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「秋葉権現勧請説」を天下の千代田区に質問してみる。

 秋葉原由来調査月間から早一年余、Web上には秋葉原の歴史・由来に関して、あいかわらず疑問を持たざるを得ない記述が散見できる-というかむしろ増えてきているような気もする。

 特に、俺的には「秋葉権現勧請説」と名づけているのだが、「秋葉原という名称の由来は秋葉権現が勧請されたから」という説に関しては定期的に疑問を呈しておく必要性すらを感じている。

 単なるコピペが多すぎるような気がするからだ。

 一例を挙げよう。
 R25.jpというWeb雑誌から「秋葉原が電気街になったのはなぜ? 「オタクの聖地」の歴史を探ってみた」 2008.02.15という記事。
秋葉原の地名はもともと、この地に建っていた鎮火社(ちんかしゃ/防火祈願のための神社)による。ここに祀られたとされる秋葉大権現(あきばだいごんげん)の名から、人々はこの社を「秋葉さん」と呼び、ついには名称も秋葉神社に変更された。

 現在のアキバは当時の秋葉神社周辺の原っぱにあたるエリアで、人々はここを「あきばっぱら」あるいは「秋葉の原」などと呼んでいた。これが秋葉原の由来である。
あえて悪い言葉を使わせてもらうが、デタラメもいいところだ

<秋葉大権現>というのは、遠州の秋葉社と秋葉寺が神仏混淆だったところから付いた呼称である。

 鎮火社設立は明治3年のことだ。それ以前-明治元年に神仏分離令が出て神仏混淆の寺社に対して弾圧が始まっていたことは、その辺の教科書をみれば書いてある歴史的事実だ。
 明治3年時点に、国家神道を推進するために復興させられていた神祇官がわざわざ神仏混淆の秋葉大権現を勧請したなどということは、この辺の歴史的背景からみて極めて考えにくい。

 現に、東京市史稿に収められている鎮火神社設置の公文書には、「遠州の秋葉権現を勧請した」などという話はビタ一文出てこない。
 これは当たり前で、鎮火神社と秋葉権現では、祀っている神様自体がそもそも別の神様なのである。

 細かいことを言うと、「ついには名称も秋葉神社に変更された」というのもヘン。改名は昭和5年のことで、秋葉原から移転してから40年もたった後のことだ。
「現在のアキバは当時の秋葉神社周辺の原っぱにあたるエリア」逆だ逆。原っぱ(火除け地)を作って、そこに鎮火社を作ったのだ。

 tansei.netというWeb雑誌から「ケーススタディ 秋葉原再開発 」という記事
江戸時代に火事が多すぎたことから、明治3年になって火除けの神様の秋葉大権現を勧請した(いまは台東区松が谷に移転)ことから、秋葉様の原っぱが転じて秋葉原という地名がついた。区名すら定かならざる頃で、千代田区外神田から台東区上野5丁目あたりに、その原っぱがあったようだ。
松が谷の秋葉神社さんは抗議した方がいいと思うのだが(笑)。
 この記事を書いた記者氏は、アソコの由来書の中に「秋葉大権現」と書いてあるのか、ちゃんと見てくればいいと思う。
 「区名すら定かならざる頃」というのも何をいってるのかわからない。記者氏は、東京が明治の頃から今と同じ23区制をとってたとでも思っているのかしら?
 言うまでもないが、「秋葉原」には江戸時代からちゃんと町名だってついてるし、明治期の地図を見ればどこにあったかは一目瞭然なのだが。

 …と、突っ込んできたのだが、「秋葉原 秋葉権現」でググっているうちに、あまりの多さに些か自信がなくなってきた。

 なにしろ天下の千代田区がやってる「秋葉原インフォーメーション」というホームページまでが、この「秋葉権現勧請」説を採っているのである。

「アキバの歴史と文化」
明治2年の暮、神田相生町から火事が出ました。火は付近の十ヶ町を焼くつくしました。明治新政府は、この火事を機会に焼跡に町家の再建を許さず、約九千坪を火除地としました。明治3年3月、火防(ひふせぎ)で有名な遠州の秋葉大権現を観請し、東京府社「鎮火(ひしずめ)社」を創建しました。以後この地は、地元から「あきばの原」「あきばっぱら」と呼ばれ、行楽地に利用されました。
 前述のように、俺自身はこの「秋葉権現勧請説」は完全な誤りであると確信しているのだが、天下の千代田区のことだ、もしかしたら浅学菲才の愚民が知りもしないような一次資料をお持ちなのかもしれないではないか。
 税金を使って運営しているサイトだ、よく調べもしないで書いている…なんてことはあり得ないだろう。
 おまけにこのページ、英語、中国語、韓国語の三ヶ国語対応だ

