。 この当時の秋葉原への言及がある文学作品もいくつかある。 森鴎外『雁』(明治44年)にも この娘が玉(たま)と云う子で、母親がなくて、親爺(おやじ)と二人暮らしでいると云う事、その親爺は秋葉(あきは)の原に飴細工(あめざいく)の床店(とこみせ)を出していると云う事などを知った。なんて記述があるし、現代の作だが当時を舞台にしている山田風太郎の『警視庁草紙』には 秋葉原はそのころまわりは草ぼうぼうの原っぱであった。―そもそも秋葉原という名がこのときから六年ほど前に出来たもので、明治二年ここを火除地とし、火伏せの神遠州秋葉神社を勧請したことから発生したものだ。だから語源的には、現在通用している「あきはばら」の名はまちがいで、「あきばはら」と呼ぶのが正しいだろう。…風太郎先生、勿論ちゃんと取材されたのだろうが、三重に間違ってます。 火除地にしたのは明治3年だし、勧請したのは「遠州秋葉神社」ではないし、仮に秋葉神社だとしたら、本宮秋葉神社は「アキハ神社」が「正しい」読み方なので「アキハバラ」で正しいのである。(リンク先のローマ字参照)。 天下の山田風太郎まで間違ってるとなると、「秋葉大権現勧請説」も相当に根が深いな(笑) ちなみに、青空文庫を「秋葉」をキーワードにググってみると、他にも幸田露伴、泉鏡花、林不忘、小栗虫太郎などのビッグネームが「秋葉原」に言及しているようだ。比較してみるとおもしろいかもしれない。 俺は面倒だからやらないけど(爆)
by SIGNAL-9
| 2007-01-24 14:27
| 秋葉原 研究(笑)
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