<   2007年 02月 ( 8 )   > この月の画像一覧

緑の侵略者

 『蔦の絡まるチャペルでぇ~』なんてゆーとロマンチックが止まらない感じだが、植物星人どもはそんなに甘くないのではないか。隙あらば蔓延ってしまおうという生来の歪んだ欲望の赴くまま、ヤツラは我々人類の住居にまで好き勝手に侵略の手を伸ばしてきているのである。地獄の底から蘇る悪魔の化身毒の花。

 今日は町歩きで見つけた植物軍団侵攻の証拠写真をいくつか。
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 千代田区淡路町某所の物件である。
 おそらく美的観点からツタを故意に絡ませているのであろう、入り口や看板周りなど刈り込んであることからも分かるとおり、俺流に言うと、"制御された侵略"である。
 とはいえ、その生い茂り方にはやはり暴力的な野生を感じさせる。すきあらば繁りまくってしまおうという植物の胡乱な意思と、ギリギリで美観を保とうとする人間の意志のぶつかり合いに予断を許さない緊張感が感じられるではないか。
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 台東区上野の通称暗闇坂にある謎の廃屋…といたいところだが、なんでも上野動物園が物置として使っているそうな。
 冬場の写真なので、枯れ切った植物があたかも海草が絡まった幽霊船のような風情を醸し出している。元は煉瓦造りの中々にしっかりした建物なのであるが、もはやこうなっては不気味さ以外のものは感じられない。

 もうひとつ。
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 こちらも台東区某所の民家である。壁面が前面窓で日当たりがよさそうなのに、向かって右奥からツタにじわじわと侵略されかかってる様子が不気味である。とはいえ、一階は人間様のスペースだという居住者の意思が感じられ、不思議なバランスを保っている。


 最近見つけた物件はこれ。
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 こちらも「生きている」家のようなので場所も名前も秘しておくが、都内某所の医院である。
 見てのとおり、新しい家なのにどうもトンデモないことになってしまっている。

 このサイズだとわからないかもしれないので、L版で取った元画像のトリミングを見てほしい。
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 部屋の中もエライことになってしまっているようだ。構造的にはこの部屋は温室のように思えるが、もはや植物を育成するなどという牧歌的な空間ではなくなっているのではあるまいか。
 寝ている間に首に巻きついたツタがじわじわと的妄想が浮かぶが、マジメな話、害虫の発生や漏電等の心配もあるので早めに対処された方がいいと思うのだが(余計なお世話か)。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-27 13:40 | 町歩き | Comments(0)

木曽高生が斬新な研究発表

木曽高生が斬新な研究発表 UFOなど科学的に検証 北陸中日新聞
木曽町の木曽高校で15日、理数科の2年生による課題研究の発表会があった。論争のある未確認飛行物体(UFO)の存在や、血液型と性格の関係といったテーマに独自の切り口で科学的な検証を試みた結果の報告もあった。

UFOは実在し得るのか-を研究した生徒たちは、大気圏突破や飛行中の急加速・停止など、いくつかの特徴をすべて満たす乗り物が現代の科学技術で造れるかどうか検討。地上と宇宙の両方の航行は燃料補給の点で難しい▽急停止しても乗っている人がつぶれないようにする技術がない-ことなどから「実在しない」と結論づけていた。

性格が血液型に影響されるかどうか追究したグループは、約50人へのアンケートでそれぞれの性格と血液型の相関関係を調査。結果は「世間で言われているような行動や性格と血液型の相関はほとんどない」だった。
 その意気やよし。だが残念だが、完全に間違っている。

 いやいや、結論は妥当なのよ。
 だけど論理としておかしい。
  • UFOという言葉の定義。本来の意味どおりの「正体が確認できていない飛行物体」は、現実に存在する。それは飛行機かもしれないし鳥かもしれないし、ぶんぶく茶釜かもしれないが、明らかに「存在している」。
  • UFOという言葉をエイリアン・クラフトとか空飛ぶ円盤と表現されるモノとして使用しているのだとしても、「現代の科学技術で造れるかどうか検討」した結果から「実在しない」という結論は絶対に出てこない。
  • 血液型の方も同様。「性格」というあいまいな事例に対する<統計>結果から「相関はほとんどない」という結論を出しちゃうのは、血液型性格信者がやっているのと同じ手法。同じ手法を適用してみると反証になるという理屈はアリだが、それにしては母数が少なすぎるという反論はあり得る。
方向性は正しいのだが、この短い記事から判断する限り、手法として科学的とは言えないので、先生方はきちんと指導された方がよろしいと思うぞ。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-23 16:59 | 奇妙な論理 | Comments(0)

HAL実用化

高齢者の生活支援、着るロボ家庭に──大学発VB・大和ハウス、来年にレンタル・販売(2月15日)日経ネット関西版
人が着用して手足の動きを助ける「ロボットスーツ」が実用化の段階に入った。開発に成功した筑波大学発のベンチャー、サイバーダイン(茨城県つくば市)が大和ハウス工業と提携し高齢者の生活支援用などに年400体を量産、2008年からレンタル・販売を始める。大和ハウスは利用者のバリアフリー住宅なども開発する。ロボスーツは工場用の開発も始まり、少子高齢化時代の新しい産業となりそうだ。

中略

サイバー社は調達資金で今秋までに量産設備などを整備したうえで、来年にも大和ハウスの営業網を活用し個人の生活補助や福祉施設のリハビリ用にレンタルを始める。料金は年産400体の時点で月6万―20万円。大和ハウスは同じ時点で、1体50万円程度での販売を目指している。
50万…買える。

 身近に要介護者がいるので切実なニーズがある。マジで買っちゃってもいいかもな…のだが、多少不安もある。
 例えば「防水」なんてどうなってるのだろう?

 介護のときにツラい作業のひとつが入浴。
 専門の、介護浴槽などを用意できりゃあいいのだが、なかなかそういうわけにもいかない。で、湯船にジャブジャブ入って、補助してやって…つーのがけっこう腰にクルんである。

  HAL-5スペック表によると、「屋内外日常生活環境」で使用可能らしいが、湯船にジャブジャブとは言わないまでも、ある程度の防水は完璧に行っておいてほしいものだ。風呂場みたいな水周りで使ってるときに、万が一にも漏電なんかしたらエライことになるだろうから。

 とはいえ。

 不謹慎ながら単純に物欲をそそられるわな(笑)

 そういや以前取り上げたトヨタの計画はどうなったんだろう。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-15 18:00 | 一般の話題 | Comments(0)

秋葉原-「伝説」に関するとりあえずのツッコミ。

 およそ一ヶ月に渡る秋葉原由来調査月間だったが(笑)、もう飽きたのでここらでひとまず纏めておく。

 自分で調べてみてつくづく思ったのだが、ド素人の俺が、その辺のチンケな図書館&書店の立ち読みで、わずか数時間調べただけでも「おいおい、この話おかしいんじゃねぇの?」「あ。デタラメじゃん」と思える記述が散見された。

 Webページならまだしも、市販の歴史関係の本でまで。

 ここでは、そんな記述に関する俺のツッコミを纏めておく。
 …とはいえ、あちこちに喧嘩を売る気もないヘタレなので、典型的な記述例を適当に要約し、個別具体的なツッコミ先は明示しないことにする。
 また、詳しい議論は過去のエントリも合わせてご参照いただきたい。
秋葉神社の謎
秋葉神社の謎-些かつまらない解決?編-
秋葉原-火除地の成立と鎮火神社
秋葉原-火除け地、その後の様子は?(明治3~21年)
秋葉原-貨物取扱所【秋葉原駅】(明治23年~昭和7年)
秋葉原-表記の歴史:「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」…?
秋葉原-発音の問題1:「アキバは下町訛り」というのは本当か?
秋葉原-発音の問題2:「アキハ」がマズかったのか?
秋葉原-「田舎者の役人」はどこにいる?

