カテゴリ:秋葉原 研究(笑)( 29 )

秋葉原は「悪魔街」…?

 『街歴リサーチ HISTRIP』という番組が9月29日深夜にフジテレビで放送されていた。
 台風の風音で寝付きが悪かったので、観るとも無しに観ていたのだが。

 番組自体へのコメントは特にない ―非常に多くの間違いがあったが、深夜のバラエティに目くじら立てるほど暇ではない。てゆーか、ツッコンでると切りがない。 あいかわらず根拠薄弱の「秋葉権現勧請説」が一般的には通用しちゃってるんだな、と確認できただけでヨシとする― のだが、Twitter上で、番組中に使われた「悪魔街」というキャッチーな言葉に反応している向きがかなり見受けられたので、ちょっとだけ。

 「悪魔街」。

 そもそも「街」という漢字を当てているのはどうよ?と思うが、そこはひとまず置いておいて、「あくままち」というキーワードに着目すると、俺の知る限り、この言葉の一般書籍の形での初出は、江戸学の大家である三田村鳶魚の『娯楽の江戸』(大正14年)である。
 もちろん、天下の三田村鳶魚がテキトーに言葉をでっち上げるわけがないので、大本には江戸期の史料があるのだろうが、鳶魚が言及していないので、元ネタは俺には判らない。

 さて、同書『娯楽の江戸』は幸いにして近代デジタルライブラリー(近デジ)で現物が読める。

 それは、「秋葉原の火除地」の項だ。

 「あくま町」とかのマメ知識を開陳するのなら、せめて、ここをちゃんと読んで欲しいのである。

 番組中では言及がなかったと思うが、「悪魔町」(あくままち・あくまちょう)というのは、神田川沿いの「佐久間町」(さくままち・さくまちょう)のシャレなのである。
(だから「悪魔街」では意味が通らない。「悪魔町」でないと…)

 もう少し詳しくみると、鳶魚は本書の後(昭和5年)に上梓した『江戸の旧跡江戸の災害』所載の「秋葉ばら」の項でこう述べている。
  1. 佐久間町が出火元である文政の「佐久間火事」と天保の大火は多くの犠牲者を出した。この二度の火事から、誰言うと無く、佐久間町を悪魔町と言うようになった。

  2. その後、明治二年に同所から三度めの出火があったので、その跡地を火除け地にした。これがいわゆる秋葉原。

 ちょっと解説を加えておくと、文政の「佐久間火事」というのは文政12年(1829)3月21日、天保の大火(甲午火事)というのは天保5年(1834)2月7日に、どちらも佐久間町が失火元で発生した大火である。犠牲者数に関しては資料によって諸説有るが、文政は2,800人、天保は4,000人くらい。焼け出された被害者は数知れず。

 五年くらいの間に数千人の犠牲者を出したわけだ。まあ、悪魔町と言われるのも納得だろう。

 「明治二年の三度目の失火」というのが、明治2年12月12日 午後10時ごろ 神田相生町20番地、塗師職の金次郎の家が火元になった、秋葉原誕生の直接のきっかけになった火事である。
 鳶魚は、出火元が佐久間町であるかのように述べているが実際には相生町である。

 余談だが、この火事に触れている多くのWebページで、発生した年を「1869年」と記載している(フジテレビの番組でも確か1869年と伝えていたような気がする)が、これは西暦換算の間違い。
 以前にも書いたが、日本は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰暦を採用していたため、それ以前の和暦は西暦と微妙にずれているのである。西暦1869年は明治2年の11月29日までなので、火事が起こった12月31日は1869年ではなく1870年である。

 さて。

 佐久間町はいわゆる「秋葉原」と近接し、しばしば同一視されていたのは確かだし、佐久間町の"部分"が秋葉原の"一部"に含まれたのは事実である。

 だが、いわゆる「悪魔町」と呼ばれるきっかけだった文政・天保の火事と、明治二年の火事の間には30年以上の期間が空いている。
 もちろんこの期間中も秋葉原周辺では小さな火事は頻繁に起きていたわけだが、いつでも佐久間町が出火元だったわけではない。

 鳶魚が「あくままち」に言及している文脈は、"「このあたり」では、江戸時代から火事が多かった"という、いわば話のマクラであって、この鳶魚の文章を以て "秋葉原は昔「悪魔町」と呼ばれた" と解釈するのは、いささか拡大解釈なのではないか、と思わないでもない。

