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「江戸文化歴史検定」のデタラメ広告

8月24日の読売新聞夕刊を見ていて、思わず吹き出した。

『第二回「江戸文化歴史検定」特別企画 Take2 東貴博 江戸文化歴史検定体験記』と題された広告である。
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 この江戸文化歴史検定というのは江戸文化歴史検定協会というところが主催しているが、ホームページをみると、江戸東京博物館と小学館がその本体のようである。

 さて、広告によれば、「浅草生まれの浅草育ち。ちゃきちゃきの江戸っ子・東貴博さんは江戸文化歴史検定二級の合格者」なのだそうである。

 この広告、突っ込みどころは他にもあるのだが、噴飯したのは、これだ。
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東さんがおすすめの江戸の名残を味わえる場所とかありますか?

浅草寺は焼け残っているから江戸のまま。浅草でさえどんどん改築して、古そうなものを造ったりしているけど、本物が残っているうちに見てほしい。
(つд⊂)ゴシゴシ→(;゚ Д゚) …!?はぁ? 浅草寺が焼け残ってる? 江戸のまま?

 この文脈で「浅草寺」といえば、本堂(観音堂)のこととしか受け取れない。

 馬鹿なことをいってはいけない。
 浅草寺本堂は昭和20年の空襲で丸焼けになったのである。

 昭和33年に浅草寺自身が発行している『昭和本堂再建誌』によれば;
(昭和二十年)三月九日午後十時四十分、折柄烈しい西風の吹きすさむ夜の街々に、不気味な警戒警報が伝えられた。十日零時三十七分空襲警報発令、南方海上を旋回しつつあったB29多数機は、逐次房総南部より帝都に侵入し、京浜周辺各所に分かれて焼夷弾を投下しつつあり、尚後続部隊ありとの情報である。
(中略)
午前二時過ぎ、本坊庭園に、多数の焼夷弾が落下し、火の粉は倉裡の諸所に燃え移った。辛くも一同これを消し止め、再び本堂を見上げれば、こわ如何に、巍然として夜空を圧する如く聳え立つ観音堂大屋根の西破風から、一条の光焔が鋒芒として走り出で、愕いて見返せば、風下の東破風から迸ばしる黒煙は烈風に薙ぎて真一文字に東に靡き、大屋根内部の発火はも早や疑うべくもない様相となっているではないか。
 慶安二年再建以来ここに二百九十六年、昭和大修繕成って僅か十二年、百万信徒に親しまれ来つた観音堂も遂に業火を免れ得ず、(中略) 観音堂の全く焼け落ちたのは午前五時頃にて、仁王門、五重塔、経蔵等も総てこの日焼尽した。
 この空襲で、浅草寺境内で焼け残ったのは、二天門、淡島堂、伝法院、浅草神社(三社様。厳密には浅草「寺」境内ではないが)など、わずかな部分だけなのである。

 浅草寺観音堂は昭和26年6月から七年がかりの大工事(総工費約4億円)で、昭和33年(1958)10月に再建されたのだ。

同書付録の『浅草寺本堂再建工事報告書』に工事の写真が掲載されている。

これが基礎工事。
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これが鉄骨の骨組みである。
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さよう、今ある本堂は鉄筋コンクリート製なのである。
再建事務局工事顧問の工学博士、大岡実によれば
…最初から鉄筋コンクリートの近代的不燃焼構造にするか、昔通りの木造建築にするかについては大いに議論のあったところであったが、私は断然鉄骨鉄筋コンクリート造を主張したのである。というのはたとえ宗教建築を旧来の形式で建てるにしても今日のように人家の密集した地区においては火災の危険は頗る大きいのである。人々の浄財によって造られる宗教建築が一度の火災によって烏有に帰し又々巨大な財力を集めなければならないという様な事は技術家としてなすべきでないという信念が一つと、戦争中防空問題で数度浅草寺を訪れ、旧本堂の材料の大きい事、例えば床下に二尺角近い欅の束が林立している状態を見て「この建物が焼失したら」再びこのような材料は集まらないという実感を持っていたので木造で再建するということは不可能でないまでも非常な困難があり本格的な建築をするには費用も大変な額になると考えたからである。
 一般観光客が好んで記念撮影に勤しんでいる雷門や観音堂は、すべて戦後のものなのだ。
 大体、昔の浅草を取り上げた、一般書籍で販売している写真集のタグイにだって、丸焼けになって外観だけ残った仲見世や、本堂修復中の仮本堂の写真が必ず載っているのである。

