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秋葉原-貨物取扱所【秋葉原駅】(明治23年~昭和7年)

 明治19年のチャリネ曲馬団の興行から数年後、庶民の行楽地だった「秋葉の原」は東京府から日本鉄道会社に払い下げられ、明治23年、上野から、秋葉の原跡地に建設された貨物駅まで貨物鉄道が引かれる事になる。
 秋葉原駅の誕生である。

 こと鉄道関係は鉄ヲタエキスパートの方が多数いらっしゃるので滅多な事は書けないし、書くつもりもない(笑)。
 だが、今回自分で調べてみたら、今まで目を通した「秋葉原の名前の由来」では読んだ事がなかった大騒動が起きていたことを知ったので、記しておきたい。


■経緯

  • 明治20年11月17日 上野・神田佐久間町河岸間貨物鉄道敷設認可
  • 明治21年 6月 7日 上野・佐久間河岸間鉄道敷地買上価額決定
  • 明治21年 7月11日 鎮火神社移転地所買上
  • 明治22年 5月17日 上野・佐久間河岸間鉄道敷地買上価額更正
  • 明治23年 1月28日 上野・佐久間町河岸間地平鉄道廃止ノ建議
  • 明治23年 5月24日 廃線訴訟裁判開始
  • 明治23年11月 1日 日本鉄道会社上野・秋葉原間開通
■どんな駅だったのか

 東京市史稿 市街80-560『日本鉄道会社上野・秋葉原間開通』(明治23年11月1日)に当時の『時事新報』の記事が記録されている。
 秋葉停車場は同所(引用者註:神田秋葉ノ原)の中央より少しく西の方に設け、往復二線を挟み数十間の荷物積込場二棟を建築し、場の南端は神田川に面し、此に運搬口二箇所を開き、門を入りし左手には同社運輸課の事務室一棟、又北隅には内国通運会社を始め府下各運送業者の荷物倉庫二棟をい、ろの二号に別ち建設せり。棟行各三四十間、其他運送問屋の事務所あり、人夫小屋及び運送馬車、荷車置場等の配列は都て運搬の便に意を注ぎたるものの如し。
 内国通運会社というのは今の日本通運の前身の国策会社。
開業の明治23年時点ではまだ神田川から引き込んだ小さな港(舟掘り)は出来ていなかったようだ。

 この時代なら駅舎の写真くらい残っていてもよさそうだが、俺には見つけられなかった。
 その手の資料は鉄ちゃん鉄道に通暁している人に譲る。

 かなり後年のものと思われるが、『神田市場史 上巻』(神田市場協会 昭和43年)口絵より、「震災以前の秋葉原貨物駅」とキャプションされた写真を引用しておく。これがここで言ってる秋葉原貨物取扱所と同じ駅舎なのかは不明だが、「震災以前」というキャプションを信じるなら、旅客営業の前の写真ということになる。
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尚、この写真、まったく同一のものが大正14年のものとして紹介されている事もあるらしい。大正14年だと旅客駅になった後の駅舎ということも考えられる。確かに貨物駅にしちゃあ立派で新しいようにも見えるよなぁ。
いったいどれを信じたらいいのやら(笑)。

千代田区立和泉小学校のページでは、かなり初期のものと思しき秋葉原貨物駅の写真が紹介されている(同写真提供の「レオ マカラズヤ」とは神保町の鞄屋さんであるようだ)。

---------------------------- 2/5 追記 -----------------------
「震災前」という記述は間違いである可能性が高い。
『写真集山手線』(立風書房 昭和55年)に同じ写真が掲載されているが、こちらによると「大正14年頃」というキャプションである。よくよく見てみると、左上の方に見えるのは高架のホームのようだ。だとすると、神田ー上野間の高架線開通が大正14年11月1日であるから、その時分の写真ということであろう。
 この写真集には戦前の秋葉原山手線ホームや昭和初期の秋葉原駅内部、高架線の工事の模様など珍しい写真が掲載されている。

また、明治32~33年『新撰東京名所図会 神田区之部』の中に、 和泉小学校のページで紹介されている写真と同じものが掲載されている。
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■秋葉原貨物線の大問題:地平鉄道

 『市街80-560』に記録されている『時事新報』の記事は、いきなり『苦情多かりし彼の上野・秋葉間の鉄道線路工事』と書き出している。
 何がそんなに苦情が多かったのだろう。
 十三箇所踏切の内道路狭隘にして最も危険の場所なる山下及び神田花田町には特に番人三名を置きて運搬汽車通行の際は一々綱を張る事になし、又仲徒町一二三四丁目忍川通り里俗青石横町提灯店の間には木戸を設け、番人二名を置き、其他の場所には一名宛見張りを置く事に定めたりと。
上野迄凡一哩余を十分間の速力にて行進せり。尤も昨日は此一回限なるが、本日よりは日々六回として左の如き定時往復をなすと云ふ。

(ダイヤは省略)
 上野・秋葉原間10分間? 1.2マイル≒1.9キロほどの距離で? 山手線だと御徒町に停まっても4・5分、のんびり歩いてもせいぜい20分くらいじゃないか。時速12キロってのはいくら岡蒸気でもちと遅すぎないか?
僅に一哩程の行進時間に於て十分を消するは甚しき遅行なれども、右は兼て本線の布設工事に就ては苦情の百出したる暁なるがゆえに、注意に注意を重ねて斯く行進時間を緩慢ならしめたるもののよし。猶ほ又線路に当る十三箇所の横切往来には充分なる警戒をなせりとぞ
 街中を走らせたため、危なすぎると苦情百出だったんで、踏切に番人や見張りを置き、わざとゆっくり走らせる、と。
 う~む。確かに、街中に後付で蒸気機関車走らせりゃあ、そういう事になるだろうなぁ。

 実は、計画の当初からこの点は指摘されていたのである。

 市街73-001『上野・神田佐久間町河岸間貨物鉄道敷設認可』の中でも、再三『一般に不便の害を蒙るべき懸念』だの『公衆の安全を妨害する懸念』だの「鉄道なんかよりウチが答申している運河の拡張事業の方がいいってば」だの、内務省や農商課から横槍が入っている様子が記録されている。

 結局、規模縮小などの修正を加えた上で認可はされ、工事が始まったが、なんと開通前から廃止が審議されちゃってるのだ(笑)
「上野・佐久間町河岸間地平鉄道廃止ノ建議」(市街78-896 明治23年1月28日、資料として掲載されている東京日日新聞の記事)

 明治23年1月28日、下谷区会より東京府知事に対し、上野・神田佐久間町河岸の間に建設中の日本鉄道会社貨物線は地平鉄道なるを以って在来道路を切断し交通上の一大障害となるのみならず、火災予防上憂慮すべき点少なからずとし、該線路を廃止せられたしとの建議をなす。
 これより該線路廃止の運動盛んとなり工事一時中断の姿となりたるも、五月に至り閣議は、将来市区改正設計に議定しある新橋・上野間の高架鉄道着工に及んでその一部分たる同社地平鉄道も又高架に改たむることを条件として工事の再開を認む。
 地平鉄道とは高架でも地下でもなく普通の地べたを走ってる鉄道のこと。
上野 秋葉原間鉄道に地元住民反対(明治23年2月23日 時事)

