カテゴリ:秋葉原 研究(笑)( 29 )

アキバを襲った大災害(2) 大震災からの復興

 未曾有の被害を出した関東大震災の発生から約1ヶ月後の大正12年(1923)9月27日、当時の内務大臣後藤新平率いる帝都復興院が設置され復興事業がスタートした。
 財政・政治状況により当初目論見よりも大幅に計画は縮小されたが、区画整理や橋梁整備、防災用の緑地・公園の設置など、この時の復興事業で実施された都市のグランドデザインは、現在の東京にも残っているものが多い。

 例えば、中央区にある浜町公園。当初は熊本の細川家の屋敷だったところを復興事業の一環として公園として整備したものだ。
 これは昭和4年に東京市役所が発行した『TOKYO and ITS UNDERTAKINGS』という写真集から、復興事業で創設された浜町公園の姿である。
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 浜町公園は現在でも市民の憩いの場となっている。
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 こちらは墨田区の向島、墨田公園。こちらも復興の一環で整備された。
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 隅田公園も、-少々うら寂れてはいるものの-現在も公園として機能している。
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 ちなみに、これは『大東京写真帖』(昭和5年)掲載の「震災復興後の言問橋」。言問橋というのは、上で紹介した隅田公園に架かっている橋だ。写真奥に見える、下流に在る吾妻橋は、木製の橋が震災で焼け落ちてしまった。この写真の撮られた時点ではまだ復作業中なのだろう(現在の橋がかかったのは昭和6年)、醜い姿を晒しているのが見て取れる。
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 前回見たとおり、神田明神は灰燼に帰した。
 『東京震災録』(東京市役所/大正15年)に、その復興後の姿が記録されている。
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 同書から「神田明神から秋葉原方面を望む」という写真。撮影日は大正15年10月17日と記録されている。震災発生から丸三年。復興が一段落付いた頃の秋葉原の様子だ。
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 規模縮小につぐ縮小で、当初目論みのような防災都市化は十全なものではなかったが、防火を意識した区画などの整理はある程度行われた。

 下は「御成街道から蔵前橋方面を望む」と題された、整理前の写真。
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 御成街道というのは、今で言うアキバの中央通りのことだ。つまりこの写真は、地下鉄銀座線の末広町駅のある交差点から昭和通り方面を写したものと思われる(写真の中央部に大正14年開通の上野-秋葉原間の高架線が写っているので、震災の後の撮影であろうことに注意)。

復興により区画整理を行ったものがこの写真。
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道幅などは変わっていないようにみえるものの、道の真ん中に突っ立っていた電柱が整理され、だいぶすっきりした様子が見て取れる。

 次は大阪朝日新聞社『大震災写真画報』から「震災復旧後の万世橋駅」。
 外装を残して焼け落ちた駅舎が復興されている。軍神廣瀬中佐の銅像は焼け残り、あいかわらず街を睥睨している。
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 せっかく綺麗に直したのに、万世橋駅は、20年と立たずに廃止されることになる。
 その廃止の一因となったのが、大正14年11月1日に上野までの高架線が開通して、秋葉原駅が旅客扱いを開始したことである。
以前にも紹介したが、その時分の秋葉原駅の駅舎がこちら。
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 最後は『大東京写真帳』から「震災復興後の神田市場」。
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 かくして、徐々にではあるが、この大災害から人々は立ち直ってきていた。
 だが、それらの努力も20年そこそこで、またしても灰燼と帰す事になるのである。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-21 00:00 | 秋葉原 研究(笑)

アキバを襲った大災害(1)

 「カタストロフ」。英語だとcatastrophe-カタストロフィー。突然の大災害・大惨事という意味だ。

 そもそもの生い立ちが大火事という災害であった「秋葉原」。その後も大きなカタストロフに直面してきたのである。

 アキバは今日も、リュック姿で中央通りをゾンビウォークをしている若い衆や近隣構わぬ大声で何事かを囀り合っている中国人観光客で埋め尽くされている。
 その平和な風景は、少なくとも過去二回は阿鼻叫喚と死体と瓦礫の山だったことがあるのだ。

 言うまでも無く、1923年(大正12)の関東大震災(大正関東地震)と1945年(昭和20)の東京大空襲である。

 大正12年9月1日午前11時58分32秒、相模湾沖を震源としたM7.9の巨大地震が関東を襲った。推定死者・行方不明者10万5千余名。日本の自然災害史上未曾有の被害を出した。

 これは大阪朝日新聞社『大震災写真画報』から、「震災で焦土と化した東京」とキャプションされた写真である。
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 どこを写したものかお分かりになるだろうか。「神田駅から上野方面を望む」と解説されている。秋葉原は神田と上野の中間点。つまりこの瓦礫の山の先が「アキバ」なのである。

 もう少し秋葉原に近づいてみよう。次の写真は東京市役所が大正15年に発刊した『東京震災録』から。
「神田川筋の灰燼」と題されている。9月下旬の撮影。
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「神田万世橋から柳原方面」。これは地震発生直後の9月6日撮影。
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神田川にかかる橋の多くが大きな被害を受け、対岸に渡る事ができなくなった地区も多かったようだ。万世橋はなんとか持ちこたえたらしく、当時の被災記録を読むと多くの人々が万世橋を使って移動していた様子が伺える。

 同じく「神田万世橋付近」。これも9月6日撮影と記録されている。向こうに見えるのは万世橋駅だと思うが、煉瓦の外壁は残っているが、屋根は焼け落ちて、明らかに中は丸焼けのようだ。
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『大震災写真画報』から同じく万世橋駅前の様子。撮影時期はよくわからないが避難民らしき人々が多数写っている。駅前にあった廣瀬中佐の銅像は生き残っている。
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再び『東京震災録』から。10月17日に撮影した神田明神である。焼失し影も形も残っていない。
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 徹底的に打ちのめされた秋葉原が、復興によって立ち直った姿はまた次回。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-14 00:00 | 秋葉原 研究(笑)

江戸博へのツッコミ-その後。

8月20日の書き込みで、江戸博のホームページの記載内容にツッコミを入れた話を書いた。
 いちおう、要点だけ再度書いておく。

 平成18年度版 レファレンス事例集と題された文書に「秋葉原はなぜ「あきばはら」ではなく「あきはばら」なのか(2007年3月)」という記述があった。
Q 秋葉原はなぜ「あきばはら」ではなく「あきはばら」なのか(2007年3月)

A 電気街として広く知られる秋葉原は、明治2年12月の火災以後火除け地を置き、翌年秋葉神社(鎮火神社)をまつり「秋葉原(あきばはら)」と称し、「秋葉の原(あきばのはら)、あきばがはら・あきばっぱらなどともよばれ」(『日本歴史地名大系 第13巻 東京都の地名』 平凡社地方資料センター/編 児玉幸多/監修 平凡社 2910/139/13-S0 )ました。「あきはばら」は明治23年に出来た国鉄(現JR)駅「秋葉原駅」が出来てから地名となりましたが、なぜ国鉄が「あきはばら」としたのかははっきりしないようです。なお、地名の疑問については、各種『地名辞典』で調べることができます。また、その地名のある地区の図書館(中央館)に資料が豊富な場合が多いので、まずはそちらにお尋ね下さい。
(参考文献)
『東京・江戸地名の由来を歩く』(谷川彰英/著 KKベストセラーズ 平成15年7月1日 2913/ 1048/003)
(参考サイト)
千代田区立図書館 http://www.library.chiyoda.tokyo.jp/
この文章に関して;
  1. 俗称である「秋葉神社」をプライマリに扱っていたり、当時存在していない「国鉄」に言及するなど、歴史的事実の錯誤がある。
  2. 記述内容が「~をまつり」「~と称し」「~ともよばれ」「地名となりました」等、主語・主体が不明な表現で、これでは誤解の再生産をする恐れがある。
と指摘申し上げたところ、「ご指摘の箇所は近日中に確認の上、訂正させていただきます。」と連絡をもらった…つーわけである。

