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明治-大正の狂犬病被害

遅ればせながらガラケーからスマホに乗り換えたので最近めっきりTwitterづいてしまいブログは放置してたのだが、やはりある程度のテキストをまとめておくにはTwitterは不向きなのでこちらに備忘しておく。
かわ1020 ‏@kawa1020 5月12日

ワクチン拒否の流れに混じって「犬の狂犬病ワクチン接種をやめましょう!」「私やめてます!」「打ったことにしてくれるお医者さんがいるらしい」という人たちをリアルに見てしまった。驚愕。道端で犬に噛まれて狂犬病、がよその国の出来事じゃなくなって来てしまった…
このツィートがきっかけで、Twitter上で論議が巻き起こっているようだ。
日本でもかつて狂犬病が猖獗を極めた時代がある、ということは既に忘れ去られているので、それを掘り起こしておくことは無駄ではあるまい。
一例として、報知新聞 (大正8)の「戦慄すべき狂犬の害悪」という記事をみると、当時の狂犬病の被害がどれほど酷かったよくわかる。

著者(弁護士 水野豊)が挙げている明治期の狂犬病被害を列挙すると;
  1. 十九年、麻布区の田中某方の飼犬が発病し、娘と飼い馬が死亡。
  2. 二十五年八月、大分県下毛郡某村で牛馬総計二十頭が狂犬によって傷つけられ、馬三頭牛十四頭が死亡
  3. 二十六年二月、長崎市で狂犬発生。多数の人畜に被害を与える。けが人七十名余り、死者八名。
  4. 三十年、荏原郡目黒村に狂犬発生。三名死亡。
  5. 三十三年、狂犬病にかかった犬の総数、五十四頭。
  6. 三十三年、山口県三田尻附近に四十三名の被害者。三名発病。
  7. (三十年八月、伝染病研究所に於て始めて予防注射法を開始)
  8. 三十六年、広島県下で死者十九名。
  9. 三十八年十一月、神戸市に発生。三年にわたる大流行となり、咬まれた人四千五百二十名。内三十五名死亡。
  10. 三十九年五月から四十年二月にわたり、青森県下に狂犬病発生。被害者百四十七名。内十一名死亡。
  11. 四十年五月三十日、北海道室蘭郡千舞別村に一頭の狂犬現れ、猛烈な勢いで蔓延し、翌年までに咬まれた人五百二十六名、内二十一名死亡。狂犬病にかかった獣二百五十二頭。
  12. 四十年、静岡県、四十一年には神奈川県で多数の患者発生。
  13. 四十一年五六月頃、山梨県下に発生し多数の被害者。内四名死亡。長野県南部地方に伝播。
  14. 四十二年に宮城県、四十三年には岩手県で数十名に被害。二名死亡。
  15. 四十四年春福島県に発生、六名咬まれ三名死亡。同年夏福岡県三池郡大牟田町で一頭の狂犬に十五名が咬まれ内二名発病。
  16. 東京府では三十四年以来減少の傾向だったが、四十一年に千駄ヶ谷に発生し四十四年には未曾有の大流行。四百五十二頭が感染。大正元年には四百四十七頭に及ぶ。
 著者はこれを踏まえて以下の様に主張している。意訳して要約する;
  1. 狂犬病予防の方法は犬を全滅させるしかない。全滅させられないまでも頭数を減少させることは必要であり、それと共にその病気の根源である犬を感染させないようにすることもまたひとつの方法である。
     北里研究所の梅野博士の研究報告によれば、健康犬に対して人に対するように予防接種を行なう試験は良好な成績を顕わしたということなので、これを一般の犬に普及させることは最良の方法であることは疑えない。
  2. 先年、警視庁は嵌口令を施行して全部の犬に口網を付けて人を咬めないようにしようとしたが、一部愛犬家の反対で廃止させられた。
     現在行なわれている畜犬取締規則は緩すぎて予防の効果を上げていないことは、咬まれる被害者が年々多数に上ることから明白である。
     したがってこれに対して妥当な取締規則を早急に設ける必要があることは言うまでも無い。
  3. 「人か犬か」という問題の答えは明らかであり、犬や愛犬家に犠牲を強いることはやむを得ないことである。
 著者の主張通り「野犬の捕獲」と「犬への予防注射」という対策は大正中期から取られた。近代デジタルライブラリをキーワード「狂犬病」あるいは「恐水病」で検索すると、ご先祖様の狂犬病制圧のための苦闘の後が読み取れる。例えば東京府下狂犬病流行誌(昭13)石川県衛生状態一斑(昭6)をみると、野犬の捕獲と予防注射が対策として有効であることは疑いようもない。

