まず基本的な事実の確認から。
銅像は太平洋戦争中の金属供出のため撤去された、という説を述べている書籍やWebページが一部にあるが、これは完全な間違い。 廣瀬中佐の銅像が撤去されたのは戦争の後である。 このあたりの経緯はWebページ上からの情報からでも見て取れる。 例えば、箕面忠魂碑・慰霊祭違憲訴訟の資料から。 戦後、昭和20年12月15日、連合国軍最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全及監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより、我が国において政教分離が実現されることになった。政府は、右総司令部の占領政策を受けて、「公葬等について」(昭和21年11月1日発宗第51号内務文部次官通達)及び「忠霊塔忠魂碑等の措置について」(昭和21年11月27日内務省警保局長通達)の各通達を発し、学校及びその構内並びに公共建造物及びその構内又は公共用地に存する忠魂碑等を撤去する方針を打ち出した(後略)あるいは衆議院の答弁書から。 答弁書つまり要約すれば、敗戦→占領軍の政教分離命令→内務省警保局長通牒「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」→東京都庁内に組織された忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査会→撤去決定 と、こういう経緯である。この「忠魂碑銅像等撤去審査委員会」に、廣瀬銅像の製作者、渡邊長男の実の弟である朝倉文夫が名を連ねていることには注目すべきだろう。 昭和22年5月6日付け東京朝日新聞。 東京都の「忠魂碑銅像等撤去審査委員会」は半歳にわたる審査ののち有名銅像、記念碑など二十基の適否を決定した撤去されるものの中に「廣瀬武夫と杉野孫七の銅像(須田町)」が見て取れる。 作業は早かった。撤去決定から2ヶ月足らずの昭和22年7月21日、廣瀬中佐の銅像の撤去作業が開始される。 昭和22年7月23日東京朝日新聞。 追放第一陣 廣瀬中佐銅像ぶっ倒された写真付きなので疑う余地はなかろう。昭和22年7月21日というのが「廣瀬中佐の銅像最後の日」である。 ■犯人(笑)は誰か? 一部資料やWebページには銅像の撤去は「GHQによって」行われたという趣旨の記述があるが、以上見てきたように、少なくとも公式には東京都の行ったことである。撤去を決定したのは東京都の審査委員会だし、撤去工事を行ったのは東京都の建設局だ。 …なのだが、ちょっと留保をつけたい気もする。 この時に撤去されたのは廣瀬中佐の銅像だけではない。この一連の忠魂碑や銅像撤去作業には明らかにGHQの強い監督の下で行われたケースもあったようなのである。 千代田区が纏めた『新編 千代田区史 通史編』(平成10年)によれば; 日比谷公園の小音楽堂の東側にあった軍艦行進曲記念碑の撤去は、GHQの厳しいチェックの下に行われ、一部品たりとも残すことなく解体、粉砕され、MP立ち合いのもとで作業が進められた。大山巌、山県有朋の騎馬像についても、GHQは当初撤去の意向を示したが、有数の芸術作品であり、場所を変え、公開しない施設とすることを条件に存置の了解を取りつけた。MPの監視・監督があったのだから、実行犯(笑)は東京都でも、やっぱり主犯(笑)はGHQか? とも思える。 …だが一方で、少なくとも廣瀬中佐の銅像に関してはGHQはまったく逆の見解だったとする証言もあるというのだ。 『幻の東京赤煉瓦駅』(平凡社新書 中西隆紀 2006年。以下『幻の~』と略)に、渡辺長男の息子のこういう証言が紹介されている。 多摩市教育委員会によって、『渡辺長男展』が開かれたのは平成一二年のことである。『幻の~』の引用ミスでないとすれば、昭和22年2月に撤去のニュース映画を見た、というのは何かの間違いだろう(同書ではこの直前に、上の7月23日付の朝日新聞の記事も引用しているのだが…)。基本的な日付に間違いがある上、核心部分が伝聞なので、この証言自体を信じていいものかどうか疑問は残るのだが、日付は単純な勘違い(昭和23年2月の間違い)だと解釈して、この証言を素直に読むと、銅像の撤去はやっぱり東京都の"空気読みすぎた"判断という感じもする。 …結論的には、残念ながら俺にはどうもよくわからなかったのである(笑) 東京都議会議事録などは当たってみたのだが、なにせ、「東京都」といっても、この時点では戦後の新しい東京都議会自体が機能していない。第一回目の都議会が開かれたのは撤去作業の後のことだ。