 いくらなんでも千代田区がデタラメを全世界に喧伝しているわけはないではないか。

 「うむ、これは俺の知識不足に違いない」ということで、さっそく本日問い合わせのメールを出してみた。簡単にいえば「遠州の秋葉大権現を観請した」という史料を教えてくれ、と。
 実はこのページには他にも多数の疑問点があるのだが、とりあえずこの「秋葉権現勧請説」の裏付けだけでも知りたいのだ。

 どういう返事が来るか今から楽しみだ。
 ちなみに前に江戸博にも同種のメールを送ったが、こちらは残念ながら「無かったこと」にされてしまったが。

 千代田区殿の対応に関しては、応答があり次第追ってご報告したいと思う。

…追記。

上の記事をポストした後でよくよくこのサイトを見てみたら、他にも由来に関して述べた記事があった。特集 インナー・秋葉原 Vol.001 どこからどこまで秋葉原?
本文でも触れた通り、秋葉原一帯はもともと「神田」の一部で、1869年(明治2年)の大火事で付近一帯が被災。その後火除けの場所としてこの一帯を広場にし、そこに「鎮火社」を創建した。この鎮火社が静岡県にある火伏せの神様を祀った「秋葉神社」を勧請したものと庶民が勘違いし、以後この広場を「あきばはら」と呼び始めたところに由来している。この鎮火社も「秋葉神社」と改称したものの、1888年(明治21年)に一帯が貨物駅用地として国鉄に払い下げられたため、秋葉神社は現在の台東区松が丘に移転し、代わりにできた駅が「秋葉原」と命名された。
あああああああ。同じサイトで書いてあることに統一性がないのは目をつぶるとしても、こっちもヘンだよ。
  1. 俺の知る限り、よみがなが「あきばはら」である、と断定的に述べられるような根拠は無い。「秋葉原」という表記に対して様々な読み方があったであろうことを伺わせる文献は多数あるが。
  2. 「この鎮火社も「秋葉神社」と改称したものの、」って、改称したのは松が谷に移転した後も後、40年も後。
  3. 1888年(明治21年)に国鉄があったかどうかくらい調べようよ
  4. ところで台東区に松が丘なんてトコありましたっけ?


質問のメールというのはコレ。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-27 15:47 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

アキバを襲った大災害(3) 戦災

 大震災から20年あまり。

 昭和20年3月9~10日、東京の下町は再び劫火に包まれた。
 この時の空襲で東京の3分の1が焼けつくされた。

 俺のヘタな文章でぐだぐだ説明するより、この写真をみてもらったほうがよいだろう。昭和22年、つまり今からざっと60年前のアキバの姿だ。
 「想い出の東京 師岡宏次写真集」(講談社、昭和47年)から、「昭和22年 秋葉原」と題された写真である。
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 撮影場所は明示されていないので推定するしかないが、中央部の小高いところに見えているのは神田明神であろう。つまりアキバから西側を見ていることになる。
 写真の中には総武本線の高架が見えないので、おそらくは明神通りと中央通(御成街道)の交差点、愛三電気のある交差点か、総武本線の高架の下あたりから撮影したものではなかろうか。

 同じく同書から、こちらは「聖橋から秋葉原方面」とキャプションされている。
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 右上に見えるのが、完成時には東洋一と称された総武本線の鉄橋であろうから、地図でいうとこのあたりから東側を撮ったものだろう。鉄橋の足元が今で言うとヤマギワのリビナ本館(伊勢丹発祥の地の石碑のあるあたり)と思われる。

 今時の若い衆の中には「アメリカと日本が戦争したの?」などとトボケたことをいう奴もいるらしいが、これが60年前のアキバの姿だ。

 今でこそ「萌える街」だのといわれているが、本当に「燃え」てしまった、その焼け跡から立ち上がってきたアキバの歴史に、たまには思いを馳せてみて欲しい。

おまけ。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-26 16:34 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

アキバを襲った大災害(2) 大震災からの復興

 未曾有の被害を出した関東大震災の発生から約1ヶ月後の大正12年(1923)9月27日、当時の内務大臣後藤新平率いる帝都復興院が設置され復興事業がスタートした。
 財政・政治状況により当初目論見よりも大幅に計画は縮小されたが、区画整理や橋梁整備、防災用の緑地・公園の設置など、この時の復興事業で実施された都市のグランドデザインは、現在の東京にも残っているものが多い。

