『「秋葉の原」には「鎮火神社」とは別に「秋葉神社」が存在した?』
佐竹商店街脇に存在する「秋葉神社」の由来書きによればそういうことになる。 これが事実だとすれば、「秋葉原の語源」の「正史」に対する反証となる…というのが、俺の妄想だった。 直接それぞれの神社にお話を伺ってもいいのだろうが、妄想を根拠に人様の手を煩わせるのもナンである。 自分でもう少し下調べをした上での方がよかろうということで、ちょうど週末に上野に出る用があったので、少し足を伸ばして合羽橋通りにある台東区中央図書館に出かけてみた。台東区の資料を見るのならここが適当だろうと思ったからだ。 幸い、面倒な手続き無く一般書架の閲覧は出来るタイプの図書館だった。中央図書館というには少々書架が寂しいように思われるが、まあ仕方あるまい。 郷土資料室の書架を漁ってみると、台東区教育委員会が取りまとめた『台東区文化財調査報告書第二十八集(基礎資料編XII)』という資料を見つけた。 これは明治10年の『諸社明細簿』と明治18年の『神社明細帳』が纏められたのもので、神社の戸籍帳みたいなものだ。 この資料で確認できる秋葉神社はただひとつ。 ご覧のとおり、どう見ても松が谷の秋葉神社(鎮火神社)である。 取り消し線で表現したのは、訂正され、書き換えられた部分である。 一瞬、『あれ、昭和5年改名のはずなのに、なんで明治18年の資料に「秋葉神社」という名前で出てるんだ?』と思ったが、人の戸籍と同じく、最初のデータに後年の訂正部分を追記していくため、こういう書き方になっているようだ。 ちなみに、「 古い地図も確認してみた。マピオンやらマップルみたいな、年に三回も改訂されるような現代の道路・市街図とは違い、発行年度時点での正確な記録ではないだろうが、ある程度の目安にはなるだろう。 佐竹周辺は明治9年の地図では陸軍省御用地とされている。これは大火で佐竹屋敷が消失した跡地を陸軍が接収した、という佐竹商店街のホームページに記載のあったとおり。 同じく明治9年発行の『明治東京全図の内第五大區図』には、現在の秋葉原の場所に「四小區 火除區」という原っぱがあり、その中に「秋葉社」という記載がある(1/16: 国立公文書館デジタルギャラリーで同じ地図を見つけたので貼っておく)。 明治20年版の『陸軍参謀本部測量図』では同じ建物が「鎮火神社」と記載されている。 いずれの地図にも「秋葉の原」という俗称は記載されていないが、鎮火神社が「秋葉社」という異名を持っておりそれが混用されていたというのは本当のことのようだ。もしこの誤解が無かったら、アキバ系じゃなくてチンカ系になっていたかも(笑) さらに、明治28年、40年、44年、大正11年、昭和5~7年、昭和8年の東京全図の下谷部分や『下谷區全図』など各種地図も参照してみた。
ということで、残念ながら佐竹秋葉神社の由来書きにある「秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座」という事実の元になるはずの「秋葉の原の秋葉神社」を確認することはできなかった。 もちろん「見つからない」≠「なかった」は重々承知である。 これを持って佐竹秋葉神社の由来書きをクサするようなつもりは毛頭ない。 ただ、積極的に支持できる証拠は見つからなかったのは-俺の能力の問題もあろうが-事実である。 小祠故のことかとも思うが、例えば、佐竹の秋葉神社の近所にある、四国讃岐の生駒屋敷内にあった金比羅神社は現在でも竹町南町会の管理にあるが、こっちの方は神社の台帳でも、地図でも明治期からトレースできる(こちらのページで大正元年と昭和16年の地図を提供されているので参照されたい)。 仮に鎮火神社とは別に秋葉権現が神田相生町近辺にそれなりの規模であったとすれば、何か痕跡が残っていてもよさそうなものだ。今のところ台東区の記録しか調べていないので、千代田区の神社明細も調べてみるべきだろうが、現時点の個人的印象では佐竹屋敷内にあったという秋葉権現を、昭和初頭に「秋葉の原」とは無関係に独自に復元したのでは?という気がする。 --------------------------- 1/29 追記 台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和Ⅱ』(昭和57年)という、台東区のじい様たちに聞き書きした本の中で、佐竹在住の佐藤金作さんの話を読むことが出来る。 竹町小学校には、佐竹の堀がそのまま残っていて、私が生まれた頃(引用者註:明治32年生まれ、明治39年御徒町小学校入学)は、佐竹の屋敷跡の佐竹っ原も相当家が建て込んできたわけで、一般の民家をつぶして学校ができたわけです。そうこうして震災になって焼けちゃった。それではと、学校をまた広げたんです。私の町内に秋葉神社がありますが、昔はあそこでなくて、道が学校に抜けるようになっていた。学校がのり出してきたので、神社が今のところに変わったんです。今、表門になっているのは、昔私たちが通った頃の裏門です。つまり、佐藤さんの言によれば大正12年の関東大震災の前から佐竹の秋葉神社は存在した可能性がある。 つまり、「昭和初期の復元?」という俺の推測は、間違いである可能性が高いということだ。 だが、残念ながらそもそも大本が「秋葉の原」にあったのかどうか、という問題には関係しないので、結論的には変わらない。 --------------------------- ということで、俺の妄想はやはり妄想に過ぎなかったようではある。 そもそも「正史」に対する妄想を検証するのに「政府」の資料なんか使っていいのか…という疑問は我ながら持っている。妄想の輪を広げるとすると、『第五区図』にある「秋葉社」がまさに秋葉神社のことで、そのあとの地図に出てくる「鎮火神社」は乗っ取られた後!みたいな妄想もできないわけではないが(笑)、さすがにソコまでいくと陰謀論者の仲間入りくさいので、考えないことにしよう(爆) 後は佐竹の秋葉神社の由来書きの根拠となる資料でも見せてもらいにいくしかなかろうが、史学的素養というものが皆無な戦後教育の犠牲者(笑)である俺にとって、読解できない一次資料はブタに真珠であろう。 個人的には納得できたから良しとしようと思う。 ところで。 資料を漁っていると、思いもよらず秋葉原生誕の立役者の名前に行き当たった。 『下谷區史』(第十九章第二節『各神社の沿革』) 明治二年十二月十二日午後十一時頃、神田相生町一丁目の指物師金次郎方より出火し、同二丁目、松永町、亀住町、花田町、田代町、山本町の七箇町に亙る廣範囲を殆んど焦土と化した大火災の後、相生町外十箇町を火除のために取拂を命じて、空き地となした。これ所謂秋葉ケ原である。指物師金次郎。 お前ンチが火事出したのか金次郎。金次郎が火事出さなきゃ秋葉ケ原もできなかったわけで、つまりは秋葉原駅もできなかったのかもしれないのか。 まあ、その後関東大震災や東京大空襲つーカタストロフを経て現在のアキバがあるんだから(『下谷區史』によれば松が谷の秋葉神社も大震災で被災し建造物一切丸焼けになったそうな。神様は近所の小野照崎神社に避難させたとか。火除けの神様としては少々情けないかもな)、電気街→ヲタクタウン→再開発オフィスビルの横で贋メイドがビラ配ってる奇怪な町、という歴史の流れは大きく変わらなかったのかもしれない。 だが、金次郎の家で火事を出さなきゃ、まず間違いなくアキハバラという名前ではなかったであろう。 歴史の機微つーものを感じるわなぁ。 ======================= 補足事項を少しだけ。 秋葉原の語源で検索すると、比較的上位に来る秋葉原電気街振興会のページには以下の記載がある 1869(明治2年)の相生(あいおい)町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万・)の火除地(ひよけち)を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現(あきばだいごんげん)を勧請(かんじょう)し、鎮火神社としてまつった。この説、あちこちで引用されているようなので一応突っ込んでおくが(笑)、たぶんこの記述は誤りである。
by SIGNAL-9
| 2007-01-15 11:07
| 秋葉原 研究(笑)
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