 さて、「近日中」というのはどのくらいの期間なのか確認しなかったのは俺の手落ちなのだが、1ヶ月ほどたった9月20日頃に確認してみたら、当該記述はそのまま残存していた(正確にはメニューからは消えていたが、本文の方はそのまま残存していた)。

 『1ヶ月たっても、まだ確認が出来ないのかなぁ。慎重なことだ。民間企業ならありえんぞ』といささか呆れつつ、まあ、どーでもいいやと静観していたのだが、本日見てみたら、本文の方も削除されていた(10月1日現在ではGoogleのキャッシュに削除前の情報が残っている)。

 なるほど、期の変わり目で文書を修正する折に削除したということなのだろう。

 さて、単なる削除という対応は、ちょっと残念である。
 これではまるで、俺が言論弾圧をしたみたいではないか(笑)

 誰も削除してくれだの無かった事にしろだの言ってないのである(当たり前だ)。
 書き方が不正確だと思われるので、ちゃんと調べてくれ、とお願いしたつもりなのだ。

 それが、現時点では、結果的にそういう質問があったこと自体、無かった事にされてしまっているわけだ。

 クレーム付いたら削除というのは、Web上の文書のあり方としてどうなのだろう? 過去にそれを参照したヒトはホッポラかしなのだろうか? ペーパーメディアでさえ正誤表や、改訂時の補注みたいな対応は取れるというのに、修正変更に向いた電子メディアでいきなり「なかった事」という対応では、どうも得心がいかない。

 俺は江戸博自体は-あの趣味の悪い建物を別にすれば-、まあ、よい施設だと思っている。最近、デタラメ広告の問題でも批判を書いたが、それとて準公的機関としての責任と信頼性を保って欲しいという希望からのことである。今のところ、特に悪感情を持っているわけではない。
 善意に取れば、まだ、「ご指摘の箇所は近日中に確認」している最中であり、そのうちに「正しい」記述になって復活するのだろう。

 だが、それであれば、以前に開示していた情報は修正中である旨、何か記載があってしかるべきだと思うのだが。
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by SIGNAL-9 | 2007-10-01 16:28 | 秋葉原 研究(笑)

ついに発見!「秋葉っ原」の写真

 千代田区外神田一丁目遺跡調査会が纏めた『外神田一丁目遺跡』(平成11年。なぜか警視庁発行)という報告書に『明治21年ニコライ堂からの写真』というキャプションの付いた写真が掲載されていた。

 「あれ…、これ、秋葉っ原が写ってるじゃないか!」

 ちょっとググッてみたら、「ニコライ堂からのパノラマ写真」の内の一枚(第11番)という、有名な写真だということがわかった。

 先だっての秋葉原調査月間(笑)の時、秋葉っ原の写真か絵図がないかと探してみたのだが見つからなかったのである。諦めていたのだが、そんな有名写真があったとは…。まったく無知というのは恐ろしい。

 ところが残念なことに、この報告書に掲載されている写真は少々小さかった。秋葉っ原ではなく、佐久間河岸の遺跡調査の資料なので、当然といえば当然だ。
 で、もっと鮮明なものはないのか探してみた…書店で古写真関係の本を漁っただけなのだが(笑)。

 芳賀徹・岡部昌幸『写真で見る江戸東京』(新潮社、1992年)に、このパノラマ写真のすべてが紹介されている。だがこれも、一枚一枚のサイズが小さく、細部がよくわからない。

 幸い、石黒敬章『幕末・明治おもしろ写真』(平凡社、1996)に、外神田一帯の比較的大きなサイズの写真が掲載されていた。部分的に拡大し、若干の画像補正を加えてみたのがこちら(クリックで拡大表示)。
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 白黒写真のため、ちょっと位置関係がわかりにくいかもしれない。
 『外神田一丁目遺跡』調査書に掲載されている、明治21年の『五千分一東京図測量原図』の秋葉原周辺の地図と見比べてみてほしい。撮影位置であるニコライ堂は、この地図でいうと、向かって左側の方に位置する。
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 写真の真ん中下のほうに見える橋が旧萬世橋、神田川はそのまま右手奥に向かってから逆『く』の字に曲がって伸びている。昌平橋と和泉橋も確認できる(萬世橋と昌平橋の位置関係は現在とは逆で、萬世橋が上流にある)。
 画面真ん中あたりの交差点が花房町の交差点ということになるだろう。
 つまり、写真の中央左側にぽっかりと開いている空き地がいわゆる『秋葉っ原』である。
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 この写真、『写真で見る江戸東京』ではスコットランド人のウィリアム・バルトンが撮影者ではないかと推測されているが、『おもしろ写真』によれば、田中武による明治22年の撮影とのことである。
 『写真で見る~』の説は推測だが、『おもしろ写真』の方は毎日新聞記事という根拠を提示しているので、ここでは石黒氏に従って明治22年と考えておく。
 秋葉原貨物取扱所の影も形も線路も見当たらないので、いずれにしても上野秋葉原間の貨物線が開通した明治23年11月以前の写真であることに違いはない。

 無理を承知で(笑)、秋葉っ原附近をさらに平滑化拡大してみたのがこちら。
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 原っぱの右よりに小さな建物が見えるが、秋葉原の名前の由来となった鎮火神社は、地図ではもっと真ん中よりのように見えるので、これは社本体ではないかもしれない。

 東京市史稿その他の史料によれば、秋葉っ原は、周りをぐるりと高さ1メートルほどの小土手で囲み草木を植え…とある。
 防火林みたいな風景を想像していたのだが、写真では、単に低い塀で囲んであるようにも見える。まあ、この写真の時点では出来てから20年も経ってるのだからそれなりの変化はあるかもしれないが。

 一般書籍で入手できる写真の精度ではあまり細かいところまで判別できないのが残念だ。精度の高いテクスチャが得られれば、地図と合成して3D化してみるのもおもしろそうだ。

 この数年後には鉄道が引かれ、船堀が掘られ、物流の拠点となったわけである。
(東京市編纂「東京案内」(明治40年)から秋葉原船溜の写真)
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 ところで余談だが。

 冒頭に挙げた『外神田一丁目遺跡』調査報告書に面白い記述があった。
 明治2年(1869)の火災によって、外神田には約7000坪の火除明地が作られ、明地の中心に「秋葉三尺坊」を安置した「鎮火神社」が勧請される。

 「遠州の秋葉神社を勧請」と書いてある文章は数多いが、その中でも「三尺坊」を祀ったという珍説独創的な説は初めてみた。引用元を見ると江戸子著「江戸の火災」との由だが、明治三年時点に神祇官が三尺坊を勧請というのは、いくらなんでもそりゃ有り得ない、と思う。

 秋葉原に遠州秋葉神社(秋葉権現)が勧請されたというのは間違いである、と俺が考えているのは以前書いたとおりだ。

 公共機関が発行した遺跡の調査報告書が、ちょっと調べれば根拠薄弱と判る説をそのまま引き写して「事実」として記載するのはどうかと思うが、この遠州秋葉神社勧請説、思った以上に広範囲に流布している。