 まあ、大雑把には間違いではないし目くじら立てるようなことではないのだが、「秋葉原は悪魔町だったんだな」的なツイートも見かけたので、ちと気になったので。


 ついでに、「あきはばら」・「あきばはら」問題、と俺が勝手に呼称している問題に関して。

 この件に関しては既に書き尽くしたし、その時点の見解を変更する新たな根拠も見いだせていないので、別に改めて語ることはないのだが、『娯楽の江戸』の同ページでは、"秋葉の原"に、「あきはのはら」とふりがなが振ってあることにお気づきだろうか。

 俺は、著者ではなく編集者が付けた可能性もある本のふりがなをもって「実はあきははらと呼ばれた」なんて主張しようというのではない。同じ鳶魚の本でも「あきば」とふっている本もあるくらいだ。

 俺が言いたいのは、おそらく「アキバ・アキハ」という発音の揺れは、往事からあったのではないか、だから一部で主張されているような「アキバが元々の<正しい>読み方」なんて断言、することはできないだろう、ということだけである。

 だいたい、「俗称」に「正しい」も「間違ってる」もないもんだ(笑)。
[PR]
by signal-9 | 2012-10-02 13:36 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

『郷土史余滴その一 秋葉神社と秋葉神社』

こちらでコメントいただいた、 酒井孝昌さんのご厚意で、『郷土史余滴その一 秋葉神社と秋葉神社』というレポートを送っていただいた。

 わくわくしつつ、半ば不安も感じながら読み始めた。

 俺、もしかしたら鎮火神社や佐竹の秋葉神社に関してトンデモない大嘘書いちゃってるんじゃなかろうか。実は佐竹秋葉神社は秋葉原と関係あり!とかだったら謝罪訂正の記事書かなきゃ…
 …
 読了、ちょっと胸をなで下ろしている。

 細かい問題はありそうだが(例えばこの時点では俺は、佐竹秋葉神社は「佐竹屋敷内にあったという秋葉権現を、昭和初頭に「秋葉の原」とは無関係に独自に復元したのでは?」と推定していたのだが、酒井さんの調査に依れば経緯はもっと複雑なようだ)、大きくは外していなかったようである。

 特に俺の興味の焦点である、秋葉原の由来の問題に関しては、俺が書き散らしてきた一連の書き込み;

秋葉神社の謎
秋葉神社の謎-些かつまらない解決?編-
秋葉原-火除地の成立と鎮火神社
秋葉原-火除け地、その後の様子は?(明治3~21年)
秋葉原-貨物取扱所【秋葉原駅】(明治23年~昭和7年)
秋葉原-表記の歴史:「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」…?
秋葉原-発音の問題1:「アキバは下町訛り」というのは本当か?
秋葉原-発音の問題2:「アキハ」がマズかったのか?
秋葉原-「田舎者の役人」はどこにいる?
秋葉原-「伝説」に関するとりあえずのツッコミ。
ついに発見!「秋葉っ原」の写真
江戸博へのツッコミ-その後。
「秋葉権現勧請説」を天下の千代田区に質問してみる。
「秋葉権現勧請説」 千代田区から返事が来た。

と大きな差異はないようだ。

 もちろん、三流プログラマがその場の勢いでざっくり調査したものと違い、酒井さんのレポートは詳細多岐に渡る本格的なものだ。

 例えば、松が谷の秋葉神社と佐竹の秋葉神社ではお社の神紋が一致しない、という指摘には正直やられた、と思った。
 まったく気がつかなかった。
 やはりきちんとした郷土史研究というのは素養が必要だと痛感した。

 鎮火神社や佐竹秋葉神社に興味のある向きは、このレポートは必読である。
(…ついでに俺の書き込みもちょっと読んでもらえるとうれしい(^^;))