 もちろん、何一つ断言するほどの自信も能力もないが、いちいち「~と思う」「~じゃないかなあ」と書くのもウザいので、断定口調で書いておく。
 所詮素人が短時間調べただけのとりあえずの結果である。間違ってる可能性は大いにあるし、明日には手のひらを返すかもしれない。まかり間違って参考にしようとかコピペしようとか思ってくださった向きは、ご注意のほどを。また、きちんとした反証を教えていただければいつでも撤回する用意はある。大方の御指導を賜れれば幸いです。

  1. 『秋葉原には遠州の秋葉神社(秋葉権現)が勧請された』

     多数のWebページ、かなり名の通った出版社の大百科事典から山田風太郎の小説まで、この趣旨の記述が成されているが、完全な誤り。

     一般に言うところの”秋葉権現”とは、遠州(静岡県)秋葉山本宮秋葉神社のことである。
     現在の秋葉原に設立されたのはこの「秋葉神社」ではなく、「鎮火神社」である。
    1. 以下の信頼性が高い文書に、鎮火神社設立の模様が詳細に記録されている。
      • 江戸-東京の初期の歴史に関する基礎資料として高名な「武江年表」(東洋文庫版かちくま学芸文庫版が入手しやすい)
      • 東京府/東京市の公文書が収められた「東京市史稿」(東京都内の公立図書館に所蔵多し)
      • 神社の戸籍帳「神社明細」(台東区の中央図書館にある)

       設立当初は「秋葉神社」という名前ではなかったことがこれらの史料により確認できる。

    2. 祀っている神様が違う
      鎮火神社が祀ったのは火産霊大神(ホムスヒノオオカミ)水波能売神(ミズハノメノカミ)埴山比売神(ハニヤマヒメノカミ)の三神。これは上記史料及び現在の松が谷の秋葉神社の由来書きでも一致・一貫している。対して秋葉山本宮秋葉神社は火之迦具土神(あるいはいわゆる三尺坊大権現もしくは大己貴命)。火之迦具土神と火産霊大神が同一神物(笑)だとしても、「秋葉権現勧請説」では他二神は説明が付かない。

      ------------- 2/9 追記
      『武江年表』の記述に従い大己貴命も書いたが、これは『武江年表』側の間違いくさい。とりあえず削除しておく。
      -------------

       「元々江戸城の紅葉山に勧請されていた秋葉権現を勧請した」という説もあるが、仮にそうだったとしても、それを「遠州の秋葉権現が勧請された」と表現するのは飛躍しすぎ。

    3. 国家神道・廃仏毀釈の流れという時代背景を考えてみても、明治3年の時点で東京府が神祇官に依頼して秋葉山本宮秋葉神社から勧請することは考えにくい。
      『東京市史稿』には、神祇官と東京府でやり取りされた公文書が収録されているが、遠州秋葉権現の話はビタ一文出ていない。

     本来別の神社である鎮火神社を、庶民が「ゴホンといえば龍角散、火伏せといえば秋葉神社」的誤解をし、その名前で呼んだという解釈が妥当であり、武江年表にもその旨の記述が存在する(東洋文庫版から現代語に超訳)。
     世間では、当社(鎮火神社)が「鎮火社」と命名されたので、細かいことを考えず「遠州秋葉山の神を勧請したんだな」と早合点し、「秋葉山権現」と唱えてお参りする奴も多い。
     秋葉山のお祭りしてる神さまは大己貴命で(以前から三尺坊を合わせて祭ったいわゆる「神仏習合」状態だったが、この頃三尺坊は移転されたので、いわゆる神社にはなったのだが)、鎮火社とは祭ってる神様は別神28号である。
     だが、世間につられて勘違いしてる奴も多いのでここに特に書いておく。上野の両大師に参拝して、実際には良源と天海を祀ってるのに「大師と言えば弘法大師」と思い込んで「南無大師遍照金剛」なんて唱えちゃうのもこのタグイである。
     明治9年『明治東京全図の内第五大區図』では既に鎮火神社が「秋葉社」と記載されており、この「誤解」はかなり早い段階から始まっていたことを伺わせる。
     明治20年発行の『東京5千分の1』には『字秋葉ノ原』と地名表記がなされている。字表記なところを見ると「秋葉ノ原」は地名として準公的に通用していたらしい。
     明治33年『新撰東京名所図会 神田区之部』の『神田花岡町 秋葉の原』の項には、『之を好機として其の跡を火除地となし、始て鎭火社即ち秋葉神社を建つ。是れ秋葉の原の名ある所以なり』とある。明治晩期には完全に「秋葉神社」として定着してしまったようだ。

     昭和5年に、鎮火神社が"通名"を採用し秋葉神社と正式に改名したことで、現在にまで影響を及ぼす誤解の輪を広げたことは否めない。

     この辺の経緯を知るのに、書店で入手しやすく読みやすいものとして中公文庫の三田村鳶魚『江戸の旧跡江戸の災害』所載『秋葉ばら』を推奨する。(『江戸の実話』(昭11)近デジ・オンライン版)この本にもっと早く会えていたら、俺もこんなに右往左往迷わなかった(笑)

  2. 『秋葉の原にあった秋葉神社は明治22年に佐竹の秋葉神社に移転した』

     誤りである可能性が極めて高い。

     ある地名辞典にこの趣旨の記述があったが、誤伝であると思われる。
    1. 佐竹(竹町)に現存する秋葉神社と鎮火神社(松が谷の秋葉神社)では祀っている神様が異なる(1-b参照)。

    2. 公文書等の記録(土地の買取など移転資料)から見ても鎮火神社の移転先は(現在の)松が谷である。

    3. この説が成立しうるのは、鎮火神社とは別の「秋葉神社」が秋葉の原に存在した場合だが、可能性は低い。

  3. 『鎮火神社は英照皇太后に思召を以て、明治天皇の下命で設立された』

     後付けである可能性が高い。

     設立当初の記録には上記に相当するような経緯の記述が見当たらない。
     「東京市史稿」には、火除け地設置の必要性の実務的・実際的な理由(度々の出火、消防困難、西北の季節風での延焼など)が挙げられており、皇室の直截的関与を伺わせる上意下達的な記述はない。
     ただし、設置作業を神祇官に依頼して行ったということは事実であり、極めて広い意味でなら明治天皇の下命と言えるかもしれない。

