カテゴリ:秋葉原 研究(笑)( 29 )

秋葉原-「田舎者の役人」はどこにいる?

 「アキハバラ」という読み方は関しては、
wikipediaの秋葉原駅の項

駅名としての秋葉原の読みは「あきはばら」である。これは、上記地名の読み方がわからない鉄道官僚が、誤って読み仮名をつけたことによる。地元住民を中心に駅開業後も「あきばがはら」と呼ぶ人はいたが、次第にこの本来の読み方が「俗称」と位置付けられるようになった。日本鉄道も鉄道省も、駅名を本来の読み方に改めてほしいとする地元住民の運動を聞き入れることはなかった。
という話がある。
 アキハバラの語源について語っている本やWebページにはよくこの話が出てくる。

 疑問なのは、この話が何時の時代のことなのか? ということである。

 この話の基点となっているのは「駅の命名」であるが、「秋葉原駅」には三つの大きなエポックがある。
 明治23年(1890):貨物取扱所として開業
 大正14年(1925):旅客業務開始
 昭和 7年(1932):乗継駅化

 例えば東京新聞の記事では
火除地には九〇(明治二十三)年、私鉄日本鉄道が貨物駅を設置。「秋葉原駅」と名付けられ、読み方が「あきはばら」になった。地方出身の鉄道省の役人が反対を押し切って決めたといわれ、神田の江戸っ子たちに大変不評だったという
明らかに、明治23年の貨物取扱所時点、という記述である。

 ところが、昭和7年という主張もあるのだ。
 東京港湾事務所 TOKYO PORTAL SIGHT VOL.13:特集 地名でわかる歴史地図では、
 ところが、昭和7(1932)年、山手線と連絡できる秋葉原駅が開業。鉄道省はなぜか駅名を「アキハバラ」としてしまった。神田っ子たちは「アキバノハラ」を主張したが、主張は通らず現在に至っている。
Webページ 台東区の地名の由来
昭和7年総武線を延長して両国駅と御茶ノ水駅が結ばれた時、乗換駅として普通駅が誕生したのだが、地方出身の鉄道省の役人はその間の事情を知らないから字面だけで「あきはばら」と訓じて命名した。神田っ子は猛烈に抗議したが、権力を笠に着て威張り散らす役人は、自己の誤りを認めないばかりか頑として譲らず、「我々が決めたことが正しく地元の都合など考慮しない」と突っぱねたというお粗末。
 明治と昭和、時代がぜんぜん違うのに、「鉄道省の役人」が「反対を押し切って」勝手に決めて「神田っ子たち」が抗議、というストーリーは同じである。

 両説にはそれぞれに疑問がある。

■「明治23年説」の問題

 明治23年に、秋葉原駅(秋葉原貨物取扱所)のひらがな駅名が「あきはばら」と登録されていることは、官報を基礎資料とした『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』(JTBパブリッシング )などで確認できる。計画段階では「アキハノハラ」などの候補もあったようだが、秋葉原駅は明治23年時点、開業当初から「あきはばら」であったことは確かなようだ。

-------- 2008年2月6日訂正

yasuoka の日記 アキハノハラかアキハバラか (2008 年 01 月 28 日)及びyasuoka の日記 アキハノハラかアキワノハラか (2008 年 02 月 05 日)の御論考によれば、ローマ字読みでAKIHANOHARA・もしくはAKIWANOHARAという表記が確認できるそうだ。

設立当初の読み方は「秋葉原」駅と書いて「あきはばら」ではなく「あきはのはら」駅だった、という可能性が高い-少なくとも「一般的な読み方」としては-、ということだと思う。

ゆえに上の一文「秋葉原駅は明治23年時点、開業当初から「あきはばら」であった」は削除して訂正させていただく。

ただ、幸いな事に、「アキバ」説に対する反証のひとつとなることなので、以下の自説は変わらない(^^;)
-------- 2008年2月6日訂正

だが;

  1. 一般の乗客が使うわけでもない、たかが貨物駅の名前の発音がアキハバラかアキバハラかなんて事、そんなに問題になるものだろうか?

     確かに秋葉原貨物取扱所は、地平鉄道問題の悪評、後には物流の一大拠点としては知られていたようだ。だが、テレビやラジオなどの音声マスメディアがあった時代ではない。前にも言ったが「秋葉原」という表記自体は「アキハハラ」とも「アキバハラ」とも無理なく読めるわけだから、音読されるかフリガナが振られて初めて「ヘン」だと認識できるのである。
     大正時代にいたっても、新聞などでは「秋葉ケ原停車場」のような本来の駅名とは違う表記が普通に使われているのだから、貨物駅時代に一般人の「アキハバラ」という駅名の「読み方」の認知度がさほど高かったとも思えない。

     前に引用した永井荷風のイヤミが大正15年のものであることに注意されたい。明治23年前後の時点で、問題視されるほど「アキハバラ」という駅名が一般に認知されていたとしたら、遥か後年の大正15年に、わざわざ『秋葉ケ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり』などと書くだろうか?
     その他の「アキハバラ」批判をみても、三田村鳶魚の随筆は昭和5年、山本笑月は昭和11年、笹川臨風のは昭和21年と、いずれもかなり後年の、旅客駅となって「アキハバラ」という駅名が一般化していたと考えられる時点のものである。

  2. 東京新聞の記事では「鉄道省の役人」という記述をしているが、明治23年には鉄道省という役所は存在していないのである。

    鉄道省が出来たのは30年も後の大正9年。明治23年は未だ内閣鉄道寮(鉄道局)か内務省鉄道庁の時代だ。根本的に「ちゃんと調べてんのか?」という疑問がわく。

     仮に鉄道局か鉄道庁の誤りと好意的に解釈したとしても、国策会社とはいえ"私鉄"であった日本鉄道会社の駅名を「役人」が「反対を押し切って決めた」、という主張には違和感がある。

  3. さらに違和感を感じるのは、以前書いたとおり、開業当時には「地平鉄道」問題で政府・区議会を巻き込んだ大バトルが繰り広げられていたという事実があることである。

     建設中の路線を廃止しろ・しないで大紛糾してる時に「駅名がアキバハラでないのはおかしい!」なんて言い出す奴がいるだろうか?「空気読め」といわれるのがオチなんではあるまいか。
 念のため、明治21年から明治24年の『明治ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ)を参照してみた。この地平鉄道廃止問題に関する記事はもちろんあるが、駅名に対する抗議運動らしきものがあったような記述は見つからなかった。
 アキハバラ駅開業から10年たった明治33年発刊の『新撰東京名所図会 神田区之部』には『日本鐵道會社秋葉原貨物取扱所』の項があり、駅の由来から運賃、取り扱い運送屋の電話番号に至るまで詳細に紹介されている。ここにも地平鉄道廃止問題に関する記述はあるが、駅名をめぐってモメたような話は一切書かれていないのである。

■「昭和7年説」の問題

 昭和7年説は、貨物駅ではなく一般人が使うようになって問題が顕在化した、と考えれば明治23年説より無理は無い。
 だが、秋葉原駅が旅客駅としての機能を持ったのは大正14年なのである。
 6年も前から駅名は変わらず「秋葉原駅」だったわけで、一般人の目にも触れていたはずだ。例えば荷風の批判は大正15年のものである。
 乗り継ぎ駅化したとたんに問題が顕在化し、抗議運動に火がついたのか? という疑問が湧く。
 『昭和ニュース事典』から当時の新聞記事を見てみよう。
御茶の水ー両国間の開通祝賀会 (昭和7年7月1日 東京朝日夕刊)

 七月一日開業のお茶の水・両国間高架線の開通祝賀会は、三十日午前十時から秋葉原駅三階ホームで行われた。同駅を始めお茶の水、浅草橋、両国の各駅はいろとりどりの小旗に飾られ、脚無鉄橋には「祝開通」の大文字をはりつけ、更に沿線民家には紅白の幕を張り回してお祝い気分横溢。久保田次官を初め本省各局課長、改良事務所員、東鉄職員等多数が、五十尺の新ホームにニコライ堂と国技館を見下ろしながら、ビールとサンドウィッチに完成の喜びを見せていた。試乗電車は特に五輌を連結して、東京の屋根の上をゴウゴウと行ったり来たり。新井東鉄局長など、珍しがる貴衆両議員を相手に大得意であった。
中央線と総武線を結ぶ新動脈(昭和7年7月2日 中央商業夕刊)

 帝都の新動脈、中央線お茶ノ水と総武線両国との連絡線は一日、賑やかに開業した。午前四時二十五分お茶ノ水発、両国駅発は、同四時二十四分で双方から運転の封切りをした。この一番乗りを目ざして徹夜で駅前に立て籠った熱心家もいたが、新駅浅草橋のナンバーワンは横浜市中区本牧の中山さんであった。午前十時までに秋葉原乗降六千二百名。うち見物半分でエスカレーターを使用したもの約一千名であった。
(中略)
 早朝から秋葉原駅構内で設けられた開通祝賀会の煙火(はなび)のとどろく中を、乗客はぞろぞろと繰り込む賑わいを呈した。
 お祭り騒ぎである。

 紅白幕まで張り巡らせて協力した住民が、「やっぱり駅名が気に入らないからアキバハラに変えろ」なんて反対やら抗議やらするものだろうか?
 前述のごとく昭和7年の時点では秋葉原駅はとっくに旅客運転を始めていて、総武線開通で乗換駅化しただけなのである。新駅である隣の浅草橋ならいざしらず、いまさら駅名がどうこう言うタイミングであろうか? 神戸大学新聞記事文庫でも、大正期には多い「秋葉ケ原」表記が昭和期に入るとまったく見つからないことを考えても、既に「アキハバラ」は定着していたとみるべきではないか。

■「大正14年説」

 明確に主張しているページは見当たらなかったが、消去法でいくと、シナリオとしては大正14年頃というのがいちばん納得できるのである。
 貨物駅当時は知名度も低く問題ではなかったが、一般客が使うようになり駅名の周知が進む。で、「おいおい、アキハバラじゃなくてアキバハラだろうが」「でも、明治23年から使ってる駅名なんだし今更言われても」みたいな。