 東氏がナニをもって「浅草寺は焼け残っているから江戸のまま」といっているのか、是非知りたいものである。あの鉄筋コンクリの本堂が、本当に江戸時代のままだと思っているのか、この御仁は。
東氏のいってる「江戸」つーのは鉄筋コンクリート製の本堂を構築するような超古代文明のタグイなんだろーか(哂)

 つーか、「浅草生まれの浅草育ち」だそうだが、本当に浅草寺を見たことがあるのか? とすら疑いたくなってしまう。あれがコンクリート製であることは一目で判ると思うのだが。

 ま、これが単に東氏がどこぞのお笑い番組で喋っただけだったら、『これはひょっとしてギャグでいっているのか』と笑って済ませるところだ。

 だが、これは「江戸文化歴史検定」の広告なのである。掲載内容には広告主である江戸文化歴史検定協会、すなわち江戸東京博物館と小学館の責任があるはずだ。

 卑しくも他人の歴史文化の知識を検定しようという組織が、明らかな誤りを全国紙の紙面で喧伝する、これが果たして責任ある、誠意ある活動といえるだろうか。
 この「広告」が全国紙の紙面を飾るまでに、内容のチェックを行った中の人はいないのか?

 江戸文化歴史検定二級とやらのレベルはこんなものです、と恥をさらすのは勝手であるが、テメエの広告の内容『検定』もできないようでは、その『検定』自体のレベルも押して知るべしである。

 …と、久しぶりに半ギレしているが、なんでこんな些細なことに目くじらを立てているかというと、俺の近しい親族がこの再建事業に微力ながら係わったという個人的事情があるからだ。
 俺自身は浅草という地域にはほとんど縁もゆかりもないが、先人たちの営為を踏みつけにするような無神経な広告を、江戸博だの小学館だのの名前でやらかされるのは愉快な事ではない。

 3月9~10日の空襲で、浅草地区の約9割が焼け野原となり、隅田川には死体が山と流れていたのだ。
 空襲で死んでいった多くの人々、焼け野原だった浅草の再建に尽力した人々の辛苦を無視して、な~にが江戸文化歴史なのか。

 江戸に遡る前に、他に学ぶべきものがいっぱいあるんじゃないのか?
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by SIGNAL-9 | 2007-08-28 09:52 | 古い話 | Comments(0)

ついに発見!「秋葉っ原」の写真

 千代田区外神田一丁目遺跡調査会が纏めた『外神田一丁目遺跡』(平成11年。なぜか警視庁発行)という報告書に『明治21年ニコライ堂からの写真』というキャプションの付いた写真が掲載されていた。

 「あれ…、これ、秋葉っ原が写ってるじゃないか!」

 ちょっとググッてみたら、「ニコライ堂からのパノラマ写真」の内の一枚(第11番)という、有名な写真だということがわかった。

 先だっての秋葉原調査月間(笑)の時、秋葉っ原の写真か絵図がないかと探してみたのだが見つからなかったのである。諦めていたのだが、そんな有名写真があったとは…。まったく無知というのは恐ろしい。

 ところが残念なことに、この報告書に掲載されている写真は少々小さかった。秋葉っ原ではなく、佐久間河岸の遺跡調査の資料なので、当然といえば当然だ。
 で、もっと鮮明なものはないのか探してみた…書店で古写真関係の本を漁っただけなのだが(笑)。

 芳賀徹・岡部昌幸『写真で見る江戸東京』(新潮社、1992年)に、このパノラマ写真のすべてが紹介されている。だがこれも、一枚一枚のサイズが小さく、細部がよくわからない。