  4. 『鎮火社は明治21年に移転し、跡地が国鉄に払い下げられた』

     デタラメ。明治21年に国鉄は存在しない。

     秋葉原貨物取扱所を作った日本鉄道会社は後に国有化されるが、この時点では国策会社とはいえ私鉄である。
     ついでに言っておくと、鉄道省という役所も明治には未だ存在していない。
     明治21~22年頃の、鎮火神社移転-秋葉原駅設立のエピソードで、国鉄だの鉄道省だの記述している文章は、ちゃんと調べないで書いていると疑った方がよかろう(笑) デタラメを平気で書いている新聞記事もあるのでご注意を。

  5. 『秋葉原は下町訛りで<あきばっぱら><あきばがはら>と呼ばれた』

     不正確。
     「アキバハラ・アキハバラ」問題と呼称したいくらいポピュラーな疑問であり、Web上では「アキバ」説が優勢のようだが、少なくとも排他的・断定的に述べられるほど根拠はない。

     反証として「あきはっぱら」や「あきはがはら」と濁らず発音されていたと思しき事例も確認できる。多様な読み方が確認できる以上、「下町訛りで秋葉は必ずアキバと発音された」的な表現は妥当ではない。

  6. 『下町ではアキバと発音していたので、永井荷風らはアキハバラという呼び方を批判した』

     文脈として疑わしい(=(理由-結果の論理がヘン)

     前項のとおり、「下町訛りで秋葉はアキバ」という予断は、疑える余地が十分にある。
     私見だが(ってこの文章全部私見なんだが)、荷風らの「アキハバラ」に対する違和感の根本原因は、「原」を「バラ」と、東京近辺では耳慣れない読み方をしたためという可能性もある。

  7. 『鎮火神社が秋葉神社と改められると、「秋葉原」と呼ばれるようになった』

     誤り。少なくとも経緯の説明としては不正確。

    1. 鎮火神社の公式な名称変更は昭和5年。秋葉原にいた期間に名称が「改められた」ことはない。
      その意味では、「秋葉の原」に公式に「秋葉神社」が存在していたことは<無い>。

    2. 一方「秋葉原」という表記は最低でも明治19年-鎮火神社はまだ秋葉の原にあった-まで遡って使用されていたことが新聞記事などで確認できる。

     鎮火神社が明治3年の設立からさほど間を置かず「秋葉神社」と俗称された証拠はあるので(『武江年表』、明治9年発行『明治東京全図の内第五大區図』など)、その意味でなら間違いとまではいえないが。

  8. 『"秋葉原"という表記は秋葉原駅が誕生してから使うようになった』

     誤り。

     前項のように駅成立以前に「秋葉原」表記を使用していた例がある。
     ただし、実際に何と読まれていたかは不明。"秋葉原"という表記に「アキハノ(ハラ)」というフリガナを振っている例もある。
     表記(どう書いたか)と発音(実際にどう読まれたか)をごっちゃにして論述することには注意が必要である。

  9. 『(本来アキバハラであった)秋葉原をアキハバラと名づけたのは田舎者の鉄道省の役人であり、神田っ子は抗議運動をした』

     かなり怪しい。

    1. 「アキハバラ」という読みに不満・違和感を持った人々がいたことは事実だが、一部で記述されているような「神田っ子の猛烈な抗議」・「反対」・「地元住民の運動」などの表現から受ける印象を裏付けるような新聞記事や公的記録の類は見つからない。

    2. 現在流布しているこの「伝説」の中には、年代不明・一次史料不明なものや基礎的事実の錯誤(明治23年には存在しない鉄道省の役人の行為としている、など)が含まれているものが多く、信頼性に欠ける。単なる「伝聞・言い伝え」としか思えない。

     「文句」をいっていた人が継続的にいたのは事実だろうし、もしかしたら苦情を寄せたりした人もいたかもしれないが、「抗議運動」とまで評するのは誇張ではないか。
 以上、これが現時点での俺的見解である。

 秋葉原に関しては青果市場やら闇市やらの歴史もおもしろそうだし、俺的には70~80年代の方が実体験を踏まえてイロイロ話せることもあるのだが(話せないことの方が多いが^^;)、その辺はまた気が向いたら。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-08 12:24 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

秋葉原-「田舎者の役人」はどこにいる?

 「アキハバラ」という読み方は関しては、
wikipediaの秋葉原駅の項

駅名としての秋葉原の読みは「あきはばら」である。これは、上記地名の読み方がわからない鉄道官僚が、誤って読み仮名をつけたことによる。地元住民を中心に駅開業後も「あきばがはら」と呼ぶ人はいたが、次第にこの本来の読み方が「俗称」と位置付けられるようになった。日本鉄道も鉄道省も、駅名を本来の読み方に改めてほしいとする地元住民の運動を聞き入れることはなかった。
という話がある。
 アキハバラの語源について語っている本やWebページにはよくこの話が出てくる。

 疑問なのは、この話が何時の時代のことなのか? ということである。

 この話の基点となっているのは「駅の命名」であるが、「秋葉原駅」には三つの大きなエポックがある。
 明治23年(1890):貨物取扱所として開業
 大正14年(1925):旅客業務開始
 昭和 7年(1932):乗継駅化

 例えば東京新聞の記事では
火除地には九〇(明治二十三)年、私鉄日本鉄道が貨物駅を設置。「秋葉原駅」と名付けられ、読み方が「あきはばら」になった。地方出身の鉄道省の役人が反対を押し切って決めたといわれ、神田の江戸っ子たちに大変不評だったという
明らかに、明治23年の貨物取扱所時点、という記述である。

 ところが、昭和7年という主張もあるのだ。
 東京港湾事務所 TOKYO PORTAL SIGHT VOL.13:特集 地名でわかる歴史地図では、
 ところが、昭和7(1932)年、山手線と連絡できる秋葉原駅が開業。鉄道省はなぜか駅名を「アキハバラ」としてしまった。神田っ子たちは「アキバノハラ」を主張したが、主張は通らず現在に至っている。
Webページ 台東区の地名の由来
昭和7年総武線を延長して両国駅と御茶ノ水駅が結ばれた時、乗換駅として普通駅が誕生したのだが、地方出身の鉄道省の役人はその間の事情を知らないから字面だけで「あきはばら」と訓じて命名した。神田っ子は猛烈に抗議したが、権力を笠に着て威張り散らす役人は、自己の誤りを認めないばかりか頑として譲らず、「我々が決めたことが正しく地元の都合など考慮しない」と突っぱねたというお粗末。
 明治と昭和、時代がぜんぜん違うのに、「鉄道省の役人」が「反対を押し切って」勝手に決めて「神田っ子たち」が抗議、というストーリーは同じである。

 両説にはそれぞれに疑問がある。

■「明治23年説」の問題

 明治23年に、秋葉原駅(秋葉原貨物取扱所)のひらがな駅名が「あきはばら」と登録されていることは、官報を基礎資料とした『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』(JTBパブリッシング )などで確認できる。計画段階では「アキハノハラ」などの候補もあったようだが、秋葉原駅は明治23年時点、開業当初から「あきはばら」であったことは確かなようだ。