 俺自身は犬に思い入れがある人間ではなく、飼い主の気持ちはわからない。だが、その上でこの歴史を見ると、以下の様に思えるのである。
  1. 「日本は島国だし現在は検疫をしっかりしているから大丈夫」という意見には賛成できない。 今よりも遙かに海外との往来が少なかったであろう明治・大正時代ですら大きな被害が出ているのだし、狂犬病を媒介するのは犬だけではない。水際で100%防疫するのは不可能だろう。
  2. 「野犬を少なくする」対策を取れば飼い犬に予防注射を行なう必要は無い? 先に挙げた先人の記録を見る限り(確たる相関を見いだせる粒度のデータではないが)、予防注射か野犬の捕獲どちらかの対策を取れば十分ということではないように思える。どちらが有効だから片方は不要ということではなく、やはり両建てでリスクを減らすことが必要なのではないか。
「戦慄すべき狂犬の害悪」には以下の一節がある。
殊に犬は職業用の猟犬又は探偵犬を除きては大部分其飼主の愛着心を満足せしむる為めに飼養せらるるものなれば官庁などの取締を俟たず第一に飼主が公徳を重んじて被害なきを期せざる可からず然るに往々に自己の飼犬なるに係わらず他人に害を加うる時は自己の飼犬たる事を否定して知らざる真似を為す者の多きが如きは実に度す可からざる不徳と謂わざる可からず
――猟犬や警察犬を除けば、飼い犬の大部分は飼い主の愛着心を満足させるために飼われているものである。「官庁などの取り締まりがあるから」ではなく、まずは飼い主が公徳を重んじて被害がでないようにするべきである。しかし往々にして自分の飼い犬であるのに他人に害を与えた時には「いや、私の犬じゃないです」と知らんぷりを決め込むものが多いことは実にもって不徳と言わざるを得ない―― 現代の我々もこの言葉を噛みしめてみるべきだと思う。

…読み返してみて補足したくなった。
俺は狂犬病対策には「イヌへの予防注射」+「野犬狩り」で万全とも最善とも思っていないことは言い添えておきたい。今だったらむしろネコやフェレットみたいな愛玩動物の方がハイリスクかもしれないし、いっそ人間に打った方がいんじゃね?という意見にも賛意は別にして理解は出来る。 だが現状、そういった他の手段が簡単に執れない以上、現状の方法を「飼い主の都合で」忌避するのはおかしい、とは思っている。
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by SIGNAL-9 | 2015-05-18 15:58 | 古い話

同人作家さんと話す。

 このBlogの記事で明治期の話を好んで取り上げているのを見た友人の知り合いが、ちょっと話を聞かせてくれないかと。

 なんでも同人の作家さんらしいのだが、明治時代を舞台にした漫画を考えているとかで色々調べているのだそうだ。
 ちょうどヒマだったし、モノ作りに励む若い人と話をするのは嫌いではないので、アキバの外れの某喫茶店で男三人(俺と友人と作家さん)で茶話会。

 明治期の物語の画像化を考えている人におすすめしたいのが、講談社学術文庫の「ビゴーが見た日本人」、「ビゴーが見た明治ニッポン 」(清水勲)である。ビゴーの絵は漫画的デフォルメはあるとはいえ、基本的に写実的なスケッチなんで、絵作りの参考になるだろう。
 例えば上半身は洋服、下半身は褌一丁で町を闊歩する日本人の絵なんて、俺の知る限りビゴーくらいしか描いていない。著者の解説も(個人的にはいささか情緒的に流れすぎでは?と思うところもあるが)的確だし、何よりも入手しやすい。

