カテゴリ:奇妙な論理( 56 )

「ドルゲ」さんに関して発作的にググってみた。

 よく読ませてもらっているセキュリティホールmemo経由で、絶望書店日記さんの「2010/11/16 「このドラマはフィクションです」の始まりはバロム1じゃなかった!」という記事を読んだ。
この手の「このドラマはフィクションです」系テロップは1972年の『超人バロム・1』放映時に、ドルゲ少年が学校でいじめられたから悪役の名前を変えてと訴えたときからはじまったと当時も云われていたし、いまもあちこちで云われていて、私もそうだと信じてたんですが、すでにその8年前にはあったのですな。

 うむ、このバロム1の件は、俺にもリアルタイムの記憶がある。
今回ウェブもいろいろ経巡ってみて、何年かのちにテレビ番組でこのドルゲ一家を探したけど見つからずに実在しないことが判明した、「このドラマはフィクションです」系テロップは誰かのいたずらから始まったという、「噂からできた放送業界のルール」なる話が広まっていることを知りました。
 これは『やりすぎコージー』というテレビ番組で3年前にやった「やりすぎ未公開都市伝説」で伊集院光が語ったものらしい。
 ふーん。
 「都市伝説広場」のこちらの記事によると;
どれだけ探してもドルゲさんという人物は見つからないのだ。
神戸に住んでいるドイツ人で音楽講師をしているという、かなり詳細な情報までそろっているにもかかわらず、見つからなかったという。
もう帰国をしてしまったのではないかと思い、その方面も調査したのだがドルゲ氏なる人物を探すことはできなかった。
 この話の出所がタレントの伊集院光氏のテレビでの発言が元になっているのは確かなようだ。

 「絶望書店日記」で指摘されているように、名前も音楽家であることも判ってるヒトが見つからないなんてことあるのかいな? とちょっと奇異に思ったので、発作的に軽くググってみたわけである。暮れも押し詰まってるのに我ながら何をやっているのか。

 さて、まずはこのバロム1とドルゲでググってみると、当時の日本で表記されていたこの音楽家の姓名が出てきた。

 いわく「アルント・ドルゲ」氏。

 念の為、この"アルント・ドルゲ"でググってみると、「大阪音楽大学音楽学部器楽学科ピアノ専攻卒業、アルント・ドルゲに師事」という音楽家の方のプロフィールが出てくる。

 「アルント・ドルゲ」氏は大阪音大で教鞭を執られていた、多分ピアニスト、というのは間違いないようだ。

 さて、本名の綴りがわからないかなぁ、でもドイツ語なんて知らないし…と思ったが、[ドルゲ]―>[ゾルゲ]という連想が湧いたw。

 ゾルゲ事件のリヒャルト・ゾルゲもいちおうドイツ人(ドイツ系ソ連人というのが正しいのかな?)だ。「リヒャルト・ゾルゲ」の綴りは Richard Sorge である事はwikiPediaに出ている。

 「ゾルゲ」が Sorge なら、「ドルゲ」だったら、Dorge なんじゃないか?

 この英語の中間試験で切羽詰まった中学生みたいな推測に基づき再度ググってみると、ツジヤンのドイツ日記というページが見つかった。
1975年3月、僕は留学のためにドイツ・ブレーメンにいた。僕はこのブレーメンの音楽大学(Konzervatorium der fleien Hansestadt Bremen)の指揮科に入学した。 この大学に来ることになったのは、ここの学長(京響の第2代目常任指揮者の)Hans Joahim Kauffmann先生と友人のピアニストで大阪音楽大学の教授をしていたAlndt Dorge 先生が留学生をさがしておられたのであった。ちょうどその頃僕の母親が喫茶店を開いていた…ほんの一年ほどだったのだが。ドルゲ先生はこの店の常連だった。店の中に貼ってあった僕のオーケストラ指揮デビューのポスターがドルゲ先生の目に留まったのだ。それから一年後、僕はドイツへと旅立った。
 おお、綴りが判明したではないか。ご本人と親交があった方の証言なんだからかなり確度は高いんじゃないか?

「アルント・ドルゲ」=Alndt Dorge。

 ところが"Alndt Dorge"でググってみると、グーグルは、
「もしかして: "Arndt Dorge"」
と言ってくる。

 「ツジヤンのドイツ日記」にある他の言葉、"Konzervatorium der fleien Hansestadt Bremen"でググッても「"Konservatorium der freien Hansestadt Bremen"じゃね?」、「"Hans Joahim Kauffmann"じゃなくて"Hans Joachim Kauffmann"じゃね?」と言ってくる。

 Googleが「もしかしてして」きた、"Hans Joachim Kauffmann"は、その綴り通りのWikiPediaにエントリがあるし、Bremen(ブレーメン)の方もGoogleの綴りが正しいようなので、「ツジヤンのドイツ日記」さんの、RとLの勘違いの可能性はあるかも。

 「アルント・ドルゲ」=Arndt Dorge ?

 うーん、残念ながら"Arndt Dorge"で、これ!という検索結果はないみたいだ。

 ただ、「1970年代に、あのブレーメン音楽大学(ブレーメン芸術大学)の学長さんの友達で、日本の大阪音大でピアノを教えていたDorgeさん」だったら、「どれだけ探してもドルゲさんという人物は見つからない」なんてことはないんじゃないかと思うのだよ。

 ちなみに俺がここまでの検索に費やした時間はたった16分だった。

 テレビ局かラジオ局か知らないが、「どれだけ探しても見つからない」というのは、「探し方が悪いんじゃね?」と思うのだが。
 だってシロートの俺が、たった16分、コンピュータ上だけで、この程度の下調べは出来るんだから。
 ブレーメン音楽大学に問い合わせれば、何か判ると思うんだけど。

 遠い異国の地で教育に従事してくれた人を、「都市伝説」と称してまるで妖怪みたいに扱うのは、いくらお笑い番組とはいえ、ちょっとヒドくないかと思うのだが。
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by signal-9 | 2012-12-26 17:37 | 奇妙な論理