-------- 2008年2月6日訂正

yasuoka の日記 アキハノハラかアキハバラか (2008 年 01 月 28 日)及びyasuoka の日記 アキハノハラかアキワノハラか (2008 年 02 月 05 日)の御論考によれば、ローマ字読みでAKIHANOHARA・もしくはAKIWANOHARAという表記が確認できるそうだ。

設立当初の読み方は「秋葉原」駅と書いて「あきはばら」ではなく「あきはのはら」駅だった、という可能性が高い-少なくとも「一般的な読み方」としては-、ということだと思う。

ゆえに上の一文「秋葉原駅は明治23年時点、開業当初から「あきはばら」であった」は削除して訂正させていただく。

ただ、幸いな事に、「アキバ」説に対する反証のひとつとなることなので、以下の自説は変わらない(^^;)
-------- 2008年2月6日訂正

だが;

  1. 一般の乗客が使うわけでもない、たかが貨物駅の名前の発音がアキハバラかアキバハラかなんて事、そんなに問題になるものだろうか?

     確かに秋葉原貨物取扱所は、地平鉄道問題の悪評、後には物流の一大拠点としては知られていたようだ。だが、テレビやラジオなどの音声マスメディアがあった時代ではない。前にも言ったが「秋葉原」という表記自体は「アキハハラ」とも「アキバハラ」とも無理なく読めるわけだから、音読されるかフリガナが振られて初めて「ヘン」だと認識できるのである。
     大正時代にいたっても、新聞などでは「秋葉ケ原停車場」のような本来の駅名とは違う表記が普通に使われているのだから、貨物駅時代に一般人の「アキハバラ」という駅名の「読み方」の認知度がさほど高かったとも思えない。

     前に引用した永井荷風のイヤミが大正15年のものであることに注意されたい。明治23年前後の時点で、問題視されるほど「アキハバラ」という駅名が一般に認知されていたとしたら、遥か後年の大正15年に、わざわざ『秋葉ケ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり』などと書くだろうか?
     その他の「アキハバラ」批判をみても、三田村鳶魚の随筆は昭和5年、山本笑月は昭和11年、笹川臨風のは昭和21年と、いずれもかなり後年の、旅客駅となって「アキハバラ」という駅名が一般化していたと考えられる時点のものである。

  2. 東京新聞の記事では「鉄道省の役人」という記述をしているが、明治23年には鉄道省という役所は存在していないのである。

    鉄道省が出来たのは30年も後の大正9年。明治23年は未だ内閣鉄道寮(鉄道局)か内務省鉄道庁の時代だ。根本的に「ちゃんと調べてんのか?」という疑問がわく。

     仮に鉄道局か鉄道庁の誤りと好意的に解釈したとしても、国策会社とはいえ"私鉄"であった日本鉄道会社の駅名を「役人」が「反対を押し切って決めた」、という主張には違和感がある。

  3. さらに違和感を感じるのは、以前書いたとおり、開業当時には「地平鉄道」問題で政府・区議会を巻き込んだ大バトルが繰り広げられていたという事実があることである。

     建設中の路線を廃止しろ・しないで大紛糾してる時に「駅名がアキバハラでないのはおかしい!」なんて言い出す奴がいるだろうか?「空気読め」といわれるのがオチなんではあるまいか。
 念のため、明治21年から明治24年の『明治ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ)を参照してみた。この地平鉄道廃止問題に関する記事はもちろんあるが、駅名に対する抗議運動らしきものがあったような記述は見つからなかった。
 アキハバラ駅開業から10年たった明治33年発刊の『新撰東京名所図会 神田区之部』には『日本鐵道會社秋葉原貨物取扱所』の項があり、駅の由来から運賃、取り扱い運送屋の電話番号に至るまで詳細に紹介されている。ここにも地平鉄道廃止問題に関する記述はあるが、駅名をめぐってモメたような話は一切書かれていないのである。

■「昭和7年説」の問題

 昭和7年説は、貨物駅ではなく一般人が使うようになって問題が顕在化した、と考えれば明治23年説より無理は無い。
 だが、秋葉原駅が旅客駅としての機能を持ったのは大正14年なのである。
 6年も前から駅名は変わらず「秋葉原駅」だったわけで、一般人の目にも触れていたはずだ。例えば荷風の批判は大正15年のものである。
 乗り継ぎ駅化したとたんに問題が顕在化し、抗議運動に火がついたのか? という疑問が湧く。
 『昭和ニュース事典』から当時の新聞記事を見てみよう。
御茶の水ー両国間の開通祝賀会 (昭和7年7月1日 東京朝日夕刊)

 七月一日開業のお茶の水・両国間高架線の開通祝賀会は、三十日午前十時から秋葉原駅三階ホームで行われた。同駅を始めお茶の水、浅草橋、両国の各駅はいろとりどりの小旗に飾られ、脚無鉄橋には「祝開通」の大文字をはりつけ、更に沿線民家には紅白の幕を張り回してお祝い気分横溢。久保田次官を初め本省各局課長、改良事務所員、東鉄職員等多数が、五十尺の新ホームにニコライ堂と国技館を見下ろしながら、ビールとサンドウィッチに完成の喜びを見せていた。試乗電車は特に五輌を連結して、東京の屋根の上をゴウゴウと行ったり来たり。新井東鉄局長など、珍しがる貴衆両議員を相手に大得意であった。
中央線と総武線を結ぶ新動脈(昭和7年7月2日 中央商業夕刊)

 帝都の新動脈、中央線お茶ノ水と総武線両国との連絡線は一日、賑やかに開業した。午前四時二十五分お茶ノ水発、両国駅発は、同四時二十四分で双方から運転の封切りをした。この一番乗りを目ざして徹夜で駅前に立て籠った熱心家もいたが、新駅浅草橋のナンバーワンは横浜市中区本牧の中山さんであった。午前十時までに秋葉原乗降六千二百名。うち見物半分でエスカレーターを使用したもの約一千名であった。
(中略)
 早朝から秋葉原駅構内で設けられた開通祝賀会の煙火(はなび)のとどろく中を、乗客はぞろぞろと繰り込む賑わいを呈した。
 お祭り騒ぎである。

 紅白幕まで張り巡らせて協力した住民が、「やっぱり駅名が気に入らないからアキバハラに変えろ」なんて反対やら抗議やらするものだろうか?
 前述のごとく昭和7年の時点では秋葉原駅はとっくに旅客運転を始めていて、総武線開通で乗換駅化しただけなのである。新駅である隣の浅草橋ならいざしらず、いまさら駅名がどうこう言うタイミングであろうか? 神戸大学新聞記事文庫でも、大正期には多い「秋葉ケ原」表記が昭和期に入るとまったく見つからないことを考えても、既に「アキハバラ」は定着していたとみるべきではないか。

■「大正14年説」

 明確に主張しているページは見当たらなかったが、消去法でいくと、シナリオとしては大正14年頃というのがいちばん納得できるのである。
 貨物駅当時は知名度も低く問題ではなかったが、一般客が使うようになり駅名の周知が進む。で、「おいおい、アキハバラじゃなくてアキバハラだろうが」「でも、明治23年から使ってる駅名なんだし今更言われても」みたいな。