上野、秋葉原間の鉄道に就いては、下谷区に於いて、このほどよりしきりにその布設を危険なりとし、これが苦情を訴うるもの少なからず。現に下谷区会のごときはその決議を以って、該布設を変じ運河を開鑿せしむる事に改めたしとの建議を、その筋に提出せしが、なおまた同区の公民も前同様の意見にて、去る十七日、区会の議事堂に於いて会議を開きたる末、鈴木信仁、宮木経吉両氏外三名を総代に撰定して、これに建言書の起草をも委托し、その筋に建議する事に決定し、
 下谷区会(今で言う区議会)が、「街中横切って交通の邪魔だし、機関車の火の粉で火事になったらどうするんだ! 鉄道なんか廃止して運河を作れ!」という決議を出したのである。
 防火の神様に由来する名前を持つ駅を作ろうって時に、火事を心配されるとは(笑)

 で、とうとう裁判沙汰
廃線訴訟の審査開かれる(明治23年5月25日 毎日)

上野、秋葉原間地平鉄道廃止勧解願の件は、昨二十四日を以って、京橋区治安裁判所に於いて初対審の開廷あり。(中略)願い人は、上野、秋葉原間に地平鉄道を敷設することは、不利と危険と営業上の妨害ある理由を詳申したるに掛り、判事曰く。本件は新聞紙上に於いても、しばしば記載あるを散見したれば、理由ある所は疾く承知せり。
(中略)
元来、被願人に於いては、たとい政府の許可ありたるにもせよ、下谷区三千六百有余人有志者等より、廃鉄道の請願書を差し出し居り、かつ区会市会等の決議の趣きをも知りながら、断わりなく工事に取り掛かる等のことは、穏やかならずと説諭ありて、(後略)
 工事は一時中断の憂き目にあう。結局、将来的に高架にすることを約束して工事再開。

 そんな非難ゴウゴウの紆余曲折の中、ようやく開業したが冒頭のザマだった…というわけである。
--------------------------------- 2/5 追記 ----------------------------
 明治32~33年『新撰東京名所図会 神田区之部』『日本鐵道會社秋葉原貨物取扱所』によると
 而して其列車の進行速度は殆んど人歩するが如く極めて緩慢とす。当初區民の苦情多きより、同社技師長毛利重輔及び取扱所々長村上彰一氏等の如きは、其緩なることを示さんか為め汽罐車の前面に歩行せしことなどありしといふ
カイワレ大根だの鶏肉だの喰ってみせるみたいなものか。
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 もっとも、開業後しばらく立ってからは好意的な記事も出てきたようだ。
荷主も会社も利益大きい(明治24年4月19日 朝野)

上野、秋葉原間鉄道開通後の結果 開通の際、一時非常に世間の攻撃を蒙りたる同鉄道は、その後すこぶる好結果を呈し、(中略)従来牛馬の力を借りて運搬し、高価なる賃銭を払いたるものをば、神田河岸より舟に積み替え、直ちに本所、深川等へ転漕するを得る都合にて、荷主の利益一方ならず。(中略)元来、同会社が割合に多額の費用を投じ、興論攻撃の焦点となるを顧みず、断然開通の運びに至りたるは、その実会社の利益を図らんがためにあらずして、またただ荷主の便益に注意したるまでなりといえり。

 なんだかチョウチン記事くせぇなあ(笑)。

 まあ、根本的に無理のある路線であったことは間違いない。
東京上野高架決定 電車開通十一年初 蒸汽線は十五年中 時事新報 1919.10.22(大正8)によると
 秋葉原貨物停車場は高架線の貫通する処となるを以て現在の状態を維持し難く又現在の秋葉原線は市の道路を平面交叉し交通上の不便及危険測り難きものあり
 従て同停留場設備の変更は勿論同線路も之れを高架とするの要あるは論を俟たず
 又同停留場は若し将来貨物の増加を慮り今日よりも大規模の高架式貨物設備を設けんとせば巨費を要するのみならず敷地買収の為附近関係住民の迷惑多大なるべし
 然りとて同駅は古き歴史を有し且つ市民の物資集散上必要欠くべからさざる貨物駅なるを以て到底全廃するを得ず
 仍て構造は高架式とするも多大の面積を要せずして比較的貨物取扱能力を著しく発揮し得べき設備を施す様考慮を廻らしたり
 斯くの如くするも猶艀取貨物の大部分と陸扱貨物の一部に制限を加うるの要あるに至れるは已むを得ざる処なりと雖も此苦痛は将来越中島線の開通によりて自ら大に緩和せらるべし
 叙上の如く運転上の制限を加え線路□の□少を図るのみならず工事施工上多大の困難を顧みず秋葉原線現在敷地は努めて之を利用することとせり
 この「秋葉原線」というのは貨物線とは別の路線かもしれないが、いずれにしても秋葉原の鉄道事情は大正8年にいたっても、『市の道路を平面交叉し交通上の不便及危険測り難きものあり』だったわけだ。

 明治23年の高架化の約束が完全に果たされたのは、結局40年あまり後の昭和7年になってからだった。

 さて、秋葉原の初期の歴史に関していろいろ調べてみたのだが、そろそろ飽きてきたので纏めに入ろうと思う。

 俺のそもそもの興味の焦点、「アキハバラという呼称」に関する問題を次回以降で。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-29 09:45 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-火除け地、その後の様子は?(明治3~21年)

 どうも火除地というのは本来の目的と機能を失い、だんだんと『公園化』していくのがありがちな事だったようだ(『江戸のファーストフード』大久保洋子『東京都の百年』石塚裕道・成田龍一など)。

 秋葉の原も例外ではなかったようで、昭和10年発行の『神田文化史』(中村薫・神田史蹟研究会)によれば、明治20年前後には見世物興行、食べ物屋、立ち食い屋台、浪花節、居合い抜き、吹き矢といった遊興施設が立ち並ぶ楽天地だった、とされている。