 あと最近のものでお勧めできるのが『東京今昔散歩―彩色絵はがき・古地図から眺める 』(原島広至,中経出版)である。

 古写真と現代の同じ場所の比較という企画、類書は多いが、文庫でお手軽なわりにしっかり書かれている(とはいえ、微妙に気になったり、明らかに間違ってたりするところもあるが…いくらなんでも万世橋駅前からニコライ堂はあんなふうに見えないぞ。あれは別の建物)。

 しゃべってるうちに声が大きくなり「注目すべきはふんどしですよ、ふんどし!」などと大声で話してしまったが、チラっと奇異の目を向けられた程度で済んだのはやはりアキバという特殊な土地の特性であろうか(笑)
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by SIGNAL-9 | 2008-10-27 00:00 | 古い話

明治珍聞:仙人対京都大学

 明治も末期の四十年代。
 いわゆる「千里眼」ブームが巻き起こる。

 鈴木光司の『リング』のモデルにもなった御船千鶴子を取り巻く「事件」は特に有名だろう。
 御船千鶴子の話はオカルト番組なんかでも時々取り上げられる。残念ながら突っ込みどころ満載のデタラメであることが多いけど(笑)

 この明治の「千里眼」ブームを概観するためには、『千里眼事件』(長山靖生、平凡社新書、2005)はオススメできる。中立を心がけた記述には好感が持てるし、充実した内容で720円(税別)という爆安(笑)

 「千里眼」問題に関しては俺も多少興味があるので、ちょっとずつ資料を集めたりしている。そのうち纏まった記事にできればいいのだが、今日はエピソードをひとつご紹介。元ネタは明治42年10月14日付報知新聞。
 京都大学にて、十二日同地に興行中なる、彼の仙人と自称する片田源七を文科大学に招き、松本文学博士、今村医学博士を始め、其他文科医科大学の諸教授列席して、仙人の心身両方面を研究したり
 なんと天下の京都帝国大学が「仙人」の研究をしたというのである。
 「千里眼」を始め、この時期、いわゆるオカルティックなものにアカデミックな関心が集まっていたのである。

 片田源七は、宮城の山奥から出てきた自称「仙人」である。河合先生のマジック資料室によれば、「刃の上を渡り、熱湯に火傷せず、頭で梵鐘をつく」といった、いわゆる危険術を見せる人だったようだ。

 さて、この京大の「仙人研究」、いったいどういうものだったのか。
 …報知の記事によると、実になんとも、ヒドいものだったようなのである。
 先づ最初微弱なる程度より、電流を其身体に通じ漸次に其度を強めたる
 要するに、自称仙人の源七老人の体にいきなり電気をビリビリ流したというのである。
 源七は苦痛を忍び、「曳々」と吐鳴り立てるが、無論何等の効果無きにぞ
 …ヒドいなぁ。これじゃあ拷問だよ。
 で、当然のことだが源七じいさんは怒り心頭大激怒。
 大学の学者共が己れの信仰によりて得たる仙術を、機械の力によりて破らんとするは不都合千万なり、誰か己れの刀を持って来い、此学者共を片っ端より叩き切つて呉ん
 破れ傘刀舟のように怒鳴り散らす仙人。学者連慌てて電気の説明を丁寧にして、怒り狂う仙人殿をなだめたとか。

 つーか、電気ビリビリ流す前に説明してなかったんかい! そりゃあ源七じいさんが怒るのも当然だわな(笑)
 なにしろ、
 此源七に通じたる電流は、若し普通人なりせば忽ち気絶する程の強度のものなりし
 だっていうんだから(爆)
 常人なら気絶必死の高電圧に耐えた仙人、実に大したものではないか。仙術というのもまんざら…となればまだしも、この実験の「結論」というのが輪をかけてヒドいんである(笑)。