「ニセ科学」という"レッテル"を止めてみたら?と言ってみるテスト。

 togetterとか見てると、こんな議論があったのだな。

「チェルノブイリへのかけはし」批判者は、汗をかいてから批判して欲しい等の主張

「かけはし騒動」関連のまとめのまとめ

ニセ科学

 俺は「ニセ科学」という言葉は使わないようにしている。
 このブログでも引用部以外では使用していないはずだ。

 いくつかの「疑似科学的」論説は批判的に取り上げているが、「科学的に間違ってるから」という表現は使っていないと思う(唯一の例外は多分これくらいだが、これは「科学的」を標榜する側が自己矛盾してないか、という文脈)。

 何故かというと、「ニセ科学」文脈によく出てくるコトバの定義が、俺にはまったく判っていないからである。

 例えば、この文脈によく「科学者」とか「専門家(集団)」のようなコトバが出てくる。
 「医者」と「ニセ医者」の区別は判る。一般的に医者は免許制であり、免許を持っていないのは「ニセ医者」だ。
 だが、「ニセ科学」文脈で使われている「科学者」には「免許」というのがあるのだろうか(笑)

 『科学的方法で研究する人が科学者で、そうでない人は「科学者もどき」(ニセ科学者)』 こういうのは単なるトートロジで、何も言っていないのと同じである。
 「ニセ医者」であっても、やってる医療は「ニセ医療」ではないというケースも論理的にはあり得るし、その逆もあるだろう。「科学」はそうじゃないのか。
 状況によって変わる人の営為を以て、その人の普遍的な属性を決めつけるというのは、常識的に無理がある。

 「ブラックジャック先生は『ニセ医者』じゃなくて『もぐりの医者』なのよさ!」
 うーん、でも「もぐりの科学者」ってのはピンとこないよな(笑)

 そもそも「ニセ科学」というコトバが、「理論そのもの」を言ってるのか「方法」のことを言ってるのか、「手続きやシステム」のことなのかもよく分からない。あちこちの「ニセ科学」関連のページを見る限り、色んな意味で使われているようである。「科学でないのに科学を名乗っている」、だからその「科学」というのは何なのか。

 「ニセ科学」という言葉の定義を試みているページも色々読んでみたが、そもそもこの「科学とは何か」という問題に関しては棚上げにしている(メタな定義論には取りあえず立ち入らない、とか) あるいは、「(科学者である)私のやってる科学が科学だ」というバカボンのパパ理論なもの、「いくらなんでもその定義は古すぎる・狭すぎるだろ」なものしか、少なくとも現時点では見あたらないので、相変わらず?なのである。

 「俺たちの『科学』とはこういうもの」という(暗黙の)合意がなされている特定の「科学者」同士で「○○ってニセ科学だよね」で頷き合うのは判るが、その合意がなされているとは限らない「外の世界」に向けて「○○は『ニセ科学』です」と表明するのは意味がまったく別である。

 つまるところ、定義を「さておいている」・あるいは定義自体が属人的・属文化圏的・恣意的であるのなら、「ニセ科学」というのは、戦術的なスローガン・ラベル・レッテルである、と俺は理解している。

 「ニセ科学」のような言葉が「外」の世界に向けて使用される場合は、それは「プロパガンダ」すなわち「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為」のための道具、ということだ。

 「なんちゃら科学」という、これに似たようなラベル・レッテル・スローガンはかなり多い。

 今思い出せるだけでも、「ブードゥー科学」(ロバート・パーク)とか「バッドサイエンス」(ベン・ゴールドエイカー)とか「病的科学」とか「ジャンク・サイエンス」、いろいろあるが、いずれも定義は恣意的なものだ
 例えばロバート・パークに言わせると国際宇宙ステーションなんてブードゥーサイエンスの最たるもの、だそうだが、これには同意できない「専門家」も多いのではないか。

(上に挙げたのは、いずれも「科学の世界の内側の話」だから「ニセ科学」とは別だ、という反論はあり得る。「科学ではあるが病的だ」とか「科学ではあるがジャンクだ」みたいな使い方だけだったら、そうかもしれない。しかしながら、使われている文脈を見ると必ずしもそういう使い方ばかりではないので、実態と合致しない。恣意的なスローガンだから当然だろう)

 畢竟、この手の「スローガン」は、
悪用される科学 日経サイエンス  2005年10月号
不確実性は科学に内在する問題だが,それをでっちあげることは全く別の話だ。業界の利益を脅かすような問題が起きると,業界団体がその問題の研究を始める例がここ30年間で非常に増えている。
 例えばある企業の従業員が危険なレベルの化学物質にさらされていることが研究から明らかになったとしよう。そういう場合の企業の典型的な対処法は,自社で研究者を雇ってその研究を批判する研究をさせることだ。また,ある薬の安全性が取りざたされると,製薬会社の経営陣は健康に対する深刻な危険はないとする実験結果をさかんに宣伝する。この手の研究は会社の資金で行われ,不安を感じさせるような結果は無視したり隠したりする。
 米国産業界の一部では脅威となる研究を「ジャンクサイエンス(ニセ科学)」だと非難し,反対に業界が委託して行った研究を「健全な科学」として正当化することが常套手段になっている。
 このように、社会的にあまり健全でない使われ方もする。

 「プロパガンダ」だからダメとか悪いとかいってるのではない。
 「外の世界」(「社会」)に対して、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝」を行う目的の為に、こういうレッテル(「キャッチ・コピー」?)を使うことは別に「悪いこと」でも何でもない。
使っている当人がその恣意性に自覚的であるならば。

 だが、これが恣意的な戦術的用語であるということに、無自覚に利用している向きもあるようである(このあたりの「無自覚性」を評して「信仰」という表現も使われているようだ。「信念」・「常識」・「主義」、なんと言い換えても「主観的」・「恣意的」であることに違いはない)。

 さて。

 「ニセ科学」という概念を使用する・「それはニセ科学です」とラベリングできる戦術的メリット(プロパガンダにおける合目的的な有効性)は、現状それほど大きいものなのだろうか。

 もっとはっきり言っちゃうと、例えば;

「科学は信仰するもの」という科学者って、いったい誰のことなのかしら?