 最近、さすがに問題だと思ったのは、天下の江戸博図書館が公開している「レファレンス事例集」にこういう記述があったことだ。
秋葉原はなぜ「あきばはら」ではなく「あきはばら」なのか(2007年3月)

 電気街として広く知られる秋葉原は、明治2年12月の火災以後火除け地を置き、翌年秋葉神社(鎮火神社)をまつり「秋葉原(あきばはら)」と称し、「秋葉の原(あきばのはら)、あきばがはら・あきばっぱらなどともよばれ」(『日本歴史地名大系 第13巻 東京都の地名』 平凡社地方資料センター/編  児玉幸多/監修 平凡社 2910/139/13-S0 )ました。
 単なる俗称である「秋葉神社」をプライマリに扱うのは明らかな間違いだろう。

 「東京市史稿」の市街51-0001 『火除明地ニ鎮火社設立』によれば、あくまでも「鎮火神社」が正式であり、その意味で、”秋葉原”に秋葉神社が存在したことはない(鎮火社が秋葉神社と改称したのは、はるか後年の昭和5年)。

 この説明では「~をまつり」「~と称し」「~ともよばれ」等、主語が不明なのである。いったい「誰が」祭ったり、称したり、呼んだりしたのか、ソコのところを解説しないと、事実関係を正確に把握できなくなり、またぞろ誤解の再生産をする原因になると思う。
「あきはばら」は明治23年に出来た国鉄(現JR)駅「秋葉原駅」が出来てから地名となりましたが、なぜ国鉄が「あきはばら」としたのかははっきりしないようです。
 明治23年に「国鉄」は存在しない。後に国有化されたにせよ明治23年時点では日本鉄道会社(私鉄)である。

 また、「地名となりました」というのは意味不明。
 俗称としてという意味なら、明治23年以前から世間的には「秋葉ノ原」「秋葉ヶ原」として通用していた(明治20年発行『東京五千分の一』には「字秋葉ノ原」と字付きで記載されている)わけで経緯の説明として不正確だし、正式に「秋葉原」という「所番地・住所」になったという意味だとすれば、同時期の地図には秋葉原貨物取扱所(秋葉原停車場)の住所は「花房町」と記載されているので、事実と異なる。
 (そもそも「地名になる」というのもヘンである。「地名」は勝手に「なる」のではなく、「誰かが」「そうする」ものであろう。こういう客観性を偽装した表現は-俺も含めて-気をつけるべきだと思う)。

 影響力が大きいであろう江戸博のホームページであるだけに見過ごしに出来ず、概ね上記のような指摘事項を連絡申し上げたところ、「ご指摘の箇所は近日中に確認の上、訂正させていただきます。」と丁重なご連絡を頂き、さっそく旧記述は削除してくれた。(2007/08/22追記。本日再度見たら、見出しから削除されただけで原文はそのままだった)

 俺は手前の判断が絶対正しいなぞとはビタ一文思っちゃいないし、「どーでもいいこと」と言えばその通りなのだが、明らかに根拠が薄い・怪しいと思われる説が事実として流布されるのは、瑣末な事であるとしても良いこととは思えない。特に公的・準公的な機関の文書であれば尚更である。

 さて、どのように訂正されるのか、ちょっと楽しみである。
 ここで書くネタができるかもしれないし(笑)

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by SIGNAL-9 | 2007-08-20 11:05 | 秋葉原 研究(笑)

まぼろしの銀座線”万世橋駅”

 名所旧跡があるわけでもない、こういう場所でカメラを構えていると、通行人の怪訝な視線を受けることが多い(笑)
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 ああ、開店準備中の電気店の方の「なにコイツ」な視線が痛い(笑)

 どこだかお判りになるだろうか?
 アキバに詳しい人はわかるだろう。さよう、万世橋の交差点、石丸電気一号館の前である。

 ナニを撮りたかったかというと、ベストの素敵な店員さんの足元の、鉄製の網目である。
 この網目の横にはこういう蓋がついている。
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 「ずい道内消防用連結送水管送水口」。隋道というのはいうまでもなくトンネルのことだ。そう、この網目は、東京メトロ銀座線の通風孔なのである。

 地下鉄の通風孔なんて珍しくも無い。そんなものが注目されるのはマリリン・モンローのスカートを巻き上げる時くらいである…確かに。
 だが、この通風孔は単なる通風孔とはちょっと違う。

 実はここに、かつて地下鉄の駅があった、というのである。

 東京メトロ銀座線、以前は営団地下鉄銀座線であったが、そもそもは東京地下鉄道株式会社という私鉄だった。

 この銀座線設立に関しては、日本初(つまりアジア初)の地下鉄建設という偉業に相応しい、いろいろと面白いエピソードがあるのだが、逐一書いていると本が一冊書けてしまう。中村健治氏の近著『メトロ誕生-地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』(交通新聞社、2007年)を参照されたい。俺もこの銀座線の万世橋駅に関しては、この本で初めて知った。

 で、ここでは、ざっくり概況だけ。

 東京地下鉄道は当初から資金難に悩まされた。アメリカ資本導入計画も折悪しく発生した関東大震災で頓挫、結局、当初計画していた新橋ー上野間の敷設を後回しにし、上野ー浅草間での部分開業を目指し、大正14年9月末に工事を開始した。

 浅草発の銀座線に乗ったことのある人はご存知と思うが、あの路線にはちょっとした特徴がある。
 非常に浅いところを通っていることだ。

 実は当初は15メートルの深さに電車を通すということで許可を得たのだが、この資金難の折、「浅く掘れれば安く済む」という理由で1.5メートルで再申請したところ東京府のチェック漏れというラッキーで(笑)、うまく鉄道省の許可を得てしまう。
 結果、地面を掘り下げて線路を降ろした後で蓋をするという「オープンカット方式」での工事ができることになった。
 逆にいうと、この方式だと民家の下を通るというわけには行かないので、既存の道路を掘り下げて線路を埋めていくということにせざるを得ない。銀座線が大通りの真下を通っているのはこのためである。

 「営団地下鉄五十年史」(帝都交通営団、平成3年)から当時の工事の様子の写真を引用しておく。
 夜間通行止めにした道路(浅草通り)の地面を掘り下げて、今まさに線路を降ろそうとしているところだ。
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 工法がいくらかラクになったとはいっても、大正当時のことである。
 今のような巨大建設機械があるわけもなく、多くの作業は人手で行わなければならない(「帝都物語」みたいに学天則のような便利ロボットが使えればよかったのにね)。
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 昭和2年12月30日、アジア初の地下鉄が上野・浅草間2.2キロでの営業を開始する。
 その後も資金難や労働争議に苦しみながら、地下鉄は新橋を目指し、じわじわと掘り進むことになる。

 しかし、何もかも初めての地下鉄工事の前に、またひとつ巨大な障害が立ちはだかっていた。
 神田川である。

 何しろ川底を通さなければいけないのだ。今までのように道路を掘り進むのとはわけが違う。難工事が予想された。
 そこで東京地下鉄道は、ひとまず神田川の手前に駅を作って、そこまでの営業を行いつつ神田川を超える計画を立てたわけだ。