 明治39年に日本鉄道会社は国有化されているし、鉄道省もちゃんとある。これで「鉄道省の役人」もばっちりだ。大正末~昭和初頭の荷風・鳶魚・臨風らの批判も年代的にしっくり収まる。

 つまり、明治23年説や昭和7年説に比べると無理がないのだ。

 だが、困ったことに神戸大学新聞記事文庫『大正ニュース事典』の大正14年前後の新聞記事には、上野からの高架化に伴う沿線の用地買収でモメたらしき記事はあるが、「駅名の抗議運動」らしき記事は見当たらないのである。
 また、荷風・鳶魚・臨風らの批判は、確かに年代的にはしっくりくるのだが、その中に「抗議運動」らしき事に関する記述が一切ないのも妙な話だ。大正14年~昭和初頭に「駅名を本来の読み方に改めてほしいとする地元住民の運動」だの「猛烈に抗議」だのがあれば、誰か(特に鳶魚)触れていてもよさそうなものだが。


 柳田国男『水海道古称』(昭和26年)に以下のような記述がある。
 東京市中の駅名のアキハバラなども、鉄道でそういうから誰も争わないが、明治初年に始めてこの地名の出来たときは、アキバガハラだった。
 『鉄道でそういうから誰も争わないが』。
 これをどう考えるべきか。柳田国男が単に、駅名でモメたことを知らなかっただけなのだろうか?

 様々なWebページや出版物に「アキハバラという駅名は田舎者の役人が地元の抗議・反対を押し切って勝手に決めた」という趣旨のトリビアが書いてある。

 書いてはあるが、その「秋葉原駅」というのは、明治23年の貨物駅なのか、大正・昭和になってからの旅客駅なのか、いったい「いつ」の「秋葉原駅」なのか書いていないものも多い。-書いてる人は、いったい何時ののつもりなのだろう?

 年代を特定しているWebページ・文献でも、俺が目を通せた範囲では、この「鉄道省の田舎者の役人」→「抗議」の経緯がそもそもどんな史料に書いてあることなのか、情報の元が書いていないものばかりなのである。
 『地方出身の鉄道省の役人が反対を押し切って決めたといわれ、神田の江戸っ子たちに大変不評だったという…だから、そう「いってる」のは誰やちゅーねん。
 出所不明の伝聞で新聞記事なんか書かれても困るんだが(笑)。

 結局、素人の俺にはこの「反対」だの「抗議」だのを示す史料を見つけることができなかった。
 年代あいまい、関係者の名前もなし、情報源も不明では、いったい何を手がかりに調べたらいいのかさっぱりわからない。こちらのページで紹介されている高田馬場問題のように『戸塚町誌』といった具体的な資料名があると検証もできるのだが。

 要するにこの話、すごくアヤシいのだ。

 実を申さば現時点では、そもそも本当にそんな「反対」運動や「抗議」があったのか? もしかしたらこの「ストーリー」は『友達の友達が言ってたこと』レベルの話が針小棒大に膨らまされてるんではないか…と少々疑っている。

 「アキハバラ」という駅名に文句がある人々がいたのは事実だ。それは荷風や臨風みたいなハードコアな証拠があるのだから間違いない。地元住民の中にだって文句を言ってた人はいただろう。今だって文句言ってる人がいるのだから(笑)。
 ちなみに、昭和7年説には上で疑義を呈しておいたが、 昭和8年発行の『大東京写真案内』では、”アキバハラ”という表記になっている。これは観光案内の類の書籍なので、「駅の正式名称」のままなのかどうかは今のところ判断できないが、後年まで”アキバハラ”派の人がいたであろうことは類推できる。

 だが、「神田っ子の猛烈な抗議」だの「反対を押し切って」だのという衝突が本当にあったのか?
 「アキハバラ」と誤読した「田舎者の役人」、「反対を押し切った」り「突っぱねた」りした「役人」というのは本当に存在するのだろうか

 「田舎者の誤読」というが、もともとの読み方も「アキバガハラ」ひとつだったとは思えないということは前回・前々回述べてきたとおりである。
 「抗議」したという「神田っ子」たちは、いったいなんと変えろと主張したのか?
 この説を紹介している書籍・Webページからして、「あるべき駅名」は「アキバノハラ」だったり「アキバガハラ」だったり、一定していないのである。

 この経緯に関する信頼に足る史料が存在するのなら、何故年代すら一致しない曖昧な「説」が並列しているのか? もしかしたら史料そのものが存在せず、『知り合いの爺さんが言ってたけど』的な単なる伝聞しかないのではないか…? もっと言ってしまうと、荷風らが「田舎漢」と批判したことや、地平鉄道に纏わる現実の抗議運動、高架化の時の土地買収での係争などが、いつの間にやら曲解と拡大解釈へ経て「物語化」したんではないのか、という気さえしているのである。

 根拠が薄弱なものであるのなら、「庶民の意思を踏みにじる田舎者の役人の横暴」という耳に快い物語として歴史を語るのは、公平なこととは思えない。

 ということで、この経緯-特に住民の反対「運動」-の原資料、ご存知の方は是非教えて欲しい。いや、マジで。

 確認できればすぐにでも自説を撤回する用意はある。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-07 10:40 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-発音の問題2:「アキハ」がマズかったのか?

 前回、「アキバ=下町訛り」という説に疑問を呈しておいた。

 何故この「アキバ=下町訛り」説に拘泥しているのかというと、「アキバ=下町訛り」という予断があると、「アキハバラ」という駅名に対して当時の人が感じた「違和感」を正確に理解できなくなる恐れがあると思うからだ。

 「アキハバラ」に違和感を感じ、批判した人がいるのは事実である。

 以前にも引用した山本笑月(深川っ子)。
こんな工合で秋葉の原は最後の賑わいを見せたが、二十一年貨物駅の敷地となって今はアキハバラ。
わざわざカタカナで「アキハバラ」と書いているところをみると、違和感を感じているようだ。
 笹川臨風(末広町)も、
秋葉つ原は、今ではアキハバラと変な田舎流の読み方をしてゐる
と文句をいい、小石川生まれの永井荷風にいたっては『断腸亭日乗』(大正15年7月12日)で、ばっさり。
烏森より高架線にて上野に往く。秋葉ケ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり
 さて、彼らが感じている「変な田舎流の読み方」とは、何のことなのだろう?

 ぜひ「アキバ=下町訛り」という予断を抜きにして考えてみてほしい。

 「秋葉原」という表記の"読み"が「アキハバラ」なのか「アキバハラ」なのか、あるいは「アキハハラ」なのかは、振り仮名が付いていないとわからない。そのまんま東国原宮崎県知事の例からすると、もしかしたら「アキババル」というガンダムに出てきそうな読み方の可能性もある(笑)

 いやいや、(笑)事ではない。
 「秋葉っ原」という表記は、「アキバッパラ」かもしれないが「アキハッパラ」とも無理なく読める。
 「秋葉の原」も、「アキハノハラ」「アキバノハラ」だったら、殆どの人が無理なく読める範囲と認められるだろう。

 例えば荷風は「アキハバラ」ではなく、どう読めば納得したのか? 荷風自身は「アキバハラ」が正しいとは一言も書いていないのだ。
 この荷風の一文、実はこれに続けてもう1センテンスあるのである。
 高田の馬場もタカダと濁りて訓む。
 つまり荷風は、
「アキハバラだのタカダノババなんて変な濁りで読みやがって。アキハガハラでタカタノババだろうが」
と言いたいのかもしれない、ということだ。

 荷風が「秋葉ケ原に停車場」の部分にルビさえ振ってくれりゃあこんな憶測はしなくて済むのだが、この文章からは彼が「アキハガハラ」と読んだのか「アキバガハラ」と読んだのか、判断のしようがない。

 ここで、「秋葉はアキバと読むのが下町訛り」という予断があると、「ははぁ、荷風はアキハが気に入らないのだな」→「つーことは荷風的に望ましいのはアキバハラ」という連想になりがちである。俺が「訛り」か否かに拘ったのはこのためなのである。

 「秋葉」を「アキハ」と読むとすれば「秋葉ヶ原」は「アキハガハラ」が自然だ。
 もしも荷風が「アキハガハラ」と読んでいたとしたら、むしろ「アキハハラ」の方が荷風の意図に近いかもしれないではないか。
 予断に基づいて「アキバハラ」などといったら
「アキハガハラもアキバと濁りて訓む。田舎漢多し」
と荷風に笑われるかもしれない(笑)。

 臨風の方も同様である。
 『今ではアキハバラと変な田舎流の読み方をしてゐるが、昔は秋葉の原、普通に秋葉つ原と呼んでゐた』
 荷風同様「秋葉の原」にはルビが振っていないので、臨風がなんと発音していたのかは字面からは判断のしようがない。
 残念ながら本書は原著が入手できず、『東京文学地名辞典』からの孫引きなので全文の確認はできていないのだが(2008/05/22訂正。昭和21年版の原著が確認できた。残念な事にフリガナはやはり振られていなかった)、もしも臨風の読み方が「アキハノハラ」「アキハッパラ」だったとしたらどうだろう。
 最善は今までの読み方どおり「アキハノハラ」だけど「アキハバラ」を認めるくらいなら「アキハハラ」でもOK、って可能性はないだろうか。

 「秋葉は訛りで必ずアキバになる」という前提を取っ払うと、違う可能性に思い当たる。

 つまり、「アキハ」「アキバ」がプライマリな問題なのではなく、「原」の読み方のほうが大きな問題だったのかもしれない、ということである。

 「戦場ヶ原」「関ヶ原」「青木ヶ原」「高天ヶ原」を「センジョウガバラ」「セキガバラ」「アオキガバラ」「タカマガバラ」と読んだら、「違和感」がないだろうか。

 「アキハ・アキバ」はどうでもいいが「バラ」という濁りが気に入らない。
 「原」をバラと読ませる地名は東京周辺では珍しく、イナカに多い(栃木-塩原「しおばら」福島-桧原「ひばら」、岡山-恩原「おんばら」宮城-初原「はつばら」山口-丸尾原「まるおばら」etc)。「アキハバラ」もきっとイナカ者が命名したのだろう。

 荷風らが言いたいことは、そういうことではないのか?

