拙ブログへの検索キーワードで、常時上位に入ってるのが
「陸奥亮子」なのである。
彼女の写真を掲載したのが比較的早かったからか、画像検索で拙ブログの該当記事がけっこう上位に来る所為なのかもしれない。
陸奥亮子といえば、
『明治大臣の夫人』(岩崎徂堂、明治36)によると;
新橋で一二を争う芸者だった亮子は、先妻に先立たれた陸奥に後妻として迎えられたが、結婚してすぐに陸奥は反乱を企てた疑いで仙台刑務所にぶち込まれてしまった。
残されたのは先妻の残した二人の子供と膨大な借金の山。
普通だったら逃げてしまいたくなるところだが、亮子は女の細腕ひとつで二人の子供を育てながら家を守った。
陸奥は出獄後、今度は一転、公使としてアメリカに赴任させられる。
亮子はこれに同行した。もとより専門の教育などを受けたことはなかったが、さすがは新橋で左褄をまとった身、万事にかけて抜け目なく立ち振る舞い、社交界で東洋の名花と評判を取った。
陸奥宗光は「くれそうで暮れぬはむつのかね」などと新橋界隈で揶揄されるほどの遊び人だったが、亮子夫人のこととなると一も二もなく褒めてばかりいた。夫人も、粋を通して夫の外での遊びには寛容だった。
これが家庭が丸く収る秘訣かと門生一同も感服していたという。
…とまあ、良妻賢母とか大和撫子とか才色兼備とか、その手の四文字熟語を貼り付けて済ませたくなる。
だが、『明治大臣の夫人』には、続けてこんなエピソードも紹介されているのだ。
陸奥伯は、才知人並みに優れ、意思の力も強大な男であったが、人情にはごく冷淡酷薄で、一滴の涙をも持たぬ性質であった。
ところがある時、この陸奥が自分のことは棚に上げて、ある人物を評して『あいつも今少し人情を斟酌するようでなくっては』と批判した。
亮子夫人は、伯の顔をまじまじと見つめたかと思うと、すぐに、
『そう仰される貴方はどうです。藪をつついて蛇を出すとは、まぁこんなことで御座いませぬか』
とピシリといった。
陸奥宗光は返す言葉もなかったとか。
さすが亮子、惚れ直したぜw
美人キレイという女性ならいくらもいるが(いるだけで縁はないが)、こういう
ビッとした美人は中々いないのであるまいか。
まったく
陸奥の野郎、上手いことやりやがって(笑)。
人名辞典の短くノッペリした記述だけでは判らない、その人の生身の陰影が見えてくるところがこういった「逸話」の楽しいところだ。
そして、いつの世でも有名人の逸話・うわさ話というのは人気のあるコンテンツである。明治・大正・昭和初期の文献が主の近デジにも、この手の本がけっこうたくさん登録されている。一本一本の記事が短いものが多いので、つまみ読みにはちょうど良い(笑)
所詮はうわさ話、かなり怪しげなものも多いが、こーゆーものは詮索するのもヤボなので、
真偽はひとまず置いておいてw、おもしろいと思った話をいくつか紹介してみたい。
尚、読みやすさ優先でかなり端折ったり、盛ったりしてるので、ご注意の程を。
『現代百家名流奇談』(鈴木光次郎 明36)
大阪梅田の某茶亭に、三人の男が食事に来た。
給仕の下女が、一番年かさの男が身につけていた珊瑚の緒締めを褒めると、「欲しければあげよう」と気前よく渡してくれた上に、二円の勘定に五円札をポンと投げ出してスッと帰ってしまった。
紳士らが帰った後を片付けていた下女、「あら、鞄をお忘れだわ」
中身を検めてみたら中にはスゴイ金額の札束が。
店の亭主は、
「どうも初めからヘンや思てた。泥棒か何かに違いないわ」
と、大阪府庁の知り合いにご注進することにした。
大阪府庁で亭主が一部始終を訴えていると、なんと、下女に案内されて先ほどの三人組がやってきたではないか。
「あ! あれや、今言うた盗人は!」
と亭主が声を上げるよりも早く、奥の部屋からバタバタと慌てて飛び出てきて、三人の前でペコペコ挨拶し始めたのは渡邊大阪府知事。
三人の男というのは、旧幕の鍋島藩と大村藩の藩主、そして一番年かさの気前の良い男こそ、先の征夷大将軍・徳川慶喜だった。
『実業家奇聞録』(明33)
日本銀行副総裁の高橋是清には「あんパン」という綽名があった。
この綽名の由来には、是清の大好物があんパンだからという説と、かつて天ぷら十人前に飯四人前、ざるそば二十二枚、さらにあんパン二十個を平らげた大食漢だから、という説があるが、最近の彼の友人に言わせると
「是清は体が太ってどっちが前か後ろかもわからない、まるであんパンにそっくりだからさ」
『名士奇聞録』(嬌溢生 明44)
のちに第一国立銀行・王子製紙・日本郵船・日本鉄道などの創立に携わる大実業家渋沢栄一が、慶応三年、徳川(清水)民部大輔の随行でパリに赴いたときの話。
まだチョンマゲ武士だった渋沢は見るもの聞くもの珍しいものばかり。