 明治39年に日本鉄道会社は国有化されているし、鉄道省もちゃんとある。これで「鉄道省の役人」もばっちりだ。大正末~昭和初頭の荷風・鳶魚・臨風らの批判も年代的にしっくり収まる。

 つまり、明治23年説や昭和7年説に比べると無理がないのだ。

 だが、困ったことに神戸大学新聞記事文庫『大正ニュース事典』の大正14年前後の新聞記事には、上野からの高架化に伴う沿線の用地買収でモメたらしき記事はあるが、「駅名の抗議運動」らしき記事は見当たらないのである。
 また、荷風・鳶魚・臨風らの批判は、確かに年代的にはしっくりくるのだが、その中に「抗議運動」らしき事に関する記述が一切ないのも妙な話だ。大正14年~昭和初頭に「駅名を本来の読み方に改めてほしいとする地元住民の運動」だの「猛烈に抗議」だのがあれば、誰か(特に鳶魚)触れていてもよさそうなものだが。


 柳田国男『水海道古称』(昭和26年)に以下のような記述がある。
 東京市中の駅名のアキハバラなども、鉄道でそういうから誰も争わないが、明治初年に始めてこの地名の出来たときは、アキバガハラだった。
 『鉄道でそういうから誰も争わないが』。
 これをどう考えるべきか。柳田国男が単に、駅名でモメたことを知らなかっただけなのだろうか?

 様々なWebページや出版物に「アキハバラという駅名は田舎者の役人が地元の抗議・反対を押し切って勝手に決めた」という趣旨のトリビアが書いてある。

 書いてはあるが、その「秋葉原駅」というのは、明治23年の貨物駅なのか、大正・昭和になってからの旅客駅なのか、いったい「いつ」の「秋葉原駅」なのか書いていないものも多い。-書いてる人は、いったい何時ののつもりなのだろう?

 年代を特定しているWebページ・文献でも、俺が目を通せた範囲では、この「鉄道省の田舎者の役人」→「抗議」の経緯がそもそもどんな史料に書いてあることなのか、情報の元が書いていないものばかりなのである。
 『地方出身の鉄道省の役人が反対を押し切って決めたといわれ、神田の江戸っ子たちに大変不評だったという…だから、そう「いってる」のは誰やちゅーねん。
 出所不明の伝聞で新聞記事なんか書かれても困るんだが(笑)。

 結局、素人の俺にはこの「反対」だの「抗議」だのを示す史料を見つけることができなかった。
 年代あいまい、関係者の名前もなし、情報源も不明では、いったい何を手がかりに調べたらいいのかさっぱりわからない。こちらのページで紹介されている高田馬場問題のように『戸塚町誌』といった具体的な資料名があると検証もできるのだが。

 要するにこの話、すごくアヤシいのだ。

 実を申さば現時点では、そもそも本当にそんな「反対」運動や「抗議」があったのか? もしかしたらこの「ストーリー」は『友達の友達が言ってたこと』レベルの話が針小棒大に膨らまされてるんではないか…と少々疑っている。

 「アキハバラ」という駅名に文句がある人々がいたのは事実だ。それは荷風や臨風みたいなハードコアな証拠があるのだから間違いない。地元住民の中にだって文句を言ってた人はいただろう。今だって文句言ってる人がいるのだから(笑)。
 ちなみに、昭和7年説には上で疑義を呈しておいたが、 昭和8年発行の『大東京写真案内』では、”アキバハラ”という表記になっている。これは観光案内の類の書籍なので、「駅の正式名称」のままなのかどうかは今のところ判断できないが、後年まで”アキバハラ”派の人がいたであろうことは類推できる。

 だが、「神田っ子の猛烈な抗議」だの「反対を押し切って」だのという衝突が本当にあったのか?
 「アキハバラ」と誤読した「田舎者の役人」、「反対を押し切った」り「突っぱねた」りした「役人」というのは本当に存在するのだろうか

 「田舎者の誤読」というが、もともとの読み方も「アキバガハラ」ひとつだったとは思えないということは前回・前々回述べてきたとおりである。
 「抗議」したという「神田っ子」たちは、いったいなんと変えろと主張したのか?
 この説を紹介している書籍・Webページからして、「あるべき駅名」は「アキバノハラ」だったり「アキバガハラ」だったり、一定していないのである。

 この経緯に関する信頼に足る史料が存在するのなら、何故年代すら一致しない曖昧な「説」が並列しているのか? もしかしたら史料そのものが存在せず、『知り合いの爺さんが言ってたけど』的な単なる伝聞しかないのではないか…? もっと言ってしまうと、荷風らが「田舎漢」と批判したことや、地平鉄道に纏わる現実の抗議運動、高架化の時の土地買収での係争などが、いつの間にやら曲解と拡大解釈へ経て「物語化」したんではないのか、という気さえしているのである。

 根拠が薄弱なものであるのなら、「庶民の意思を踏みにじる田舎者の役人の横暴」という耳に快い物語として歴史を語るのは、公平なこととは思えない。

 ということで、この経緯-特に住民の反対「運動」-の原資料、ご存知の方は是非教えて欲しい。いや、マジで。

 確認できればすぐにでも自説を撤回する用意はある。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-07 10:40 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(1)

秋葉原-発音の問題2:「アキハ」がマズかったのか?

 前回、「アキバ=下町訛り」という説に疑問を呈しておいた。

 何故この「アキバ=下町訛り」説に拘泥しているのかというと、「アキバ=下町訛り」という予断があると、「アキハバラ」という駅名に対して当時の人が感じた「違和感」を正確に理解できなくなる恐れがあると思うからだ。

 「アキハバラ」に違和感を感じ、批判した人がいるのは事実である。

 以前にも引用した山本笑月(深川っ子)。
こんな工合で秋葉の原は最後の賑わいを見せたが、二十一年貨物駅の敷地となって今はアキハバラ。
わざわざカタカナで「アキハバラ」と書いているところをみると、違和感を感じているようだ。
 笹川臨風(末広町)も、
秋葉つ原は、今ではアキハバラと変な田舎流の読み方をしてゐる
と文句をいい、小石川生まれの永井荷風にいたっては『断腸亭日乗』(大正15年7月12日)で、ばっさり。
烏森より高架線にて上野に往く。秋葉ケ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり
 さて、彼らが感じている「変な田舎流の読み方」とは、何のことなのだろう?