 ここの議論に代表されるような、「かみ合わなさ加減」にいささか辟易している。
 このやりとりを見ていると、メリットよりもデメリットの方が大きいような気がしてならないのである。

 科学論・科学方法論・科学史その他の分野で、この手のメタな議論(「科学とは何か」)はそれこそ延々と続いてきている。
 「メタな議論はさておき」といっても「いやいや<さておき>で、そういうコトバを使っちゃダメだろ」という人々は確実にいるわけである。

 ド素人の俺でも、今時「検証可能性が」「反証可能性が」とかで話を済ませている言辞を読むと「なーに何十年も前の話をしてるんだ」と鼻白むことがある。「観察の理論負荷」だの「共約不可能性」だのの議論はそっちのけかい。
 今時の科学を論ずる文脈で、「科学的事実」とか「客観性」とかの言葉を何の留保も疑いもなく使ってるのを見ると「なんと素朴な」と哀れみさえ覚える

 「外の世界」の人との定義の合意を求めるようなメタな議論を引き受ける気がない、能力的・時間的制約で引き受ける事が出来ないのであれば、わざわざ「論敵」を増やすようなラベル・戦術は使わない(あるいは使う時を選ぶ)方が、合目的的なのではなかろうか。

 といってみるテスト(笑)。

 というのは、俺は心情的に「ニセ科学」を批判すること自体は「概ねよいこと」だと思っているからである(だからこの文章もかなり「丸めて」書いている。足を引っ張る意図は毛頭無い)。
 これが有効な戦術である(と「信じる」)のであれば使えばよかろう。

 ただ、
  1. 「これは批判した方がよい」と主観的に判断した考え・情報を、批判する上で、「カガク的でない」というのは大抵の場合、批判の「ごく一部分」でしかないし、「カガク的でない」という批判は自分が思っているほど有効ではないかもしれない、ということは考えてみてもいいかもしれない。
  2. 批判的文脈で、メタな用語を使うときには、十分な合意が行われていない可能性に自覚的であった方がいいかもれない。
  3. この種の用語を使う「時と場所と相手(読者)」は、選んだ方がいいかもしれない。
  4. 自分がそのメタな概念を使う能力・時間的余裕・気構えがあるか考えてみるのはいいかもしれない
とは思う。

 だから俺は「ニセ科学」というコトバは使わないのである。
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by signal-9 | 2011-09-30 12:29 | 奇妙な論理

「物理的に存在するが一般人が認識できる形では存在しない」

 評論家の立花隆氏が月刊「文藝春秋」7月号の巻頭随筆で、東京文京区本郷の菊坂にある「樋口一葉の井戸」が「住民の希望によって」「一切排除」されたと主張。
そこは昔から文学通の間では樋口一葉旧居をしてよく知られている露地だった。しかし、いまは存在しない。
そこにそのような露地や井戸があったことを示す説明パネルすらない。
あのあたりは、樋口一葉旧居だけでなく、近代日本の文化遺産的史跡がゴロゴロころがっている地域なのに、その最大の遺産を一部の住民の意志で全部放り投げてしまったのだ。
→目黒区議の須藤甚一郎氏がツッコミ。須藤甚一郎ウィークリーニュース! 2011-06-15「640号 立花隆が本郷の樋口一葉の井戸消滅を嘘の随筆を「文藝春秋」に! 」
12日(日)の午前10時ごろ、家をでて菊坂の一葉の井戸に向かった。都営三田線の「春日」で降り、菊坂の下から上っていった。
菊坂の中ほどで右へ階段を降り、紫陽花が満開の露地の入り口を入っていくと、何の変わりもなく、褪せた緑色の丸い土台の手もみ井戸があった。一葉の井戸だ。汲んだ水をバケツにいれる樋(とい)の先に、つける白い木綿の井戸袋も替えたばかりで真っ白だ。デジカメで写真を撮った。

「立花隆は、嘘ばかり書きやがって!」と腹が立った。
立花は、現場にいって確認することをせず、菊坂を久しぶりに歩いたを嘘をつき、その上「その最大の遺産を一部の住民の意志で全部放り投げてしまったのだ。」と住民エゴで、最大の文化遺産を葬り去ったと嘘っぱちをデッチ上げた。
何が評論家だ、ジャーナリストだよ。菅直人を一緒で、ペテン師で嘘つきめ!
→「週刊新潮」が『地元住民も耳を疑う「知の巨人」の仰天随筆!?『文藝春秋』巻頭に「立花隆」が書いた虚構の光景』記事化(引用元は須藤氏のブログ
“知の巨人”は一体どうしてしまったのか。
立花隆氏(71)が、文藝春秋に書いた随筆に地元住民が憤慨しているのだ。何しろ、現存する史跡が住民のクレームで葬り去られたと書かれ、確かめたことになっている役所も「問い合わせはなかった」というのである。
 俺もたまーにこのあたりは散歩するのだが、問題の路地は確かに判りにくい場所ではある。
 2年くらい前に『モヤモヤさま~ず2』の『湯島』の回でも取り上げられていたが、まさに「モヤってる」場所で、メインの通りの一本裏だし、家と家の間の狭~い路地の奥なんで、探す気でいかないと、まあ絶対に気づかれないようなところだ。

 須藤氏の批判記事が出た後で、菊坂の近所に用事があったので念の為に見に行ったのだが、須藤氏の記事通り、井戸も路地も健在である。もともと案内板があったのかどうかは記憶していないが、「なんだ、ちゃんと前の通りじゃん」と安堵したんである。

 で、「立花隆、やっちまったなぁ」と思っていたのだが、須藤氏の続報に依れば、立花氏は「文藝春秋」8月号でこう弁明したのだそうだ。
前号、樋口一葉旧居があった露地が消滅したと書いたところ、それは今も存在するとの異論が一部で報じられた。それは物理的には存在するが一般人が認識できる形では存在しない。かつてそこに至る道案内が幾つもあり、その場所そのものにもここがそうだという公的な表示があったが、今はそういうものが一切消えている。
それは物理的には存在するが一般人が認識できる形では存在しない。

 いやいやいや、いまさら「案内板」だけのことだなんて強弁しても、無理だから。立花氏の元記事、どう読んでも路地も井戸も地元住民が撤去させたとしか読めないから。

 しかし、さすが立花隆、言い訳も名文句だな。「物理的には存在するが一般人が認識できる形では存在しない」。

 一葉の井戸はなんかオカルト的な物件にでもなっちゃったんだろうか(笑)

 素直に「誤認でしたすみません」と何で謝れないのかすごく不思議だ。
 人間誰しも勘違いはある。案内板の撤去(されたのかどうかは俺は知らないが)自体に問題を変更したいにせよ、まずは誤りを認めりゃあいいのに。