 と、ここまで書いたところで、幼少期を岩本町で過した三田村鳶魚の随筆『秋葉ばら』(昭和5年)所載の『江戸の旧跡江戸の災害』が届いたと近所の本屋から電話。
 これ、必読書と分かってはいたし、絶版でもない文庫なので簡単に入手できると思っていたのだが、なぜか手近の本屋には置いておらず、やむなく注文しておいたのである。

 一読、ガッツポーズした(笑)
 『秋葉ばら』という題からうすうす想像はしていたのだが、上で俺が推測したこととほぼ同様の趣旨が書かれていたからである。
今日の駅名は、本来なら花園町というべきはずなのだが、当時から通用の悪い町名だけに、耳慣れて知れやすい方(引用者註:「秋葉の原」のこと)にしたのらしい。それなら、何故に「の」の字を倹約したのだろう。タッタ一字で、原をバラと濁らなければ呼べなくもなり、聞えも変なものになった。それでも、秋葉の原と請け取ればいいが、我等などには何のことか分からない。倹約のムズカシイのは、ここにも証拠がある。ただ「の」の一字で、原をバラと読まなければならなくもなり、原称が不明にもなる。分かりましたか。
 鳶魚もプライマリには「アキバ」か「アキハ」かに拘っていない。「の」を削らなければよかった、なぜなら原をバラと変な風に読まなきゃいけなくなったから、というわけだ。
 文庫版のルビは「アキバノハラ」なのだが、鳶魚は少なくとも「アキハが変」とは一言も言っていない。問題視しているのは「アキハ」ではなく「バラ」の方なのではないか。
 推測でしかないが、もしも駅名が「アキハハラ」だったとしたら鳶魚も積極的には文句をつけなかったかもしれない。

【2013/03/26追記】
この「秋葉ばら」であるが、近デジの『江戸の実話』(昭11)でオンラインで読めるようになった。例の「悪魔町」なども詳述されているのでご参照願いたい。
尚、この本の中では「秋葉」はすべて「あきは」とフリガナされている(あきはごんげん、あきはしゃ、あきはのはら)ことを付言しておく。

 念のために繰り返すが、俺は何も「秋葉をアキバとは読まなかった」と主張しているのではない。確たる証拠は無いが、俺もおそらく「アキバノハラ」「アキバッパラ」という読みが、語感・言い易さの点から大勢だったろうと思っている。荷風も臨風も、実際には「アキバガハラ」「アキバノハラ」と読んでいたのだろう。

 だが、「アキハノハラ」「アキハッパラ」と濁らず読んでいた人もけっこう多かったのではあるまいか。前回見たように、神田の近所のアキハ横町の存在、「アキハノハラ」と濁らないルビが振られた文献、土岐善麿の証言、などの傍証はいくつかある。

 「アキハバラ」に対して違和感を呈する人がいるのは、「アキバでないから」ではなく、「原をバラと読む」例が東京では皆無だったからではないか。

 と、これが現時点での俺の推測。

 次回は「アキハバラ・アキバハラ」にまつわるよく聞く話、「本来はアキバハラだったのにアキハバラは田舎者の役人が反対を押しきって命名。地元の神田っ子は猛抗議したが結局ダメだった」という話に関して考えてみる。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-06 09:17 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-発音の問題1:「アキバは下町訛り」というのは本当か?

 世の中は澄むと濁るで大違い、ハケに毛がありハゲに毛が無し。

 「秋葉原」の語源に関して、例えばwikipediaの秋葉神社 (台東区)の項では
秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除け地(空き地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。
牧太郎二代目・日本魁新聞社BLOG 2006年8月23日
鎮火社が出来てから、この「秋葉の原」を「秋葉大権現」と勘違いする向きが多くなったのだろう。「あきば」は江戸下町訛り。秋葉大権現では「あきは」である。「あきば」と「あきは」は違う。
(中略)
官僚は新しく出来た駅の名前を「あきはばら」と読ませた。下町訛りの「あきばはら」を無視したのである。本来は「あきばはら」である、と亡くなった母は盛んに力説していた。
 などとする文章がある。

 さて、「秋葉」という文字を「アキバ」と読むことが「訛り」だろうか?

 言語学的定義は知らないが、一般に「訛り」といえば、「東」を「しがし」と、「社長」を「ひゃちょう」と読むなど、<標準的な発音>とは異なる発音の仕方という意味である。
 確かに秋葉山本宮秋葉神社の「正しい」読みは「アキハ」なので、「アキバ」は「間違った」読みである。だが、漢字表記「秋葉」を「アキバ」と読むことは<標準>から逸脱した読み方であるとは言えないのではあるまいか。

 やはりこれは「訛り」ではなく、「誤読」等というべきなのではないか。

 …とまあ、こういうのは揚げ足取りの言いがかりに近いか(笑)。
 だが、この「秋葉は下町訛りでアキバと発音した」という話、いささか問題があると思っているのである。
 この話、断定できるだけの根拠があるのだろうか?

 この「アキバ=下町訛り」説は、『下町では"秋葉"は常に"アキハ"ではなく"アキバ"と読まれた』という認識を含意している。

 ところが、神田のすぐ近くに、秋葉と書いてアキハと読んだ町名があったらしいのだ。
明治41年発行『新撰東京名所図会第五十二編』の『下谷區の部 其二 池之端七軒町』の項;
○秋葉横町
 里俗北側の横丁を秋葉横町(あきはよこちやう)と呼ぶ。
 府内備考に云、七軒町の内、東側中程より池の端へ曲り候横町の儀を秋葉横町と里俗に唱候儀は、右横町右側に慶安寺と申禪宗寺有之、右境内に秋葉社有之候、右故唱来候儀に御座候。
 慶安寺という曹洞宗のお寺がかつては上野池之端(不忍池のほとり)にあり(大正二年に現在の杉並区に移転)、『老中阿部豊後守忠秋が本尊虚空蔵菩薩、秋葉権現を寄進。それで秋葉寺、秋葉横丁、紅葉寺などと呼ばれた』のであるが、どうもこの秋葉横町は「アキハ横町」と読まれたらしいのである。
 上の『名所図会』の原文には振り仮名が振られているのだが、「あきはよこちやう」となっている。ルビの活字の問題かと思ったが、同じページにある「不忍池」のふりがなには「しのばずいけ」と振られている。どう見ても「ば」「は」は別のルビ活字である。

 江戸~明治に池之端の秋葉横町をアキハ横町と読んだすれば、「江戸っ子だったらアキバでぇ」みたいな説は少々あやしく思える。
 「池之端は上野のお山の上だ。下町じゃない」と言われると確かにそうかもしれない。だが、湯島天神のすぐ隣、秋葉原から1キロちょっとしか離れていない場所である。江戸ー明治当時でも、それほど生活環境が違ったようにも思えないのだが。

 高輪の「白金」、神田の「白銀町」はどちらも「しろかね」と濁らない振り仮名を使った文芸作品が多数確認できる。
 今ではほとんどの人間が「こまがた」と濁って発音している「駒形」も、明治期の文章では「こまかた」とフリガナしてあるものが見受けられる。夏目漱石『彼岸過迄』芥川龍之介『大川の水』)、その他

 「しろかね」「こまかた」はどちらも鼻濁音なので「アキバ」と単純には比較できないが、「秋葉の原」も調べてみると、「アキハ」というフリガナが確認できるものもいくつかある。
 以前引用したとおり、森鴎外『雁』(明治44)は「アキハ」である。
 三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』でも
根津七軒町の喜連川(きつれがわ)様のお屋敷の手前に、秋葉(あきは)の原があって、その原の側(わき)に自身番がござります。
 極端な例として、『東京名所図会』(原田眞一、明治二十三年)では、『秋葉原』という表記に対して『あきハの』というひらがなカタカナ混在のフリガナを振っている(『原』にはフリガナなし。記述は鉄道建設計画時点のもの。まだ秋葉原駅は出来ていない)。

 確かに文学作品や観光ガイドの例では著者が「実際の読まれ方」を反映して表記したなどと断言は出来ない。
 だが、生の証言の例もある。
 ひつじ書房『東京弁は生きていた』に浅草育ちの土岐善麿のインタビューが載っている。
 秋葉原の読みを問われた善麿翁、断言して曰く「アキハッパラですね」

「浅草」も「下町」じゃないといえばその通りだが、それは些か狭量に過ぎないか。

 確かに「秋葉つ原」「秋葉ノ原」「秋葉ガ原」と<表記>されたことは文献で容易に確認できる。
 だが、それらが「下町訛り」によって、必ず「秋葉」が濁って「アキバ」と、「アキバッパラ」「アキバノハラ」「アキバガハラ」と発音された、などと断言してしまっていいのだろうか?
 「アキハッパラ」「アキハノハラ」「アキハガハラ」と濁らずに発音された-即ち、「アキバ=下町訛り」説の基準では「訛って」いない例も少なからずあった、とみるのが妥当なのではないか。

 個人的キモチでは、『正しくはアキハだが、下町訛りでアキバと読んだ』などと断定口調で言われると、「もしかして下町の人間全員が、ホントはアキハと知ってたとしてもアキバと読むような馬鹿もしくは言語能力的に不自由な連中だとでも思われてんのか?」と軽く腹立たしくもある(笑) 「アキハ」と知ってりゃあ「アキハ」と読むだろう、普通。