 例えば、中央区にある浜町公園。当初は熊本の細川家の屋敷だったところを復興事業の一環として公園として整備したものだ。
 これは昭和4年に東京市役所が発行した『TOKYO and ITS UNDERTAKINGS』という写真集から、復興事業で創設された浜町公園の姿である。
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 浜町公園は現在でも市民の憩いの場となっている。
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 こちらは墨田区の向島、墨田公園。こちらも復興の一環で整備された。
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 隅田公園も、-少々うら寂れてはいるものの-現在も公園として機能している。
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 ちなみに、これは『大東京写真帖』(昭和5年)掲載の「震災復興後の言問橋」。言問橋というのは、上で紹介した隅田公園に架かっている橋だ。写真奥に見える、下流に在る吾妻橋は、木製の橋が震災で焼け落ちてしまった。この写真の撮られた時点ではまだ復作業中なのだろう(現在の橋がかかったのは昭和6年)、醜い姿を晒しているのが見て取れる。
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 前回見たとおり、神田明神は灰燼に帰した。
 『東京震災録』(東京市役所/大正15年)に、その復興後の姿が記録されている。
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 同書から「神田明神から秋葉原方面を望む」という写真。撮影日は大正15年10月17日と記録されている。震災発生から丸三年。復興が一段落付いた頃の秋葉原の様子だ。
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 規模縮小につぐ縮小で、当初目論みのような防災都市化は十全なものではなかったが、防火を意識した区画などの整理はある程度行われた。

 下は「御成街道から蔵前橋方面を望む」と題された、整理前の写真。
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 御成街道というのは、今で言うアキバの中央通りのことだ。つまりこの写真は、地下鉄銀座線の末広町駅のある交差点から昭和通り方面を写したものと思われる(写真の中央部に大正14年開通の上野-秋葉原間の高架線が写っているので、震災の後の撮影であろうことに注意)。

復興により区画整理を行ったものがこの写真。
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道幅などは変わっていないようにみえるものの、道の真ん中に突っ立っていた電柱が整理され、だいぶすっきりした様子が見て取れる。

 次は大阪朝日新聞社『大震災写真画報』から「震災復旧後の万世橋駅」。
 外装を残して焼け落ちた駅舎が復興されている。軍神廣瀬中佐の銅像は焼け残り、あいかわらず街を睥睨している。
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 せっかく綺麗に直したのに、万世橋駅は、20年と立たずに廃止されることになる。
 その廃止の一因となったのが、大正14年11月1日に上野までの高架線が開通して、秋葉原駅が旅客扱いを開始したことである。
以前にも紹介したが、その時分の秋葉原駅の駅舎がこちら。
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 最後は『大東京写真帳』から「震災復興後の神田市場」。
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 かくして、徐々にではあるが、この大災害から人々は立ち直ってきていた。
 だが、それらの努力も20年そこそこで、またしても灰燼と帰す事になるのである。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-21 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

覚書:CDOSYSのCreateMHTMLBodyがエラーを吐く

CDOSYSを使ってMHTML形式(Multipart HTML。よーするにメールのMultipart MIMEと同じ)で単一のファイルとして保存しておく、つーのはけっこう使っている人も多いようで。
いちいちIEで「名前をつけて保存」つーのは芸が無いので、一気にやりたい、というのは天然自然の要求であろう。

 俺も今(笑)、複数のページを保存しときたいという要求があったんで、これで保存しときゃいいかと、ちょっとスクリプトを書いてみた。
URL = "http://www.google.com/"
DiskFile = "test.mht"

Set CDO = CreateObject("CDO.Message")

CDO.CreateMHTMLBody URL, 0,"",""
CDO.GetStream.SaveToFile DiskFile, 2

Set CDO = Nothing
いや、実際はもうちょっと綺麗に(定数のハードコードなんかさすがにやらないよ)書いてるが、概略こんな感じで。

 CDOのCreateMHTMLBodyで取得してそのままSaveToFile…という方法なのだが、簡単に終わってしめしめ…と思ったら落とし穴があった。

 接続先URLによってエラーが出るのである。
CDO.Message.1: インターフェイスが登録されていません
www.msn.comは取れるけどwww.google.comは取れないとか、ヘンなエラーの出方だ。

?と思ってちょっとググって見たら、回答を見つけているひとがいた。JasonJoh's [MSFT] WebLog
なるほど、煎じ詰めるとCDOが下請けに使ってるURLMON.DLLとの関係がアレなんで、http1.1の圧縮使っているページではエラーが出ると。
単純にはIEの設定でhttp1.1を切れ、と。

 う~ん。CDO Configのパラメータを見ると、プロトコルバージョンを明示できるようなパラメータはないようなので、スクリプトからだと簡単には操作できそうも無いなぁ。

 俺はとりあえずIEの設定を変えちゃって用は済ませたが、マジメに実装するのならJasonJoh氏がおっしゃっているようにInternetSetOptionを上書きするような何かを用意する必要がありそうだ。

ちなみにWinXP SP2で、CDOSYS.DLLが6.2.4.0,URLMON.DLLが6.0.2900.3268という環境。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-19 13:02 | TIPSとかKludgeとか | Comments(0)