 幸い、石黒敬章『幕末・明治おもしろ写真』(平凡社、1996)に、外神田一帯の比較的大きなサイズの写真が掲載されていた。部分的に拡大し、若干の画像補正を加えてみたのがこちら(クリックで拡大表示)。
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 白黒写真のため、ちょっと位置関係がわかりにくいかもしれない。
 『外神田一丁目遺跡』調査書に掲載されている、明治21年の『五千分一東京図測量原図』の秋葉原周辺の地図と見比べてみてほしい。撮影位置であるニコライ堂は、この地図でいうと、向かって左側の方に位置する。
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 写真の真ん中下のほうに見える橋が旧萬世橋、神田川はそのまま右手奥に向かってから逆『く』の字に曲がって伸びている。昌平橋と和泉橋も確認できる(萬世橋と昌平橋の位置関係は現在とは逆で、萬世橋が上流にある)。
 画面真ん中あたりの交差点が花房町の交差点ということになるだろう。
 つまり、写真の中央左側にぽっかりと開いている空き地がいわゆる『秋葉っ原』である。
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 この写真、『写真で見る江戸東京』ではスコットランド人のウィリアム・バルトンが撮影者ではないかと推測されているが、『おもしろ写真』によれば、田中武による明治22年の撮影とのことである。
 『写真で見る~』の説は推測だが、『おもしろ写真』の方は毎日新聞記事という根拠を提示しているので、ここでは石黒氏に従って明治22年と考えておく。
 秋葉原貨物取扱所の影も形も線路も見当たらないので、いずれにしても上野秋葉原間の貨物線が開通した明治23年11月以前の写真であることに違いはない。

 無理を承知で(笑)、秋葉っ原附近をさらに平滑化拡大してみたのがこちら。
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 原っぱの右よりに小さな建物が見えるが、秋葉原の名前の由来となった鎮火神社は、地図ではもっと真ん中よりのように見えるので、これは社本体ではないかもしれない。

 東京市史稿その他の史料によれば、秋葉っ原は、周りをぐるりと高さ1メートルほどの小土手で囲み草木を植え…とある。
 防火林みたいな風景を想像していたのだが、写真では、単に低い塀で囲んであるようにも見える。まあ、この写真の時点では出来てから20年も経ってるのだからそれなりの変化はあるかもしれないが。

 一般書籍で入手できる写真の精度ではあまり細かいところまで判別できないのが残念だ。精度の高いテクスチャが得られれば、地図と合成して3D化してみるのもおもしろそうだ。

 この数年後には鉄道が引かれ、船堀が掘られ、物流の拠点となったわけである。
(東京市編纂「東京案内」(明治40年)から秋葉原船溜の写真)
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 ところで余談だが。

 冒頭に挙げた『外神田一丁目遺跡』調査報告書に面白い記述があった。
 明治2年(1869)の火災によって、外神田には約7000坪の火除明地が作られ、明地の中心に「秋葉三尺坊」を安置した「鎮火神社」が勧請される。

 「遠州の秋葉神社を勧請」と書いてある文章は数多いが、その中でも「三尺坊」を祀ったという珍説独創的な説は初めてみた。引用元を見ると江戸子著「江戸の火災」との由だが、明治三年時点に神祇官が三尺坊を勧請というのは、いくらなんでもそりゃ有り得ない、と思う。

 秋葉原に遠州秋葉神社(秋葉権現)が勧請されたというのは間違いである、と俺が考えているのは以前書いたとおりだ。

 公共機関が発行した遺跡の調査報告書が、ちょっと調べれば根拠薄弱と判る説をそのまま引き写して「事実」として記載するのはどうかと思うが、この遠州秋葉神社勧請説、思った以上に広範囲に流布している。

 最近、さすがに問題だと思ったのは、天下の江戸博図書館が公開している「レファレンス事例集」にこういう記述があったことだ。
秋葉原はなぜ「あきばはら」ではなく「あきはばら」なのか(2007年3月)

 電気街として広く知られる秋葉原は、明治2年12月の火災以後火除け地を置き、翌年秋葉神社(鎮火神社)をまつり「秋葉原(あきばはら)」と称し、「秋葉の原(あきばのはら)、あきばがはら・あきばっぱらなどともよばれ」(『日本歴史地名大系 第13巻 東京都の地名』 平凡社地方資料センター/編  児玉幸多/監修 平凡社 2910/139/13-S0 )ました。
 単なる俗称である「秋葉神社」をプライマリに扱うのは明らかな間違いだろう。

 「東京市史稿」の市街51-0001 『火除明地ニ鎮火社設立』によれば、あくまでも「鎮火神社」が正式であり、その意味で、”秋葉原”に秋葉神社が存在したことはない(鎮火社が秋葉神社と改称したのは、はるか後年の昭和5年)。