 さてそういえば、菊坂の近所にある、築106年の歴史ある本郷館はいよいよ取り壊しが始まったようだ。
 この震災の後、通りがかったのだが「うわ、無事に建ってるよ!」とびっくりした。失礼な話だが、あの震災の直後、俺は「倒壊」してるんじゃなかろうかと思ってたのだ。それぐらい古いのである。

 106年も建っていた、滅多に見かけない木造建築物だ。個人的には「もったいないなあ」と心底思うが、所有者の立場からすれば、取り壊しはやむを得ない選択だろう。
 保存するにもカネはかかるし、もしも何か事故でもあれば所有者の責任になるわけだし。
 「文化遺産的史跡だから残せ」、耳に快い言葉ではあるが、オカネの裏付けのない要求というのは、なんとも上滑りした説得力のない言辞だと思う。

 「物理的には存在しないが、みんなの心の中に存在する」つーことで納得するしかないんだろうなぁ。
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by SIGNAL-9 | 2011-08-01 17:03 | 奇妙な論理

明学大准教授、靖国神社をdisる。

靖国神社みたままつり 2011年07月14日10時11分
朝から気が重い。靖国神社の「みたままつり」に行かなければならないからだ。

ゼミの一環であり、この行事を行き先に選んだのは学生たちである。ネットで検索したら見つかった、ちょうどお祭りをやっているみたいだから、という理由であった。案の定というべきか、学生たちは靖国について何も知らなかった。

10年ほど前、敬愛するある先生から、やはりこの種の無知について聞いたことがある。その無知の状態のところに(当時流行っていた)復古調のナショナリズム言説が注入されると、学生が簡単に感化されて困ると嘆いておられたのだった。
 東電災害で政府や役所を批判するのも飽きてきたので、たまたま目に付いた記事に噛みついてしまうのだが(笑)

 書いたのは長谷川一氏。明治学院大学 文学部 芸術学科(芸術メディア系列)准教授だそうだ。

 一言でいえば、無邪気な人だ。

 どう読んでも、知と倫理の高みからモノを語っているようにしか見えないが、学生を無知呼ばわりする割には、自分の奉職している組織の戦争責任に対しては、まったくご存じないのではないか。

 たぶん、明治から存続する自分の勤務先が、自分が非難の対象にしている国家神道とまったく無関係な、あるいは常に反対の立場で存続してきたとでも無邪気にも思ってるのだろう。
 あるいは「文字どおり、なんにも知らない」、「知らないという自覚もないし、知らないことがまずいことだという意識もうすい。無邪気に無知」なのか。

明治学院の戦争責任・戦後責任の告白 (明治学院学院長・中山弘正、1995年6月)
1931年の「満州事変」、1937年の「日華事変」のあと、政府は1939年の「宗教団体法」に基づき、41年6月、宗教界を統合し国策に協力せしめるべく「日本基督教団」を結成させていました。この教団「統理」冨田満牧師は自らも伊勢神宮を参拝したり、朝鮮のキリスト者を平壌神社に参拝させたりしました(1938年)が、このことが朝鮮の多数のキリスト者を殉教に追いやり、戦後も日朝両キリスト者の間にうめがたい深淵を作ってしまったことは否定すべくもありません。朝鮮・台湾ではこの神社参拝問題のために多くの、ミッションスクールは存廃の岐路に立たされたのです。この冨田氏は、戦中から引き続き、戦後も、数年問にわたり明治学院の理事長でした。
1939年、明治学院学院長に就任した矢野貫城氏は、宮城遥拝、靖国神社参拝、御真影の奉戴(ほうたい)等々に大変積極的に取り組み
「飛べ日本基督教団号」という掛け声のもとで集められた戦闘機献金、また当時の機関誌『教団時報』で「殉国即殉教」が主張され天皇の国家へのキリスト者の無条件の服従が日本基督教団の名によって勧められたとき、冨田氏らもその最高級の責任者だった
 とりあえず先の大戦がらみの話を引用したが、明治学院という学校は歴史が長いだけあって、明治時代からいろいろと「黒歴史」もあるのである。めんどくさいからいちいち書かないが。

 そもそも「宗教装置」という観点で歴史を振り返ってみれば、長谷川氏が無邪気にdisってる日本の国家神道と、彼の職場が基礎に置いている「キリスト教」のどちらの「犠牲者」が多いのかはいうまでもない(彼がクサしているのが靖国なのはある意味でよかったのかも。相手がイスラム教だったらと思うと…)。

 明治学院が建学の基礎に置いている「キリスト教」は、「帝国主義のために「国民」の生命を動員することを奨励し正当化するための国家宗教装置であり、それゆえに蹂躙された側にとっては侵略の象徴」であったことはなかったのか。

 いかにして明治学院という組織を「護持していくか」。そのために明治学院が取った戦略は、ある時は国家神道とすり寄り、戦後はその「歴史を無かったかのように偽装すること」ではなかったのか。でなければ何故、組織の長たる学長が懺悔めいた「告白」などしているのか。

  キリスト教関係者が、倫理や知の高みに自分を置いて 歴 史 を語り、ましてや他の「宗教システム」をdisるには相当の覚悟がいるんだけどなあ。

 まあ、「メディア論」とかの先生じゃあ歴史に無知・無自覚でもしょうがないのかねぇ。

 「汝等のうち、罪無き者まず石を投げ打て」という言葉、いっぺん噛みしめてみたほうがいいんじゃない?
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by SIGNAL-9 | 2011-07-15 16:21 | 奇妙な論理

これはよいメディアリテラシーのクイズですね。

【クイズ】『AERA』に載った放射線の数値が変 2011年06月02日 山本弘のSF秘密基地Blog
僕のマイミクの「UFO教授」さん(元・大学助教授だった方)が、『AERA』5月30日号の「子を放射能から守れ」という記事を読んでいて、おかしなことに気がついたのである。

【問A-1】
 この数字にはぱっと見ておかしなところがある。それはどこか?
 なお、この問題に放射線の知識はまったく関係ない。
(制限時間1分)

【問A-2】
 この図の中の赤で示した「2.25」と「2.53」以外の数字は、ある規則に従っている。その規則は何か?
(制限時間1分)
 回答編はこちら。【クイズ】『AERA』に載った放射線の数値が変【解答編】

★★★★ こっから下はネタバレなので、上のクイズの記事を読んでから読んでね
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by signal-9 | 2011-06-06 13:08 | 奇妙な論理

宇宙が熱い…?