つまり東京「都」という役所が関与したことは間違いないが、議会承認を経て議事録にも残っており…というようなダンドリで行われたことではないようなのである。 「忠魂碑銅像等撤去審査委員会」自体、名前の挙がっているメンツで本当に審査したわけではなく単なる名前だけのものだったという説もあるくらいだ。 確かに廣瀬銅像は「公共の建物及びその構内又は公共用地に在るもの」という撤去の条件に引っかかるようではあるが、これに引っかかるものすべてが撤去されたわけでもない。機械的に残存/撤去を判定できるような明確な基準があったわけではなく、千代田区史で言及されているように、個別の「交渉」で決定された部分も多かったようだ。 ■交通博物館前だったということ わからないなりに、ちょっとだけ素人の推測を書いておく。 廣瀬中佐の銅像といえば、「万世橋駅前」との係り結びになりがちだが、撤去時点では「交通(文化)博物館前」と表現するのが妥当だろう。 この、廣瀬の銅像が建っていた場所が交通博物館の前という点には注目すべきなのではないか。 交通博物館は、幸いな事に戦災を免れて焼け残っていた。おまけに、文化施設ということで占領軍からも注目され、かなりの恩恵を蒙っているのである。 『交通博物館五十年史』によれば、 博物館の空襲による直接被害としては、20年3月及び同5月の空襲で焼夷弾の殻の落下などによる屋舎や窓ガラスの破損程度であった…21年1月25日にようやく開館にこぎつけ、館名も「交通文化博物館」と改称し…当時東京の下町方面から江東方面までの焼野原の中で、順次疎開先からもどった学童には、このような廃墟の中での開館が大いに歓迎をうけ、開館後わずか1週間で入館者は、1万3000人に及ぶ盛況であった。進駐軍(つまり占領軍)は頻繁に交通博物館に関与する。横浜駐屯RTO司令のライオン大佐が幕僚数名と共に来館し、館内にアメリカンルームを開設するように「希望」、米本国から多数の鉄道関係資料を取り寄せ、ミネ・マリー・ジョーンズ専任官を配置、軍関係その他から資材を調達してアメリカンルームを設置した。 このアメリカンルームは、進駐軍機関紙にも紹介され、博物館は「ロコモティブ・ミューゼアム」(機関車博物館)の愛称で、駐屯将兵の興味をひき、団体や個人として、多数来館し、昭和23年10月から翌年3月まで半年間の米軍関係入場者数は、約3,800人に及んだ。鉄ちゃんは万国共通(笑) 注目したいのは、ソビエト、即ち「かつて廣瀬が戦った相手国」の将兵もこの時期に交通博物館を訪れていることである。 ソ連関係では軍の駐屯はなかったが、当時滞京していた同軍代表キシレンコ少将の幕僚に多数の技術将校がおり、レーレフ大佐、シリヤエフ大佐をはじめ、同将校グループがひん繁に来館見学した。そして同グループの示唆でソ連鉄道博覧会を開くことになり、ソ連代表部ファデエフ少将のあっ旋で、本国からメトロ関係の写真や資料、新線計画、電化計画などの各図面を取寄せ、21年7月、モスクワメトロ展、同11月ソ連鉄道展と2回にわたって展覧会を行なった。日付から判断する限り、この時点ではまだ廣瀬中佐の銅像は交通博物館の前に建っていたはずである。 だが俺が調べた限りでは、頻繁に博物館を訪問した米国やソ連の軍人・関係者から、廣瀬中佐の銅像に関してクレームが付いたという記録は見当たらないのだ。 ソ連斡旋の展覧会が銅像撤去前に開催されていることに注意してほしい。 そもそもこの銅像が占領軍に問題視されていたとすれば、それが鎮座している博物館で当事国-しかも負けた方-が展覧会なんか開こうとするだろうか? まとめると、俺の想像としてはこういうことだ。
…で、「博物館の拡充の時にも邪魔だろうし、積極的に交渉して残すって気にならないなぁ」的な。 その意味で、俺としては「東京都空気読みすぎ」説にとりあえず賛成しておこうと思う。 さて、いずれにしても軍神廣瀬中佐の銅像は引き倒された。一方でこの時期に復活した銅像もある。 渋谷駅前の忠犬ハチ公の像である。 上記記事は廣瀬銅像撤去記事の直前、昭和22年7月18日の朝日新聞に掲載されていたものだ。 戦争中に供出された忠犬の像は復活し、忠勇の兵の像は戦争後に引き倒される。 なんつーか、歴史の転換点つーものを感じるなぁ。 さて、長々と書いてしまったのだがまだ終わらない。 もう少しだけ落穂ひろいをしておこう。 ーあと一回だけ続くー
by SIGNAL-9
| 2008-05-19 00:00
| 秋葉原 研究(笑)
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