『明治世相百話』山本笑月 中公文庫によると;
 神田佐久間町の秋葉の原といえば、神田ッ子には思い出の多い遊び場所、元は火除地で火防の秋葉神社が祀ってあった(引用者注:だからそれは勘違いだってば)。方二、三町の空地で、最初の貸自転車屋があり、借馬屋があり、花相撲や軽業もときどき興行、チャリネの曲馬も第一回はここで大当り、平素もなかなかの賑わいで、明治二十一年鉄道構内になるまでは全くの平民的遊園地。
 自転車は木製鉄輪で朱塗りの粗末な代物、三輪車、二輪車、そのほか達磨と称する、一輪はずっと大きく後輪は小さいこれも二輪車、よく乗れたものだと我々はただ感心して見物、いつも三輪車で我慢した。借賃は十分間二銭だが、たいていは二、三十分乗ってしまう。達磨の連中はそれで市中へ押し出し立派に乗り回していたが、いま見たらあまり立派でもあるまいが明治十五、六年の話。
 借馬屋は原の西南隅で、軍馬の払い下げみたいのが四、五頭、馬場を四回まわってひと鞍が四銭、主人は騎兵曹長の上りで初心者には丁寧に乗り方を指導。お蔭で私も初めて馬の味を知ったが、最初は馬が心得て、三回もまわるとずるい奴はさっさと小屋へはいりかけ、一回誤魔化そうとする。大体、借馬は乗手より馬の方が利巧のようだ。あるとき外出の客があったが馬ばかり帰って来た。さすがに主人も心配していると、後から乗手が泥だらけになって戻る、なんてえのがちょいちょいあった。
 チャリネの来たのは明治十九年の夏、人テント張りで篝火のような照明が昼を欺く。なにしろ大がかりで動物園そのままの象、虎、ライオン始め見事な馬が十何頭、すばらしい曲馬や曲芸に東京ッ子の眼を驚かして大した景気。十月ごろ築地の海軍原へ移って第二回、ここでは暴風雨にあってテント破損の大痛事。最後は浅草公園の六区でまた盛況、こんな工合で秋葉の原は最後の賑わいを見せたが、二十一年貨物駅の敷地となって今はアキハバラ。
チャリネというのはイタリアの曲馬団(今で言うサーカス)の興行師。本名のChiarini(キアリーニ)を変読したのだな。明治19年9月1日から秋葉の原で興行を打ち、大好評で延長興行、皇居吹上御苑で皇族方にもお見せしたとか。

伊太利亞國チャリネ世界第一大曲馬遊覽之圖
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 余談だが、笑月の文章には『最初の貸自転車屋』すなわち「レンタサイクル発祥の地」であるかのような記述があるが、時期が書いていない。
 『明治ものの流行辞典』柏書房によると、明治9年の『花都女新聞』に上野広小路で三輪自転車を借りて広小路一周で1銭5厘、との記事があるそうだ。笑月の言うとおりだとすると秋葉原に貸し自転車屋が出来たのは明治9年以前の話ということだろうが、これは確認できていない。明治20年5月14日付け毎日新聞(明治ニュース事典No3所載)には
 自転車は近頃しきりに流行し、神田秋葉の原、下谷佐竹の原を始め各町の同貸車は、車の引き足らぬほど忙し。殊にこの頃は乗客が達者になりたれば、三輪車は乗り手尠なく、重に二輪車の大形を好む由にて、同車製造の註文陸続あり。賃貸は上等三輪車、二輪車一時間およそ四、五銭なりと。
とあり、明治20年頃には各地で貸し自転車業が営まれていたようである。

 この当時の秋葉原への言及がある文学作品もいくつかある。

森鴎外『雁』(明治44年)にも
この娘が玉(たま)と云う子で、母親がなくて、親爺(おやじ)と二人暮らしでいると云う事、その親爺は秋葉(あきは)の原に飴細工(あめざいく)の床店(とこみせ)を出していると云う事などを知った。
なんて記述があるし、現代の作だが当時を舞台にしている山田風太郎の『警視庁草紙』には
 秋葉原はそのころまわりは草ぼうぼうの原っぱであった。―そもそも秋葉原という名がこのときから六年ほど前に出来たもので、明治二年ここを火除地とし、火伏せの神遠州秋葉神社を勧請したことから発生したものだ。だから語源的には、現在通用している「あきはばら」の名はまちがいで、「あきばはら」と呼ぶのが正しいだろう。
昼間はその原っぱには屋台や大道芸人などがたくさん出ているのだが、もう三日月の浮かび出した空に枯葉が乱れ飛んでいるうす気味悪い夕方で、秋葉原にはほとんど人影はなかった
 …風太郎先生、勿論ちゃんと取材されたのだろうが、三重に間違ってます
 火除地にしたのは明治3年だし、勧請したのは「遠州秋葉神社」ではないし、仮に秋葉神社だとしたら、本宮秋葉神社は「アキハ神社」が「正しい」読み方なので「アキハバラ」で正しいのである。(リンク先のローマ字参照)。

 天下の山田風太郎まで間違ってるとなると、「秋葉大権現勧請説」も相当に根が深いな(笑)

 ちなみに、青空文庫を「秋葉」をキーワードにググってみると、他にも幸田露伴、泉鏡花、林不忘、小栗虫太郎などのビッグネームが「秋葉原」に言及しているようだ。比較してみるとおもしろいかもしれない。

俺は面倒だからやらないけど(爆)
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by SIGNAL-9 | 2007-01-24 14:27 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-火除地の成立と鎮火神社

 勝手に妄想した「秋葉神社の謎」を調べていくうちに、秋葉原の由来について知らなかったことがいくつか判ったので、備忘として書いておく。

 不思議だったのは、「秋葉大権現が勧請された」という説がわりと広範囲に流布していることだ。インターネットだけならまだしも、市販されているそれなりの歴史の本にまで。
 この説は間違っている可能性が非常に高い-個人的には誤りであると確信している-ことは既に書いた

 そもそも、秋葉原に火除地が設定された経緯は公文書として残っているのである。隠された闇の歴史を暴き出すようなタグイの本で無い限り、フツーに調べれば、「秋葉大権現勧請説」が怪しいということは-俺みたいなド素人でも-わかると思うのだが。

 『東京市史稿』、全169巻というトンデモない量の、東京行政の公文書の集大成である。市販もしているし東京都内の多くの公共図書館は所蔵しているらしく閲覧は容易だ。
 近所の図書館にあったので俺も閲覧してみた。

東京市史稿
市街篇第51(市街51-0001 )火除明地ニ鎮火社設立

遊園篇第4(遊園4-0225)鎮火社創建

 これらを参考に、『秋葉の原』について纏めてみる。
 もっとも、時代が時代だけに全編これ候文である。俺はソーローソーロー言われると非常に気分の悪くなる性質なので(笑)、誤読誤訳誤解釈しているところは多々あるはずだ。Blogに晒す以上ウソ書くつもりはないが、浅学菲才の故、誤りがあれば大方のご指導を仰ぎたい。

■経緯
  • 明治2年12月12日 午後10時ごろ 神田相生町20番地、塗師職の金次郎方から出火。周辺八ヶ町全焼、他三ヶ町に延焼。約1100戸焼失。ただし焼死人は女性一名のみ。
  • 明治3年1月20日、年寄より被災地住民・地主などに神田佐久間町一丁目を火除明地とする旨申し渡し。 【訂正:2013/03/11】 コメントでご指摘頂いたので本行削除
  • 明治3年10月15日 鎮火神社の鎮座祭実施。
■「火除地」(火除明地)とはどういうものだったのか?