はやぶさのカプセル一般公開が盛況のようである。夏休み中とあって次代を担う子どもたちの見学も多いらしい。誠に喜ばしい限りだ。

 と、まあ慶賀の至りですませりゃあいいのだが、今朝このニュースを取り上げていたテレビのニュースショーを、朝飯の横目で見ていて思わず味噌汁を吹き出したんである。

女性レポータが、焼けただれたヒートシールドを見て「熱い宇宙をくぐり抜けてきた」云々とほざきやがった。

「熱い宇宙」だぜ、諸君。

どうやらこのおねぇちゃんは、はやぶさが旅してきた宇宙空間がものすごく「熱い」と思っているらしいのである。

 まあ、頭にスイーツ(笑)しか詰め込まれていないアホ娘のいうことにいちいち目くじらを立てるほど暇ではないが、公共の電波を使っているマスコミ殿として、こういう「かわいそうな発言」を堂々と放送しちゃうというヌルさはどうなのよ?

 生中継じゃないんだからヘンなレポートくらい、いくらでも編集できるはずだが、それすらしていないということは、おそらくテレビ局の誰も、この発言を奇妙にも思っていなかったということだろう。

 思い起こせば、はやぶさ帰還のニュースの中で未だに「大気との摩擦熱で」という間違った「解説」を行っていたマスコミもいたなぁ。
 あと、はやぶさのヒートシールドが「1万度の熱に耐えた」とか。「空力加熱に曝されている際の衝撃層内部の気流温度は1万度を越えるが,アブレータ表面温度は3,000℃ 程度である」「はやぶさ」カプセルの地球大気再突入時におけるプラズマ現象とその周辺(PDF))とか、マトモな説明、ちょっとググれば出てくるのになぁ。

 まあ、テレビに正確性を求めるのはヤボだという見方もあるだろうが、さすがに「宇宙が熱いトコロ」だなんて思っているバカが堂々と出演し、それがお茶の間にたれ流されるという惨状を見るにつけ、
テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。
と、すでに1957年に喝破していた大宅壮一の炯眼には恐れ入るばかりである。
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by signal-9 | 2010-07-30 12:26 | 奇妙な論理

「ビタミンK与えず乳児死亡」

「ビタミンK与えず乳児死亡」母親が助産師提訴 2010年7月9日 読売新聞
生後2か月の女児が死亡したのは、出生後の投与が常識になっているビタミンKを与えなかったためビタミンK欠乏性出血症になったことが原因として、母親(33)が山口市の助産師(43)を相手取り、損害賠償請求訴訟を山口地裁に起こしていることがわかった。

 助産師は、ビタミンKの代わりに「自然治癒力を促す」という錠剤を与えていた。錠剤は、助産師が所属する自然療法普及の団体が推奨するものだった。

(中略)

助産師が所属する団体は「自らの力で治癒に導く自然療法」をうたい、錠剤について「植物や鉱物などを希釈した液体を小さな砂糖の玉にしみこませたもの。適合すれば自然治癒力が揺り動かされ、体が良い方向へと向かう」と説明している。

 日本助産師会(東京)によると、助産師は2009年10月に提出した女児死亡についての報告書でビタミンKを投与しなかったことを認めているという。同会は同年12月、助産師が所属する団体に「ビタミンKなどの代わりに錠剤投与を勧めないこと」などを口頭で申し入れた。ビタミンKについて、同会は「保護者の強い反対がない限り、当たり前の行為として投与している」としている。
「植物や鉱物などを希釈した液体を小さな砂糖の玉にしみこませたもの」。要するにレメディ、ホメオパシーだな。

「ビタミンK欠乏性出血症」に関してはgooヘルスケアなどに記載があるが、ケイツーシロップとか配合済み人工乳とかが使われているようだ。

 記事中で言及されている「日本助産師会」というのは社団法人 日本助産師会のことと思う。その下部組織によっては、ホメオパシーの講習会・講演会を行っているところが多々あるようだ。千葉市助産師会とか神奈川県支部とか。
putoriusさんのブログ「鼬、キーボードを叩く」の記事、「助産師会とホメオパシーとの濃密な関係」2010年2月16日に詳しい調査が出ているので、参照されたい)。

 ホメオパシーに関しては古典的名著、マーチン・ガードナーの「奇妙な論理」を始めとして、科学方面からは多くの批判が寄せられていることは今更言うまでもない。ちなみに俺の知己の医学関係者は『未開の呪術』と評していた。

 ちなみに我が国では、前首相のキモ入りで「統合医療」推進へ厚労省がプロジェクトチームというのがホメオパシーを含むいわゆる代替医療の「研究」を始めたようである。

「統合医療プロジェクトチーム」第1回会合 厚生労働省 平成22年2月5日によれば
○医療には、近代西洋医学以外に、伝統医学、自然療法、ホメオパチー、ハーブ(薬草)、心身療法、芸術療法、音楽療法、温泉療法など多くのものがあり、これらを相補・代替医療(Complementary and Alternative Medicine, CAM)とよんでいる。
○これらの相補・代替医療を近代西洋医学に統合して、患者中心の医療を行うものが統合医療である。
として、10億円以上の予算を突っ込んで有効性の「研究」を行っているようだ。

 まあ、研究の俎上に載せること自体は悪いことではなかろうし、結果的に怪しいシロモノの「仕分け」になるのだったら良いのかもしれないが、これだけのカネを突っ込んでわざわざ研究するまでもないようなシロモノも研究対象に並んでいるような気もする。

 おまけにそもそもの話の始まりである「前首相」殿は、どう見てもビリーバーなので、ヘンな研究にならないことを祈るばかりだ。

 私事で恐縮だが、俺も難治性の持病があって、もうン10年も医者通いをしている。

 なので、患者本人が、プラシーボだろうがなんだろうが「効きそうな」方法に縋りたくなる気持ちはよく分かる。

 だから、患者本人が自分の意志でもって代替医療を選択するということに関してはまったく異論がない。

 だが本人でもない、人の命を預かる立場の者が、否定的な情報が多々あるにもかかわらず、他者に自分の「信仰」を押しつけるというのは、人体実験以外の何物でもないと思う。
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by signal-9 | 2010-07-09 12:47 | 奇妙な論理