 で、俺がもっとも感動した点。

 酒井さんは巻頭でこう書かれている(強調は引用者)
平成小学校東側に御鎮座の秋葉神社の御威徳によって、第二次大戦後はぼや程度の火災はあったものの複数軒が焼失するような規模の大きい火事もなく、町民は平穏無事に日々を過ごしている。
このような神社でありながら当町内に御鎮座になった由来が今ひとつはっきりしない。
秋葉神社境内に掲げられている由来書も読みようによってはどのようにもとれる書き方になっている。私は以前からもう少し由来を明らかに出来ないかと思い資料集めを心がけてきた。まだ決定的なものは発見できないが今まで収集できた資料によって考えてみようと思う。
私が町会の古老の皆さんから聞いた範囲では、現J R 秋葉原駅付近にあった火伏せの社を遷座したものとの意見が聞かれた。私はこれは事実と違うと思っている。
 話の順序として秋葉原の地名の所縁とそう呼ばれるに至った経緯を考える。
鎮火神社と秋葉原の歴史に関して、そして佐竹秋葉神社との詳細な比較検討を加えられた後、酒井さんはこう結論されている
前節までの諸事実によって、佐竹秋葉神社は現松が谷秋葉神社とは直接の関係はあり得ないことがお分かり頂けたと思う。
これはとても勇気がいることだと思うのだ。
 自分の生活している、まさにその場所で、古くから信じられていることに正々堂々と反証するということは。

 とてもではないが俺のごときヘタレにはまねができない。

 この件に興味を持って以来、身勝手なフラストレーションを感じているのである。

 ちょっと調べりゃ疑わしいと誰でも思えるような「怪しい通説」が、引用元の明示もないコピペコピペで、主語のない「だそうです」「といわれています」でバラまかれ、たまたま「おかしくないですか?」と指摘しただけで削除削除で証拠隠滅…、インターネットの負の部分が目について仕方がないからなのだ。

 そうはいっても生来ヘタレの俺は、せいぜい画面の向うで歯がみするくらいしかできていないのである。ましてや、リアルの世界で、地元の通説に反論するなんて…

 「私はこれは事実と違うと思っている」…本気の凄みというのはやはり違うのだなぁ。
[PR]
by signal-9 | 2009-09-18 15:56 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(7)

広瀬中佐の銅像(5) いくつかの「謎」

 長々書いてきた廣瀬中佐の銅像の話であるが、よくわからなかったことがいくつもある。
 つーか、この話、激動の時代を跨っているので深堀しようと思うといくらでも出来て、カネもヒマもない三流会社員の手慰みのブログ如きでは手に負えない。

 そもそも最初は「秋葉原研究(笑)」の流れで調べ始めたのに、いつの間にやら「秋葉原」とは何の関係もなくなっちゃった(爆)

 で、わからないこと=俺個人の「謎」を備忘として書いておく。

 廣瀬中佐のファンという方は世の中に多いようだ。「ナニ馬鹿なこと言ってんだこのド素人のチンカスが」という親切な方、よろしければご教授ください。

More
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-05-20 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

広瀬中佐の銅像(4) 銅像の撤去

 まず基本的な事実の確認から。

 銅像は太平洋戦争中の金属供出のため撤去された、という説を述べている書籍やWebページが一部にあるが、これは完全な間違い。

 廣瀬中佐の銅像が撤去されたのは戦争の後である。

More
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-05-19 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(3)

広瀬中佐の銅像(3) 銅像の写真をいくつか。

 さて、かくして建造された廣瀬中佐の銅像の写真を時代を追って何枚か紹介しておこう(ググっても大量に出てくる)。

 まずは明治44年の『東京風景』から。完成直後の銅像の写真である。
 市電が行き交う万世橋畔。銅像を見上げる見物人と比べるとその巨大さがよくわかる。
c0071416_10454513.jpg


More
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-05-16 10:52 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

広瀬中佐の銅像(2) 銅像の建立

 廣瀬中佐がなぜ「軍神」と呼ばれるようになったのか。
 「旅順口の物語」だけからはピンとこない人もいるかもしれない。

 確かに部下たちを真っ先に避難させ、自らは危険を顧みず沈み行く船の中を杉野を捜索し、最後には肉片一片を残して海中に没したというストーリーは感動的である。
 だが、従事した作戦自体は残念ながら失敗だったわけである。戦功という意味では廣瀬は明らかに成功者ではない。
 つまりこの国における「軍神」という概念は、その語感とは異なり、必ずしも戦争で華々しい結果を出した<英雄><勝利者>ではない…ということである。

 この「軍神」という概念については『軍神 近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡』(山室建徳、中公新書。以下『軍神』と略)が詳しい。
 廣瀬だけではなく、明治から昭和の「軍神」を包括的に取り上げていて、2007年7月発行の新刊書だし、税込み1000円ちょっとでお買い得。新書なので持ち運びにも便利(笑)。
 また、俺が見つけられた限り、現在書店で簡単に手に入る書籍の中で廣瀬中佐の銅像に関してもっとも詳しく書かれている。
 以下の記事も多くをこの『軍神』に拠っている。
 ただし、この記事では「銅像」を話題にするつもりであるので、廣瀬武夫という人物個人に詳しく触れるつもりはないし、「軍神」の分析は俺の手には到底あまる(個人的には『軍神』の分析に諸手を挙げて賛成というわけでもない)。興味のある向きは『軍神』を参照されたい。