 『市街51』・『遊園4』に、設計図が付いている。
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  • 北 150間5尺(274メートル)
  • 南 153間4尺(279メートル)
  • 東  57間5尺(105メートル)
  • 西  60間3尺(110メートル)
の長方形で、面積は約9008坪(29、800平方メートル)。
 ざっくりだがサッカーコート(105×68メートル)二面分くらいの広さだろうか。

 廻り四方を高さ三尺(1メートルくらい)の低い土手で囲んで、草木や花を植えたらしい。
 土手に設けた入り口(幅三間≒5.5メートル)は全部で7つ。南側(神田川側)に鳥居を設けた(この入り口だけ大きくて五間≒9メートル)。

 各入り口には立て札を立てた。
1.構内の竹や木をとったり、ごみを捨ててはいけません
1.不浄のもの・車馬の通行は禁止します
1.土手に上ってはいけません
「秋葉原」火除地の絵図・写真を探したのだが見つからなかったので、参考までに、『江戸名所図会』巻之一 天枢之部から護持院ヶ原の様子の絵を上げておく。規模も時代も違うが、イメージ的にはこんな感じだったのではないか。
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2007/08/20追記:その後「秋葉っ原」の写真を見つけた
■場所が確認できる地図は?

 一般書店で入手しやすい、当時の地図帳を探してみた。

 『江戸から東京へ 明治の東京』人文社 所載の『明治11年実測東京全図』と『明治20年 東京5千分の1』が地図精度が比較的高く、現代の地図と相互参照しやすい。
 ちなみに前者では『秋葉社 火除地』として、後者では『鎮火神社 字秋葉ノ原』と記載されている(秋葉ノ原と記された地図、ようやく見つけた)。字(あざ)がついている所をみると、秋葉ノ原という俗称がこの時代にはある程度公的に通用していたのかもしれない。

 同書に含まれている他の地図でも鎮火神社は確認できる。
 『明治4年 東京大絵図』では『鎮火社』、『明治8年 東京大区小区分絵図』では単に『鎮守』と記されている。
 『明治45年最新番地入東京市全図』には鎮火神社移転後の『秋葉停車場』が記載されているが、停車場のすぐ脇に、神田川から運河が伸び小さな港のようになっている様子が確認できる。

 余談だが、この本でも『この一帯の焼失地の住民を立ち退かせ、空き地として火除地を造成した。そこに火伏せの神様である秋葉大権現が祀られた』と書いてある。そうじゃないんだってば~(笑)

■立ち退きの様子は?

 町中に空き地を作ろうというのだから、住んでた人はどうしたのだろう? ほとんど江戸時代といっていい時代のことだ、やっぱり強制的に立ち退かせたのかな…と勝手に思い込んでいたのだが、『市街51』を読んで驚いたのは、強制には違いないがけっこう民主的なのだ、これが。

 年寄(今で言うと区長か都議会議員くらいか)から町々に出された通知によれば;

『地主めいめいが代地として望む場所を申し立てていい。吟味の上問題なければ代地として提供する。地代金での申請もど~ぞ』

引越料も出してあげる

 町側からも、ついでに川岸の工事もやってくれだのの嘆願も出ている。

 やれ「ずっと商売してるのに」だの「土蔵があるのに」だの「慣れ親しんだ地元の人情はどうしてくれるんだ」だの苦情や陳情が多く、趣旨を再三説明するなど、調整に苦労したようだ(『遊園4』鎮火社創建始末書)。

『尤其地住居来候諸民エは夫々代地相渡し、惣金六千四百弐拾両余 民部大蔵省ヨリ請取、家作土蔵等為引料相応ニ手当テ致シ』云々(『遊園4』)。

 いやぁ、いつの時代も変わらないねぇ。

 なお、現在の秋葉神社の由緒書きには「市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)に思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり」とあるが、東京市史稿を見る限り、皇室の積極的関与があったような節は見られない
 むしろ;
  • この付近からたびたび出火していること
  • 住居が建ち込んでいて道幅が狭く、消防の手が回らないこと
  • 冬・春に西北の風が強く吹くため、延焼しやすいこと
といった、火除け地設置の必要性の、非常に実際的な理由が挙げられている。


■鎮火神社というのはどういう建物だったのか?

 鎮座させた鎮火神社は4間×3間(7.3×5.5メートル)、お社本体は前2間奥行き9尺(3.6×2.7メートル)とある。
 だだっ広い空き地の真ん中に小さな社があった…ということだろう。延焼を防ぐのが目的なのだから馬鹿でかい建物なんざ建てるわけはないが。神田神社(神田明神)の管理の下になった(神社明細「同六年一月十七日神田神社兼務社ト定メラレ」)ということから見ても、常設の社務所みたいなものはなかったのではないか。

 東京の名所案内である明治41年版『東京名所図会・下谷区・上野公園之部』の「鎮火神社」の項に、松が谷に移転した後の記述があるが;
素木の粗造にて間口二間、奥行九尺に過ぎず、廣前の石貌、創建当時の奉納と知られ、明治三牛年と刻む
とある。社をそのまま移転したのかは不明だが(東京市史稿の中には移転の為の予算取りの資料-市街74-566 『鎮火神社移転地所買上』-もあるが、読みきれていない)、元々さほど豪華なものではなかったのであろうことは伺える。

----- 1/26訂正。-----
市街74-566 『鎮火神社移転地所買上』を参照したところ、『鎮火神社移轉費用豫算調』即ち移転費用の予算取りの資料があった。それによると
一、金七拾圓 社殿、神楽殿、鳥居、水屋、社務所、燈籠、獅子、鐵水盤其外木石共一式運搬費
とある。
また、あちこちの項目に付箋朱書きとして、『引建直し』という言葉がある。例えば、当初は『本社壹棟取崩費』と書かれているのが『本社引建直シ之内』と訂正されている。
つまり、火除け地から一式運搬し、組み立てなおしたらしい。『東京名所図会』にある「素木の粗造」という社は、サイズが合致しているところからみると、もしかしたら設立当初のものそのままという可能性もある。
 また、社だけで社務所などはなかったのではという推測も間違いで、移転時点では神楽殿や社務所まで、ひととおり揃っていたようだ。
リカちゃんハウスじゃあるまいし、そんなものが全部設計図とおりの3×4間に入るとも思えない。後年の増築なのかもしれないが確認できていない。
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 ただし、鎮座式はけっこう盛大に行われたようだ。『明治東京庶民の楽しみ』によると、酒肴が振舞われ、雅楽が奏でられ見物人も出たようである。