やっぱり顔は重要か。

就職活動 現役面接官が教える面接の重要ポイント アメーバーニュース 2月17日 09時00分
都内金融関係会社SE兼面接官でもあるというNOV1975氏が、人気ブロガーである港区赤坂四畳半社長がブログで書いた就職活動における面接のポイントを元に同氏なりのポイントを指摘しており、話題になっている。

 同氏は、四畳半社長が就職活動のポイントとして「顔」、「服装」、「常識」、「品格」、「知性」を挙げたことに同意はしている。だが、企業にとって重要な「平均的な能力」を備えた人物だけでなく、「欠点がありながらも傑出した長所がある」人の存在の重要性も指摘している。
ふむふむ。話の元の港区赤坂四畳半社長さんのBlogでは以下のように書かれている。
僕が面接で見るポイントは5つ。


服装
常識
品格
知性

上から順番に大事です。

まず、顔。
良く言っているのですが、優秀な人は顔をみれば解ります。
男は40を超えたら自分の顔に責任をもたなければならない、なんて言った人がいますが、20でも顔を見れば能力のだいたいのことは想像できます。性格も。顔なんかそうそう簡単に変えることはできないので、普段から気をつける必要があります。就職活動を一年間やるなら、一年間毎日鏡で笑顔の練習をしたらいいと思います。それくらい大切です。

優れた企業に行くと、だいたいみんな、美男子でも美女でもないけど、愛嬌のあるいい顔をしています。それは気力、体力ともに充実しているからです。景気の悪い顔の人ばかりの会社は、景気の悪い会社です。別に美形である必要はなく、愛される顔であればいいのです。まあここは深く考えても仕方がないので、飛ばします。
なるほどねぇ。確かにそういうことはあるかもしれないな。
 と、納得できるのは、悲しいかな自分がこの逆であることを自覚しているからだが。

 生来人相が良くないので、不審者扱いされることがママある。

 鏡の中を客観視してみるに、確かにあまり見栄えのいい方ではない-というか、たまにすれ違う通行人からマジマジと人相を確認され、視線をそらされることすらある。

 残念だが、視線恐怖の類ではないし自意識過剰つーわけでもないようだ。

 例えば、電車の中で仕事仲間とSOAPの話をしていたんである。

「いや、ソープでヤればいいじゃん」

「うん、エンコ(encode)がさ…」


 まわりを気遣ってヒソヒソ声で話していたのが悪かったのか、横に座ってたオバサンが耳ダンボ状態で、ヘンタイを見る目で睨みつけられた。

 ちちちちち違うぞソープランドとか援助交際の話をしてたんじゃないんだ俺らマジメな技術者だし公衆の面前でそんな尾籠破廉恥な話なんかするわけないじゃないか。

 そういえば昔、『はじめてのC』を読んでいてやはり誤解されたこともあった。

 もっと前にも、仕事場の端末機(「パソコン」つーものが未だ無かった時代だ…遠い目)に、スティーブ・ウォズニアク大先生の御真影を飾っておいたら、「この髭男だれ?」と聞かれたので、「ぼくのアイドルさ」と薄く笑って答えたら、翌日からどうも俺が「ホモ」らしい、という事実無根のウワサが社内中に流布されたこともあった。ウォズは当時も「ポッチャリしたヒゲのおじさん」だったので、「どすこい熊五郎」扱いされても仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが(笑)

 ま、確かに人付き合いの上手い方ではないし、どーみてもキモいデブ親父のヲタクという分類以外は当てはまらないのでもって瞑すべし、ということなのだろうが、些か忸怩たるものがある。

 "愛される顔"だったらこんな酷い扱いを受けなくて済むだろうに…と袖を噛み締めつつ泣き濡れて蟹と戯れるいたいけな俺なのである。

 ま、港区赤坂四畳半社長さんのおっしゃるように、おそらく俺の内面が低レベルなために見た目も低レベルなんであろうから、せいぜい内面を磨くようにしないといかんのだろうが、もはや手遅れであろうな。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-19 00:00 | 一般の話題 | Comments(0)

我が家の食品購買アルゴリズム

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「とまあ、左の図のようにしたいと思うのだが、レビュー頂けないでしょうか」

「…あいかわらず杜撰な仕事ねぇ。大体あんたは昔から設計が」

「いや。いや。自覚しております。おりますが、しかしとりあえずでも決めときたいの。家族の身を守るために。細部はお互いに今後詰めるとして。で、大筋でど~よ?」

「う~ん。”口に入れるもの”って定義はヘンじゃないの? 鉛入り玩具なんて問題もあるわけでしょ。食べ物飲み物でなくても間接的に口に入るということはあるんじゃないの」