 ところが、この駅は立地上、特殊な条件があった。
 神田川に向かってトンネルを掘り下げていく都合上、駅自体が斜めに下がっていく場所にならざるを得なかったのである。
 この図面を見ていただきたい。東京地下鉄道株式会社『東京地下鉄道史(乾)』(昭和9年)に所載の、万世橋仮駅の図面である。
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 側面図(一番上)を見てほしい。線路が左の神田川方向に向かって下っているのがお分かりだろう。
 また断面図(真ん中右)を見てのとおり、ホームが片側ひとつしかない。つまり、この前の末広町までは複線なのに、ここでは単線になってしまっているのだ。

『東京地下鉄道史』によると(読みやすさを考えて適時空白を補う)
 之が為 同所に設けた終端複線の下り線上を乗降場に供し、末廣町と萬世橋仮停留場間は上り線上を単線運転をして往復に使用し 末廣町に列車折返しの亘線を設け 浅草より上りの列車は交互に末廣町行萬世橋行の2種とし 前者は末廣町止りとし亘線によつて直に浅草に折返し 後者は其の儘萬世橋停留場迄進入し単線を逆行 末廣町停留場の亘線に依つて下り線に移るの運転組織とした。
 とまあ、一読したくらいではよくわからない複雑な運用となっている(笑)

 ホーム自体の長さも33.5メートル、車両二両分しかない
 仮停留場個所は神田川河底隧道に向け下降する2.5%勾配線内に在るので 列車運転上の安全を期し停留場部分を水平線となす為 1部分隧道構築の天井を高く造り、元設計通り 上り下り両線共軌道を敷設し 下り線上に長110尺(33.53m)の木造仮乗降場を設け 本線は敷設せる軌道上に木造仮架臺を置き 其上に更に 別に仮本線を敷設した。
 神田側の川底下に向かって線路は下り勾配である。もしも、他の駅のように列車いっぱいの長さのホームを作ると、ホームの途中を階段状にしないといけなくなってしまう。
 さらに、この先の接続のために後で使う線路を予め敷設しておき、その上に仮の木造ホームを置いた、というわけである。

 それにしてもやたら「仮」が多い(笑)。まさに仮駅というに相応しい、無理のある駅だ。
 とはいえ、資金難という背に腹は変えられない。万世橋仮停留場は昭和5年1月に開業に漕ぎ着けた(写真は工事当時の万世橋付近)。
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 今の目で見ると、そうまでして運用する必要があったのか疑問に思われるかもしれない。末広町駅からほんの数百メートルの距離だ。わざわざ電車に乗らなくても…と思うのだが、秋葉原駅の近くでもあり、市電のターミナルも近くにありで、けっこうな利用客がいたようである。

 さてその一方で、神田川を越える工事は着々と進んでいた。これも詳細に見ていくといろいろ面白いのだが、ここでは写真を一枚紹介しておくことに留める。
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 万世橋の横に仮橋を作って工事を進めたことが判ると思う。
 仮停車場は其の設置に関しては特記すべき事項は無いが 次工区営業開始に当り駅務を1日も中断することなく開業する工事を施工した順序方法に関しては特記の価値がある。先づ仮停留場閉鎖に先立ち、第3工区構築完成し神田方面に至る上り線軌道の敷設をなす必要上、使用しつつあつた仮本線及仮架臺を撤去し、其の下部に敷設してあつた勾配本線を運転に使用する事とし、列車運転休止後 深夜之等の撤去工事及仮乗降場の柱を切り詰め乗降場位置を下げ 本線の勾配に準拠せしむる工事を数時間内にて完了し、尚低下乗降場と客溜室床との間に仮に階段を作り 停留場に到着の列車は停留場前にて一旦停車し後急勾配の乗降場に進入する事とした。
 後暫くして神田方面迄営業開始の時日が迫った際、1夜に仮乗降場を取払ひ、下り線を末廣町停車場より萬世橋に至る単線往復運転に使用し 車両と客溜室の間に小階段を付して営業を継続して 神田方面よりの下り線の軌道敷設及試運転に支障なからしめ、開業の前夜客溜室前の階段を撤去し普通複線路に復帰したのである。
…つーか、そんな面倒なことするなら最初から複線の階段ホームにしといた方がよかったんではなかろうか…というのは素人の浅はか見附なんであろーな(笑)

 銀座線万世橋仮駅は昭和5年1月に開業したが、神田駅までの工事が翌昭和6年11月に終了し、わずか1年11ヶ月の短い生命を閉じることになった。

 その入り口の後が、通風孔に改造され、今でも石丸電気の前に残っているというわけなのである。

 最終的に銀座線の駅として残った末広町・神田とも、いわゆるアキバの端と端である。
 万世橋仮停車場、その後の秋葉原の賑わいを考えると、今にして思えば銀座線にとっては惜しい駅だったかもしれない。
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by SIGNAL-9 | 2007-08-10 10:43 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原の時計台(京屋時計店)

 時計台と言えば札幌の時計台が全国的に有名だ。

 どの写真を見ても同じ「斜め左下から見上げるアングル」なのは、実際にはビルの谷間にあって、他に撮り様がない、というのが大きな理由であるということは見に行った人は知ってると思う(笑)。日本三大がっかり名所とクサされる所以だ。

 東京にはゴジラ映画の原風景、銀座の和光・服部時計台がある。

 服部時計台の現在の建物は昭和になってから最竣工されたものだが、元々は明治二十七年の竣工だそうだ。
 仲田定之助『明治商売往来』(ちくま学芸文庫)によれば、
 文明開化を象徴する時計台が明治時代、都会の建物に簪のように飾られた。それは市街に美観を添えるばかりでなく、まだ懐中時計も、掛時計も一般に普及していなかった時だけに、市民に時刻を告げる重要な役割を果たしたので、宣伝媒体としても大きな効果をあげた。
 このように、東京でも明治期に、多くの時計台が造られたのである。

 秋葉原にも、かつて時計台があった。

 今のアキバで「時計台」というと、秋葉原駅の電気街口の前にある貧乏くさい時計くらいしかない。
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 そもそも"時計台"というからには、ランドマークとしての役割も果たせるようなものを期待するわけである。アキバのコレはたんなる「時計」、言ってもせいぜい「時計塔」である。
 ここでいってる時計台は、これとは別物である。

 『新撰東京名所図会 第二百七号』(明治33年)の『神田旅籠町』の項に、秋葉原の時計台に関しての記述がある。
京屋

 一丁目十三番地に在る時計商店にして屋上高く広大なる時計を据付け四面より望むことを得。世俗呼んで外神田大時計といふ。蓋し東京にて屋上に大時計を設けたるは本店を創始とするよし。時を報ずること十五分ごとにして十五分にて一ッを打つ(一ッなれど二ッに聞こゆるなり)。三十分に至れば二つを鳴らし。四十五分に至り三つ。六十分に及へは四つを鳴らしたるの後更に時刻の数を報ずるなり。本局一千二百六十四番の電話を架す。
 この「外神田大時計」、京屋時計台に関しては、仲田定之助も参照している平野光雄『明治・東京時計塔記』(昭和33年)に詳しい。
 明治年間、東京市民に、「外神田の大時計」と呼ばれ、「八官町の大時計」(小林本店時計塔)とならんで、東京名物の一つに数えられていたのは、当時、外神田旅籠町一丁目十三番地に在った京屋時計店本店(現在の千代田区神田旅籠町一丁目十一番地、三菱銀行秋葉原支店の敷地がその跡である)土蔵造二階建の屋上に、屹立していた時計塔のことである。とりわけ、同時計塔は、明治十四年、上野駅が開設されて以降は、上野に下車するお上りさんたちから、「文明開化」のシンボルとして瞠目されるとともに、須田町方面への格好な道しるべとしても、非常に重宝がられたという。
 この時期の秋葉原周辺の地図を『新撰東京名所図会』の「現今神田区全図及其近傍」で見てみよう。
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 地図で見るとおり、外神田旅籠町一丁目というのは、今の神田明神通り沿い、おでん缶の自販機で有名なチチブ電機のあるアノ一角あたりのことだ。
 これは、『明治・東京時計塔記』に掲載されている、明治二十七年に京屋時計店が発行した銅版画である。
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 店の前に鉄道馬車の線路があり、左から右にカーブしているのが見て取れる。