さて、廣瀬の死後、すぐに銅像建設の話は持ち上がったようである。

More
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-05-11 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

広瀬中佐の銅像(1) 旅順口閉塞作戦

 秋葉原研究(笑)のテーマとしてこの話題を取り上げるのはいささか反則なような気もする。
 舞台は神田須田町。どう考えてもいわゆる「秋葉原」には含まれない。

 だが心情的には「広義の秋葉原つーことでもいいんじゃね?」と思うし、『坂の上の雲』がNHKでドラマ化されるそうなんで、ちょっとミーハー心を出して取り上げることにする。

 元の万世橋停車場─交通博物館の前に建っていたという「廣瀬中佐の銅像」に関してである。
c0071416_941738.jpg

 さて、この銅像の話を始めるには、まずはそのモデルである「軍神・廣瀬中佐」という人物がナニモノであったのか、を確認しておく必要がある。

 まずは廣瀬中佐の物語から始めよう。

More
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-05-09 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

「秋葉権現勧請説」 千代田区から返事が来た。

「秋葉権現勧請説」を天下の千代田区に質問してみる。の続きである。

<akiba-i事務局>である千代田区まちづくり推進部都市計画課から回答が来た。

 まず訂正しておくが、この「秋葉原インフォメーション」というサイトは、俺はてっきり千代田区自身の持ち物かと思っていたのだが、
秋葉原地区の駐車場案内システムとともに運営され、駐車場案内システムにご参加いただいております、駐車業事業者様の負担金にて運営されております。現在、当ホームページの管理主体の移行期にあたるため、私ども千代田区で運営を預かっております。
のだそうだ。

 ま、そうはいっても運営に責任を持っている以上、千代田区殿に管理責任があることに違いはあるまい。

 で、いよいよ「秋葉権現勧請説」の根拠になっている史料が教えてもらえるか、と思ってメールの下を読んでみたら。
掲載記事に関し、文献等について確認しておりますが、未だその該当資料を確認できておりません。
したがいまして、ご指摘いただきました事項に関するホームページについて、掲載を削除させていただきたいと存じます。
うわっ、江戸博と同じ、「削除」だよ(泣)。

 該当ページを見てみると
※当掲載記事について不正確な記述等がございましたので、掲載を削除させていただきます。
   ご迷惑をおかけします。
…疑問があったこと自体を無かったことにしてしまった江戸博よりはちょっとマシかもしれないが、事情を知らないと、何がどうしてこうなったのか、「不正確な記述等」つーのが何なのか、絶対にわからないわな。

 江戸博の時にも書いたが、誰も削除してくれだの無かった事にしろだの言ってないのである。

 そもそも俺はテメエの見解が絶対正しいなんて思っていない。
 そりゃあ、ある程度確信と自信があるからこそ疑問を呈しているわけだが、疑問に対するリプライを示してもらえればいいだけで「お詫び」なんざ求めちゃいないのだ。

 回答がすぐに示せないなら示せないで、その旨追記した文書に変えてもらう方がよほど親切かつ文化的態度だと思うのだが。

 重要なポイントなので何度でも同じ事を言うが、クレーム付いたら即削除というのは、Web上の文書のあり方としては十分な対応とは思えない。
 残しておくこと自体が問題であるような文書-例えば直截的に誰かを傷つけているとかで、「抗議」を受けるようなケース-は例外だろうが、これはそういう文書ではないだろう。

 もっとも、評価すべき点もある。
 今回、俺はあえてハンドル名で問い合わせをしている。
 このハンドルはパソ通だのfiだのの時代からン十年も使ってるから、俺自身は"匿名"というつもりはないのだが、相手とすりゃあドコのドイツかもわからないわけだ。
 そんな相手に対して対応してくれただけでもありがたいと思うべきかもしれない。
 また、問い合わせ先が明示してあり、機能しているのも好印象だ。
 公共機関でも、問い合わせ先が書いていなかったり、メールしても宛先不明になったりというヒドイところもある。

 きちんと対応してくれたのだから、このまま放置ということではなく、そのうち一次資料を確認して再掲載されると期待している-このままじゃあサイトのバランスも悪いしね(^^;)。