「…ま、確かに。だけどウチはおもちゃ口に入れるような小さな子供はいないじゃない。あんまり細かくしても身動きが取れなくなると思うんだが」

「原産国表示が無いものは全部NGなの? それも無理があるんじゃない?」

「表示義務はないそうだからな。でもさ、逆に言うと明記してあるものから優先的に選択するってことでいいんじゃない。書いてないということは書きたくない理由があるからだ、って思うのがフツーの判断だと思うんだけど。書いてない・確認できないものはなるべくハジくってことで」

「"中国製"ってのは…まあ、今の段階だと仕方ないかしらねぇ」

「君子危うきになんとやら、ということでさ。一般消費者にはセージ的物言いもオトナの判断もクソも関係ない、少なくともこの国では買う買わないの選択は自由だからな。だからあえて価格という判断は抜いておいた。」

「で、"絶対必要?"ってのは何?」

「そらお前が衝動買いで」

「な ん だ っ て ?」

「いや、すみませんすみません衝動買いが多いのは俺です俺の方ですこれはいわば自戒の為のものでして」
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by SIGNAL-9 | 2008-02-17 00:00 | 一般の話題 | Comments(0)

アキバを襲った大災害(1)

 「カタストロフ」。英語だとcatastrophe-カタストロフィー。突然の大災害・大惨事という意味だ。

 そもそもの生い立ちが大火事という災害であった「秋葉原」。その後も大きなカタストロフに直面してきたのである。

 アキバは今日も、リュック姿で中央通りをゾンビウォークをしている若い衆や近隣構わぬ大声で何事かを囀り合っている中国人観光客で埋め尽くされている。
 その平和な風景は、少なくとも過去二回は阿鼻叫喚と死体と瓦礫の山だったことがあるのだ。

 言うまでも無く、1923年(大正12)の関東大震災(大正関東地震)と1945年(昭和20)の東京大空襲である。

 大正12年9月1日午前11時58分32秒、相模湾沖を震源としたM7.9の巨大地震が関東を襲った。推定死者・行方不明者10万5千余名。日本の自然災害史上未曾有の被害を出した。

 これは大阪朝日新聞社『大震災写真画報』から、「震災で焦土と化した東京」とキャプションされた写真である。
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 どこを写したものかお分かりになるだろうか。「神田駅から上野方面を望む」と解説されている。秋葉原は神田と上野の中間点。つまりこの瓦礫の山の先が「アキバ」なのである。

 もう少し秋葉原に近づいてみよう。次の写真は東京市役所が大正15年に発刊した『東京震災録』から。
「神田川筋の灰燼」と題されている。9月下旬の撮影。
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「神田万世橋から柳原方面」。これは地震発生直後の9月6日撮影。
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神田川にかかる橋の多くが大きな被害を受け、対岸に渡る事ができなくなった地区も多かったようだ。万世橋はなんとか持ちこたえたらしく、当時の被災記録を読むと多くの人々が万世橋を使って移動していた様子が伺える。

 同じく「神田万世橋付近」。これも9月6日撮影と記録されている。向こうに見えるのは万世橋駅だと思うが、煉瓦の外壁は残っているが、屋根は焼け落ちて、明らかに中は丸焼けのようだ。
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『大震災写真画報』から同じく万世橋駅前の様子。撮影時期はよくわからないが避難民らしき人々が多数写っている。駅前にあった廣瀬中佐の銅像は生き残っている。
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再び『東京震災録』から。10月17日に撮影した神田明神である。焼失し影も形も残っていない。
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 徹底的に打ちのめされた秋葉原が、復興によって立ち直った姿はまた次回。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-14 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

本日から半ば強制的にIE7にUpdateされるつーことだが。

Internet Explorer 7 の自動更新による配布

いくらなんでも、あれやこれや急に動かなくなるかも…というのは困る。

 知り合いのところでは、とりあえず串からwindowsupdateへ繋がらないようにしてしまうという剛毅な方法を取ったそうだが、それじゃあ他のアップデートもできないじゃん(笑)

 ま、必要なUpdateだけ当てるように仕掛けしているトコロが多いのだろうとは思うが、個人PCだとそこまでやってる奴は中々いないかも。
自動更新じゃなくて手動更新にしていちいちチェックを外すつーのもウザいしな。

 周知のこととは思うが、いちおうMSはBlocker Toolkitつーのを配布している。
●自動配布の無効化ツールキットを使用すると、自動更新および Windows Update/Microsoft Update サイトの [高速インストール] オプションを介した、優先度の高い更新プログラムとしての Internet Explorer 7 の受信を回避できます。このツールキットは無期限で利用できます。
●Internet Explorer 7 のインストールが、Windows Update や Microsoft Update の各サイト、Microsoft ダウンロード センター、または外部メディアから推奨される更新プログラムとして実行された場合は、自動配布の無効化ツールキットを使用してもこのインストールを回避できません。
ま、とりあえずこれを当てておけば勝手に入れられしまう危険性は低減できるだろう。
もっとも、このツールのやってることは煎じ詰めれば