 この当時、鉄道馬車は旧萬世橋つまり今の昌平橋あたりから、上野広小路に抜ける御成街道に向かって伸び、ちょうどこの時計台の前で、御成街道に曲がりこんでいたわけだ。つまり今の道路で言うと、銅版画の左手前側の道が明神通り、向かって右の大通りが中央通り、と推定できる。
 また、昭和33年(記事初出は21年)当時の平野の解説によれば「三菱銀行秋葉原支店の敷地」とのことなので、建て直し工事中で三菱UFJは無くなってしまっているが、まさにアキバのど真ん中、この交差点なのではないか(つまりこの銅板画は愛三電気のビルから目線(笑))。
 まあ、区画整理などの影響もあるので、厳密にココとは言い切れないが。
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 この京屋時計店の時計台がいつ建てられたものなのか、平野は「設置年代は詳らかではないが…明治九年春頃には、すでに建設されていたのではないか」と推定している。『名所図会』にいわく「蓋し東京にて屋上に大時計を設けたるは本店を創始とするよし」、東京の時計台の元祖のひとつといってもいいようだ。

 また平野は、その鳴り方の特徴から、内部の機械はウエストミンスター式、即ち英国製だったのだろうと述べている。
文字板直径七尺にも達する、かなり大型の櫓時計型時計塔であった。…その鐘の音は非常に高く、かなり遠方まで鳴り響いたそうである。
 この京屋時計店本店は、大正二年ごろ、店を引き継いでいた二代目が手を出した銅山事業がコケ、川崎銀行に売却される羽目になる。
 建物はかなり長い間、そのまま放置されていたらしく、後に同行の指示でとりこわされ、川崎銀行神田支店の新築工事に着手したというから、「外神田の大時計」のとりはずされたのは、多分、その折と考えられるが、正確な時日を詳にしないけれども、雑誌「うきよ」大正五年九月号雑報欄の、「唐様で売家と書く三代目とやら、神田区旅籠町一丁目の御成街道筋に高く聳えて居た、名物の大時計が売り払われて姿も見せなくなつて了つた云々」という記事は、だいたいその時期を示唆していると思う。
 この時計台、現物の写真も『新撰東京名所図会』に掲載されている。
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 銅版画が誇張ではないことがわかる、中々に堂々とした時計台である。

 残念ながら、秋葉原というのはその土地柄、明治期のモノはほとんど残っていない場所なのであるが、もしもこれが残っていたら、札幌時計台以上の名所になっていたかもしれないなぁ。
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by SIGNAL-9 | 2007-08-06 10:33 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉神社再建私案(2)

 新・アキバ神社妄想の続きである。

 さて、そもそも何の神社を建立するのか。
 真っ先に思いつくのは、松が谷の秋葉神社を再勧請、つまり鎮火神社を再コピーして戻っていただくという案だ。
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 松が谷の秋葉神社は何と言っても「秋葉原」の名前の由来である神社である。郷社という社格の高さも見逃せない。元々神田明神の管理下にあったわけだし、何かと都合もよさそうである。

 であるのだが、「ヲタがお祭りできるような神社を作りますので、秋葉神社を勧請してください」といって「それは結構ですね」と認めてもらえるつーのは妄想としても無理がある。

 それならいっそ、自前の宗教法人にしてしまうのはどうか。
 日光東照宮とか伏見稲荷みたいに独立した宗教法人はいくらもある。独立宗教法人だと、基本的に教義やご神体はテキトーに、いやある程度自由に決定できるというメリットがある。

 アニメやマンガに代表されるヲタ文化と神社では相容れないような気がするが、そうでもない。八百万の神々をナメてはいけない。いわゆる弁天さま、市杵島姫命(サラスバティー)みたいな芸術音曲の神様もちゃんといる。バズーカ砲は持っていない。

 浅草寿町にある宗吾殿をご存知だろうか。
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 年貢に苦しむ農民のために直訴を図って処刑された惣五郎(宗吾)さんをお祀りした場所だが、この惣五郎さんのお話が芝居や講談で取り上げられるうちに、演劇や映画関係者が参拝するようになっていった「神社」である。
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 ごらんの様に、門柱には「歌舞伎座」や「明治座」の銘が刻まれている。中村吉右衛門・勘三郎、松本幸四郎、久保田万太郎、岡晴夫といった演劇界のセレブ、浅草六区が近いせいか新東宝の大蔵貢など映画関係者の名前もある。

 宗吾殿は実在の人間が「神社化」したものといえよう。

 つまり、その気になれば手塚治虫とか宮崎駿…はまだ生きてるか…ビル・ゲイツ…は祟り神になりそうだから却下…、えー極端な話、架空の人物・事物を祀る例もないわけではないので、涼宮ハルヒやゆりえ様の御霊を祀ることすら理論的には可能なのである。
 日本の宗教観というのはなんともデタラメ懐が深い。

 独立宗教法人であれば、門前の狛犬やお狸様やお狐様を萌えキャラにしてみるとか、巫女さんをネコ耳にしてみるとか、いろいろとバチあたりな先進的なことが可能になりそうだ。
 奉納する絵馬に「こなたは俺の嫁」などと、他所では不謹慎と非難されるようなことを書き散らしても、教義に合致している以上問題はない。

 最近はお寺さんでもこういうマンガチックなキャラ(元々ゲームのキャラ)を使っているくらいなので大きな問題はなかろう。
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 宗教法人設立は許認可制なので、許可を得るのはそれなりに大変だが、単立宗教法人だったら比較的困難なこととも思われない。なにしろ布教・儀式行事・教化育成などの宗教法人として必要な基本活動は、ヲタどもが放って置いても勝手にやってくれるはずだし(笑)
 「マルサの女2」で描かれたように、脱税目的で宗教法人を作る不届き者まで実在するくらいだ。ましてやヲタク文化を日本のかっちょいい文化のひとつとして海外へ喧伝することを、国家が後押ししている現状、いかな頑迷な国家権力とはいえ、ヲタ神社という高邁な理想を認めぬことがあろうか?(反語表現)。

 さて、お祭である。

 コミケ、ワンフェス、いわゆるオタク祭りは色々あるが、ヲタ臭先鋭的過ぎて一般人には敷居が高すぎる。アキバ神社例祭はヲタしか参加を許さないような排外的なものではなく、地域や広く一般人にも受け入れられるようなものでありたい。
 また逆に、ヲタの隔離政策だヲタルトヘイトだ、というのは本位ではない。

 ヲタが目立つようになったとはいえ、アキバといえば電気街だ。電気から音響、コンピュータ、先端技術の集積地である。あまりにヲタヲタしたものばっかりでは、この街の持つ潜在力が生かせない。