 『市街51』には鎮座式の式次第も書かれているが、時間厳守雨天決行だの烏帽子と白張は神祇官から借りることになってるだの知事の付き添いはどーするこーするとか…イベント企画ってのはいつの時代も大変だねぇ。
----- 1/31追記。-----
三田村鳶魚の『秋葉ばら』を読んでの追記。
武江年表に以下の記述があるそうだ(鳶魚からの孫引き)
十七十八日には、此辺のもの、御宮廻り新築封疆(小土手なり)土持とて衣類を飾り、小石川御門外御堀端の泥土を運ぶ、二十一日には三度目にて、婦女声妓等美しく装いて出たり、よって見物群集をなせり
芸者さんに盛装させて土砂を運ばせるとはイキなことをしたもんだ。
----------

 というのが、設立当時の大体の様子。

 その後「秋葉の原」がどうなっていったのかは、また別のエントリで。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-22 13:53 | 秋葉原 研究(笑)

「竹島」商標登録は公序良俗に反する

混乱招く…「竹島ものがたり」商標登録を拒否 iza! 2007/01/19
韓国が実効支配する日本領土の竹島(島根県隠岐の島町)の名を冠した観光土産品の商標登録出願に対し、特許庁が「両国(日韓)に無用の混乱を招く」などとする理由で拒否していたことが19日、分かった。申請者は近く再審査を求める意見書を提出するが、関係者からは特許庁の判断を疑問視する声も上がっている。
 へぇ。

 するってぇと何か。
 徳間ジャパンの竹島宏とかバレリーナの竹島由美子とかテレビレポータの竹島久美子とかマリンバ奏者の竹島悟史とか茨城県や愛知県の竹島小学校とか富山市の竹島旅館とか鹿児島県鹿児島郡三島村竹島とか長岡市議会議員の竹島良子とか蒲郡温泉ホテル竹島とか大隅諸島の竹島とか順不同敬称略は、み~んな「日韓両国に無用の混乱を招く」恐れがあり「社会通念上穏当では」ない、「公序良俗に反する」シロモノかもしれんちゅーわけだな(笑)。

商標の登録制度の概要
公益上の理由から登録を受けることができないもの
例2: 公序良俗を害するおそれがある商標

・きょう激、卑わいな文字、図形
・人種差別用語
「竹島」は「卑猥」扱いか。いっそ外務省のホームページ伏字にしたらどうか。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-19 17:23 | 奇妙な論理

秋葉神社の謎-些かつまらない解決?編-

『「秋葉の原」には「鎮火神社」とは別に「秋葉神社」が存在した?』

 佐竹商店街脇に存在する「秋葉神社」の由来書きによればそういうことになる。
 これが事実だとすれば、「秋葉原の語源」の「正史」に対する反証となる…というのが、俺の妄想だった。

 直接それぞれの神社にお話を伺ってもいいのだろうが、妄想を根拠に人様の手を煩わせるのもナンである。
 自分でもう少し下調べをした上での方がよかろうということで、ちょうど週末に上野に出る用があったので、少し足を伸ばして合羽橋通りにある台東区中央図書館に出かけてみた。台東区の資料を見るのならここが適当だろうと思ったからだ。

 幸い、面倒な手続き無く一般書架の閲覧は出来るタイプの図書館だった。中央図書館というには少々書架が寂しいように思われるが、まあ仕方あるまい。

 郷土資料室の書架を漁ってみると、台東区教育委員会が取りまとめた『台東区文化財調査報告書第二十八集(基礎資料編XII)』という資料を見つけた。
 これは明治10年の『諸社明細簿』と明治18年の『神社明細帳』が纏められたのもので、神社の戸籍帳みたいなものだ。

 この資料で確認できる秋葉神社はただひとつ

 東京府管下武蔵国 下谷区入谷町町三百八十七四○九
   郷社 鎮火秋葉神社

 一祭神 火産霊神 埴山毘売神 水波能売神

 一由緒 明治二巳年十二月 火災ノ後神田相生町外十ヶ町ヲ火除地トシテ取払ニ付同三午年右地中央ニ神殿建築同年十月十五日勧請ス十一日ノ大火後神田相生町外十ヶ町火除ノ為東京府届ニテ創立神璽ハ神祗官ヨリ下渡ニ相成同六年一月十七日神田神社兼務社ト定メラレ同年八月五日郷社ニ列ス同廿一年七月境内地ハ日本鉄道会社ヘ払下ニ付換地北豊島郡坂本村三百七拾番地ヘ移転ス トシテ下渡相成候現地ヘ移転ス ハ定メタル現地ヘ移転ス
 ご覧のとおり、どう見ても松が谷の秋葉神社(鎮火神社)である。

 取り消し線で表現したのは、訂正され、書き換えられた部分である。
 一瞬、『あれ、昭和5年改名のはずなのに、なんで明治18年の資料に「秋葉神社」という名前で出てるんだ?』と思ったが、人の戸籍と同じく、最初のデータに後年の訂正部分を追記していくため、こういう書き方になっているようだ。
 ちなみに、「鎮火秋葉神社」という部分は、「昭和五、六、ニ○午兵第四八一号 改称許可」と追記がある。

 古い地図も確認してみた。マピオンやらマップルみたいな、年に三回も改訂されるような現代の道路・市街図とは違い、発行年度時点での正確な記録ではないだろうが、ある程度の目安にはなるだろう。

 佐竹周辺は明治9年の地図では陸軍省御用地とされている。これは大火で佐竹屋敷が消失した跡地を陸軍が接収した、という佐竹商店街のホームページに記載のあったとおり。
 同じく明治9年発行の『明治東京全図の内第五大區図』には、現在の秋葉原の場所に「四小區 火除區」という原っぱがあり、その中に「秋葉社」という記載がある(1/16: 国立公文書館デジタルギャラリーで同じ地図を見つけたので貼っておく)。
 明治20年版の『陸軍参謀本部測量図』では同じ建物が「鎮火神社」と記載されている。
 いずれの地図にも「秋葉の原」という俗称は記載されていないが、鎮火神社が「秋葉社」という異名を持っておりそれが混用されていたというのは本当のことのようだ。もしこの誤解が無かったら、アキバ系じゃなくてチンカ系になっていたかも(笑)

 さらに、明治28年、40年、44年、大正11年、昭和5~7年、昭和8年の東京全図の下谷部分や『下谷區全図』など各種地図も参照してみた。
  • 「秋葉の原」には、鎮火神社以外の寺社はまったく記載されてない。
    判りやすかったのは前述の『陸軍参謀本部測量図』であるが、本当に野原の中にポツンと鎮火神社があるだけだったようだ。確かに火除け地なんだから建物なんかやたら建てられるわけもあるまい。
  • 秋葉原駅成立後、松が谷の「秋葉神社」は殆どの地図に記載があるが、佐竹(竹町)の「秋葉神社」はかなり後年の昭和10~20年代の地図でしか確認できなかった。
  • 松が谷の秋葉神社の正式な改名は昭和5年だが、それ以前の地図でも「秋葉社」「秋葉神社」と記載されているものがある。
    鎮火神社が出来たのは明治3年だが、前述の『第五区図』のように、わずか5年後の明治9年頃にすでに「秋葉社」という名前が使われていたフシもある。