 この説明では「~をまつり」「~と称し」「~ともよばれ」等、主語が不明なのである。いったい「誰が」祭ったり、称したり、呼んだりしたのか、ソコのところを解説しないと、事実関係を正確に把握できなくなり、またぞろ誤解の再生産をする原因になると思う。
「あきはばら」は明治23年に出来た国鉄(現JR)駅「秋葉原駅」が出来てから地名となりましたが、なぜ国鉄が「あきはばら」としたのかははっきりしないようです。
 明治23年に「国鉄」は存在しない。後に国有化されたにせよ明治23年時点では日本鉄道会社(私鉄)である。

 また、「地名となりました」というのは意味不明。
 俗称としてという意味なら、明治23年以前から世間的には「秋葉ノ原」「秋葉ヶ原」として通用していた(明治20年発行『東京五千分の一』には「字秋葉ノ原」と字付きで記載されている)わけで経緯の説明として不正確だし、正式に「秋葉原」という「所番地・住所」になったという意味だとすれば、同時期の地図には秋葉原貨物取扱所(秋葉原停車場)の住所は「花房町」と記載されているので、事実と異なる。
 (そもそも「地名になる」というのもヘンである。「地名」は勝手に「なる」のではなく、「誰かが」「そうする」ものであろう。こういう客観性を偽装した表現は-俺も含めて-気をつけるべきだと思う)。

 影響力が大きいであろう江戸博のホームページであるだけに見過ごしに出来ず、概ね上記のような指摘事項を連絡申し上げたところ、「ご指摘の箇所は近日中に確認の上、訂正させていただきます。」と丁重なご連絡を頂き、さっそく旧記述は削除してくれた。(2007/08/22追記。本日再度見たら、見出しから削除されただけで原文はそのままだった)

 俺は手前の判断が絶対正しいなぞとはビタ一文思っちゃいないし、「どーでもいいこと」と言えばその通りなのだが、明らかに根拠が薄い・怪しいと思われる説が事実として流布されるのは、瑣末な事であるとしても良いこととは思えない。特に公的・準公的な機関の文書であれば尚更である。

 さて、どのように訂正されるのか、ちょっと楽しみである。
 ここで書くネタができるかもしれないし(笑)

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by SIGNAL-9 | 2007-08-20 11:05 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(2)

まぼろしの銀座線”万世橋駅”

 名所旧跡があるわけでもない、こういう場所でカメラを構えていると、通行人の怪訝な視線を受けることが多い(笑)
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 ああ、開店準備中の電気店の方の「なにコイツ」な視線が痛い(笑)

 どこだかお判りになるだろうか?
 アキバに詳しい人はわかるだろう。さよう、万世橋の交差点、石丸電気一号館の前である。

 ナニを撮りたかったかというと、ベストの素敵な店員さんの足元の、鉄製の網目である。
 この網目の横にはこういう蓋がついている。
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 「ずい道内消防用連結送水管送水口」。隋道というのはいうまでもなくトンネルのことだ。そう、この網目は、東京メトロ銀座線の通風孔なのである。

 地下鉄の通風孔なんて珍しくも無い。そんなものが注目されるのはマリリン・モンローのスカートを巻き上げる時くらいである…確かに。
 だが、この通風孔は単なる通風孔とはちょっと違う。

 実はここに、かつて地下鉄の駅があった、というのである。

 東京メトロ銀座線、以前は営団地下鉄銀座線であったが、そもそもは東京地下鉄道株式会社という私鉄だった。

 この銀座線設立に関しては、日本初(つまりアジア初)の地下鉄建設という偉業に相応しい、いろいろと面白いエピソードがあるのだが、逐一書いていると本が一冊書けてしまう。中村健治氏の近著『メトロ誕生-地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』(交通新聞社、2007年)を参照されたい。俺もこの銀座線の万世橋駅に関しては、この本で初めて知った。

 で、ここでは、ざっくり概況だけ。

 東京地下鉄道は当初から資金難に悩まされた。アメリカ資本導入計画も折悪しく発生した関東大震災で頓挫、結局、当初計画していた新橋ー上野間の敷設を後回しにし、上野ー浅草間での部分開業を目指し、大正14年9月末に工事を開始した。