 仙人が耐えられたのは『全く其旺盛なる精神の作用』である、と。ここまではいいのだ。ところが、要するに精神が旺盛なだけで、
 源七が山中にて仙人より仙術を授かつたり等称するは、全く精神病的の幻覚に一致したりと
 …いきなり既知外扱いである。

 事前の説明もなしに気絶するほどの電流を流して、それに耐えた人を掴まえて「精神が旺盛だっただけ。仙人に習ったつーのは精神病的幻覚だね」…いくらなんでも酷すぎる結論ではないか。
 現代オカルト批判の急先鋒、オーツキ教授だってこんなヒドイ「実験」はしないだろう(笑)。今だったら人権問題どころか刑事事件になりかねない話である。

 …いや、まあ確かに文明開化明治の御世に仙人に仙術習ったって話はちょっとアレだと俺も思う。思うけど、結論ありきだったら何のための実験だったんだろうか。

 実は京都大学の松本文学博士、今村医学博士は、一連の「千里眼」事件の中でもメインキャラクタとして名前が登場する。
 京大内部での研究の覇権争い、京大と東大の反目その他のバックグラウンドに関しては『千里眼事件』始め関連書籍に譲るが、その辺のドロドロしたオトナの事情も、多少この酷い「実験」に影響しているのかもしれない。
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by SIGNAL-9 | 2008-07-03 16:03 | 古い話

明治珍聞:桜餅で死亡

「大食い番組」はあいかわらず人気があるようだ。

 ギャル曽根、大食いでついに負ける 新女王は44歳 アメーバーニュース 4月01日 08時27分
3月30日、昨今の大食いブームに火をつけた人気番組『元祖!大食い王決定戦』(テレビ東京系)が放送されたが、同番組出身のタレント・ギャル曽根(22)が準決勝で敗退した。
ギャル曽根を押しのけ女王の座に輝いたのは主婦の菅原初代さん(44)。2回戦以外は全てトップで通過した彼女は、決勝戦でもラーメン20杯を食べきり、2位に5杯の差をつけるぶっちぎりの優勝だった。

 一方準決勝で敗れ、番組規定により決勝には「お世話係」として立ち会ったギャル曽根。決勝終了後に新チャンピオンへのコメントを求められた彼女は、「もうちょっと頑張って欲しかったですね」と煽りを入れ、次回でのリベンジを誓ったが、チャンピオンの菅原さんには「修行して出直して来い!」とあっさり一喝された。

個人的にはどこが面白いのかワカラナい。
「こーゆーヒトたちって、いったいどんな量のウンコをするんだろう」といった生理学上の痴的興味はあるけど。

『江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓』『美食のフランス』などのモノの本によると、大食い競争・食べ比べといった「食の遊戯化」は万古の昔から洋の東西を問わず人気があったようである。そういえば古典落語の『そば清』なんてのはもろにフード・ファイターの話だ。

 だが、どんなものでも過ぎれば毒なわけで、大食い・早食いには非常なリスクが伴う。

 例えば今年2月にもこういう事件があった。
カップケーキ大食い競争で男性死亡=英

【ロンドン25日AFP=時事】英南部スウォンジーで先ごろ、一度にどれだけ多くのカップケーキを食べられるかの競争に加わった男性(34)がケーキをのどに詰まらせて死亡した。当局者が25日明らかにした。
 男性は22日、カフェで開かれた地元芸術家のための展示会開催資金集めパーティーに参加。サン紙が目撃者の話として報じたところでは、会場には大量のカップケーキが用意され、パーティー終了後もその多くが残った。誰かの提案で大食い競争となり、突然、男性がのどを詰まらせた。通報を受けて救急隊が急行したものの助けられず、男性は病院で死亡。男性ののどにはカップケーキ5個が詰まっていたという。
 警察は男性の死因についてさらに調べている。カフェのオーナーは「悲劇的な事故であり、大変悲しい。これを教訓とすべきだ」との声明を出した。〔AFP=時事〕
 死に方としてはおよそ最低なんではあるまいか。