 ということで、残念ながら佐竹秋葉神社の由来書きにある「秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座」という事実の元になるはずの「秋葉の原の秋葉神社」を確認することはできなかった

 もちろん「見つからない」≠「なかった」は重々承知である。
 これを持って佐竹秋葉神社の由来書きをクサするようなつもりは毛頭ない。

ただ、積極的に支持できる証拠は見つからなかったのは-俺の能力の問題もあろうが-事実である。
 小祠故のことかとも思うが、例えば、佐竹の秋葉神社の近所にある、四国讃岐の生駒屋敷内にあった金比羅神社は現在でも竹町南町会の管理にあるが、こっちの方は神社の台帳でも、地図でも明治期からトレースできる(こちらのページで大正元年と昭和16年の地図を提供されているので参照されたい)。
 仮に鎮火神社とは別に秋葉権現が神田相生町近辺にそれなりの規模であったとすれば、何か痕跡が残っていてもよさそうなものだ。今のところ台東区の記録しか調べていないので、千代田区の神社明細も調べてみるべきだろうが、現時点の個人的印象では佐竹屋敷内にあったという秋葉権現を、昭和初頭に「秋葉の原」とは無関係に独自に復元したのでは?という気がする。

--------------------------- 1/29 追記
台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和Ⅱ』(昭和57年)という、台東区のじい様たちに聞き書きした本の中で、佐竹在住の佐藤金作さんの話を読むことが出来る。
竹町小学校には、佐竹の堀がそのまま残っていて、私が生まれた頃(引用者註:明治32年生まれ、明治39年御徒町小学校入学)は、佐竹の屋敷跡の佐竹っ原も相当家が建て込んできたわけで、一般の民家をつぶして学校ができたわけです。そうこうして震災になって焼けちゃった。それではと、学校をまた広げたんです。私の町内に秋葉神社がありますが、昔はあそこでなくて、道が学校に抜けるようになっていた。学校がのり出してきたので、神社が今のところに変わったんです。今、表門になっているのは、昔私たちが通った頃の裏門です。
つまり、佐藤さんの言によれば大正12年の関東大震災の前から佐竹の秋葉神社は存在した可能性がある。
つまり、「昭和初期の復元?」という俺の推測は、間違いである可能性が高いということだ。

 だが、残念ながらそもそも大本が「秋葉の原」にあったのかどうか、という問題には関係しないので、結論的には変わらない。
---------------------------

 ということで、俺の妄想はやはり妄想に過ぎなかったようではある。
 そもそも「正史」に対する妄想を検証するのに「政府」の資料なんか使っていいのか…という疑問は我ながら持っている。妄想の輪を広げるとすると、『第五区図』にある「秋葉社」がまさに秋葉神社のことで、そのあとの地図に出てくる「鎮火神社」は乗っ取られた後!みたいな妄想もできないわけではないが(笑)、さすがにソコまでいくと陰謀論者の仲間入りくさいので、考えないことにしよう(爆)

 後は佐竹の秋葉神社の由来書きの根拠となる資料でも見せてもらいにいくしかなかろうが、史学的素養というものが皆無な戦後教育の犠牲者(笑)である俺にとって、読解できない一次資料はブタに真珠であろう。

 個人的には納得できたから良しとしようと思う。

ところで。

 資料を漁っていると、思いもよらず秋葉原生誕の立役者の名前に行き当たった。
『下谷區史』(第十九章第二節『各神社の沿革』)
明治二年十二月十二日午後十一時頃、神田相生町一丁目の指物師金次郎方より出火し、同二丁目、松永町、亀住町、花田町、田代町、山本町の七箇町に亙る廣範囲を殆んど焦土と化した大火災の後、相生町外十箇町を火除のために取拂を命じて、空き地となした。これ所謂秋葉ケ原である。
 指物師金次郎

 お前ンチが火事出したのか金次郎。金次郎が火事出さなきゃ秋葉ケ原もできなかったわけで、つまりは秋葉原駅もできなかったのかもしれないのか。

 まあ、その後関東大震災や東京大空襲つーカタストロフを経て現在のアキバがあるんだから(『下谷區史』によれば松が谷の秋葉神社も大震災で被災し建造物一切丸焼けになったそうな。神様は近所の小野照崎神社に避難させたとか。火除けの神様としては少々情けないかもな)、電気街→ヲタクタウン→再開発オフィスビルの横で贋メイドがビラ配ってる奇怪な町、という歴史の流れは大きく変わらなかったのかもしれない。

 だが、金次郎の家で火事を出さなきゃ、まず間違いなくアキハバラという名前ではなかったであろう
 歴史の機微つーものを感じるわなぁ。

補足事項
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by SIGNAL-9 | 2007-01-15 11:07 | 秋葉原 研究(笑)

児童書デジタルライブラリー

 上野の山に鼻白むほどの威容を誇ってそそり立つ国際子ども図書館、はじめてみた時は『どこのベルサイユ宮殿?』かと思った(笑)

 ま~たくだらねえ税金の無駄使いしやがって…と思っていたが、ホームページで児童書デジタルライブラリーというサービスをやってることを発見。知らなかった。
国際子ども図書館・国立国会図書館で所蔵している昭和30年以前刊行の児童書の一部について、全てのページをデジタル画像でご覧いただけます。
おお、こりゃあいいではないか。
 江見水蔭南洋一郎のもあるぞ。ややや、これは東雲堂の「少国民年鑑 昭和17年版」。これ見たかったんだよな。げげ。竹内均の「現代科学物語」昭和24年版だぁ? こっちには竹久夢二挿絵の「お伽パラダイス」(大正1年)…。

 時間を忘れてしばし漁ってしまった。俺みたいな古い本は好きだが古本自体はキライ(笑)というズボラな人間にとっては非常にありがたいサービスだ。

 こういうサービスはもっとガンガン進めてほしいものだ。「児童書」のようにジャンル限定での電子化というのはいい進め方だと思う。
がんばってくれ国会図書館

 欲を言うと;

  1. せっかくJPEGなのに、なんで白黒画像なの?
    もしかしてマイクロフィルムからスキャンしてるからか? つーか、どうでもいいからカラーでスキャンしたデータにしてくれないか。せめて口絵や挿絵の豊富な本くらいはカラーで見たいぞ。

  2. ファイルがJPEGなのはいいとしても、PDFで纏めてダウンロードできるようにしてくれ。
    こういうものはオフラインで読みたいではないか。

  3. テキストデータ化も進めてくれ。
     やはり全文検索とかしたいではないか。文字コードの問題は大きく立ちはだかるであろうが、電子化する価値はあると思う。

  4. 昭和30年以前限定というのは著作権の問題なのか? だとしたら、年々少しづつでもいいから「蔵書」を増やしてほしいものだ。40年代にもイイ感じの児童書は多数ある。