まだまだあるぞ、次のツッコミ先候補(笑)
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-03-05 13:09 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(4)

「秋葉権現勧請説」を天下の千代田区に質問してみる。

 秋葉原由来調査月間から早一年余、Web上には秋葉原の歴史・由来に関して、あいかわらず疑問を持たざるを得ない記述が散見できる-というかむしろ増えてきているような気もする。

 特に、俺的には「秋葉権現勧請説」と名づけているのだが、「秋葉原という名称の由来は秋葉権現が勧請されたから」という説に関しては定期的に疑問を呈しておく必要性すらを感じている。

 単なるコピペが多すぎるような気がするからだ。

 一例を挙げよう。
 R25.jpというWeb雑誌から「秋葉原が電気街になったのはなぜ? 「オタクの聖地」の歴史を探ってみた」 2008.02.15という記事。
秋葉原の地名はもともと、この地に建っていた鎮火社(ちんかしゃ/防火祈願のための神社)による。ここに祀られたとされる秋葉大権現(あきばだいごんげん)の名から、人々はこの社を「秋葉さん」と呼び、ついには名称も秋葉神社に変更された。

 現在のアキバは当時の秋葉神社周辺の原っぱにあたるエリアで、人々はここを「あきばっぱら」あるいは「秋葉の原」などと呼んでいた。これが秋葉原の由来である。
あえて悪い言葉を使わせてもらうが、デタラメもいいところだ

<秋葉大権現>というのは、遠州の秋葉社と秋葉寺が神仏混淆だったところから付いた呼称である。

 鎮火社設立は明治3年のことだ。それ以前-明治元年に神仏分離令が出て神仏混淆の寺社に対して弾圧が始まっていたことは、その辺の教科書をみれば書いてある歴史的事実だ。
 明治3年時点に、国家神道を推進するために復興させられていた神祇官がわざわざ神仏混淆の秋葉大権現を勧請したなどということは、この辺の歴史的背景からみて極めて考えにくい。

 現に、東京市史稿に収められている鎮火神社設置の公文書には、「遠州の秋葉権現を勧請した」などという話はビタ一文出てこない。
 これは当たり前で、鎮火神社と秋葉権現では、祀っている神様自体がそもそも別の神様なのである。

 細かいことを言うと、「ついには名称も秋葉神社に変更された」というのもヘン。改名は昭和5年のことで、秋葉原から移転してから40年もたった後のことだ。
「現在のアキバは当時の秋葉神社周辺の原っぱにあたるエリア」逆だ逆。原っぱ(火除け地)を作って、そこに鎮火社を作ったのだ。

 tansei.netというWeb雑誌から「ケーススタディ 秋葉原再開発 」という記事
江戸時代に火事が多すぎたことから、明治3年になって火除けの神様の秋葉大権現を勧請した(いまは台東区松が谷に移転)ことから、秋葉様の原っぱが転じて秋葉原という地名がついた。区名すら定かならざる頃で、千代田区外神田から台東区上野5丁目あたりに、その原っぱがあったようだ。
松が谷の秋葉神社さんは抗議した方がいいと思うのだが(笑)。
 この記事を書いた記者氏は、アソコの由来書の中に「秋葉大権現」と書いてあるのか、ちゃんと見てくればいいと思う。
 「区名すら定かならざる頃」というのも何をいってるのかわからない。記者氏は、東京が明治の頃から今と同じ23区制をとってたとでも思っているのかしら?
 言うまでもないが、「秋葉原」には江戸時代からちゃんと町名だってついてるし、明治期の地図を見ればどこにあったかは一目瞭然なのだが。

 …と、突っ込んできたのだが、「秋葉原 秋葉権現」でググっているうちに、あまりの多さに些か自信がなくなってきた。

 なにしろ天下の千代田区がやってる「秋葉原インフォーメーション」というホームページまでが、この「秋葉権現勧請」説を採っているのである。

「アキバの歴史と文化」
明治2年の暮、神田相生町から火事が出ました。火は付近の十ヶ町を焼くつくしました。明治新政府は、この火事を機会に焼跡に町家の再建を許さず、約九千坪を火除地としました。明治3年3月、火防(ひふせぎ)で有名な遠州の秋葉大権現を観請し、東京府社「鎮火(ひしずめ)社」を創建しました。以後この地は、地元から「あきばの原」「あきばっぱら」と呼ばれ、行楽地に利用されました。
 前述のように、俺自身はこの「秋葉権現勧請説」は完全な誤りであると確信しているのだが、天下の千代田区のことだ、もしかしたら浅学菲才の愚民が知りもしないような一次資料をお持ちなのかもしれないではないか。
 税金を使って運営しているサイトだ、よく調べもしないで書いている…なんてことはあり得ないだろう。
 おまけにこのページ、英語、中国語、韓国語の三ヶ国語対応だ