HKEY_LOCAL_MACHINE\SOFTWARE\Microsoft\Internet Explorer\Setup\7.0
DoNotAllowIE70 = DWORD 1

なので、わざわざこのツールを使う必要も無く、Regeditでキーと値を追加しておくだけでいいようだ。

ちなみに今日、上の対処をしてXPでUpdateしてみたら
Windows XP 用 Internet Explorer 6 の累積的なセキュリティ更新プログラム (KB944533)
Windows XP 用セキュリティ更新プログラム (KB942831)
Windows XP 用セキュリティ更新プログラム (KB946026)
悪意のあるソフトウェアの削除ツール - 2008 年 2 月 (KB890830)
Windows XP 用セキュリティ更新プログラム (KB942830)
Windows XP 用セキュリティ更新プログラム (KB943055)
となった。IE7は確かに出てこなくなったのだが、どーも納得いかないのはIE7と同じダウンロードの中に「Internet Explorer 6 の累積的なセキュリティ更新プログラム 」が含まれていることだ。
IE7に変わるのならIE6用の累積パッチなんかいらねぇんじゃねぇか?…と思うのだが、MSのことだ。きっと俺のごとき愚民が考えも及ばないような深遠な理由があるのであろうな(爆)
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by SIGNAL-9 | 2008-02-13 16:40 | 電算機関係の話題 | Comments(0)

明治珍聞:牛込の謎の大穴【解決編】

 その後の追跡調査で『牛込の大穴』の謎は解かれた。

 生き証人、玉松千年人という八十一歳の老翁が発見されたのである。
 この顛末は萬朝報が「牛込大穴の来歴」という記事で報じた、と『風俗画報 新撰東京名所図会 第342号』(明治39年6月25日発行)は伝えている。

 老翁は、こう証言した。

 「穴」のある場所は、もともとは水野家の下屋敷で、対馬守という御隠居が住んでいた。
 そこに出入りの植木屋で長四郎という男が、常時数名の職人とともに絶えず庭の手入れをしていた。邸内は一万五千坪もあって-今で言うと白金台の八芳園と同じくらいか-、月桂寺と尾州邸に隣り合ったところには馬場まで設けてあった。

 その馬場の傍らに、土を盛って小さな丘のようにしたところがあった。
 植木屋の職人たちは、この小丘に横穴を掘って、そこを道具置き場代わりに使っていた。
 その横穴をたまたま目にした対馬守、元来お気軽な性格の方だったので、

 「ちょうどいいや。ここを植木室にしちゃおう。いいからもっと深く掘っちゃえ(笑)」

 へい、とばかりに植木屋たちは、さっそく一間三尺幅(2.7メートル)に掘り下げて、そこからさらに掘り広げて「部屋」を造ってしまった。

 「う~ん。これだけだとちょっと不便かなぁ。よし、隣の月桂寺の方からも掘って抜けられる様にしちゃえ」

 造ってるうちにどんどん盛り上がってしまったのか、最も広い場所は八畳敷きくらいもあり、幸い土質が赤土なので崩れる心配もないので鏝細工で天井を掘り、棚などを設えてしまった。

 と、まあ、こういう次第で、抜け穴のようでもあり地下室の様でもあり、というヘンな穴が出来上がったのである。

 …と、これが天保六年(1835)頃のこと。話はまだ続く。
 そもそも、なぜこの穴の存在が忘れ去られ、「謎の穴」となってしまったのか?

 現在(明治三六年当時)八十一歳の玉松老人は当時十歳の少年で、対馬守の小姓を勤めていた。
 当時はこの穴で面白半分に遊んでいたのだが、その後、この穴は信仰の場所に変わってしまった、というのだ。

 対馬守の奥方は富士浅間神社の信者で、八丁堀在住の喜八という行者の元に出入りしていたのだが、この行者が

「弁財天が夢枕に立って、『われを邸内に祭れば心願成就すべし』とお告げがありました」

と奥方に吹き込んだ。

「ちょうどいいわ。ダンナ様が掘ったあの穴にお祭りしましょう」

 小さな祠を穴の中に設えたところ、ご利益を期待して家中の者が参拝するようになり、やがては町人まで参拝を許されるようになった。

 穴の中には薩摩蝋燭を灯したので油煙がものすごかったが、幸い抜け穴として作ってあったので空気も流れて窒息の心配も無く、巳の日には大勢の人々が参拝に訪れた。
 誰言うともなく「お穴の弁天」と呼ばれ、お屋敷の前に参拝客目当ての縁日商人が店を出す始末。