 いやマジで、気に入ったファイルは全ページダウンロードしてPDF化、ついでにOCRでテキスト化つーことは個人的にはやってしまうかもしれないつーか間違いなくやるが(笑)、一般の協力を求めるのも一案だと思う。
 例えば解説ページのサービスは準備中のようだが、wikiみたいに一般からも書き込めるようにすれば、好きモノがかなり集まってくるんではあるまいか。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-12 16:40 | 一般の話題

パソコンの免許制について考えてみる。

毎日新聞また騒動…またまたマル秘情報流出 IZA! 01/09 14:35
毎日新聞読者の個人情報約100件や読者管理に関するマル秘情報が、インターネット上のファイル共有ソフト「Winny」(ウィニー)を通じてネット上に流出したことが9日、分かった。同紙は昨年、約6万5000人の読者情報が同様にファイル共有ソフトで流出したばかり。今回は件数こそ少ないものの、実名入りクレーム報告書や配達、集金のトラブルに対応するわび状といった読者に対し迷惑千万な情報で、管理体制が改めて問われそうだ。
 事件自体はもはや珍しくも無い記事だが、珍しいのはやっちゃった本人のコメントが載っていること。
所長は夕刊フジの取材に対し、「個人情報じゃないけど何かあったみたい。ダウンロードしてなかったのに入ってきて、何か入っちゃったんだよね。それが広がっちゃった。顧客データは頂いていない。ハードディスクは抜いてあるのでほとんど出ていない」と、話しぶりからどうみてもパソコン初心者。重要情報を流出させた自覚は皆無だった。
 何を言っているのかよくわからないが(笑)、解釈をしておくと;

「個人情報じゃないけど何かあったみたい。」
 何かが漏れたみたいだという自覚はあるらしい。しかし他人事のような物言いだなぁ。誰かから「漏れてますよ」って指摘されて初めて気づいたって感じ。

「ダウンロードしてなかったのに入ってきて、何か入っちゃったんだよね。」
 ウィルスなんかダウンロードしてないのにウィルスに感染して、と言いたいらしい。つまりはウィルスってもの自体がどういうものか判っていないのではあるまいか。

「それが広がっちゃった。」
 ファイルをWinnyネットワークにアップされたと言いたいらしい。

「顧客データは頂いていない。」
 自分のパソコンには、お客様から直接頂いたようなデータは入っていない、と言いたいらしい。
 ちなみに記事によれば
ネット上に流出したのは、埼玉県西部にある販売所の顧客情報や内部文書、写真など約300メガバイトにのぼる。毎日新聞社が発行する雑誌の届け先や購読者の住所、電話番号、あて名印刷用ラベルなど、個人情報が少なくとも100件、含まれていた。
 このほか、集金ミスや新聞購読の勧誘についてのクレームに対する謝罪文、接客マニュアルといった内部文書も存在。顧客が信仰する新興宗教に関する手紙といった生々しいものもあった。
 さらに新聞拡張団の強引な勧誘を“説教”する書類も…。
まあ、これが「内部文書」であると言えばそうかもな。要するに、お客から直接貰ったデータでなければ、お客の情報であっても漏らしても道義的・社会的な責任はない、という認識であるようだ。

「ハードディスクは抜いてあるのでほとんど出ていない」
 データを格納してあるリムーバブルディスクを物理的に外したので今は大丈夫、と言いたいらしい。「ほとんど出ていない」と言うところがナンともスゴイ答えではある。

ふぅむ。

 これが比較的一般的なパソコンユーザの姿なのだろうか?
 だとしたら、パソコンの免許制つー奴もまんざら暴論とは思えんよなぁ。

 先日のNHK「日本の、これから」でも免許制の議論が出ていたが、けっこう頷いている参加者が多かったようだ。『自分だけは免許制になっても受かると思ってるんだろうなぁ』と何だかおかしくなった。

 簡単に免許制というが、どういう条件が妥当かに関しては実際にはかなり議論が必要なはずだ。

 免許と言えば一般的には自動車免許だろうから、それに準じて考えてみると;

 年齢制限は、実際にはほとんど意味ないだろう。16・7でIT企業立ち上げる子もいるし、分別あるべきいい歳した大人がエロ動画欲しさにウィルス感染なんて状況が問題なわけだし。とはいえ、責任の取り方という意味では成人という条件はアリかもしれんが。逆に少年法みたいに罰則適用の抜け穴にならないようにしないと。少なくとも成人なら無条件ってわけにはいかないから、何らかの試験をやる必要はあるのだろうな。
 教習所での卒業検定もしくは技能試験相当の試験は必要だろうし、やはり一種・二種の区別みたいに区分が必要なのかもしれない。また、既存の制度や仕掛けが流用できるに越したことはないと思う。

 つーことで、こんな感じでどうだろう。
  1. 18歳以上であること。18歳未満である場合には、教育機関などで監督された状況で使用しなければならない。偏向教師はテメエが見せたい思想系ホームページに誘導し放題(笑)


  2. 顧客情報等を扱う場合など業務としてパソコンを利用するには、最低でも基本情報技術者資格-昔で言う第二種情報処理技術者資格-を持っていなければならない。当たり前だが企業内でパソコンを使う全員が必要。代表者が持っているから運転手は自動車免許不要なんてありえないものな。


  3. 業務外で、一般家庭で利用する場合にも、民間のパソコン検定か情報セキュリティ検定レベルの試験に合格しなきゃ駄目。自動車学校だけに儲けさせてるこたぁねぇ。


  4. 免許証を発行する。中身はICカードで、これを使わないとパソコンが動かないように各パソコンメーカはハード的に対処するように。さらにこれで認証しないとネットワークに繋げない様に各ISPも対処が必要。通信記録は必要に応じて開示可能なように必ず保存すること。これで大嫌いな「匿名」も実質的に禁止できるので、マスコミも官憲も万々歳。当面はISP側の対処だけで暫定的に運用する。つまり旧型のパソコンは動くけどネットワークには繋げなくなるからね。新型に買い換えるようにね。買い替えに金がかかる?地デジと同じなんだからいいじゃん。イヤだったらインターネットに繋がないで使ってればぁ?