明治・江戸のファフロツキーズ

 「オタマジャクシが降ってくる話」はやはり鳥なんじゃないか、という話が出てきた。産経新聞の「“空からオタマジャクシ”鳥が吐いた? 「昔からある」指摘続々」や、毎日新聞の「<珍現象>空からオタマジャクシ…報道後、なぜか報告急増」など、まるで俺が書いたんじゃないか(笑)と思うくらいだ。

 まあ、フツーに考えりゃあ、こういう穏当な推測になるわな。

 Webを漁っていたら、こんな記事も見つけた。
「カエルの雨が降るでしょう」The Sun 20 May 2006
記事によると、British Weather Services の気象学者が、この夏は熱波と気圧の関係で突風が引き起こされてカエルや魚の雨が降るかも…みたいな予報をしたとか。イギリスではBFO (bizarre falling object)「奇妙な落下物」という現象名もついてるみたいだ。
 まあ、イギリスの東スポ The Sun の記事なんで、どこまでホントかはわからんが。

「幕末にも騒動?降ったのはドジョウ 儒学者日記に記述」というプチ雑学情報が朝日新聞によって記事にされていたが、わざわざ大発見のようにいわなくても、ファフロツキーズ自体は超常現象分野ではポピューラーなもので(笑)、苦労なく事例が集められる。

 一般的なオカルト・超常現象関係の書籍では欧米の例がほとんどなので、『明治妖怪新聞』・『地方発明治妖怪ニュース』(柏書房・湯本豪一編)から、日本のファフロツキーズと思しきケースを挙げてみよう。

 尚、「家の中に物体が降る」というケースも多数あるのだが、個人的にはそれらは「ポルターガイスト」的文脈で語るべきもので、ファフロツキーズとはちょっと違うかなぁと思うので恣意的に省く。
東京日日新聞 明治7年7月18日
 神田元久右衛門町1丁目河岸通りに石が降り、見物の野次馬で賑わった。
東京日日新聞 明治8年3月6日
 京橋五郎兵衛町15番地の空き地に3月3日から石が降り続く。
郵便報知新聞 明治9年9月6日
 越前福井二十大区七小区日の出上町百十番地の山口某の邸内へ、8月10日、大雷雨の時に魚が3匹降ってきた。
新潟新聞 明治15年6月20日
 新潟県雑太達者村で烈風とともに空から白米が降った。
新潟新聞 明治15年8月4日
 新潟県羽茂郡岬村で空より妖虫が3・40匹降った。
東京日日新聞 明治15年8月4日
 浅草須賀町18番地に石の雨が降り巡査の出動が要請された。
信濃毎日新聞 明治15年8月24日
 新潟県で蛇に似た妖虫が降った。
伊勢新聞 明治16年7月28日
 岩手県で黄色い粉のようなものが降った。
伊勢新聞 明治18年6月16日
 三重県桑名郡安永の寺院で小豆のようなものが降った。
山陰新聞 明治18年8月16日
 島根県北塀井上座の近くで毎夜小石がバラバラ降った。
土陽新聞 明治20年8月27日
 高知県香美郡夜須村字添池で、日没後に山石・川石・壁土が降る。
日出新聞 明治21年5月9日
 京都府富小路姉小路の辺りで貨幣が降った。
郵便報知新聞 明治21年6月9日
 長野県下下水内郡都津村に5月25日午後二時頃、甘い液体が降った。手を触れると非常に粘着力があって指の先にまとわりつく。嘗めると非常に甘くて、特に臭みもない。地元では「甘露」と呼ばれている。
郵便報知新聞 明治21年6月10日
 東京府王子通り滝野川村にも「甘露」が降った。
徳島日日新聞 明治22年3月11日
 徳島県麻植郡種野山字鬼ヶ城の鬼ヶ嶽で、山の頂に金幣が降り役人が出張して調査に当たった。
 とまあ、枚挙にいとまがない。

 さらに時代を遡って、江戸時代頃ではどうか。

 『奇談異聞辞典』(『随筆辞典 奇談異聞編』柴田宵曲編著、ちくま学芸文庫)をざっと眺めてみると、ちょっと驚いたのは「毛が降った」という話が多いことだ。
甲子夜話 巻五十ニ
 (文政4年頃?)8月14日は風雨激しく、あちこちで出水した。後で聞いたところでは、毛が降ったという。長さは3・4寸のものも、もっと短いものもあったと人々は言っている。私(著者の松浦静山)が「物の怪のたぐいかね」と聞くと、林氏は「大気が凝り固まったものかも。獣毛ではないみたいだ」という。その後「怪異辨断」(西川如見著)を読んでみたら、日本の南方の国では、空を飛ぶ巨大な鳥が羽毛を降らせるということがあるそうな。
遊芸園随筆 
(天保7~8年頃?)6月19日の深夜、ひとしきり雨が降ったようだ。翌日、飯田町(東京都新宿区)のモチノキ坂へ引っ越し祝いに出かけたら、所々で「毛が降った」といって拾っている奴が何人かいた。長さは5~7寸くらい、色は黄色みを帯びた白。その帰り、牛込北御徒丁へ向かう道すがら家来に拾わせてみたら、また何本か見つかった。
塩尻拾遺 巻二十ニ
 去る13日の午前12時頃、いきなり暴風が起こり「光り物がとおった」などと騒ぎになった。例の一目連とかいう暴風だろうか。光り物が流れ飛んだ時には毛があることは珍しくない。「もろこし毛が降る」とはこれのことをいうのだろう。うちの家族にも訊ねてみたら数寸の長さの毛が多くあった。
北窻瑣談
 寛政5年7月15日、江戸に小雨が降って、その中に毛が混じって降ってきた。丸の内あたりは特に多かったそうだ。大半は色が白く長さは5~6寸、特に長いものは1尺2~3寸もあった。たまに色の赤いものもあった。江戸全域に降ったということ、いったいどんな獣の幾万の毛束だというのだろう。
梅翁随筆 巻八
 己未(寛政11年?)10月14日、天気は快晴で風もなく、まるで二月か三月のような天気。この日大阪で、淀川から天王寺の方へ蜘蛛の巣のようなものが数え切れないほど、ひっきりなしに飛んだ。地面に落ちかかってもまた上がっていってしまうことが多かったが、その中でひとつふたつ落ちてきたものを手に取ってみてみると、全く蜘蛛の巣のようだが、糸はずっと太かった。手のひらで揉んでみると、消えてしまって後に何も残らなかった。この日、昼頃から飛び始めて昼過ぎ頃に特に多く飛んで、午後二時頃に止んだ。翌日も天気は似たようなものだったので、昨日見逃した人たちが朝から夕方まで観察していたが、何も見つけられなかった。
 いわずもがなな注釈を加えておくと、この『奇談異聞辞典』は、編著者の前書きにあるとおり「随筆による奇談異聞集」である。ある程度の客観性や信頼性が期待できる歴史書や公文書のようなものではなく、今の言葉で言うと「エッセイ」を集めたものなので、「実際」にあったことなのかどうかはかなり割り引いて考える必要がある。