 「アキバ=下町訛り」説にいくつか疑問を呈したが、誤解しないで欲しいのは、俺は「アキバと発音されたのではない」と主張しているのではない、ということだ。
 「アキバ=下町訛り」説に内包されている「秋葉は常に"アキハ"ではなく"アキバ"と読まれた」という予断、俺が問題視しているのはこの『常に』の部分である。
 実のところ俺は、この「予断」があるから、ここから展開される論理そのものがおかしくなってるのではないか、と思っている。

 冒頭で引用したwiikipedaの文章も牧太郎二代目氏の文章も、「下町訛りでアキバなので、、駅名のアキハが問題になった」と読める。

 これ、本当にそうなの? というのが次回のネタ。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-05 09:05 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-表記の歴史:「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」…?

wikipediaの秋葉原駅の項より
地名としての秋葉原の読みは、駅の開業までは「あきばがはら」。古くは「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼ばれていた。現在秋葉原は通称「アキバ」と呼ばれることが多いが、これは偶然だが昔の呼び方に近い。
 これが通説・定説のようである。

 『秋葉原』という地名を表すのに、どのような表記が使用されてきたのか、調べられるだけ調べてみた。

  • 「秋葉の原」(秋葉ノ原)
     既に見てきたように、山本笑月や森鴎外などの随筆・文学作品、当時の新聞記事などでも「秋葉の原」は使用されており、この表記が通用していたことは間違いない。

     明治20年発行(17年頃の測量)の地図『東京5千分の1』で「秋葉ノ原」という記述があることは既に書いた。特にこの地図では「字秋葉ノ原」と「字」付で表記されており、明治20年頃(火除け地としては末期の、行楽地化していた時代)には、「秋葉の原」はある程度公的に通用していたのではないかと思われる。

  • 「秋葉っ原」(秋葉ッ原)

     さすがに「秋葉っ原」というざっかけない表記は公式文書の類では見当たらないが、文学作品では言及がある。
    笹川臨風『明治還魂紙』(昭和21年)
    秋葉つ原は、今ではアキハバラと変な田舎流の読み方をしてゐるが、昔は秋葉の原、普通に秋葉つ原と呼んでゐた。神田佐久間町の附近で、一面に広漠の原、秋葉権現の社があるので、俚俗之を秋葉つ原と称する。
     残念ながら原著は未入手。以上の文章は槌田満文『東京文学地名辞典』(昭和53年版)より孫引き。(2008/05/22追記。原著を確認することが出来た。内容は同じだった)
     笹川臨風は明治3年神田末広町生まれ。書かれたのは昭和21年と最近(笑)だが、上記文章は小学校時代を回想したものとの由。とすると明治10年代、広漠の原というからには遊興地化する以前であろうか。

    定本 艶笑落語〈2〉艶笑落語名作選の中にも演目『秋葉ッ原』が見える。

  • 「秋葉が原」(秋葉ケ原/秋葉ヶ原)

     まずは文学作品から。
     泉鏡花『幻往来』(明治32年)
     秋葉ケ原あたりで轟々といふ汽車の響。見附の人通も、ちらほら、夜は未だ然までに更けては居らない。
     大正~昭和初期の鉄道関連記事を纏めている神戸大学新聞記事文庫を検索してみると、「秋葉ケ原」(「秋葉ヶ原」)と記述している大正時代の新聞記事がいくつか見つかる。

    歳末財界概観 (上・下) : [大正二年末の金融市場 其二] 時事新報) 1913.12.16-1913.12.17 (大正2
    尚お秋葉原駅を見れば不信の状況一層歴然たるものあり即ち左の如し
    十、十一月末は外米輸送の為め秋葉ヶ原開設以来未曾有の盛況なりしに比しては十二月が昨年同期と殆んど径庭なきが如き之を不振と称するも
    年末の運輸状態 : 全線の滞貨約四十四万噸 汐留秋葉ケ原はそうでもない (中外商業新報 1917.12.9 (大正6))
    秋葉ケ原駅でも大体同様の状態で日々の着車か五十噸位少い位のものである
    無賃輸送の第一日 : 効果直に現わる秋葉原駅 : 前夜来米二千噸の発送申込 : 野菜などは逆輸送の珍現象 (読売新聞 1919.7.25 (大正8)
    此の日神田秋葉ヶ原貨物駅に就て米その他の食糧品の発着を訊くと杉本駅長は語る
    特別小口扱に必要な諸設備 : 全国重要駅に施す : 鉄道省の新計画? (大阪朝日新聞) 1926.12.24 (大正15)
    しかして全国から選定された駅は左の如くで、半数は未決定の分その他である
    本州の部 汐止、両国、飯田町、田端、秋葉ケ原
     秋葉原貨物取扱所(秋葉原駅)が出来てからかなり時間がたった頃の記事だが、ひとつの記事の中で「秋葉原」「秋葉ヶ原」を混用しているところをみると、「秋葉が原」は慣用として定着していたようである。
     この記事データベースの大正・昭和期の記事からは、逆に「秋葉の原」は見当たらない。大正のマスコミは「秋葉が原」派だったのかもしれないが、大正期には「秋葉が原」の方が通りがよくなったということも考えられる。
     また、この記事データベースでは、昭和期の記事からは「秋葉が原」表記が見当たらないのもおもしろい。大正14年の旅客扱い開始で「秋葉原」という駅名が定着したからではないか。

  • 「秋葉原」

     「が・の」無しの「秋葉原」表記は、貨物駅開業のという説が一部にある(冒頭のwikipediaの記事『駅の開業までは「あきばがはら」。』)が、実際には表記自体は、秋葉原駅設立前から使われていたようだ。

     例えば、前出のチャリネ曲馬団の活躍を伝える明治19年9月3日の朝野新聞記事。
    チャリネ大獣苑曲馬は、外神田秋葉原にて一昨日より興行せしが、獣苑及び曲馬場はすべて天幕を以って蔽い、
     東京市史稿・市街篇第73-001『上野・神田佐久間河岸間貨物鉄道敷設認可』(明治20年)に、日本鉄道会社社長、奈良原繁から東京府知事に宛てた工事仕様書が掲載されているが、その中にも『河涯(秋葉原河岸)ニハ神田川ト凡ソ八拾度ノ角度ヲ以テ』という記述がある。
     建設申請の仕様書なので当然この時点では公式には「秋葉原」駅(秋葉原貨物取扱所)は存在しないが、「秋葉原」という表記は公文書上でも使用されていたことになる。
     「ノ」や「ガ」の意図せざる脱字、あるいは『秋葉原』駅という名前は既に日本鉄道内部では決まっていたため、という可能性はあるが、社長から府知事宛の公文書であるので脱字の可能性は低いように思えるし、文脈からすると単なる地名として使っているように読める。

     市街篇第80-560『日本鉄道株式会社、上野・秋葉原間ノ運輸ヲ開始ス』(明治23年)の項には、日本鉄道から府知事宛の開通届け(73-001『鉄道布設願』と同じ奈良原繁名義だが、肩書きが『社長』ではなく『社長代 理事委員』になっている。もしかして降格か?)と、明治23年11月1日・2日の、上野・秋葉原間の開通を報ずる『時事新報』記事が記録されている。
     開通届けは「上野・秋葉原間」とあるが、記事の方は「上野・秋葉間」「神田秋葉ノ原」「秋葉停車場」などが混用されている。


 考えてみれば「ナントカ○原」の○に入るのは、「の」か「が」か「っ」、それから「の」が訛って「ん」、くらいしかない。
 結局のところ、表記上は「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」「秋葉原」「秋葉」、ほとんどのパターンが登場しており、なんでもアリだったのではないかと思われる(笑)。

 統計的な確認はできないが、wikipediaの記述のあるような、初期には「秋葉の原」・「秋葉っ原」、その後「秋葉が原」・「秋葉原」などが使われるようになったらしき傾向は見て取れる。

 実はこの「事実上なんでもアリだったのではないか」という推測は、この後の俺の思考の方向性を決めるきっかけになったのである。

 「『アキバガハラ』でないとダメだと抗議活動があったみたいな話があったけど、こんなに色々な表記があるのに、コレでなきゃダメなんて<抗議>、ほんとにあったのかな? それも調べてみようかな」

 人はこうして泥沼にはまる(笑)

 で、次回以降、この話について調べてみようと思う。
 「表記」に関しては大体わかった。次は「発音」の問題を調べてみる必要がある。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-01 11:27 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-貨物取扱所【秋葉原駅】(明治23年~昭和7年)

 明治19年のチャリネ曲馬団の興行から数年後、庶民の行楽地だった「秋葉の原」は東京府から日本鉄道会社に払い下げられ、明治23年、上野から、秋葉の原跡地に建設された貨物駅まで貨物鉄道が引かれる事になる。
 秋葉原駅の誕生である。

 こと鉄道関係は鉄ヲタエキスパートの方が多数いらっしゃるので滅多な事は書けないし、書くつもりもない(笑)。
 だが、今回自分で調べてみたら、今まで目を通した「秋葉原の名前の由来」では読んだ事がなかった大騒動が起きていたことを知ったので、記しておきたい。


■経緯

  • 明治20年11月17日 上野・神田佐久間町河岸間貨物鉄道敷設認可
  • 明治21年 6月 7日 上野・佐久間河岸間鉄道敷地買上価額決定
  • 明治21年 7月11日 鎮火神社移転地所買上
  • 明治22年 5月17日 上野・佐久間河岸間鉄道敷地買上価額更正
  • 明治23年 1月28日 上野・佐久間町河岸間地平鉄道廃止ノ建議
  • 明治23年 5月24日 廃線訴訟裁判開始
  • 明治23年11月 1日 日本鉄道会社上野・秋葉原間開通
■どんな駅だったのか