 ぜひ「アキバ=下町訛り」という予断を抜きにして考えてみてほしい。

 「秋葉原」という表記の"読み"が「アキハバラ」なのか「アキバハラ」なのか、あるいは「アキハハラ」なのかは、振り仮名が付いていないとわからない。そのまんま東国原宮崎県知事の例からすると、もしかしたら「アキババル」というガンダムに出てきそうな読み方の可能性もある(笑)

 いやいや、(笑)事ではない。
 「秋葉っ原」という表記は、「アキバッパラ」かもしれないが「アキハッパラ」とも無理なく読める。
 「秋葉の原」も、「アキハノハラ」「アキバノハラ」だったら、殆どの人が無理なく読める範囲と認められるだろう。

 例えば荷風は「アキハバラ」ではなく、どう読めば納得したのか? 荷風自身は「アキバハラ」が正しいとは一言も書いていないのだ。
 この荷風の一文、実はこれに続けてもう1センテンスあるのである。
 高田の馬場もタカダと濁りて訓む。
 つまり荷風は、
「アキハバラだのタカダノババなんて変な濁りで読みやがって。アキハガハラでタカタノババだろうが」
と言いたいのかもしれない、ということだ。

 荷風が「秋葉ケ原に停車場」の部分にルビさえ振ってくれりゃあこんな憶測はしなくて済むのだが、この文章からは彼が「アキハガハラ」と読んだのか「アキバガハラ」と読んだのか、判断のしようがない。

 ここで、「秋葉はアキバと読むのが下町訛り」という予断があると、「ははぁ、荷風はアキハが気に入らないのだな」→「つーことは荷風的に望ましいのはアキバハラ」という連想になりがちである。俺が「訛り」か否かに拘ったのはこのためなのである。

 「秋葉」を「アキハ」と読むとすれば「秋葉ヶ原」は「アキハガハラ」が自然だ。
 もしも荷風が「アキハガハラ」と読んでいたとしたら、むしろ「アキハハラ」の方が荷風の意図に近いかもしれないではないか。
 予断に基づいて「アキバハラ」などといったら
「アキハガハラもアキバと濁りて訓む。田舎漢多し」
と荷風に笑われるかもしれない(笑)。

 臨風の方も同様である。
 『今ではアキハバラと変な田舎流の読み方をしてゐるが、昔は秋葉の原、普通に秋葉つ原と呼んでゐた』
 荷風同様「秋葉の原」にはルビが振っていないので、臨風がなんと発音していたのかは字面からは判断のしようがない。
 残念ながら本書は原著が入手できず、『東京文学地名辞典』からの孫引きなので全文の確認はできていないのだが(2008/05/22訂正。昭和21年版の原著が確認できた。残念な事にフリガナはやはり振られていなかった)、もしも臨風の読み方が「アキハノハラ」「アキハッパラ」だったとしたらどうだろう。
 最善は今までの読み方どおり「アキハノハラ」だけど「アキハバラ」を認めるくらいなら「アキハハラ」でもOK、って可能性はないだろうか。

 「秋葉は訛りで必ずアキバになる」という前提を取っ払うと、違う可能性に思い当たる。

 つまり、「アキハ」「アキバ」がプライマリな問題なのではなく、「原」の読み方のほうが大きな問題だったのかもしれない、ということである。

 「戦場ヶ原」「関ヶ原」「青木ヶ原」「高天ヶ原」を「センジョウガバラ」「セキガバラ」「アオキガバラ」「タカマガバラ」と読んだら、「違和感」がないだろうか。

 「アキハ・アキバ」はどうでもいいが「バラ」という濁りが気に入らない。
 「原」をバラと読ませる地名は東京周辺では珍しく、イナカに多い(栃木-塩原「しおばら」福島-桧原「ひばら」、岡山-恩原「おんばら」宮城-初原「はつばら」山口-丸尾原「まるおばら」etc)。「アキハバラ」もきっとイナカ者が命名したのだろう。

 荷風らが言いたいことは、そういうことではないのか?

 と、ここまで書いたところで、幼少期を岩本町で過した三田村鳶魚の随筆『秋葉ばら』(昭和5年)所載の『江戸の旧跡江戸の災害』が届いたと近所の本屋から電話。
 これ、必読書と分かってはいたし、絶版でもない文庫なので簡単に入手できると思っていたのだが、なぜか手近の本屋には置いておらず、やむなく注文しておいたのである。

 一読、ガッツポーズした(笑)
 『秋葉ばら』という題からうすうす想像はしていたのだが、上で俺が推測したこととほぼ同様の趣旨が書かれていたからである。
今日の駅名は、本来なら花園町というべきはずなのだが、当時から通用の悪い町名だけに、耳慣れて知れやすい方(引用者註:「秋葉の原」のこと)にしたのらしい。それなら、何故に「の」の字を倹約したのだろう。タッタ一字で、原をバラと濁らなければ呼べなくもなり、聞えも変なものになった。それでも、秋葉の原と請け取ればいいが、我等などには何のことか分からない。倹約のムズカシイのは、ここにも証拠がある。ただ「の」の一字で、原をバラと読まなければならなくもなり、原称が不明にもなる。分かりましたか。
 鳶魚もプライマリには「アキバ」か「アキハ」かに拘っていない。「の」を削らなければよかった、なぜなら原をバラと変な風に読まなきゃいけなくなったから、というわけだ。
 文庫版のルビは「アキバノハラ」なのだが、鳶魚は少なくとも「アキハが変」とは一言も言っていない。問題視しているのは「アキハ」ではなく「バラ」の方なのではないか。
 推測でしかないが、もしも駅名が「アキハハラ」だったとしたら鳶魚も積極的には文句をつけなかったかもしれない。

【2013/03/26追記】
この「秋葉ばら」であるが、近デジの『江戸の実話』(昭11)でオンラインで読めるようになった。例の「悪魔町」なども詳述されているのでご参照願いたい。
尚、この本の中では「秋葉」はすべて「あきは」とフリガナされている(あきはごんげん、あきはしゃ、あきはのはら)ことを付言しておく。

 念のために繰り返すが、俺は何も「秋葉をアキバとは読まなかった」と主張しているのではない。確たる証拠は無いが、俺もおそらく「アキバノハラ」「アキバッパラ」という読みが、語感・言い易さの点から大勢だったろうと思っている。荷風も臨風も、実際には「アキバガハラ」「アキバノハラ」と読んでいたのだろう。

 だが、「アキハノハラ」「アキハッパラ」と濁らず読んでいた人もけっこう多かったのではあるまいか。前回見たように、神田の近所のアキハ横町の存在、「アキハノハラ」と濁らないルビが振られた文献、土岐善麿の証言、などの傍証はいくつかある。

 「アキハバラ」に対して違和感を呈する人がいるのは、「アキバでないから」ではなく、「原をバラと読む」例が東京では皆無だったからではないか。

 と、これが現時点での俺の推測。

 次回は「アキハバラ・アキバハラ」にまつわるよく聞く話、「本来はアキバハラだったのにアキハバラは田舎者の役人が反対を押しきって命名。地元の神田っ子は猛抗議したが結局ダメだった」という話に関して考えてみる。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-06 09:17 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(2)

秋葉原-発音の問題1:「アキバは下町訛り」というのは本当か?