 つまり、万民が参加しやすいような伝統的な「お祭り」の形態は維持しつつ、発展的形骸化を図る(笑)わけである。

 お神楽代わりにアニソンで集合ダンスお神輿はカトキハジメのデザイン合体変形アリ、ドジっ子がきちんとハマれる風船釣りを始めとした夜店は必須だろう。夜店で同人の即売というのもオツかもしれない。
 最近はガイジン観光客も多いので、メイド萌えに続き巫女萌えも教えてやるべきだ。近所のメイドカフェに協力してもらって大規模巫女軍団を編成、京アニダンサーズやコスプレ軍団を加えて、ホコ天を復活させた中央通りでヲタクトリカル・パレード。
 打ち上げ花火も欲しいところだが場所柄無理があるので、地元の電気店に協力してもらってイルミネーションなどのページェントを繰り広げる。
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 と、まあ、遊興地だったという「秋葉っ原」の面影を今に復活させるというセンで妄想してみた。我ながら酷い妄想だとは思うが、好むと好まざるとに係わらず、今やアキバは「観光地」としての側面は無視できなくなっている。マジで、お祭りのひとつやふたつあってもいいんじゃないか、と思う。
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by SIGNAL-9 | 2007-07-30 10:30 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉神社再建私案(1)

関東最古の神社に「らき☆すた」ヲタク殺到 地元「治安の問題が…」 産経新聞 7/25
「古事記」時代以前に創設された関東最古の大社「鷲宮神社」(埼玉県鷲宮町)に今夏、アニメファンが殺到する異様な現象が起こっている。この神社が人気アニメ「らき☆すた」の美少女キャラが暮らす家と設定されたため、「聖地巡礼」のファンが押し寄せているのだ。アニメ雑誌の記事も拍車をかけ、閑静で神聖な神社町はコスプレ姿やカメラを手にTシャツ、リュック姿という「アニメオタク」(略称「アニヲタ」)が集まる町に一転。異色のアニヲタ絵馬も登場するなど、地元住民が気味悪がる事態となっている。

 俺はこの「らき☆すた」という作品に興味は無いが(観た事はあるが興味が持てなかった)、一方的な「だからアニヲタは」的な論調には同調しない。この手の問題は、この「らき☆すた」という作品のファン固有の問題であるどころか、アニヲタ固有の問題ですらない。ドラマや映画の舞台となった地域でも同種の論議が過去からあったからだ。
 この記事だけに限って言えば、記事内容や炎上騒ぎのあったブログを見るかぎり、そんなに大騒ぎして取り上げるような大問題が発生しているという印象も受けない。

 ただ、「いわゆるアニヲタ」の「聖地巡礼」が問題視された例は過去にもあったことは事実だ。
 また、特定のヲタの群の行動というのは、他のヲタから見てさえ奇態に見えることがままあるのも事実だろう。

 例えばアキバの路上での唐突なハルヒダンス。

 あれはアキバという特殊空間-「ハレ」の場-ならぎりぎりセーフかもしれないが、同じことを別の場所で敢行すれば、よくて眉を顰められ、悪くすれば通報タイホ、ということになりかねない。

 と、つらつら考えてみると、アキバ自体にも、公的には、そういう「ハレ」の場というのがないんじゃないか、と気づいた。
 アキバには「お祭り」が出来る場がない、ということである。

 アキバでお祭りといえばバーチャルな「電気まつり」「エンタまつり」くらいである。

 確かにご近所に神田明神という大物がいらしゃるが、あそこの大祭は「アキバの祭り」という感じではない。巫女さん目当てにうろちょろしてるヲタは見かけるが(笑)。
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 そもそも街自体が異界化しているのに、いまさらお祭りの場所がいるのか、という意見はあるだろう。

 だが、路上で乱舞されるくらいなら決められた場所でやられた方がイザという時官憲も介入しやすかろうし、やる方も道路使用許可とかメンドくさいことを考えなくても堂々と「俺様のソウルフルな『 もってけ!セーラーふく』を堪能しやがれ」といえるではないか。お祭りということなら、ある程度服装が奇態であっても問題視はされないし、観客増も期待できるので、コスプレイヤー諸兄にもいいかもしれない。
 クリエイターも神社(つーか巫女さん)が必要な場合には、ソコをモデルにすればよろしい。そうすれば聖地巡礼されても、元々アキバに行く連中がアキバに行くだけだからまったく無問題。

 こりゃあ皆ハッピーなのではないか。

 アキバで神社というと、いわゆる秋葉原には、秋葉原駅構内の秋葉神社分社を除けば、ふたつの神社が存在する。
  講武稲荷神社と花房稲荷神社である。

 講武稲荷は明治時代の観光ガイド『新撰東京名所図会』でも紹介されているほどポピュラーな存在だ。
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 一方、花房稲荷神社は、有名ブログで取り上げられて知られるようになったが、場所が路地裏でもあり、知る人ぞ知る存在だった。
 (余談だが、このお稲荷様は江戸時代から云々という記述がインターネット上には散見されるが、俺が当たった限りの文献では確認できなかった。作りを見ると、どうみても戦後のものなので、それ以前からあったとすれば再建されたということなのだろうが、個人的には江戸からあったにせよ屋敷神の類だったのではなかろうかと思っている)。
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 さて、残念ながらいずれの神社も「ハレの場」としては不利な立地条件である。
 講武稲荷は街角だし、花房稲荷は死ぬほど狭いビルの谷間だ。これでは夜店も出せやしないではないか。

 そこで思いつくのは、いっそ適当な場所を新たに考えて、神社を新設してしまったらどうか?という案なのである。

 ところで、この「適当な場所」がまず難問である。何しろ狭いアキバでのことだ。
 縁日が出来る程度の広さはどうしても欲しいが、地元住民の日常生活に迷惑をかける様な場所はNGだ。

 アキバで、ある程度のスペースを確保できそうな場所は、
  1. 佐久間町の秋葉原公園
  2. 花岡町の再開発したビル群の間の広場(UDXの裏とか)
  3. 滝沢馬琴の住居跡で有名な芳林公園
あたりだろう。

 秋葉原公園は交通の便的には最強だろうが、いくらなんでも少々狭すぎる。ということで、2か3の案ということになる。

 再開発したビル群の間にはけっこうスペースがある。
 別に常設の出店を出そうというのではないから、縁日程度に流用することくらいはできそうだ。
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 神社本体は常設でないと意味がないが、最悪、神社だけをどこかのビルの「中」に設置することもできるだろう。
 オフィスビルと神社というとミスマッチな感じだが、地価の高い東京ではビルの中に神社があることは珍しくない。
 この写真をご覧あれ。
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 秋葉原の隣の浅草橋(住所は東日本橋)にある初音森神社である。写真でみてもかなり無理な(笑)構造であることはお分かり頂けると思うが、こういう例がないわけではないのだ。

 だが確かに再開発されたビルの間の空間は狙い目なのだが、スーツ族のビル群とヲタのアキバの間には、道路幅以上の深くて暗い谷があるという説もあり、権利関係も複雑そうなので実現にはかなりの困難が伴いそうだ。

 第3案の千代田区立芳林公園は、物理的にはもっとも妥当な場所だろう。
 総面積0.2haと適当な広さがあり、小さめのお社と社務所程度だったら日常の憩いの場を奪うことなく建築できそうだ。元々の鎮火社だって、たったの7.3×5.5メートルだったわけだし。
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 ヲタが集まる…ということだと、すぐ横が小学校という点はかなりな障害になりそうだが(爆)