 多くが伝聞や体験談に依るもの ― このいずれも、どれだけ積み重ねても証拠能力は皆無であるというのは言うまでもない ― だし、極端な話「作り話」という可能性もある。

 まあ、この場ではとりあえず字句通りに「あった」こととして見ておくことにしよう。そうでないとおもしろくないしね。

 さて、最後の「梅翁随筆」の事例なんか、現代の超常現象用語(笑)でいうと「エンゼル・ヘア」そのもののようである。
 「エンゼル・ヘア」は、一般的には「蜘蛛の糸(gossamer)」や「火山毛(Pele's hair)」といった説明がなされている。

 江戸期は特別に火山活動が活発だったわけではないようだが、火山列島日本のことで、始終あっちこっちで火山活動は起きている。火山活動で生成された火山毛が、気象条件によって空に吹き上げられ、遠く離れた場所に降ることもあり得なくはなかろう。
 「蜘蛛の糸」に関しても「雪迎え」という雅な表現があるくらいで、比較的よくある自然現象である。
 雷雨との関係性も、例えば火山活動で空気中に噴煙の粒子が多量にあったため電荷が溜まりやすくなり…的な推測 ― これは我ながらトンデモだが ― も振り回せなくもないかもしれない。

 だが、「手でもむと消えた」だのという記述をみると、火山毛説はむむむむむ?とも思われる。
 ましてや、「色がついてる」「初夏や真夏の頃の話」と言われると、「蜘蛛の糸」ではうまく説明が出来そうにない。

 トンデモさん流に、わからないことをわからない理屈で説明しても仕方がないので、素直に「よくわからん!」と言っておこう(^^;)

 ところで、もうひとつ気づいたのは、江戸時代当時でも「懐疑論者」という人種はいたらしい、ということである。

 例えば、以下の随筆。
中稜漫録 巻十四

 文化6年の冬、越後の高田の辺りに紅色の雪が降った。春になってもしばしば降ることがあった。この土地の古老によると昔も降ったことがあったという。調べてみたら建武9年正月に紅雪が降ったという記録があった。

 この話を聞いたものの中には天変地異の兆しなんじゃないかと恐れているものもいるが、何を恐れることがあるだろう。

 私(佐藤成裕)は先年、羽州にある吾妻山の山頂に登ったことがあるのだが、山の上の半里ばかりの間が全部赤土だった。山崩れであちこちに水が溜まり、まるで赤い沼みたいになっていた。

 もしもこの赤い水が空気中で凝結して雪になれば、その雪は赤くなるはずである。別に不思議はない、元々山上の赤土の中の水だったんだから。
 今の目で見ると「ちょっとその説はどうよ?」と思わないでもないが、200年前の話である。当時のパラダイムの中では十分に合理的考え方だと思う。

 もうひとつ。
塩尻 巻十

 宝永二年、日本各地で大豆が降ったといって人々が多く拾った。

 これ、実は楠の実で、別に珍しいものではないのだが、人の心は「怪」を好むようで、まるで「霊威」のようにいわれているのはヘンだ。

 府下有司評定館の庭に古い楠がある。くだんの「空から降った大豆」と同じ実を多く付けていて、その実が風に舞い落ちていのである。その他ところどころにこの木は多くあり、あっちこっちで「大豆」が拾えるのである。場合によっては、鳥などがこの実を食べた後にした糞に混じっていたこともあるだろう。

 「麦が降った」という話もある。大麦に似ているが少し大きめのこの「麦」も、実は木の実なのである。「米」といわれているのは桜の実のタグイなのである。

いずれも、普通にあるものなのだが、人々が普段は気にも止めないから、今年初めての現象のように騒いでいるのである

7月4日、町役人が「妖怪の仕業だ」という流言を戒めたのはGJである。

 『天文大成』にある「天が五穀を降らせた」という話も、こういうことだと思う。明暦3年に信州木曾で赤い小豆が降ったという話も聞いたが、これも何らかの木の実の可能性が高い。また、7月3.4日の頃、毛が降って、大変長い白い毛を拾うということがあったが、これは昔から大きな雷のあとにはよくあることだ。

 地気が登って雲になり、雲が集まって雨雪になって降る。この他に何を降らすというのか。

まったく、俗に流されることなかれ、ってことだな。
 著者は天野信景
 さすがに「神道や儒教・仏教への歴史的な批判や、『万葉集』や『源氏物語』の他、歌語・俗語などの言語学的検証、そして本草学・天文学といった広範な分野において、実証学的な見地から考察を加えている」(wikipedia)つー人物である。

 「合理的」であるということはカガク知識の多寡の問題ではなく、思考の方法であるということがよく分かる一文だ。

「オタマジャクシ騒動」でカラ騒ぎしている連中は、この300年前の人の箴言をよく噛みしめてみるべきだろう。
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by signal-9 | 2009-07-03 16:22 | 奇妙な論理

空からオタマジャクシが降ってきた?