 さて、この騒ぎを聞き及んだのが牛込田町の上屋敷に住んでいた水野家の当主、土佐守である。

 「ご隠居、こんな山師みたいなマネしちゃあ外聞が悪いじゃないですか」

 とご隠居に注意した。

 こうして俄か弁天祭りはわずか三~四ヶ月で打ち止めとなってしまったのである。

 穴はとたんに粗末に扱われるようになり、十年後には代替わりした新しい水野家当主が下屋敷を訪れたときに「この穴ぼこはいったいなんだ?」と聞いたくらい忘れ去られた存在になってしまった。

 たった十年で忘れ去られてたくらいで、七十年後の今日となっては水野家でも知ってる人は皆無。この玉松老人の他に真相を知るものは誰もいなかった………

 と、まあ、これが謎の大穴の真相だったのである。

 「なんでぇ、ただの植木置き場か」
 うん。確かに。

 ただ、いわゆる明治の珍聞で、これほど鮮やかに真相が明らかになっているケースは、珍しいのではあるまいか。考えてみれば、たった一人の高齢の老人が覚えていたから真相が明らかになったのだが、この爺様が生きて見つかっていなければ「謎の大穴」のままで終わっていたことだろう。

 翻って、同じ牛込区原町で発見されたという「謎の地下住居」の件である。
 この地下住居も、麹室や植木室、武家屋敷の抜け道…だったということなのだろうか?

 確かにもっとも妥当な解釈は「麹室」か「耐火地下室」だと思われる。

 以前記事を書いたときには、
『一丈ほど掘った』というと約3メートル、確かにさほど深くはないが、明治26年当時のことだ。地下室なんかそうボコボコ作れるほどの土木技術が一般的だったとは思えない
などと書いたが、テメエの不明を恥じるほかは無い。
 つーか、「麹室」というものの存在を完全に失念していた。今でも麹室を持っているということでしばしばテレビなどでも取り上げられる神田明神前の甘酒の天野屋さんでは何回も甘酒買ってるのに(笑)

 「江戸の地下式麹室」(東京都教育委員会学芸員 古泉弘氏)によれば;
 一九八五年頃以降、近世都市江戸を対象とする発掘調査が盛んに行われるようになり、その結果、江戸の市中には数多くの「地下室」が存在したことが明らかになってきた。これらの地下室によって大地に穴が刻まれ、場所によっては蜂の巣のような観を呈することもある。これらの地下室は大きく六群に大別されるが、その内四群は「穴蔵」で、一群は今のところ性格不明、そして第二群と呼んでいる一群が「麹室」に当たると考えられている。
 ちなみに「穴蔵」とは、いわば地下式の耐火倉庫で、災害時において家財を緊急避難させるために用いたり、あるいは金銀を備蓄するためなどに用いた。土地に不自由する人々の間では土蔵代わりにも構築されたのである。穴蔵は大名屋敷を含む武家屋敷、町屋敷いずれにも広く分布するが、台地と低地という立地の違いによって、それぞれの構造も異なっている。台地上の穴蔵は、一般的に関東ローム層―いわゆる「赤土」―中に掘り込んで、地中に部屋を設けたものである。これに対し低地に存在する穴蔵は、土地が軟弱で地下に部屋を掘り抜くことができないため、四角く掘り込んだ穴の中に、木造の大きな枡形の部屋を設置し、その上に天板を乗せる。火災時にはさらに砂や水畳で覆って、天板の延焼を防いだ。
 つまり、江戸の当時からかなり高度な地下利用が進んでいた、ということである。
 江戸の土木技術を見くびっていました。申し訳ない>江戸のひと。

 これらの「穴蔵」や「麹室」の特徴は、まさに「謎の地下住居」に重なるのである。

 もしかしたら、地下住居の正体が「麹室」とか「穴蔵」のような穏当な(笑)ものだったから、「地下住居」事件は、その13年後に発行されている『新撰東京名所図会』にもまったく記述がないのかもしれないな。

 「地下住居」という響きにオカルティックな謎を期待していたわりにはツマラネェ結論だが、ま、個人的には納得できたんでこれでよし(笑)
 もっともこの調子だと、東京の地下にはまだまだ謎が埋まっているかもしれない。ちょっとワクワクする話ではある。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-12 11:10 | 古い話 | Comments(4)

明治珍聞:牛込の謎の大穴

先日、こういう記事を紹介した。
明治26年(1893年)7月31日

牛込区原町の荒物商中川某は、九人の子供のうち七人までが死んだため、易者の言をいれて乾の方角の古井戸らしい辺りを一丈ほど掘ったところ、大穴があって中に整然とした住宅を見出して珍聞となった。