 東京市史稿 市街80-560『日本鉄道会社上野・秋葉原間開通』(明治23年11月1日)に当時の『時事新報』の記事が記録されている。
 秋葉停車場は同所(引用者註:神田秋葉ノ原)の中央より少しく西の方に設け、往復二線を挟み数十間の荷物積込場二棟を建築し、場の南端は神田川に面し、此に運搬口二箇所を開き、門を入りし左手には同社運輸課の事務室一棟、又北隅には内国通運会社を始め府下各運送業者の荷物倉庫二棟をい、ろの二号に別ち建設せり。棟行各三四十間、其他運送問屋の事務所あり、人夫小屋及び運送馬車、荷車置場等の配列は都て運搬の便に意を注ぎたるものの如し。
 内国通運会社というのは今の日本通運の前身の国策会社。
開業の明治23年時点ではまだ神田川から引き込んだ小さな港(舟掘り)は出来ていなかったようだ。

 この時代なら駅舎の写真くらい残っていてもよさそうだが、俺には見つけられなかった。
 その手の資料は鉄ちゃん鉄道に通暁している人に譲る。

 かなり後年のものと思われるが、『神田市場史 上巻』(神田市場協会 昭和43年)口絵より、「震災以前の秋葉原貨物駅」とキャプションされた写真を引用しておく。これがここで言ってる秋葉原貨物取扱所と同じ駅舎なのかは不明だが、「震災以前」というキャプションを信じるなら、旅客営業の前の写真ということになる。
c0071416_9394636.jpg
尚、この写真、まったく同一のものが大正14年のものとして紹介されている事もあるらしい。大正14年だと旅客駅になった後の駅舎ということも考えられる。確かに貨物駅にしちゃあ立派で新しいようにも見えるよなぁ。
いったいどれを信じたらいいのやら(笑)。

千代田区立和泉小学校のページでは、かなり初期のものと思しき秋葉原貨物駅の写真が紹介されている(同写真提供の「レオ マカラズヤ」とは神保町の鞄屋さんであるようだ)。

---------------------------- 2/5 追記 -----------------------
「震災前」という記述は間違いである可能性が高い。
『写真集山手線』(立風書房 昭和55年)に同じ写真が掲載されているが、こちらによると「大正14年頃」というキャプションである。よくよく見てみると、左上の方に見えるのは高架のホームのようだ。だとすると、神田ー上野間の高架線開通が大正14年11月1日であるから、その時分の写真ということであろう。
 この写真集には戦前の秋葉原山手線ホームや昭和初期の秋葉原駅内部、高架線の工事の模様など珍しい写真が掲載されている。

また、明治32~33年『新撰東京名所図会 神田区之部』の中に、 和泉小学校のページで紹介されている写真と同じものが掲載されている。
--------------------------------------------------------------

■秋葉原貨物線の大問題:地平鉄道

 『市街80-560』に記録されている『時事新報』の記事は、いきなり『苦情多かりし彼の上野・秋葉間の鉄道線路工事』と書き出している。
 何がそんなに苦情が多かったのだろう。
 十三箇所踏切の内道路狭隘にして最も危険の場所なる山下及び神田花田町には特に番人三名を置きて運搬汽車通行の際は一々綱を張る事になし、又仲徒町一二三四丁目忍川通り里俗青石横町提灯店の間には木戸を設け、番人二名を置き、其他の場所には一名宛見張りを置く事に定めたりと。
上野迄凡一哩余を十分間の速力にて行進せり。尤も昨日は此一回限なるが、本日よりは日々六回として左の如き定時往復をなすと云ふ。

(ダイヤは省略)
 上野・秋葉原間10分間? 1.2マイル≒1.9キロほどの距離で? 山手線だと御徒町に停まっても4・5分、のんびり歩いてもせいぜい20分くらいじゃないか。時速12キロってのはいくら岡蒸気でもちと遅すぎないか?
僅に一哩程の行進時間に於て十分を消するは甚しき遅行なれども、右は兼て本線の布設工事に就ては苦情の百出したる暁なるがゆえに、注意に注意を重ねて斯く行進時間を緩慢ならしめたるもののよし。猶ほ又線路に当る十三箇所の横切往来には充分なる警戒をなせりとぞ
 街中を走らせたため、危なすぎると苦情百出だったんで、踏切に番人や見張りを置き、わざとゆっくり走らせる、と。
 う~む。確かに、街中に後付で蒸気機関車走らせりゃあ、そういう事になるだろうなぁ。

 実は、計画の当初からこの点は指摘されていたのである。

 市街73-001『上野・神田佐久間町河岸間貨物鉄道敷設認可』の中でも、再三『一般に不便の害を蒙るべき懸念』だの『公衆の安全を妨害する懸念』だの「鉄道なんかよりウチが答申している運河の拡張事業の方がいいってば」だの、内務省や農商課から横槍が入っている様子が記録されている。

 結局、規模縮小などの修正を加えた上で認可はされ、工事が始まったが、なんと開通前から廃止が審議されちゃってるのだ(笑)
「上野・佐久間町河岸間地平鉄道廃止ノ建議」(市街78-896 明治23年1月28日、資料として掲載されている東京日日新聞の記事)

 明治23年1月28日、下谷区会より東京府知事に対し、上野・神田佐久間町河岸の間に建設中の日本鉄道会社貨物線は地平鉄道なるを以って在来道路を切断し交通上の一大障害となるのみならず、火災予防上憂慮すべき点少なからずとし、該線路を廃止せられたしとの建議をなす。
 これより該線路廃止の運動盛んとなり工事一時中断の姿となりたるも、五月に至り閣議は、将来市区改正設計に議定しある新橋・上野間の高架鉄道着工に及んでその一部分たる同社地平鉄道も又高架に改たむることを条件として工事の再開を認む。
 地平鉄道とは高架でも地下でもなく普通の地べたを走ってる鉄道のこと。
上野 秋葉原間鉄道に地元住民反対(明治23年2月23日 時事)

上野、秋葉原間の鉄道に就いては、下谷区に於いて、このほどよりしきりにその布設を危険なりとし、これが苦情を訴うるもの少なからず。現に下谷区会のごときはその決議を以って、該布設を変じ運河を開鑿せしむる事に改めたしとの建議を、その筋に提出せしが、なおまた同区の公民も前同様の意見にて、去る十七日、区会の議事堂に於いて会議を開きたる末、鈴木信仁、宮木経吉両氏外三名を総代に撰定して、これに建言書の起草をも委托し、その筋に建議する事に決定し、
 下谷区会(今で言う区議会)が、「街中横切って交通の邪魔だし、機関車の火の粉で火事になったらどうするんだ! 鉄道なんか廃止して運河を作れ!」という決議を出したのである。
 防火の神様に由来する名前を持つ駅を作ろうって時に、火事を心配されるとは(笑)

 で、とうとう裁判沙汰
廃線訴訟の審査開かれる(明治23年5月25日 毎日)

上野、秋葉原間地平鉄道廃止勧解願の件は、昨二十四日を以って、京橋区治安裁判所に於いて初対審の開廷あり。(中略)願い人は、上野、秋葉原間に地平鉄道を敷設することは、不利と危険と営業上の妨害ある理由を詳申したるに掛り、判事曰く。本件は新聞紙上に於いても、しばしば記載あるを散見したれば、理由ある所は疾く承知せり。
(中略)
元来、被願人に於いては、たとい政府の許可ありたるにもせよ、下谷区三千六百有余人有志者等より、廃鉄道の請願書を差し出し居り、かつ区会市会等の決議の趣きをも知りながら、断わりなく工事に取り掛かる等のことは、穏やかならずと説諭ありて、(後略)
 工事は一時中断の憂き目にあう。結局、将来的に高架にすることを約束して工事再開。

 そんな非難ゴウゴウの紆余曲折の中、ようやく開業したが冒頭のザマだった…というわけである。
--------------------------------- 2/5 追記 ----------------------------
 明治32~33年『新撰東京名所図会 神田区之部』『日本鐵道會社秋葉原貨物取扱所』によると
 而して其列車の進行速度は殆んど人歩するが如く極めて緩慢とす。当初區民の苦情多きより、同社技師長毛利重輔及び取扱所々長村上彰一氏等の如きは、其緩なることを示さんか為め汽罐車の前面に歩行せしことなどありしといふ
カイワレ大根だの鶏肉だの喰ってみせるみたいなものか。
------------------------------------------------------------------------
 もっとも、開業後しばらく立ってからは好意的な記事も出てきたようだ。
荷主も会社も利益大きい(明治24年4月19日 朝野)

上野、秋葉原間鉄道開通後の結果 開通の際、一時非常に世間の攻撃を蒙りたる同鉄道は、その後すこぶる好結果を呈し、(中略)従来牛馬の力を借りて運搬し、高価なる賃銭を払いたるものをば、神田河岸より舟に積み替え、直ちに本所、深川等へ転漕するを得る都合にて、荷主の利益一方ならず。(中略)元来、同会社が割合に多額の費用を投じ、興論攻撃の焦点となるを顧みず、断然開通の運びに至りたるは、その実会社の利益を図らんがためにあらずして、またただ荷主の便益に注意したるまでなりといえり。

 なんだかチョウチン記事くせぇなあ(笑)。

 まあ、根本的に無理のある路線であったことは間違いない。
東京上野高架決定 電車開通十一年初 蒸汽線は十五年中 時事新報 1919.10.22(大正8)によると
 秋葉原貨物停車場は高架線の貫通する処となるを以て現在の状態を維持し難く又現在の秋葉原線は市の道路を平面交叉し交通上の不便及危険測り難きものあり
 従て同停留場設備の変更は勿論同線路も之れを高架とするの要あるは論を俟たず
 又同停留場は若し将来貨物の増加を慮り今日よりも大規模の高架式貨物設備を設けんとせば巨費を要するのみならず敷地買収の為附近関係住民の迷惑多大なるべし
 然りとて同駅は古き歴史を有し且つ市民の物資集散上必要欠くべからさざる貨物駅なるを以て到底全廃するを得ず
 仍て構造は高架式とするも多大の面積を要せずして比較的貨物取扱能力を著しく発揮し得べき設備を施す様考慮を廻らしたり
 斯くの如くするも猶艀取貨物の大部分と陸扱貨物の一部に制限を加うるの要あるに至れるは已むを得ざる処なりと雖も此苦痛は将来越中島線の開通によりて自ら大に緩和せらるべし
 叙上の如く運転上の制限を加え線路□の□少を図るのみならず工事施工上多大の困難を顧みず秋葉原線現在敷地は努めて之を利用することとせり
 この「秋葉原線」というのは貨物線とは別の路線かもしれないが、いずれにしても秋葉原の鉄道事情は大正8年にいたっても、『市の道路を平面交叉し交通上の不便及危険測り難きものあり』だったわけだ。