 世の中は澄むと濁るで大違い、ハケに毛がありハゲに毛が無し。

 「秋葉原」の語源に関して、例えばwikipediaの秋葉神社 (台東区)の項では
秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除け地(空き地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。
牧太郎二代目・日本魁新聞社BLOG 2006年8月23日
鎮火社が出来てから、この「秋葉の原」を「秋葉大権現」と勘違いする向きが多くなったのだろう。「あきば」は江戸下町訛り。秋葉大権現では「あきは」である。「あきば」と「あきは」は違う。
(中略)
官僚は新しく出来た駅の名前を「あきはばら」と読ませた。下町訛りの「あきばはら」を無視したのである。本来は「あきばはら」である、と亡くなった母は盛んに力説していた。
 などとする文章がある。

 さて、「秋葉」という文字を「アキバ」と読むことが「訛り」だろうか?

 言語学的定義は知らないが、一般に「訛り」といえば、「東」を「しがし」と、「社長」を「ひゃちょう」と読むなど、<標準的な発音>とは異なる発音の仕方という意味である。
 確かに秋葉山本宮秋葉神社の「正しい」読みは「アキハ」なので、「アキバ」は「間違った」読みである。だが、漢字表記「秋葉」を「アキバ」と読むことは<標準>から逸脱した読み方であるとは言えないのではあるまいか。

 やはりこれは「訛り」ではなく、「誤読」等というべきなのではないか。

 …とまあ、こういうのは揚げ足取りの言いがかりに近いか(笑)。
 だが、この「秋葉は下町訛りでアキバと発音した」という話、いささか問題があると思っているのである。
 この話、断定できるだけの根拠があるのだろうか?

 この「アキバ=下町訛り」説は、『下町では"秋葉"は常に"アキハ"ではなく"アキバ"と読まれた』という認識を含意している。

 ところが、神田のすぐ近くに、秋葉と書いてアキハと読んだ町名があったらしいのだ。
明治41年発行『新撰東京名所図会第五十二編』の『下谷區の部 其二 池之端七軒町』の項;
○秋葉横町
 里俗北側の横丁を秋葉横町(あきはよこちやう)と呼ぶ。
 府内備考に云、七軒町の内、東側中程より池の端へ曲り候横町の儀を秋葉横町と里俗に唱候儀は、右横町右側に慶安寺と申禪宗寺有之、右境内に秋葉社有之候、右故唱来候儀に御座候。
 慶安寺という曹洞宗のお寺がかつては上野池之端(不忍池のほとり)にあり(大正二年に現在の杉並区に移転)、『老中阿部豊後守忠秋が本尊虚空蔵菩薩、秋葉権現を寄進。それで秋葉寺、秋葉横丁、紅葉寺などと呼ばれた』のであるが、どうもこの秋葉横町は「アキハ横町」と読まれたらしいのである。
 上の『名所図会』の原文には振り仮名が振られているのだが、「あきはよこちやう」となっている。ルビの活字の問題かと思ったが、同じページにある「不忍池」のふりがなには「しのばずいけ」と振られている。どう見ても「ば」「は」は別のルビ活字である。

 江戸~明治に池之端の秋葉横町をアキハ横町と読んだすれば、「江戸っ子だったらアキバでぇ」みたいな説は少々あやしく思える。
 「池之端は上野のお山の上だ。下町じゃない」と言われると確かにそうかもしれない。だが、湯島天神のすぐ隣、秋葉原から1キロちょっとしか離れていない場所である。江戸ー明治当時でも、それほど生活環境が違ったようにも思えないのだが。

 高輪の「白金」、神田の「白銀町」はどちらも「しろかね」と濁らない振り仮名を使った文芸作品が多数確認できる。
 今ではほとんどの人間が「こまがた」と濁って発音している「駒形」も、明治期の文章では「こまかた」とフリガナしてあるものが見受けられる。夏目漱石『彼岸過迄』芥川龍之介『大川の水』)、その他

 「しろかね」「こまかた」はどちらも鼻濁音なので「アキバ」と単純には比較できないが、「秋葉の原」も調べてみると、「アキハ」というフリガナが確認できるものもいくつかある。
 以前引用したとおり、森鴎外『雁』(明治44)は「アキハ」である。
 三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』でも
根津七軒町の喜連川(きつれがわ)様のお屋敷の手前に、秋葉(あきは)の原があって、その原の側(わき)に自身番がござります。
 極端な例として、『東京名所図会』(原田眞一、明治二十三年)では、『秋葉原』という表記に対して『あきハの』というひらがなカタカナ混在のフリガナを振っている(『原』にはフリガナなし。記述は鉄道建設計画時点のもの。まだ秋葉原駅は出来ていない)。

 確かに文学作品や観光ガイドの例では著者が「実際の読まれ方」を反映して表記したなどと断言は出来ない。
 だが、生の証言の例もある。
 ひつじ書房『東京弁は生きていた』に浅草育ちの土岐善麿のインタビューが載っている。
 秋葉原の読みを問われた善麿翁、断言して曰く「アキハッパラですね」

「浅草」も「下町」じゃないといえばその通りだが、それは些か狭量に過ぎないか。

 確かに「秋葉つ原」「秋葉ノ原」「秋葉ガ原」と<表記>されたことは文献で容易に確認できる。
 だが、それらが「下町訛り」によって、必ず「秋葉」が濁って「アキバ」と、「アキバッパラ」「アキバノハラ」「アキバガハラ」と発音された、などと断言してしまっていいのだろうか?
 「アキハッパラ」「アキハノハラ」「アキハガハラ」と濁らずに発音された-即ち、「アキバ=下町訛り」説の基準では「訛って」いない例も少なからずあった、とみるのが妥当なのではないか。

 個人的キモチでは、『正しくはアキハだが、下町訛りでアキバと読んだ』などと断定口調で言われると、「もしかして下町の人間全員が、ホントはアキハと知ってたとしてもアキバと読むような馬鹿もしくは言語能力的に不自由な連中だとでも思われてんのか?」と軽く腹立たしくもある(笑) 「アキハ」と知ってりゃあ「アキハ」と読むだろう、普通。

 「アキバ=下町訛り」説にいくつか疑問を呈したが、誤解しないで欲しいのは、俺は「アキバと発音されたのではない」と主張しているのではない、ということだ。
 「アキバ=下町訛り」説に内包されている「秋葉は常に"アキハ"ではなく"アキバ"と読まれた」という予断、俺が問題視しているのはこの『常に』の部分である。
 実のところ俺は、この「予断」があるから、ここから展開される論理そのものがおかしくなってるのではないか、と思っている。

 冒頭で引用したwiikipedaの文章も牧太郎二代目氏の文章も、「下町訛りでアキバなので、、駅名のアキハが問題になった」と読める。

 これ、本当にそうなの? というのが次回のネタ。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-05 09:05 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

秋葉原-表記の歴史:「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」…?

wikipediaの秋葉原駅の項より
地名としての秋葉原の読みは、駅の開業までは「あきばがはら」。古くは「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼ばれていた。現在秋葉原は通称「アキバ」と呼ばれることが多いが、これは偶然だが昔の呼び方に近い。
 これが通説・定説のようである。

 『秋葉原』という地名を表すのに、どのような表記が使用されてきたのか、調べられるだけ調べてみた。

  • 「秋葉の原」(秋葉ノ原)
     既に見てきたように、山本笑月や森鴎外などの随筆・文学作品、当時の新聞記事などでも「秋葉の原」は使用されており、この表記が通用していたことは間違いない。