  5. 自動車と同じで、違反したら当然罰則あり(主に罰金刑だろうが、懲役もあり)。例えば「アベ首相は無能だ」なんて2ちゃんねるに書き込んだら国家機密漏洩罪


  6. 死して屍拾うものなし。

 新たな利権やお役人の天下り先も創出でき、いいことずくめではないか。
 政府にはおかれましては是非ご検討のほどを。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-10 14:52 | 電算機関係の話題

年末年始の在宅映画劇場

ショコラ
普段この手は見ないのだが、東京MXでたまたまやっていたので鑑賞。

 上のamazonのレビューを見ると、「心温まるファンタジー」みたいな見方が「正しい」のかもしれんが、これって裏を返せばホラー映画だよな。

公式の解釈
「因習に凝り固まるフランスの小さな村に、不思議な雰囲気を漂わせる女性ヴィアンヌとその幼い娘が現れ、チョコレートの店を開いた。その美味しさに、禁欲を強いられている村人たちは驚き、戸惑いつつも少しずつ心を開いていくのだが…。名匠ラッセ・ハルストレム監督が贈るファンタジックなヒューマンドラマ」

ホラーな解釈
「伝統を守って静かな暮らしを営んでいたフランスの小さな村に、流れ者の女とその娘がチョコレートの店を開いた。村人たちは怪しげな製法で作られたチョコレートの虜となり、徐々に女に精神的に取り込まれてしまい、最後の牙城だった村長までが洗脳されてしまう」

 要するに、ハリー・クレッシングの「料理人」とか、キングの「ニードフル・シングス」と同じフォーマットだ。プロットだけ抜き出してみると、いわゆる悪魔の誘惑モノとしても成立するんである。異物の侵入によって安定的な環境が変化する、という黄金のフォーマットはあらゆるパターンで語ることができるんだなぁ、と改めて思った。

 ホラーと言えば、「恐怖の精神病院」「吸血鬼ボボラカ」、さらには「レオパルドマン 豹男」「私はゾンビと歩いた!」がDVD化されてたのでさっそく購入。

40年代RKOクラシックホラーシリーズなのだが、「キャット・ピープルの呪い」と「死体を売る男」は既に見ていたので購入は次の機会に。

 雰囲気で見せるタイプの映画。ユニバーサル流の特殊メイクやら気ぐるみやらは一切出てこない。いわゆる「怪奇映画」ってやつだな。後年もっと洗練されたロバート・ワイズの「たたり」みたいな映画が登場するが、その先鞭といったところか。「レオパルドマン 豹男」「「私はゾンビと歩いた!」はまるっきり初見だったが、ジャック・ターナー(トゥールヌール)つー監督はこの「雰囲気」だけで恐怖を演出するのが実に巧み。「キャット・ピ-プル」でもおなじみの暗い路地・見えない影におびえるヒロイン…、この「おびえ」という奴はショック演出よりも遥かに難しいわけで、やっぱターナー、上手いなぁ。モンスターがももんがぁ、と登場すりゃあ良しと思ってるような三流クリエイターは100回見たほうがいいと思うぞ(笑)

 ついでに、「スーパーマン・リターンズ」「TRICK劇場版2」も。

 「スーパーマン・リターンズ」は「スーパーマン1・2」の正当な続編としてOK。「3,4はなかったことに」というのは激しく同意(笑)。
 ただ主演のブライアン・シンガーがクリストファー・リーヴより線が細そうに見えるのと、ロイス・レーン役の女優がなぁ。リーヴはかなりトレーニングしてムキムキにしたそうだし、シンガー君には「スーパーマンの呪い」に負けずに続編ではさらに頑張ってほしいものだ。
 しかしジョン・ウィリアムズの音楽って改めてスッゲーよなぁ。

 「TRICK」は例によって例の如し(笑)。これで最後といわずに、俺的には上田教授の活躍がもっと見たいのだが。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-09 12:56 | 読んだり見たり

秋葉神社の謎

年始に秋葉原に出たついでに、ぶらぶらと散策。

 神田明神にお参りした後、御徒町から佐竹商店街に抜けてみたのだが、竹町公園の横に鳥居があったので、ふと見てみると「秋葉神社」ではないか。

 『あれ?ここにも秋葉神社があるの?』

 ここから歩いて数十分の、上野松が谷にも秋葉神社がある。
 秋葉様は火災避けの神様で、全国各地に多数-800くらい-あるという話は知っていたので、近所に複数あってもおかしくないのかもしれないが、アキバの由来になったのは松が谷の秋葉神社だとばかり思っていたので、こんな近所に別のアキバ神社があるというのはちょっと奇異に思った。

 いちおう(失礼な奴^^;)お参りをして、興がのったので確認の為に下谷神社経由で松が谷に足を伸ばすことに。

 松が谷の秋葉神社は、吉展ちゃん誘拐殺人事件で有名な入谷南公園の近所だ。このあたり、公園の名前の通り、以前の町名は入谷南だったのだが、昭和40年ごろに松葉町と合わせて松が谷と町名が変わったと記憶している。松が谷の秋葉神社の由来書きを見ると、
一 御由緒
明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)に思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始である、明治二十一年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる、秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。

台東区松が谷三丁目鎮座 秋葉神社
とあった。

 う~ん。やっぱりこっちがアキバの由来なのかなぁ? 確かにこっちの方が本殿も立派だもんなぁ。
 念のため、帰宅してから佐竹商店街のホームページを見てみた。
現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、佐竹屋敷の守護としてもと秋葉ケ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを屋敷内に勧請遷座し、更に昭和五年、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。また、竹町公園も開園し、街の子供たちの遊び場として今も親しまれております。
との由。

 やや? 佐竹の江戸屋敷の守護として遷座、つーことは、佐竹の秋葉神社は江戸時代には既に秋葉が原にあったつーことなのか?? 
 さらにぐぐると、俺が見逃していた由来書きの写真を掲載したblogを発見したので引用しておく。
町内に鎮座まします秋葉神社は二十八万石を有する東北地方屈指の大名で秋田藩十二代藩主佐竹右京太夫義尭公、上屋敷の守護神にてこの地にあった広大な屋敷跡である
明治維新の大変動期に秋田藩も財政難となり国に上屋敷を上納その時に新政府によりこの地の住所表示が決まり、竹町十二番地一号地より二十四号地迄と制定され現在もその儘使用されている佐竹町会の号地区分はその時出来たものである、秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座し昭和五年四月町会先人有志の方々により現在地に社殿を造営したもので当町会では火伏せの神として崇め毎年十一月第二日曜日に大祭を行っている
 Wikipediaの秋葉神社 (台東区)の項に因れば、
江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はない(東京府が秋葉大権現を勧請したとする史料もあるが、当時の社会情勢からみても明らかに誤伝である。)。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除け地(空き地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。
これ読むと、どう見ても「別の神様」だ。松が谷のアキバ様は元々秋葉大権現とは別の神様なのに間違って呼ばれたのが定着したんで…ということか。

明治以前?:佐竹屋敷の守護神 (佐竹)
明治初年:宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷 (松が谷)

明治21年:鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮 (松が谷)
明治22年:秋葉が原より勧請遷座 (佐竹)

昭和5年:社殿造営 (佐竹)
昭和5年:秋葉神社と改名(松が谷)

 こうやって由来書きを並べてみるとヘンだよなぁ。両方正しいとすると、もともと秋葉原には秋葉神社(と称される神社)がふたつあったということなんだろうか? つまりは、鎮火社とは別に、秋葉大権現直系の佐竹の秋葉神社のオリジナルがアキバにあった??

 歴史とかはガキの頃から「わかりません」「今考え中です」の世界に追いやってきたのでこういう時に困るわなぁ(笑)

1月11日追記。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-05 13:24 | 秋葉原 研究(笑)