 明治23年の高架化の約束が完全に果たされたのは、結局40年あまり後の昭和7年になってからだった。

 さて、秋葉原の初期の歴史に関していろいろ調べてみたのだが、そろそろ飽きてきたので纏めに入ろうと思う。

 俺のそもそもの興味の焦点、「アキハバラという呼称」に関する問題を次回以降で。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-29 09:45 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-火除け地、その後の様子は?(明治3~21年)

 どうも火除地というのは本来の目的と機能を失い、だんだんと『公園化』していくのがありがちな事だったようだ(『江戸のファーストフード』大久保洋子『東京都の百年』石塚裕道・成田龍一など)。

 秋葉の原も例外ではなかったようで、昭和10年発行の『神田文化史』(中村薫・神田史蹟研究会)によれば、明治20年前後には見世物興行、食べ物屋、立ち食い屋台、浪花節、居合い抜き、吹き矢といった遊興施設が立ち並ぶ楽天地だった、とされている。

『明治世相百話』山本笑月 中公文庫によると;
 神田佐久間町の秋葉の原といえば、神田ッ子には思い出の多い遊び場所、元は火除地で火防の秋葉神社が祀ってあった(引用者注:だからそれは勘違いだってば)。方二、三町の空地で、最初の貸自転車屋があり、借馬屋があり、花相撲や軽業もときどき興行、チャリネの曲馬も第一回はここで大当り、平素もなかなかの賑わいで、明治二十一年鉄道構内になるまでは全くの平民的遊園地。
 自転車は木製鉄輪で朱塗りの粗末な代物、三輪車、二輪車、そのほか達磨と称する、一輪はずっと大きく後輪は小さいこれも二輪車、よく乗れたものだと我々はただ感心して見物、いつも三輪車で我慢した。借賃は十分間二銭だが、たいていは二、三十分乗ってしまう。達磨の連中はそれで市中へ押し出し立派に乗り回していたが、いま見たらあまり立派でもあるまいが明治十五、六年の話。
 借馬屋は原の西南隅で、軍馬の払い下げみたいのが四、五頭、馬場を四回まわってひと鞍が四銭、主人は騎兵曹長の上りで初心者には丁寧に乗り方を指導。お蔭で私も初めて馬の味を知ったが、最初は馬が心得て、三回もまわるとずるい奴はさっさと小屋へはいりかけ、一回誤魔化そうとする。大体、借馬は乗手より馬の方が利巧のようだ。あるとき外出の客があったが馬ばかり帰って来た。さすがに主人も心配していると、後から乗手が泥だらけになって戻る、なんてえのがちょいちょいあった。
 チャリネの来たのは明治十九年の夏、人テント張りで篝火のような照明が昼を欺く。なにしろ大がかりで動物園そのままの象、虎、ライオン始め見事な馬が十何頭、すばらしい曲馬や曲芸に東京ッ子の眼を驚かして大した景気。十月ごろ築地の海軍原へ移って第二回、ここでは暴風雨にあってテント破損の大痛事。最後は浅草公園の六区でまた盛況、こんな工合で秋葉の原は最後の賑わいを見せたが、二十一年貨物駅の敷地となって今はアキハバラ。
チャリネというのはイタリアの曲馬団(今で言うサーカス)の興行師。本名のChiarini(キアリーニ)を変読したのだな。明治19年9月1日から秋葉の原で興行を打ち、大好評で延長興行、皇居吹上御苑で皇族方にもお見せしたとか。

伊太利亞國チャリネ世界第一大曲馬遊覽之圖
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 余談だが、笑月の文章には『最初の貸自転車屋』すなわち「レンタサイクル発祥の地」であるかのような記述があるが、時期が書いていない。
 『明治ものの流行辞典』柏書房によると、明治9年の『花都女新聞』に上野広小路で三輪自転車を借りて広小路一周で1銭5厘、との記事があるそうだ。笑月の言うとおりだとすると秋葉原に貸し自転車屋が出来たのは明治9年以前の話ということだろうが、これは確認できていない。明治20年5月14日付け毎日新聞(明治ニュース事典No3所載)には
 自転車は近頃しきりに流行し、神田秋葉の原、下谷佐竹の原を始め各町の同貸車は、車の引き足らぬほど忙し。殊にこの頃は乗客が達者になりたれば、三輪車は乗り手尠なく、重に二輪車の大形を好む由にて、同車製造の註文陸続あり。賃貸は上等三輪車、二輪車一時間およそ四、五銭なりと。
とあり、明治20年頃には各地で貸し自転車業が営まれていたようである。

 この当時の秋葉原への言及がある文学作品もいくつかある。

森鴎外『雁』(明治44年)にも
この娘が玉(たま)と云う子で、母親がなくて、親爺(おやじ)と二人暮らしでいると云う事、その親爺は秋葉(あきは)の原に飴細工(あめざいく)の床店(とこみせ)を出していると云う事などを知った。
なんて記述があるし、現代の作だが当時を舞台にしている山田風太郎の『警視庁草紙』には
 秋葉原はそのころまわりは草ぼうぼうの原っぱであった。―そもそも秋葉原という名がこのときから六年ほど前に出来たもので、明治二年ここを火除地とし、火伏せの神遠州秋葉神社を勧請したことから発生したものだ。だから語源的には、現在通用している「あきはばら」の名はまちがいで、「あきばはら」と呼ぶのが正しいだろう。
昼間はその原っぱには屋台や大道芸人などがたくさん出ているのだが、もう三日月の浮かび出した空に枯葉が乱れ飛んでいるうす気味悪い夕方で、秋葉原にはほとんど人影はなかった
 …風太郎先生、勿論ちゃんと取材されたのだろうが、三重に間違ってます
 火除地にしたのは明治3年だし、勧請したのは「遠州秋葉神社」ではないし、仮に秋葉神社だとしたら、本宮秋葉神社は「アキハ神社」が「正しい」読み方なので「アキハバラ」で正しいのである。(リンク先のローマ字参照)。

 天下の山田風太郎まで間違ってるとなると、「秋葉大権現勧請説」も相当に根が深いな(笑)

 ちなみに、青空文庫を「秋葉」をキーワードにググってみると、他にも幸田露伴、泉鏡花、林不忘、小栗虫太郎などのビッグネームが「秋葉原」に言及しているようだ。比較してみるとおもしろいかもしれない。

俺は面倒だからやらないけど(爆)
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by SIGNAL-9 | 2007-01-24 14:27 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-火除地の成立と鎮火神社

 勝手に妄想した「秋葉神社の謎」を調べていくうちに、秋葉原の由来について知らなかったことがいくつか判ったので、備忘として書いておく。

 不思議だったのは、「秋葉大権現が勧請された」という説がわりと広範囲に流布していることだ。インターネットだけならまだしも、市販されているそれなりの歴史の本にまで。
 この説は間違っている可能性が非常に高い-個人的には誤りであると確信している-ことは既に書いた

 そもそも、秋葉原に火除地が設定された経緯は公文書として残っているのである。隠された闇の歴史を暴き出すようなタグイの本で無い限り、フツーに調べれば、「秋葉大権現勧請説」が怪しいということは-俺みたいなド素人でも-わかると思うのだが。

 『東京市史稿』、全169巻というトンデモない量の、東京行政の公文書の集大成である。市販もしているし東京都内の多くの公共図書館は所蔵しているらしく閲覧は容易だ。
 近所の図書館にあったので俺も閲覧してみた。

東京市史稿
市街篇第51(市街51-0001 )火除明地ニ鎮火社設立

遊園篇第4(遊園4-0225)鎮火社創建

 これらを参考に、『秋葉の原』について纏めてみる。
 もっとも、時代が時代だけに全編これ候文である。俺はソーローソーロー言われると非常に気分の悪くなる性質なので(笑)、誤読誤訳誤解釈しているところは多々あるはずだ。Blogに晒す以上ウソ書くつもりはないが、浅学菲才の故、誤りがあれば大方のご指導を仰ぎたい。

■経緯
  • 明治2年12月12日 午後10時ごろ 神田相生町20番地、塗師職の金次郎方から出火。周辺八ヶ町全焼、他三ヶ町に延焼。約1100戸焼失。ただし焼死人は女性一名のみ。
  • 明治3年1月20日、年寄より被災地住民・地主などに神田佐久間町一丁目を火除明地とする旨申し渡し。 【訂正:2013/03/11】 コメントでご指摘頂いたので本行削除
  • 明治3年10月15日 鎮火神社の鎮座祭実施。
■「火除地」(火除明地)とはどういうものだったのか?

 『市街51』・『遊園4』に、設計図が付いている。
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  • 北 150間5尺(274メートル)
  • 南 153間4尺(279メートル)
  • 東  57間5尺(105メートル)
  • 西  60間3尺(110メートル)
の長方形で、面積は約9008坪(29、800平方メートル)。
 ざっくりだがサッカーコート(105×68メートル)二面分くらいの広さだろうか。

 廻り四方を高さ三尺(1メートルくらい)の低い土手で囲んで、草木や花を植えたらしい。
 土手に設けた入り口(幅三間≒5.5メートル)は全部で7つ。南側(神田川側)に鳥居を設けた(この入り口だけ大きくて五間≒9メートル)。

 各入り口には立て札を立てた。
1.構内の竹や木をとったり、ごみを捨ててはいけません
1.不浄のもの・車馬の通行は禁止します
1.土手に上ってはいけません
「秋葉原」火除地の絵図・写真を探したのだが見つからなかったので、参考までに、『江戸名所図会』巻之一 天枢之部から護持院ヶ原の様子の絵を上げておく。規模も時代も違うが、イメージ的にはこんな感じだったのではないか。
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2007/08/20追記:その後「秋葉っ原」の写真を見つけた
■場所が確認できる地図は?