 浅草発の銀座線に乗ったことのある人はご存知と思うが、あの路線にはちょっとした特徴がある。
 非常に浅いところを通っていることだ。

 実は当初は15メートルの深さに電車を通すということで許可を得たのだが、この資金難の折、「浅く掘れれば安く済む」という理由で1.5メートルで再申請したところ東京府のチェック漏れというラッキーで(笑)、うまく鉄道省の許可を得てしまう。
 結果、地面を掘り下げて線路を降ろした後で蓋をするという「オープンカット方式」での工事ができることになった。
 逆にいうと、この方式だと民家の下を通るというわけには行かないので、既存の道路を掘り下げて線路を埋めていくということにせざるを得ない。銀座線が大通りの真下を通っているのはこのためである。

 「営団地下鉄五十年史」(帝都交通営団、平成3年)から当時の工事の様子の写真を引用しておく。
 夜間通行止めにした道路(浅草通り)の地面を掘り下げて、今まさに線路を降ろそうとしているところだ。
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 工法がいくらかラクになったとはいっても、大正当時のことである。
 今のような巨大建設機械があるわけもなく、多くの作業は人手で行わなければならない(「帝都物語」みたいに学天則のような便利ロボットが使えればよかったのにね)。
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 昭和2年12月30日、アジア初の地下鉄が上野・浅草間2.2キロでの営業を開始する。
 その後も資金難や労働争議に苦しみながら、地下鉄は新橋を目指し、じわじわと掘り進むことになる。

 しかし、何もかも初めての地下鉄工事の前に、またひとつ巨大な障害が立ちはだかっていた。
 神田川である。

 何しろ川底を通さなければいけないのだ。今までのように道路を掘り進むのとはわけが違う。難工事が予想された。
 そこで東京地下鉄道は、ひとまず神田川の手前に駅を作って、そこまでの営業を行いつつ神田川を超える計画を立てたわけだ。

 ところが、この駅は立地上、特殊な条件があった。
 神田川に向かってトンネルを掘り下げていく都合上、駅自体が斜めに下がっていく場所にならざるを得なかったのである。
 この図面を見ていただきたい。東京地下鉄道株式会社『東京地下鉄道史(乾)』(昭和9年)に所載の、万世橋仮駅の図面である。
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 側面図(一番上)を見てほしい。線路が左の神田川方向に向かって下っているのがお分かりだろう。
 また断面図(真ん中右)を見てのとおり、ホームが片側ひとつしかない。つまり、この前の末広町までは複線なのに、ここでは単線になってしまっているのだ。

『東京地下鉄道史』によると(読みやすさを考えて適時空白を補う)
 之が為 同所に設けた終端複線の下り線上を乗降場に供し、末廣町と萬世橋仮停留場間は上り線上を単線運転をして往復に使用し 末廣町に列車折返しの亘線を設け 浅草より上りの列車は交互に末廣町行萬世橋行の2種とし 前者は末廣町止りとし亘線によつて直に浅草に折返し 後者は其の儘萬世橋停留場迄進入し単線を逆行 末廣町停留場の亘線に依つて下り線に移るの運転組織とした。
 とまあ、一読したくらいではよくわからない複雑な運用となっている(笑)

 ホーム自体の長さも33.5メートル、車両二両分しかない
 仮停留場個所は神田川河底隧道に向け下降する2.5%勾配線内に在るので 列車運転上の安全を期し停留場部分を水平線となす為 1部分隧道構築の天井を高く造り、元設計通り 上り下り両線共軌道を敷設し 下り線上に長110尺(33.53m)の木造仮乗降場を設け 本線は敷設せる軌道上に木造仮架臺を置き 其上に更に 別に仮本線を敷設した。
 神田側の川底下に向かって線路は下り勾配である。もしも、他の駅のように列車いっぱいの長さのホームを作ると、ホームの途中を階段状にしないといけなくなってしまう。
 さらに、この先の接続のために後で使う線路を予め敷設しておき、その上に仮の木造ホームを置いた、というわけである。

 それにしてもやたら「仮」が多い(笑)。まさに仮駅というに相応しい、無理のある駅だ。
 とはいえ、資金難という背に腹は変えられない。万世橋仮停留場は昭和5年1月に開業に漕ぎ着けた(写真は工事当時の万世橋付近)。
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 今の目で見ると、そうまでして運用する必要があったのか疑問に思われるかもしれない。末広町駅からほんの数百メートルの距離だ。わざわざ電車に乗らなくても…と思うのだが、秋葉原駅の近くでもあり、市電のターミナルも近くにありで、けっこうな利用客がいたようである。