     明治20年発行(17年頃の測量)の地図『東京5千分の1』で「秋葉ノ原」という記述があることは既に書いた。特にこの地図では「字秋葉ノ原」と「字」付で表記されており、明治20年頃(火除け地としては末期の、行楽地化していた時代)には、「秋葉の原」はある程度公的に通用していたのではないかと思われる。

  • 「秋葉っ原」(秋葉ッ原)

     さすがに「秋葉っ原」というざっかけない表記は公式文書の類では見当たらないが、文学作品では言及がある。
    笹川臨風『明治還魂紙』(昭和21年)
    秋葉つ原は、今ではアキハバラと変な田舎流の読み方をしてゐるが、昔は秋葉の原、普通に秋葉つ原と呼んでゐた。神田佐久間町の附近で、一面に広漠の原、秋葉権現の社があるので、俚俗之を秋葉つ原と称する。
     残念ながら原著は未入手。以上の文章は槌田満文『東京文学地名辞典』(昭和53年版)より孫引き。(2008/05/22追記。原著を確認することが出来た。内容は同じだった)
     笹川臨風は明治3年神田末広町生まれ。書かれたのは昭和21年と最近(笑)だが、上記文章は小学校時代を回想したものとの由。とすると明治10年代、広漠の原というからには遊興地化する以前であろうか。

    定本 艶笑落語〈2〉艶笑落語名作選の中にも演目『秋葉ッ原』が見える。

  • 「秋葉が原」(秋葉ケ原/秋葉ヶ原)

     まずは文学作品から。
     泉鏡花『幻往来』(明治32年)
     秋葉ケ原あたりで轟々といふ汽車の響。見附の人通も、ちらほら、夜は未だ然までに更けては居らない。
     大正~昭和初期の鉄道関連記事を纏めている神戸大学新聞記事文庫を検索してみると、「秋葉ケ原」(「秋葉ヶ原」)と記述している大正時代の新聞記事がいくつか見つかる。

    歳末財界概観 (上・下) : [大正二年末の金融市場 其二] 時事新報) 1913.12.16-1913.12.17 (大正2
    尚お秋葉原駅を見れば不信の状況一層歴然たるものあり即ち左の如し
    十、十一月末は外米輸送の為め秋葉ヶ原開設以来未曾有の盛況なりしに比しては十二月が昨年同期と殆んど径庭なきが如き之を不振と称するも
    年末の運輸状態 : 全線の滞貨約四十四万噸 汐留秋葉ケ原はそうでもない (中外商業新報 1917.12.9 (大正6))
    秋葉ケ原駅でも大体同様の状態で日々の着車か五十噸位少い位のものである
    無賃輸送の第一日 : 効果直に現わる秋葉原駅 : 前夜来米二千噸の発送申込 : 野菜などは逆輸送の珍現象 (読売新聞 1919.7.25 (大正8)
    此の日神田秋葉ヶ原貨物駅に就て米その他の食糧品の発着を訊くと杉本駅長は語る
    特別小口扱に必要な諸設備 : 全国重要駅に施す : 鉄道省の新計画? (大阪朝日新聞) 1926.12.24 (大正15)
    しかして全国から選定された駅は左の如くで、半数は未決定の分その他である
    本州の部 汐止、両国、飯田町、田端、秋葉ケ原
     秋葉原貨物取扱所(秋葉原駅)が出来てからかなり時間がたった頃の記事だが、ひとつの記事の中で「秋葉原」「秋葉ヶ原」を混用しているところをみると、「秋葉が原」は慣用として定着していたようである。
     この記事データベースの大正・昭和期の記事からは、逆に「秋葉の原」は見当たらない。大正のマスコミは「秋葉が原」派だったのかもしれないが、大正期には「秋葉が原」の方が通りがよくなったということも考えられる。
     また、この記事データベースでは、昭和期の記事からは「秋葉が原」表記が見当たらないのもおもしろい。大正14年の旅客扱い開始で「秋葉原」という駅名が定着したからではないか。

  • 「秋葉原」

     「が・の」無しの「秋葉原」表記は、貨物駅開業のという説が一部にある(冒頭のwikipediaの記事『駅の開業までは「あきばがはら」。』)が、実際には表記自体は、秋葉原駅設立前から使われていたようだ。

     例えば、前出のチャリネ曲馬団の活躍を伝える明治19年9月3日の朝野新聞記事。
    チャリネ大獣苑曲馬は、外神田秋葉原にて一昨日より興行せしが、獣苑及び曲馬場はすべて天幕を以って蔽い、
     東京市史稿・市街篇第73-001『上野・神田佐久間河岸間貨物鉄道敷設認可』(明治20年)に、日本鉄道会社社長、奈良原繁から東京府知事に宛てた工事仕様書が掲載されているが、その中にも『河涯(秋葉原河岸)ニハ神田川ト凡ソ八拾度ノ角度ヲ以テ』という記述がある。
     建設申請の仕様書なので当然この時点では公式には「秋葉原」駅(秋葉原貨物取扱所)は存在しないが、「秋葉原」という表記は公文書上でも使用されていたことになる。
     「ノ」や「ガ」の意図せざる脱字、あるいは『秋葉原』駅という名前は既に日本鉄道内部では決まっていたため、という可能性はあるが、社長から府知事宛の公文書であるので脱字の可能性は低いように思えるし、文脈からすると単なる地名として使っているように読める。

     市街篇第80-560『日本鉄道株式会社、上野・秋葉原間ノ運輸ヲ開始ス』(明治23年)の項には、日本鉄道から府知事宛の開通届け(73-001『鉄道布設願』と同じ奈良原繁名義だが、肩書きが『社長』ではなく『社長代 理事委員』になっている。もしかして降格か?)と、明治23年11月1日・2日の、上野・秋葉原間の開通を報ずる『時事新報』記事が記録されている。
     開通届けは「上野・秋葉原間」とあるが、記事の方は「上野・秋葉間」「神田秋葉ノ原」「秋葉停車場」などが混用されている。


 考えてみれば「ナントカ○原」の○に入るのは、「の」か「が」か「っ」、それから「の」が訛って「ん」、くらいしかない。
 結局のところ、表記上は「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」「秋葉原」「秋葉」、ほとんどのパターンが登場しており、なんでもアリだったのではないかと思われる(笑)。

 統計的な確認はできないが、wikipediaの記述のあるような、初期には「秋葉の原」・「秋葉っ原」、その後「秋葉が原」・「秋葉原」などが使われるようになったらしき傾向は見て取れる。

 実はこの「事実上なんでもアリだったのではないか」という推測は、この後の俺の思考の方向性を決めるきっかけになったのである。

 「『アキバガハラ』でないとダメだと抗議活動があったみたいな話があったけど、こんなに色々な表記があるのに、コレでなきゃダメなんて<抗議>、ほんとにあったのかな? それも調べてみようかな」

 人はこうして泥沼にはまる(笑)

 で、次回以降、この話について調べてみようと思う。
 「表記」に関しては大体わかった。次は「発音」の問題を調べてみる必要がある。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-01 11:27 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)