 一般書店で入手しやすい、当時の地図帳を探してみた。

 『江戸から東京へ 明治の東京』人文社 所載の『明治11年実測東京全図』と『明治20年 東京5千分の1』が地図精度が比較的高く、現代の地図と相互参照しやすい。
 ちなみに前者では『秋葉社 火除地』として、後者では『鎮火神社 字秋葉ノ原』と記載されている(秋葉ノ原と記された地図、ようやく見つけた)。字(あざ)がついている所をみると、秋葉ノ原という俗称がこの時代にはある程度公的に通用していたのかもしれない。

 同書に含まれている他の地図でも鎮火神社は確認できる。
 『明治4年 東京大絵図』では『鎮火社』、『明治8年 東京大区小区分絵図』では単に『鎮守』と記されている。
 『明治45年最新番地入東京市全図』には鎮火神社移転後の『秋葉停車場』が記載されているが、停車場のすぐ脇に、神田川から運河が伸び小さな港のようになっている様子が確認できる。

 余談だが、この本でも『この一帯の焼失地の住民を立ち退かせ、空き地として火除地を造成した。そこに火伏せの神様である秋葉大権現が祀られた』と書いてある。そうじゃないんだってば~(笑)

■立ち退きの様子は?

 町中に空き地を作ろうというのだから、住んでた人はどうしたのだろう? ほとんど江戸時代といっていい時代のことだ、やっぱり強制的に立ち退かせたのかな…と勝手に思い込んでいたのだが、『市街51』を読んで驚いたのは、強制には違いないがけっこう民主的なのだ、これが。

 年寄(今で言うと区長か都議会議員くらいか)から町々に出された通知によれば;

『地主めいめいが代地として望む場所を申し立てていい。吟味の上問題なければ代地として提供する。地代金での申請もど~ぞ』

引越料も出してあげる

 町側からも、ついでに川岸の工事もやってくれだのの嘆願も出ている。

 やれ「ずっと商売してるのに」だの「土蔵があるのに」だの「慣れ親しんだ地元の人情はどうしてくれるんだ」だの苦情や陳情が多く、趣旨を再三説明するなど、調整に苦労したようだ(『遊園4』鎮火社創建始末書)。

『尤其地住居来候諸民エは夫々代地相渡し、惣金六千四百弐拾両余 民部大蔵省ヨリ請取、家作土蔵等為引料相応ニ手当テ致シ』云々(『遊園4』)。

 いやぁ、いつの時代も変わらないねぇ。

 なお、現在の秋葉神社の由緒書きには「市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)に思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり」とあるが、東京市史稿を見る限り、皇室の積極的関与があったような節は見られない
 むしろ;
  • この付近からたびたび出火していること
  • 住居が建ち込んでいて道幅が狭く、消防の手が回らないこと
  • 冬・春に西北の風が強く吹くため、延焼しやすいこと
といった、火除け地設置の必要性の、非常に実際的な理由が挙げられている。


■鎮火神社というのはどういう建物だったのか?

 鎮座させた鎮火神社は4間×3間(7.3×5.5メートル)、お社本体は前2間奥行き9尺(3.6×2.7メートル)とある。
 だだっ広い空き地の真ん中に小さな社があった…ということだろう。延焼を防ぐのが目的なのだから馬鹿でかい建物なんざ建てるわけはないが。神田神社(神田明神)の管理の下になった(神社明細「同六年一月十七日神田神社兼務社ト定メラレ」)ということから見ても、常設の社務所みたいなものはなかったのではないか。

 東京の名所案内である明治41年版『東京名所図会・下谷区・上野公園之部』の「鎮火神社」の項に、松が谷に移転した後の記述があるが;
素木の粗造にて間口二間、奥行九尺に過ぎず、廣前の石貌、創建当時の奉納と知られ、明治三牛年と刻む
とある。社をそのまま移転したのかは不明だが(東京市史稿の中には移転の為の予算取りの資料-市街74-566 『鎮火神社移転地所買上』-もあるが、読みきれていない)、元々さほど豪華なものではなかったのであろうことは伺える。

----- 1/26訂正。-----
市街74-566 『鎮火神社移転地所買上』を参照したところ、『鎮火神社移轉費用豫算調』即ち移転費用の予算取りの資料があった。それによると
一、金七拾圓 社殿、神楽殿、鳥居、水屋、社務所、燈籠、獅子、鐵水盤其外木石共一式運搬費
とある。
また、あちこちの項目に付箋朱書きとして、『引建直し』という言葉がある。例えば、当初は『本社壹棟取崩費』と書かれているのが『本社引建直シ之内』と訂正されている。
つまり、火除け地から一式運搬し、組み立てなおしたらしい。『東京名所図会』にある「素木の粗造」という社は、サイズが合致しているところからみると、もしかしたら設立当初のものそのままという可能性もある。
 また、社だけで社務所などはなかったのではという推測も間違いで、移転時点では神楽殿や社務所まで、ひととおり揃っていたようだ。
リカちゃんハウスじゃあるまいし、そんなものが全部設計図とおりの3×4間に入るとも思えない。後年の増築なのかもしれないが確認できていない。
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 ただし、鎮座式はけっこう盛大に行われたようだ。『明治東京庶民の楽しみ』によると、酒肴が振舞われ、雅楽が奏でられ見物人も出たようである。

 『市街51』には鎮座式の式次第も書かれているが、時間厳守雨天決行だの烏帽子と白張は神祇官から借りることになってるだの知事の付き添いはどーするこーするとか…イベント企画ってのはいつの時代も大変だねぇ。
----- 1/31追記。-----
三田村鳶魚の『秋葉ばら』を読んでの追記。
武江年表に以下の記述があるそうだ(鳶魚からの孫引き)
十七十八日には、此辺のもの、御宮廻り新築封疆(小土手なり)土持とて衣類を飾り、小石川御門外御堀端の泥土を運ぶ、二十一日には三度目にて、婦女声妓等美しく装いて出たり、よって見物群集をなせり
芸者さんに盛装させて土砂を運ばせるとはイキなことをしたもんだ。
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 というのが、設立当時の大体の様子。

 その後「秋葉の原」がどうなっていったのかは、また別のエントリで。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-22 13:53 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉神社の謎-些かつまらない解決?編-

『「秋葉の原」には「鎮火神社」とは別に「秋葉神社」が存在した?』

 佐竹商店街脇に存在する「秋葉神社」の由来書きによればそういうことになる。
 これが事実だとすれば、「秋葉原の語源」の「正史」に対する反証となる…というのが、俺の妄想だった。

 直接それぞれの神社にお話を伺ってもいいのだろうが、妄想を根拠に人様の手を煩わせるのもナンである。
 自分でもう少し下調べをした上での方がよかろうということで、ちょうど週末に上野に出る用があったので、少し足を伸ばして合羽橋通りにある台東区中央図書館に出かけてみた。台東区の資料を見るのならここが適当だろうと思ったからだ。

 幸い、面倒な手続き無く一般書架の閲覧は出来るタイプの図書館だった。中央図書館というには少々書架が寂しいように思われるが、まあ仕方あるまい。

 郷土資料室の書架を漁ってみると、台東区教育委員会が取りまとめた『台東区文化財調査報告書第二十八集(基礎資料編XII)』という資料を見つけた。
 これは明治10年の『諸社明細簿』と明治18年の『神社明細帳』が纏められたのもので、神社の戸籍帳みたいなものだ。

 この資料で確認できる秋葉神社はただひとつ

 東京府管下武蔵国 下谷区入谷町町三百八十七四○九
   郷社 鎮火秋葉神社

 一祭神 火産霊神 埴山毘売神 水波能売神

 一由緒 明治二巳年十二月 火災ノ後神田相生町外十ヶ町ヲ火除地トシテ取払ニ付同三午年右地中央ニ神殿建築同年十月十五日勧請ス十一日ノ大火後神田相生町外十ヶ町火除ノ為東京府届ニテ創立神璽ハ神祗官ヨリ下渡ニ相成同六年一月十七日神田神社兼務社ト定メラレ同年八月五日郷社ニ列ス同廿一年七月境内地ハ日本鉄道会社ヘ払下ニ付換地北豊島郡坂本村三百七拾番地ヘ移転ス トシテ下渡相成候現地ヘ移転ス ハ定メタル現地ヘ移転ス
 ご覧のとおり、どう見ても松が谷の秋葉神社(鎮火神社)である。

 取り消し線で表現したのは、訂正され、書き換えられた部分である。
 一瞬、『あれ、昭和5年改名のはずなのに、なんで明治18年の資料に「秋葉神社」という名前で出てるんだ?』と思ったが、人の戸籍と同じく、最初のデータに後年の訂正部分を追記していくため、こういう書き方になっているようだ。
 ちなみに、「鎮火秋葉神社」という部分は、「昭和五、六、ニ○午兵第四八一号 改称許可」と追記がある。

 古い地図も確認してみた。マピオンやらマップルみたいな、年に三回も改訂されるような現代の道路・市街図とは違い、発行年度時点での正確な記録ではないだろうが、ある程度の目安にはなるだろう。

 佐竹周辺は明治9年の地図では陸軍省御用地とされている。これは大火で佐竹屋敷が消失した跡地を陸軍が接収した、という佐竹商店街のホームページに記載のあったとおり。
 同じく明治9年発行の『明治東京全図の内第五大區図』には、現在の秋葉原の場所に「四小區 火除區」という原っぱがあり、その中に「秋葉社」という記載がある(1/16: 国立公文書館デジタルギャラリーで同じ地図を見つけたので貼っておく)。
 明治20年版の『陸軍参謀本部測量図』では同じ建物が「鎮火神社」と記載されている。
 いずれの地図にも「秋葉の原」という俗称は記載されていないが、鎮火神社が「秋葉社」という異名を持っておりそれが混用されていたというのは本当のことのようだ。もしこの誤解が無かったら、アキバ系じゃなくてチンカ系になっていたかも(笑)