 さてその一方で、神田川を越える工事は着々と進んでいた。これも詳細に見ていくといろいろ面白いのだが、ここでは写真を一枚紹介しておくことに留める。
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 万世橋の横に仮橋を作って工事を進めたことが判ると思う。
 仮停車場は其の設置に関しては特記すべき事項は無いが 次工区営業開始に当り駅務を1日も中断することなく開業する工事を施工した順序方法に関しては特記の価値がある。先づ仮停留場閉鎖に先立ち、第3工区構築完成し神田方面に至る上り線軌道の敷設をなす必要上、使用しつつあつた仮本線及仮架臺を撤去し、其の下部に敷設してあつた勾配本線を運転に使用する事とし、列車運転休止後 深夜之等の撤去工事及仮乗降場の柱を切り詰め乗降場位置を下げ 本線の勾配に準拠せしむる工事を数時間内にて完了し、尚低下乗降場と客溜室床との間に仮に階段を作り 停留場に到着の列車は停留場前にて一旦停車し後急勾配の乗降場に進入する事とした。
 後暫くして神田方面迄営業開始の時日が迫った際、1夜に仮乗降場を取払ひ、下り線を末廣町停車場より萬世橋に至る単線往復運転に使用し 車両と客溜室の間に小階段を付して営業を継続して 神田方面よりの下り線の軌道敷設及試運転に支障なからしめ、開業の前夜客溜室前の階段を撤去し普通複線路に復帰したのである。
…つーか、そんな面倒なことするなら最初から複線の階段ホームにしといた方がよかったんではなかろうか…というのは素人の浅はか見附なんであろーな(笑)

 銀座線万世橋仮駅は昭和5年1月に開業したが、神田駅までの工事が翌昭和6年11月に終了し、わずか1年11ヶ月の短い生命を閉じることになった。

 その入り口の後が、通風孔に改造され、今でも石丸電気の前に残っているというわけなのである。

 最終的に銀座線の駅として残った末広町・神田とも、いわゆるアキバの端と端である。
 万世橋仮停車場、その後の秋葉原の賑わいを考えると、今にして思えば銀座線にとっては惜しい駅だったかもしれない。
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by SIGNAL-9 | 2007-08-10 10:43 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(5)

秋葉原の時計台(京屋時計店)

 時計台と言えば札幌の時計台が全国的に有名だ。

 どの写真を見ても同じ「斜め左下から見上げるアングル」なのは、実際にはビルの谷間にあって、他に撮り様がない、というのが大きな理由であるということは見に行った人は知ってると思う(笑)。日本三大がっかり名所とクサされる所以だ。

 東京にはゴジラ映画の原風景、銀座の和光・服部時計台がある。

 服部時計台の現在の建物は昭和になってから最竣工されたものだが、元々は明治二十七年の竣工だそうだ。
 仲田定之助『明治商売往来』(ちくま学芸文庫)によれば、
 文明開化を象徴する時計台が明治時代、都会の建物に簪のように飾られた。それは市街に美観を添えるばかりでなく、まだ懐中時計も、掛時計も一般に普及していなかった時だけに、市民に時刻を告げる重要な役割を果たしたので、宣伝媒体としても大きな効果をあげた。
 このように、東京でも明治期に、多くの時計台が造られたのである。

 秋葉原にも、かつて時計台があった。

 今のアキバで「時計台」というと、秋葉原駅の電気街口の前にある貧乏くさい時計くらいしかない。
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 そもそも"時計台"というからには、ランドマークとしての役割も果たせるようなものを期待するわけである。アキバのコレはたんなる「時計」、言ってもせいぜい「時計塔」である。
 ここでいってる時計台は、これとは別物である。