 ということで、とりあえず、新・アキバ神社の建設予定地として芳林公園を妄想しておこう。
 場所はこれでいいとして(いいのか)、どんな神社を建てるのか…という妄想はまた次回。
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by SIGNAL-9 | 2007-07-27 13:27 | 秋葉原 研究(笑)

やっちゃ場の痕跡

 道行く人は気にも留めていないようだが、秋葉原本通からヨドバシカメラの脇を通って昭和通り方面に抜ける道の、高架の橋脚にペンキで直書きしたこのような表示がある。
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「蔬菜」、"そさい"と読む。
いわゆる「あおもの」、野菜のことである。

 秋葉原に青果市場があったことを知らない世代も多くなってきたようだ。
 東京都中央卸売市場神田分場、通称「やっちゃ場」(のひとつ)である。

 『神田市場史 上巻』(神田市場協会 昭和43年)によると、17世紀頃に成立した市場が神田多町ニ丁目~須田町・鍛冶町・司町あたりに散らばっていたようだが、それが昭和3年に秋葉原に移転したということだ。「秋葉っ原」への移転は、明治5年から東京府によって何度も何度も計画されるも、市場関係者の反対で毎度頓挫した、という経緯もあったらしい。
 結局、大震災のリセットがきっかけになったということか。

 昭和3年の移転後の様子を、今和次郎編纂の『新版大東京案内』(昭和4年。ちくま学芸文庫2001年、P160)から引用しておく。
【青物市場】
 青物市場即ち東京の俗語にいふ「やつちや場」の数は、東京に非常に多い。ちょっと数えて三十七ばかりある。
(中略)
 神田市場の起源は古い。江戸時代から十数度の火事で記録を焼いてゐるから精しくは解らないが、三百二十年前、慶長年間には既に存在したらしい。
 敷地は約二千坪、総工費五百万円。立派な市場である。問屋が二百二十軒、仲買人が百三十五軒、取扱ひ数量は、年額約二十七万四千頓、二千三百万円にのぼつて、東洋一の青物市場である。
 恥ずかしながら、「やっちゃ場」が一般名詞だということは知らなかった。ガキの頃から「やっちゃ場」と言えば秋葉原のアレ、固有名詞だと思い込んでいた(笑)

 昭和30年代のやっちゃ場の貨物集積所の様子。
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 こちらは同じく昭和30年代の競りの様子。
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 昭和43年に東京都観光協会が出版した写真集を見ていたら、こんな写真も見つけた。
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 今とは風景がまったく違うことに感慨を覚えざるを得ない。

 威勢のいい八百屋のオヤジたちが早朝から忙しく働いていた同じ場所を、今やヲタクと似非メイドが闊歩してるんだから(偏見)、時代が流れるのは早い。

 俺も歳を取るもんさねぇ(笑
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by SIGNAL-9 | 2007-05-23 13:56 | 秋葉原 研究(笑)

秋葉原-「伝説」に関するとりあえずのツッコミ。

 およそ一ヶ月に渡る秋葉原由来調査月間だったが(笑)、もう飽きたのでここらでひとまず纏めておく。

 自分で調べてみてつくづく思ったのだが、ド素人の俺が、その辺のチンケな図書館&書店の立ち読みで、わずか数時間調べただけでも「おいおい、この話おかしいんじゃねぇの?」「あ。デタラメじゃん」と思える記述が散見された。

 Webページならまだしも、市販の歴史関係の本でまで。

 ここでは、そんな記述に関する俺のツッコミを纏めておく。
 …とはいえ、あちこちに喧嘩を売る気もないヘタレなので、典型的な記述例を適当に要約し、個別具体的なツッコミ先は明示しないことにする。
 また、詳しい議論は過去のエントリも合わせてご参照いただきたい。
秋葉神社の謎
秋葉神社の謎-些かつまらない解決?編-
秋葉原-火除地の成立と鎮火神社
秋葉原-火除け地、その後の様子は?(明治3~21年)
秋葉原-貨物取扱所【秋葉原駅】(明治23年~昭和7年)
秋葉原-表記の歴史:「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」…?
秋葉原-発音の問題1:「アキバは下町訛り」というのは本当か?
秋葉原-発音の問題2:「アキハ」がマズかったのか?
秋葉原-「田舎者の役人」はどこにいる?

 もちろん、何一つ断言するほどの自信も能力もないが、いちいち「~と思う」「~じゃないかなあ」と書くのもウザいので、断定口調で書いておく。
 所詮素人が短時間調べただけのとりあえずの結果である。間違ってる可能性は大いにあるし、明日には手のひらを返すかもしれない。まかり間違って参考にしようとかコピペしようとか思ってくださった向きは、ご注意のほどを。また、きちんとした反証を教えていただければいつでも撤回する用意はある。大方の御指導を賜れれば幸いです。

  1. 『秋葉原には遠州の秋葉神社(秋葉権現)が勧請された』

     多数のWebページ、かなり名の通った出版社の大百科事典から山田風太郎の小説まで、この趣旨の記述が成されているが、完全な誤り。

     一般に言うところの”秋葉権現”とは、遠州(静岡県)秋葉山本宮秋葉神社のことである。
     現在の秋葉原に設立されたのはこの「秋葉神社」ではなく、「鎮火神社」である。
    1. 以下の信頼性が高い文書に、鎮火神社設立の模様が詳細に記録されている。
      • 江戸-東京の初期の歴史に関する基礎資料として高名な「武江年表」(東洋文庫版かちくま学芸文庫版が入手しやすい)
      • 東京府/東京市の公文書が収められた「東京市史稿」(東京都内の公立図書館に所蔵多し)
      • 神社の戸籍帳「神社明細」(台東区の中央図書館にある)

       設立当初は「秋葉神社」という名前ではなかったことがこれらの史料により確認できる。

    2. 祀っている神様が違う
      鎮火神社が祀ったのは火産霊大神(ホムスヒノオオカミ)水波能売神(ミズハノメノカミ)埴山比売神(ハニヤマヒメノカミ)の三神。これは上記史料及び現在の松が谷の秋葉神社の由来書きでも一致・一貫している。対して秋葉山本宮秋葉神社は火之迦具土神(あるいはいわゆる三尺坊大権現もしくは大己貴命)。火之迦具土神と火産霊大神が同一神物(笑)だとしても、「秋葉権現勧請説」では他二神は説明が付かない。

      ------------- 2/9 追記
      『武江年表』の記述に従い大己貴命も書いたが、これは『武江年表』側の間違いくさい。とりあえず削除しておく。
      -------------

       「元々江戸城の紅葉山に勧請されていた秋葉権現を勧請した」という説もあるが、仮にそうだったとしても、それを「遠州の秋葉権現が勧請された」と表現するのは飛躍しすぎ。

    3. 国家神道・廃仏毀釈の流れという時代背景を考えてみても、明治3年の時点で東京府が神祇官に依頼して秋葉山本宮秋葉神社から勧請することは考えにくい。
      『東京市史稿』には、神祇官と東京府でやり取りされた公文書が収録されているが、遠州秋葉権現の話はビタ一文出ていない。