 さらに、明治28年、40年、44年、大正11年、昭和5~7年、昭和8年の東京全図の下谷部分や『下谷區全図』など各種地図も参照してみた。
  • 「秋葉の原」には、鎮火神社以外の寺社はまったく記載されてない。
    判りやすかったのは前述の『陸軍参謀本部測量図』であるが、本当に野原の中にポツンと鎮火神社があるだけだったようだ。確かに火除け地なんだから建物なんかやたら建てられるわけもあるまい。
  • 秋葉原駅成立後、松が谷の「秋葉神社」は殆どの地図に記載があるが、佐竹(竹町)の「秋葉神社」はかなり後年の昭和10~20年代の地図でしか確認できなかった。
  • 松が谷の秋葉神社の正式な改名は昭和5年だが、それ以前の地図でも「秋葉社」「秋葉神社」と記載されているものがある。
    鎮火神社が出来たのは明治3年だが、前述の『第五区図』のように、わずか5年後の明治9年頃にすでに「秋葉社」という名前が使われていたフシもある。


 ということで、残念ながら佐竹秋葉神社の由来書きにある「秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座」という事実の元になるはずの「秋葉の原の秋葉神社」を確認することはできなかった

 もちろん「見つからない」≠「なかった」は重々承知である。
 これを持って佐竹秋葉神社の由来書きをクサするようなつもりは毛頭ない。

ただ、積極的に支持できる証拠は見つからなかったのは-俺の能力の問題もあろうが-事実である。
 小祠故のことかとも思うが、例えば、佐竹の秋葉神社の近所にある、四国讃岐の生駒屋敷内にあった金比羅神社は現在でも竹町南町会の管理にあるが、こっちの方は神社の台帳でも、地図でも明治期からトレースできる(こちらのページで大正元年と昭和16年の地図を提供されているので参照されたい)。
 仮に鎮火神社とは別に秋葉権現が神田相生町近辺にそれなりの規模であったとすれば、何か痕跡が残っていてもよさそうなものだ。今のところ台東区の記録しか調べていないので、千代田区の神社明細も調べてみるべきだろうが、現時点の個人的印象では佐竹屋敷内にあったという秋葉権現を、昭和初頭に「秋葉の原」とは無関係に独自に復元したのでは?という気がする。

--------------------------- 1/29 追記
台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和Ⅱ』(昭和57年)という、台東区のじい様たちに聞き書きした本の中で、佐竹在住の佐藤金作さんの話を読むことが出来る。
竹町小学校には、佐竹の堀がそのまま残っていて、私が生まれた頃(引用者註:明治32年生まれ、明治39年御徒町小学校入学)は、佐竹の屋敷跡の佐竹っ原も相当家が建て込んできたわけで、一般の民家をつぶして学校ができたわけです。そうこうして震災になって焼けちゃった。それではと、学校をまた広げたんです。私の町内に秋葉神社がありますが、昔はあそこでなくて、道が学校に抜けるようになっていた。学校がのり出してきたので、神社が今のところに変わったんです。今、表門になっているのは、昔私たちが通った頃の裏門です。
つまり、佐藤さんの言によれば大正12年の関東大震災の前から佐竹の秋葉神社は存在した可能性がある。
つまり、「昭和初期の復元?」という俺の推測は、間違いである可能性が高いということだ。

 だが、残念ながらそもそも大本が「秋葉の原」にあったのかどうか、という問題には関係しないので、結論的には変わらない。
---------------------------

 ということで、俺の妄想はやはり妄想に過ぎなかったようではある。
 そもそも「正史」に対する妄想を検証するのに「政府」の資料なんか使っていいのか…という疑問は我ながら持っている。妄想の輪を広げるとすると、『第五区図』にある「秋葉社」がまさに秋葉神社のことで、そのあとの地図に出てくる「鎮火神社」は乗っ取られた後!みたいな妄想もできないわけではないが(笑)、さすがにソコまでいくと陰謀論者の仲間入りくさいので、考えないことにしよう(爆)

 後は佐竹の秋葉神社の由来書きの根拠となる資料でも見せてもらいにいくしかなかろうが、史学的素養というものが皆無な戦後教育の犠牲者(笑)である俺にとって、読解できない一次資料はブタに真珠であろう。

 個人的には納得できたから良しとしようと思う。

ところで。

 資料を漁っていると、思いもよらず秋葉原生誕の立役者の名前に行き当たった。
『下谷區史』(第十九章第二節『各神社の沿革』)
明治二年十二月十二日午後十一時頃、神田相生町一丁目の指物師金次郎方より出火し、同二丁目、松永町、亀住町、花田町、田代町、山本町の七箇町に亙る廣範囲を殆んど焦土と化した大火災の後、相生町外十箇町を火除のために取拂を命じて、空き地となした。これ所謂秋葉ケ原である。
 指物師金次郎

 お前ンチが火事出したのか金次郎。金次郎が火事出さなきゃ秋葉ケ原もできなかったわけで、つまりは秋葉原駅もできなかったのかもしれないのか。

 まあ、その後関東大震災や東京大空襲つーカタストロフを経て現在のアキバがあるんだから(『下谷區史』によれば松が谷の秋葉神社も大震災で被災し建造物一切丸焼けになったそうな。神様は近所の小野照崎神社に避難させたとか。火除けの神様としては少々情けないかもな)、電気街→ヲタクタウン→再開発オフィスビルの横で贋メイドがビラ配ってる奇怪な町、という歴史の流れは大きく変わらなかったのかもしれない。

 だが、金次郎の家で火事を出さなきゃ、まず間違いなくアキハバラという名前ではなかったであろう
 歴史の機微つーものを感じるわなぁ。

補足事項
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by SIGNAL-9 | 2007-01-15 11:07 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉神社の謎

年始に秋葉原に出たついでに、ぶらぶらと散策。

 神田明神にお参りした後、御徒町から佐竹商店街に抜けてみたのだが、竹町公園の横に鳥居があったので、ふと見てみると「秋葉神社」ではないか。

 『あれ?ここにも秋葉神社があるの?』

 ここから歩いて数十分の、上野松が谷にも秋葉神社がある。
 秋葉様は火災避けの神様で、全国各地に多数-800くらい-あるという話は知っていたので、近所に複数あってもおかしくないのかもしれないが、アキバの由来になったのは松が谷の秋葉神社だとばかり思っていたので、こんな近所に別のアキバ神社があるというのはちょっと奇異に思った。

 いちおう(失礼な奴^^;)お参りをして、興がのったので確認の為に下谷神社経由で松が谷に足を伸ばすことに。

 松が谷の秋葉神社は、吉展ちゃん誘拐殺人事件で有名な入谷南公園の近所だ。このあたり、公園の名前の通り、以前の町名は入谷南だったのだが、昭和40年ごろに松葉町と合わせて松が谷と町名が変わったと記憶している。松が谷の秋葉神社の由来書きを見ると、
一 御由緒
明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)に思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始である、明治二十一年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる、秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。

台東区松が谷三丁目鎮座 秋葉神社
とあった。

 う~ん。やっぱりこっちがアキバの由来なのかなぁ? 確かにこっちの方が本殿も立派だもんなぁ。
 念のため、帰宅してから佐竹商店街のホームページを見てみた。
現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、佐竹屋敷の守護としてもと秋葉ケ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを屋敷内に勧請遷座し、更に昭和五年、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。また、竹町公園も開園し、街の子供たちの遊び場として今も親しまれております。
との由。

 やや? 佐竹の江戸屋敷の守護として遷座、つーことは、佐竹の秋葉神社は江戸時代には既に秋葉が原にあったつーことなのか?? 
 さらにぐぐると、俺が見逃していた由来書きの写真を掲載したblogを発見したので引用しておく。
町内に鎮座まします秋葉神社は二十八万石を有する東北地方屈指の大名で秋田藩十二代藩主佐竹右京太夫義尭公、上屋敷の守護神にてこの地にあった広大な屋敷跡である
明治維新の大変動期に秋田藩も財政難となり国に上屋敷を上納その時に新政府によりこの地の住所表示が決まり、竹町十二番地一号地より二十四号地迄と制定され現在もその儘使用されている佐竹町会の号地区分はその時出来たものである、秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座し昭和五年四月町会先人有志の方々により現在地に社殿を造営したもので当町会では火伏せの神として崇め毎年十一月第二日曜日に大祭を行っている
 Wikipediaの秋葉神社 (台東区)の項に因れば、
江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はない(東京府が秋葉大権現を勧請したとする史料もあるが、当時の社会情勢からみても明らかに誤伝である。)。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除け地(空き地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。
これ読むと、どう見ても「別の神様」だ。松が谷のアキバ様は元々秋葉大権現とは別の神様なのに間違って呼ばれたのが定着したんで…ということか。

明治以前?:佐竹屋敷の守護神 (佐竹)
明治初年:宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷 (松が谷)

明治21年:鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮 (松が谷)
明治22年:秋葉が原より勧請遷座 (佐竹)

昭和5年:社殿造営 (佐竹)
昭和5年:秋葉神社と改名(松が谷)

 こうやって由来書きを並べてみるとヘンだよなぁ。両方正しいとすると、もともと秋葉原には秋葉神社(と称される神社)がふたつあったということなんだろうか? つまりは、鎮火社とは別に、秋葉大権現直系の佐竹の秋葉神社のオリジナルがアキバにあった??

 歴史とかはガキの頃から「わかりません」「今考え中です」の世界に追いやってきたのでこういう時に困るわなぁ(笑)

1月11日追記。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-05 13:24 | 秋葉原 研究(笑)