フランス皇帝の晩餐会に招待された渋沢、デザートの氷菓子も初めて味わうものだった。
「冷たくて甘い。これは珍味だ。一人で味わうにはもったいない。今日来られなかった同輩にも味わわせてやりたい」
渋沢は密かに氷菓子を紙に包み、着物の袖に隠した。
宿に着いた渋沢が同輩に配ろうと紙を開けてみると、珍菓は既に溶けてしまい、影も形もなかった。
これも渋沢栄一の洋行時の話。
アメリカのニューヨークに初めて行ったとき、たまたま夏だったので、行き交うアメリカ紳士がみんな夏向きの白いズボンを履いていた。
――あれがこの土地の風俗なのか。
この頃にはもうチョンマゲ姿ではなく洋装していた渋沢は、郷に入っては郷に従え、さっそく着ていた礼服の黒いズボンを脱いで、白いメリヤスの股引一張になり、フロックコートを着て町を闊歩した。
『明治奇聞録』(青木銀蔵 編 明35)
大久保利通が内務卿を務めていたときのこと。
ある日、大久保は東京府知事に、
「近頃市中に流行する"金魚の鮨"を禁止すべきだ」
と語った。
東京府知事は直ちに部下に命じて取り締まりを行なわせたが、大久保が告発したような、金魚を鮨にして売っている寿司屋は発見できなかった。
その旨大久保に報告すると、大久保は頭を振りながら、
「いやいや、金魚の鮨は市中至る処にある。案内するから一緒に来なさい」
近所の寿司屋の前で「ほら、あそこにあるのがそれじゃないか」
大久保が指さしていたのは海老の鮨だった。
講道館柔道を興した嘉納治五郎は大学時代、美少年好みで知られていた。
なので講道館設立の時に「良い稚児を集めるための策だ」と噂された。
『茶話』(読売新聞社 編 明34)
後に首相となる政治家・犬養毅は刀剣の鑑定に詳しかった。
読売新聞紙上で刀匠の正宗の実在に関する論争が行なわれたとき、「正宗という人は実在したかもしれないが、正宗作として珍重されている刀剣は正宗の作ではない」という説を投書したものがニ・三人有ったが、それは全部犬養が名前を変えて投書したものだったらしい。
『奇物凡物』(鵜崎鷺城 大正4)
大博物学者・南方熊楠が、熊野を訪れた知己を出迎えたときの話。
「あんまり寒いから、途中でちょっと一杯引っかけてきた」と熊楠。
「一杯って、どのくらい呑んだのかね」
「なあに、四升ほどさ」
『現代之人物観無遠慮に申上候』(河瀬蘇北 大正6)
男が夜中にふと目を覚ますと、黒装束の賊が白刃をちらつかせながら「金を出せ」。
男は、強盗に向かって静かにいった。
「静かにしろ。他の者が目を覚ますと具合が悪い」
これには強盗の方が驚いた。
「そりゃあこっちの台詞だ。早く金を出せ」
「金なら二階にある。そこのはしごの上だ。勝手に持って行け」
「その手は喰うか。俺が上に登ったらはしごを外す気だろう」
「ふむ。なるほど」
男は頷くと、自分で二階へ昇り、ありったけの金、十両ばかりを持ってきて強盗にくれてやった。
この十両は、男が富山から出てきて、屋台の鮨屋や一膳飯屋をやってコツコツ貯めた金だった。
「…どうもありがとう。俺も長年強盗をやってるがアンタみたいに肝の据わった人は初めてだ。何か折りがあったらこの恩は返すから」
強盗がそう言い置いて帰ろうとしたら、いつの間にか外は大雨が降っていた。
男は、一本の番傘を取り出すと「これも持っていきな」と強盗に差し出した。
傘を差して出て行った強盗を見送った後、男は何事もなかったかのように布団に入り眠ってしまった。
翌朝、隣の家の小僧が「お宅の天水桶の陰にこれが置いてあった」と持ってきたのは、強盗に与えた十両の金と番傘だった。
強盗を感服させたこの度胸の主こそ、後に安田財閥を築く安田善次郎その人である。
『当世名士縮尻り帳』(節穴窺之助 大正3)
教育家の新渡戸稲造は人形好き。
書斎には何個もゴロゴロさせている。ちょっと外出するときにも必ず懐に忍ばせ、病気で寝込んでいるときにも枕元に人形を並べて慰んでいるという。
そのためなのかどうか、新渡戸は幼女が非常に好きで、誰の子でも抱き上げて、その笑顔を夢中になって愛でているという。
『現代名士抱腹珍談』 語句楼山人 大正1)
北里柴三郎が知り合いの別荘に招待された。
平生、自慢していた自分の逗子の別荘より遙かに立派な別荘だったので、負けず嫌いの北里博士、
「だいたい別荘というのは、毎年たたき壊して新規に作り替えるのが本則である。こんなにきれいに建造するのは本則に反しておる」
などとdisった。
すると知り合いは「先生の御説、誠に感服いたしました。ところで、空論ばかりでは駄目ですから、どうか後学のためにひとつ、先生の別荘から実行して頂きたいもので…」
引っ込みがつかなくなった北里はご自慢の逗子の別荘をたたき壊す羽目になった。
長くなっちゃったので、本日はここまで。
次回文学者編の予定。