     本来別の神社である鎮火神社を、庶民が「ゴホンといえば龍角散、火伏せといえば秋葉神社」的誤解をし、その名前で呼んだという解釈が妥当であり、武江年表にもその旨の記述が存在する(東洋文庫版から現代語に超訳)。
     世間では、当社(鎮火神社)が「鎮火社」と命名されたので、細かいことを考えず「遠州秋葉山の神を勧請したんだな」と早合点し、「秋葉山権現」と唱えてお参りする奴も多い。
     秋葉山のお祭りしてる神さまは大己貴命で(以前から三尺坊を合わせて祭ったいわゆる「神仏習合」状態だったが、この頃三尺坊は移転されたので、いわゆる神社にはなったのだが)、鎮火社とは祭ってる神様は別神28号である。
     だが、世間につられて勘違いしてる奴も多いのでここに特に書いておく。上野の両大師に参拝して、実際には良源と天海を祀ってるのに「大師と言えば弘法大師」と思い込んで「南無大師遍照金剛」なんて唱えちゃうのもこのタグイである。
     明治9年『明治東京全図の内第五大區図』では既に鎮火神社が「秋葉社」と記載されており、この「誤解」はかなり早い段階から始まっていたことを伺わせる。
     明治20年発行の『東京5千分の1』には『字秋葉ノ原』と地名表記がなされている。字表記なところを見ると「秋葉ノ原」は地名として準公的に通用していたらしい。
     明治33年『新撰東京名所図会 神田区之部』の『神田花岡町 秋葉の原』の項には、『之を好機として其の跡を火除地となし、始て鎭火社即ち秋葉神社を建つ。是れ秋葉の原の名ある所以なり』とある。明治晩期には完全に「秋葉神社」として定着してしまったようだ。

     昭和5年に、鎮火神社が"通名"を採用し秋葉神社と正式に改名したことで、現在にまで影響を及ぼす誤解の輪を広げたことは否めない。

     この辺の経緯を知るのに、書店で入手しやすく読みやすいものとして中公文庫の三田村鳶魚『江戸の旧跡江戸の災害』所載『秋葉ばら』を推奨する。(『江戸の実話』(昭11)近デジ・オンライン版)この本にもっと早く会えていたら、俺もこんなに右往左往迷わなかった(笑)

  2. 『秋葉の原にあった秋葉神社は明治22年に佐竹の秋葉神社に移転した』

     誤りである可能性が極めて高い。

     ある地名辞典にこの趣旨の記述があったが、誤伝であると思われる。
    1. 佐竹(竹町)に現存する秋葉神社と鎮火神社(松が谷の秋葉神社)では祀っている神様が異なる(1-b参照)。

    2. 公文書等の記録(土地の買取など移転資料)から見ても鎮火神社の移転先は(現在の)松が谷である。

    3. この説が成立しうるのは、鎮火神社とは別の「秋葉神社」が秋葉の原に存在した場合だが、可能性は低い。

  3. 『鎮火神社は英照皇太后に思召を以て、明治天皇の下命で設立された』

     後付けである可能性が高い。

     設立当初の記録には上記に相当するような経緯の記述が見当たらない。
     「東京市史稿」には、火除け地設置の必要性の実務的・実際的な理由(度々の出火、消防困難、西北の季節風での延焼など)が挙げられており、皇室の直截的関与を伺わせる上意下達的な記述はない。
     ただし、設置作業を神祇官に依頼して行ったということは事実であり、極めて広い意味でなら明治天皇の下命と言えるかもしれない。

  4. 『鎮火社は明治21年に移転し、跡地が国鉄に払い下げられた』

     デタラメ。明治21年に国鉄は存在しない。

     秋葉原貨物取扱所を作った日本鉄道会社は後に国有化されるが、この時点では国策会社とはいえ私鉄である。
     ついでに言っておくと、鉄道省という役所も明治には未だ存在していない。
     明治21~22年頃の、鎮火神社移転-秋葉原駅設立のエピソードで、国鉄だの鉄道省だの記述している文章は、ちゃんと調べないで書いていると疑った方がよかろう(笑) デタラメを平気で書いている新聞記事もあるのでご注意を。

  5. 『秋葉原は下町訛りで<あきばっぱら><あきばがはら>と呼ばれた』

     不正確。
     「アキバハラ・アキハバラ」問題と呼称したいくらいポピュラーな疑問であり、Web上では「アキバ」説が優勢のようだが、少なくとも排他的・断定的に述べられるほど根拠はない。

     反証として「あきはっぱら」や「あきはがはら」と濁らず発音されていたと思しき事例も確認できる。多様な読み方が確認できる以上、「下町訛りで秋葉は必ずアキバと発音された」的な表現は妥当ではない。

  6. 『下町ではアキバと発音していたので、永井荷風らはアキハバラという呼び方を批判した』

     文脈として疑わしい(=(理由-結果の論理がヘン)

     前項のとおり、「下町訛りで秋葉はアキバ」という予断は、疑える余地が十分にある。
     私見だが(ってこの文章全部私見なんだが)、荷風らの「アキハバラ」に対する違和感の根本原因は、「原」を「バラ」と、東京近辺では耳慣れない読み方をしたためという可能性もある。

  7. 『鎮火神社が秋葉神社と改められると、「秋葉原」と呼ばれるようになった』

     誤り。少なくとも経緯の説明としては不正確。

    1. 鎮火神社の公式な名称変更は昭和5年。秋葉原にいた期間に名称が「改められた」ことはない。
      その意味では、「秋葉の原」に公式に「秋葉神社」が存在していたことは<無い>。

    2. 一方「秋葉原」という表記は最低でも明治19年-鎮火神社はまだ秋葉の原にあった-まで遡って使用されていたことが新聞記事などで確認できる。

     鎮火神社が明治3年の設立からさほど間を置かず「秋葉神社」と俗称された証拠はあるので(『武江年表』、明治9年発行『明治東京全図の内第五大區図』など)、その意味でなら間違いとまではいえないが。

  8. 『"秋葉原"という表記は秋葉原駅が誕生してから使うようになった』

     誤り。

     前項のように駅成立以前に「秋葉原」表記を使用していた例がある。
     ただし、実際に何と読まれていたかは不明。"秋葉原"という表記に「アキハノ(ハラ)」というフリガナを振っている例もある。
     表記(どう書いたか)と発音(実際にどう読まれたか)をごっちゃにして論述することには注意が必要である。

  9. 『(本来アキバハラであった)秋葉原をアキハバラと名づけたのは田舎者の鉄道省の役人であり、神田っ子は抗議運動をした』

     かなり怪しい。

    1. 「アキハバラ」という読みに不満・違和感を持った人々がいたことは事実だが、一部で記述されているような「神田っ子の猛烈な抗議」・「反対」・「地元住民の運動」などの表現から受ける印象を裏付けるような新聞記事や公的記録の類は見つからない。

    2. 現在流布しているこの「伝説」の中には、年代不明・一次史料不明なものや基礎的事実の錯誤(明治23年には存在しない鉄道省の役人の行為としている、など)が含まれているものが多く、信頼性に欠ける。単なる「伝聞・言い伝え」としか思えない。

     「文句」をいっていた人が継続的にいたのは事実だろうし、もしかしたら苦情を寄せたりした人もいたかもしれないが、「抗議運動」とまで評するのは誇張ではないか。
 以上、これが現時点での俺的見解である。

 秋葉原に関しては青果市場やら闇市やらの歴史もおもしろそうだし、俺的には70~80年代の方が実体験を踏まえてイロイロ話せることもあるのだが(話せないことの方が多いが^^;)、その辺はまた気が向いたら。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-08 12:24 | 秋葉原 研究(笑)