石川県で、空からオタマジャクシが降ってきた?、という事件が話題になっているそうな。

白山でもオタマジャクシ降る? 中島に続き、深まる謎 北國新聞 6/7
6日朝、白山市徳丸町の駐車場や乗用車の上にオタマジャクシ約30匹が落ちているのを、同町の石川県職員木島浩さん(49)が見つけた。いずれも死骸(しがい)で、つぶれた形状から上空から落下した可能性が大きい。県内では4日夕、七尾市中島町でオタマジャクシが降る「超常現象」が目撃されている。気象庁によると、いずれの時間帯にも竜巻などの現象は観測されておらず、謎が深まっている。
いわゆるファフロッキーズファフロツキーズ(FAlls FROm The SKIES)というやつだな。

------- 2009/06/23訂正
「ファフロッキーズ」じゃなくて「ファフロキーズ」だな。
山本弘氏のブログ読んでて気がついた…
------- 2009/06/23訂正

鳥か、突風か…意見分かれる 石川、謎のオタマジャクシ落下  北國新聞 6/9
七尾市と白山市で空から降ったり、地面に落ちていたオタマジャクシは、上空を飛ぶ鳥が吐き出した可能性があることが、時国公政日本鳥類保護連盟石川県支部長=七尾市大津町=などへの取材で8日分かった。一方、大槻義彦早大名誉教授は「局所的な突風で空に飛ばされた可能性が有力」とみており、「超常現象」の謎が深まっている。
要約するとこういうこと。

日本鳥類保護連盟石川県支部長の時国氏の見解
  • サギやウミネコなどは水田でオタマジャクシを好んで食べ、何かに驚いて吐き出すことがある。
  • サギなどがオタマジャクシを食べた直後、カラスに襲われた可能性などが考えられる。
  • アオサギなら一度に50匹程度を食べることもあり、4日夕に約100匹が空から降ったケースも、アオサギ数羽やカラスの群れが吐き出したとみれば不自然ではない。


それに対する、<「超常現象」を科学的に研究する>大槻義彦早大名誉教授の意見
  • 今回は竜巻が観測されておらず、局所的な突風でオタマジャクシが上空10~15メートルまで飛ばされた可能性が有力。オタマジャクシの密度は水と同じ程度で軽く、泥や水草は水より重い。このため、水の表面にいる軽いオタマジャクシだけが突風で飛ばされた可能性がある
  • 鳥が吐き出した可能性については「もしそうなら全国で同じ現象が起きるが、聞いたことがない」


全国でも大きな反響 石川のオタマジャクシ騒動  北國新聞 6/10
9日午後6時ごろ、中能登町能登部上の無職近江幸雄さん(78)方の玄関先に小魚10匹の死がいが散らばっているのが見つかった。フナとみられる小魚は体長2、3センチ。約15キロ離れた七尾市中島町では今月、大量のオタマジャクシが空から降ってきたのが目撃されており、住民は「今度は魚が降ってきたのか」と首をかしげている。

 発見者である孫の町職員希文さん(25)によると、魚は玄関前に駐車していた軽トラックの荷台周辺に落ちていた。この日、軽トラックは一度も動かしておらず、午後3時ごろに荷台を見たときには魚はいなかったという。希文さんは「天気も良く、風も全く吹いていなかった。変な音もしなかったし、いつからあったのか全く分からない」といぶかしがった。
おやおや、今度はフナまで降って来たのか(^^;) まあ、ある程度話題になるとイタズラつーこともあるだろうからマンマ受け取る必要もなかろうが。

記事が正確に事実を伝えているとして、縁起物なんでちょっとだけ大槻教授に突っ込んでおくと;
  • 「もしそうなら全国で同じ現象が起きるが、聞いたことがない」という反論は大槻氏自身の「局所的な突風」説にもそのまま当てはまるのではないか。オタマジャクシも突風も全国にあるわけだし(笑)
  • 「聞いたことがない」大槻先生は鳥類の生態のプロとは思えないが、時国氏は鳥類に詳しいヒトのはず。その人が「鳥が吐き出すことがある」と言ってるんだからどっちの意見の方がもっともらしいかはいうまでもなかろう
  • つーか、突風でオタマジャクシが飛ばされた事例なんてのを大槻先生は「聞いたことが」あるんだろうか?
いや、別に大槻説がオカシイといってるんじゃないんだが。

 過去のファフロツキーズの事例では、まさに雨のように降ってくる、というものが多くあるが、今回のものはオタマがせいぜい100匹と非常に少ない。この程度の量なら鳥(の群れ)がゲロしたもの、という説明でも物理的(量的)に無理は感じない。

 つーか、この両説の合わせ技、つまり「鳥さんがゲロったオタマが風で流されたのかも」つーあたりが妥当な推測なんじゃなかろうか。 そりゃあもしかしたら本当の「超常現象」、UFOのウチュージンがMJ12との陰謀契約の元、オタマミューティレーションを行っているとか、失われた超古代文明の遺産が発動し、オタマだけが選択的に通り抜けられる謎の空間断層が発生つー可能性も無いわけじゃなかろうが(爆)

 裏づけのない個人的印象なんだが、どうも話が以前あった「ガードレールの謎の金属片」に似てるんだよな。この時と同じ感想の繰り返しになるけど、マスコミがフォーカスして「超常現象」に祭り上げたから目立ったんであって、「普段から見えているけど観えていない」、実際には大騒ぎするほど珍しいことではないんじゃないか、という気もする。

 近く水気が無いように思える場所にオタマの死骸が落ちているなんてことは実はよくあることなのかもよ。普段は気が付かないだけで。
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by SIGNAL-9 | 2009-06-10 17:36 | 奇妙な論理

「オフレコ」ってなんなの?

漆間巌・官房副長官の"オフレコ"発言が物議を呼んでいるようだが、どうも理解できないのが、例えば3月10日の日本テレビ「ズームイン!!SUPER」で読売新聞特別編集委員・橋本五郎氏が指弾していた「不見識な発言」つー言い方だ。

 「見識・責任のあるオフレコ発言」つーのは、いったいどういうシロモノなのか、俺の如き虫よりも馬鹿なコドモにはさっぱり理解できない。

 根本的に、不見識・無責任な発言をしたい/させたいから「オフレコ」つー発言者とマスコミの共同謀議システムが存在しているんじゃないのか?

 責任のある立場の人間の無責任な発言は一切許さない、というのなら「オフレコ」なんて奇妙なシステムは止めた方がマトモだと思うのだが。
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by SIGNAL-9 | 2009-03-10 12:43 | 奇妙な論理