 『新撰東京名所図会 第二百七号』(明治33年)の『神田旅籠町』の項に、秋葉原の時計台に関しての記述がある。
京屋

 一丁目十三番地に在る時計商店にして屋上高く広大なる時計を据付け四面より望むことを得。世俗呼んで外神田大時計といふ。蓋し東京にて屋上に大時計を設けたるは本店を創始とするよし。時を報ずること十五分ごとにして十五分にて一ッを打つ(一ッなれど二ッに聞こゆるなり)。三十分に至れば二つを鳴らし。四十五分に至り三つ。六十分に及へは四つを鳴らしたるの後更に時刻の数を報ずるなり。本局一千二百六十四番の電話を架す。
 この「外神田大時計」、京屋時計台に関しては、仲田定之助も参照している平野光雄『明治・東京時計塔記』(昭和33年)に詳しい。
 明治年間、東京市民に、「外神田の大時計」と呼ばれ、「八官町の大時計」(小林本店時計塔)とならんで、東京名物の一つに数えられていたのは、当時、外神田旅籠町一丁目十三番地に在った京屋時計店本店(現在の千代田区神田旅籠町一丁目十一番地、三菱銀行秋葉原支店の敷地がその跡である)土蔵造二階建の屋上に、屹立していた時計塔のことである。とりわけ、同時計塔は、明治十四年、上野駅が開設されて以降は、上野に下車するお上りさんたちから、「文明開化」のシンボルとして瞠目されるとともに、須田町方面への格好な道しるべとしても、非常に重宝がられたという。
 この時期の秋葉原周辺の地図を『新撰東京名所図会』の「現今神田区全図及其近傍」で見てみよう。
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 地図で見るとおり、外神田旅籠町一丁目というのは、今の神田明神通り沿い、おでん缶の自販機で有名なチチブ電機のあるアノ一角あたりのことだ。
 これは、『明治・東京時計塔記』に掲載されている、明治二十七年に京屋時計店が発行した銅版画である。
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 店の前に鉄道馬車の線路があり、左から右にカーブしているのが見て取れる。

 この当時、鉄道馬車は旧萬世橋つまり今の昌平橋あたりから、上野広小路に抜ける御成街道に向かって伸び、ちょうどこの時計台の前で、御成街道に曲がりこんでいたわけだ。つまり今の道路で言うと、銅版画の左手前側の道が明神通り、向かって右の大通りが中央通り、と推定できる。
 また、昭和33年(記事初出は21年)当時の平野の解説によれば「三菱銀行秋葉原支店の敷地」とのことなので、建て直し工事中で三菱UFJは無くなってしまっているが、まさにアキバのど真ん中、この交差点なのではないか(つまりこの銅板画は愛三電気のビルから目線(笑))。
 まあ、区画整理などの影響もあるので、厳密にココとは言い切れないが。
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 この京屋時計店の時計台がいつ建てられたものなのか、平野は「設置年代は詳らかではないが…明治九年春頃には、すでに建設されていたのではないか」と推定している。『名所図会』にいわく「蓋し東京にて屋上に大時計を設けたるは本店を創始とするよし」、東京の時計台の元祖のひとつといってもいいようだ。

 また平野は、その鳴り方の特徴から、内部の機械はウエストミンスター式、即ち英国製だったのだろうと述べている。
文字板直径七尺にも達する、かなり大型の櫓時計型時計塔であった。…その鐘の音は非常に高く、かなり遠方まで鳴り響いたそうである。
 この京屋時計店本店は、大正二年ごろ、店を引き継いでいた二代目が手を出した銅山事業がコケ、川崎銀行に売却される羽目になる。
 建物はかなり長い間、そのまま放置されていたらしく、後に同行の指示でとりこわされ、川崎銀行神田支店の新築工事に着手したというから、「外神田の大時計」のとりはずされたのは、多分、その折と考えられるが、正確な時日を詳にしないけれども、雑誌「うきよ」大正五年九月号雑報欄の、「唐様で売家と書く三代目とやら、神田区旅籠町一丁目の御成街道筋に高く聳えて居た、名物の大時計が売り払われて姿も見せなくなつて了つた云々」という記事は、だいたいその時期を示唆していると思う。
 この時計台、現物の写真も『新撰東京名所図会』に掲載されている。
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 銅版画が誇張ではないことがわかる、中々に堂々とした時計台である。

 残念ながら、秋葉原というのはその土地柄、明治期のモノはほとんど残っていない場所なのであるが、もしもこれが残っていたら、札幌時計台以上の名所になっていたかもしれないなぁ。
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by SIGNAL-9 | 2007-08-06 10:33 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)