 いくらなんでも千代田区がデタラメを全世界に喧伝しているわけはないではないか。

 「うむ、これは俺の知識不足に違いない」ということで、さっそく本日問い合わせのメールを出してみた。簡単にいえば「遠州の秋葉大権現を観請した」という史料を教えてくれ、と。
 実はこのページには他にも多数の疑問点があるのだが、とりあえずこの「秋葉権現勧請説」の裏付けだけでも知りたいのだ。

 どういう返事が来るか今から楽しみだ。
 ちなみに前に江戸博にも同種のメールを送ったが、こちらは残念ながら「無かったこと」にされてしまったが。

 千代田区殿の対応に関しては、応答があり次第追ってご報告したいと思う。

…追記。

上の記事をポストした後でよくよくこのサイトを見てみたら、他にも由来に関して述べた記事があった。特集 インナー・秋葉原 Vol.001 どこからどこまで秋葉原?
本文でも触れた通り、秋葉原一帯はもともと「神田」の一部で、1869年(明治2年)の大火事で付近一帯が被災。その後火除けの場所としてこの一帯を広場にし、そこに「鎮火社」を創建した。この鎮火社が静岡県にある火伏せの神様を祀った「秋葉神社」を勧請したものと庶民が勘違いし、以後この広場を「あきばはら」と呼び始めたところに由来している。この鎮火社も「秋葉神社」と改称したものの、1888年(明治21年)に一帯が貨物駅用地として国鉄に払い下げられたため、秋葉神社は現在の台東区松が丘に移転し、代わりにできた駅が「秋葉原」と命名された。
あああああああ。同じサイトで書いてあることに統一性がないのは目をつぶるとしても、こっちもヘンだよ。
  1. 俺の知る限り、よみがなが「あきばはら」である、と断定的に述べられるような根拠は無い。「秋葉原」という表記に対して様々な読み方があったであろうことを伺わせる文献は多数あるが。
  2. 「この鎮火社も「秋葉神社」と改称したものの、」って、改称したのは松が谷に移転した後も後、40年も後。
  3. 1888年(明治21年)に国鉄があったかどうかくらい調べようよ
  4. ところで台東区に松が丘なんてトコありましたっけ?


質問のメールというのはコレ。
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-02-27 15:47 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)

アキバを襲った大災害(3) 戦災

 大震災から20年あまり。

 昭和20年3月9~10日、東京の下町は再び劫火に包まれた。
 この時の空襲で東京の3分の1が焼けつくされた。

 俺のヘタな文章でぐだぐだ説明するより、この写真をみてもらったほうがよいだろう。昭和22年、つまり今からざっと60年前のアキバの姿だ。
 「想い出の東京 師岡宏次写真集」(講談社、昭和47年)から、「昭和22年 秋葉原」と題された写真である。
c0071416_16285576.jpg

 撮影場所は明示されていないので推定するしかないが、中央部の小高いところに見えているのは神田明神であろう。つまりアキバから西側を見ていることになる。
 写真の中には総武本線の高架が見えないので、おそらくは明神通りと中央通(御成街道)の交差点、愛三電気のある交差点か、総武本線の高架の下あたりから撮影したものではなかろうか。

 同じく同書から、こちらは「聖橋から秋葉原方面」とキャプションされている。
c0071416_1629548.jpg

 右上に見えるのが、完成時には東洋一と称された総武本線の鉄橋であろうから、地図でいうとこのあたりから東側を撮ったものだろう。鉄橋の足元が今で言うとヤマギワのリビナ本館(伊勢丹発祥の地の石碑のあるあたり)と思われる。

 今時の若い衆の中には「アメリカと日本が戦争したの?」などとトボケたことをいう奴もいるらしいが、これが60年前のアキバの姿だ。

 今でこそ「萌える街」だのといわれているが、本当に「燃え」てしまった、その焼け跡から立ち上がってきたアキバの歴史に、たまには思いを馳せてみて欲しい。

おまけ。
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-02-26 16:34 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)