明治世相編年辞典(東京堂出版)より
 奇妙な話なので興味がわき、引き続き多少調べては見たのだが、残念ながらこの話自体の出所、真偽含めた詳細はわからなかった。

 だが、この謎を解くヒントになるかもしれない事例を発見した。

 いわく、『牛込原町の大穴』事件。

 『風俗画報 新撰東京名所図会 第342号』(明治39年6月25日発行)の牛込区の項に、『水野の原の大穴』と題した記事が掲載されていたのである。

 牛込原町というのは、今でも新宿区原町として名前が残っている。大江戸線の牛込柳町駅で降りた辺りの一帯だ。
 当時の地図も見てみよう。今の地図と違い、上が南になっているので注意して欲しい。
c0071416_1161386.jpg

 当時のこの地域の状況は『新撰東京名所図会』によると、
 原町の通りは、戸山学校、砲工学校、成城学校中学等の往還なれば、方今は漸次繁昌し、商家相接するに至れり。其の他は舊武家地たりしを以て、尚ほ組屋敷の観あり。下宿には東洋、櫻、千歳、養真、高盛等の諸館散在す。然れども未だ割烹店の如きものをあるを見ず。僅かに牛肉店、蕎麦店等の客を引くに過ぎず。
 とある。

 さて、『新撰東京名所図会』は6月6日付の読売新聞の記事を孫引きして、「謎の大穴」についてレポートしている。
 水野の原は、原町三丁目に在りて、今は陸軍の用地たり、此地は元禄年間紀伊家の附家老水野大炊頭の祖先対馬守の拝領したる所にて、明治以後原野となりしものなり。
 頃者其の西南隅少しく高き所に於て大穴を発見せり、六月六日の読売新聞に原町の大穴と題して記して云。
 以下、この読売新聞の記事を孫引きして要約する。そのマンマ引用しても読みにくかろうから表現には潤色を加えるが、基本的には逐語的な要約である。

…………

 原町三丁目八七番地に成城学校中学という学校がある。

 元々陸軍参謀総長の川上操六が創設したため、当初は陸軍士官学校の予備校のような存在だったのだが、学校令改正に伴い普通中学に変わったものだ。
 とはいえ、出自がそういう性格であり、かつ明治当時のことなので、軍事訓練が教育の一環となっていた。
 つまり、この学校には軍事教練を行う練兵場があったのである。

 6月3日、この練兵場の西北隅の地面が少し陥落した

 そのまま放置しておいたら、翌4日正午に再び陥没した。
 陥没場所を調べてみると、その穴は直径約四尺(1.2メートル)、深さ二十間(原文は廿間。つまり36メートルだが、いくらなんでも深すぎると思う。ニ間の間違いか?)くらいあり、穴の中には回廊のようなものが続いていた

 さらに中を調べてみると、八畳と六畳くらいの広さの、土で出来た部屋が二つあり、廊下には土の棚のようなものも発見された。
 穴の高さは、普通の人なら自由に通れる高さのところもあれば頭を下げなければ通れないところもあった。

 その界隈の人々は、麹室(こうじむろ)なのでは?とか、昔この辺りにあった水野対馬守の屋敷の抜け穴なんじゃないの?とかいろいろ噂をしているようだが、どうもその正体は謎に包まれているのである。

 その正体を探るべく6月5日朝8時30分頃、成城学校勤務の陸軍将校が助手5人を従え、安全ランプを携えて穴の奥に突入した!

 北の方へ進むと、月桂寺附近と思しきところから微かに日光が漏れているのを発見、これはまさしく抜け穴であることを確認した。
 更に西の方角に進むと、成城学校の校舎の桜の木のあるあたりと思しきところからも、日光が見え地上の人の声が聞こえる始末。

 土砂に埋まってしまい確認できない道もあったが、どうやら抜け穴と見て間違いないのではないか…。
 新聞記者が聞き込んだところでは、穴の中で古い壺や犬の骨のような牙を備えた白骨を発見したという話もある。

 ………というのが読売新聞の報じた記事である。

 だが、諸君、どうも得心がいかないではないか。

 本当に水野屋敷の抜け穴だとすると、何故、部屋や棚らしきものが作られているのだ?

 屋敷の抜け穴といえば火急の時に速やかに脱出する目的で作られるはずだ。抜け穴の途中に部屋や棚など、作る必要があるだろうか?

 しかし逆に、麹を育成するための麹室だとしてもちょっと変だ。そうだとすると抜け穴みたいに通路が長く伸びている説明が付かないではないか。

 勇敢なる我が皇軍将校の探索も結局、謎を深めることとなったわけである。
 
 謎が謎を呼ぶこの奇怪なる「大穴」の正体や如何!

 奇絶!怪絶!又壮絶! その驚愕の真実は次回明かされる! 読者よ刮目して待て!

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by SIGNAL-9 | 2008-02-08 11:12 | 古い話 | Comments(0)