 こういうバカはそうそう多くはなかろうと思っていたのだが、『明治世相編年辞典』を読んでいたら、明治27年4月5日付けの読売新聞の、こんな記事を発見した。

 東京府下東多摩郡高円寺村ニ百三十七番地に在住の安川弥吉の妻おみさ(二五)は生まれながらの大食自慢であった。

 二・三日前のこと、近隣の女房連中が集まって桜餅の食べくらべを開催した。
 同村の町田おまつ(二三)というものが三十個あまりを喰い、当日のトップだと注目された。

 おみさは、アタシが劣っているはずが無いと躍起になり、帯を緩めて、見る間に43個を食い尽くした。

 なおも喰おうとするのを皆で押しとどめたところ、おみさは、ウン、と一言叫んでお尻からどっと倒れて気絶してしまった。

 人々は驚いてすぐに医者を呼んだが、もはやこと切れて帰らぬ旅に赴いてしまっていたという…。

 日本と英国、時代も100年以上を隔てているのに、まるで同じ記事を読んでいるようだ。

 ダーウィンの考え方が正しいのであれば、そろそろ遺伝プールからこの手の遺伝子が取り除かれてもよさそうなものであるが(笑)、中々に業が深いものだなぁ。
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by SIGNAL-9 | 2008-04-04 10:39 | 古い話

明治珍聞:牛込の謎の大穴【解決編】

 その後の追跡調査で『牛込の大穴』の謎は解かれた。

 生き証人、玉松千年人という八十一歳の老翁が発見されたのである。
 この顛末は萬朝報が「牛込大穴の来歴」という記事で報じた、と『風俗画報 新撰東京名所図会 第342号』(明治39年6月25日発行)は伝えている。

 老翁は、こう証言した。

 「穴」のある場所は、もともとは水野家の下屋敷で、対馬守という御隠居が住んでいた。
 そこに出入りの植木屋で長四郎という男が、常時数名の職人とともに絶えず庭の手入れをしていた。邸内は一万五千坪もあって-今で言うと白金台の八芳園と同じくらいか-、月桂寺と尾州邸に隣り合ったところには馬場まで設けてあった。

 その馬場の傍らに、土を盛って小さな丘のようにしたところがあった。
 植木屋の職人たちは、この小丘に横穴を掘って、そこを道具置き場代わりに使っていた。
 その横穴をたまたま目にした対馬守、元来お気軽な性格の方だったので、

 「ちょうどいいや。ここを植木室にしちゃおう。いいからもっと深く掘っちゃえ(笑)」

 へい、とばかりに植木屋たちは、さっそく一間三尺幅(2.7メートル)に掘り下げて、そこからさらに掘り広げて「部屋」を造ってしまった。

 「う~ん。これだけだとちょっと不便かなぁ。よし、隣の月桂寺の方からも掘って抜けられる様にしちゃえ」

 造ってるうちにどんどん盛り上がってしまったのか、最も広い場所は八畳敷きくらいもあり、幸い土質が赤土なので崩れる心配もないので鏝細工で天井を掘り、棚などを設えてしまった。

 と、まあ、こういう次第で、抜け穴のようでもあり地下室の様でもあり、というヘンな穴が出来上がったのである。

 …と、これが天保六年(1835)頃のこと。話はまだ続く。
 そもそも、なぜこの穴の存在が忘れ去られ、「謎の穴」となってしまったのか?

 現在(明治三六年当時)八十一歳の玉松老人は当時十歳の少年で、対馬守の小姓を勤めていた。
 当時はこの穴で面白半分に遊んでいたのだが、その後、この穴は信仰の場所に変わってしまった、というのだ。

 対馬守の奥方は富士浅間神社の信者で、八丁堀在住の喜八という行者の元に出入りしていたのだが、この行者が

「弁財天が夢枕に立って、『われを邸内に祭れば心願成就すべし』とお告げがありました」

と奥方に吹き込んだ。

「ちょうどいいわ。ダンナ様が掘ったあの穴にお祭りしましょう」

 小さな祠を穴の中に設えたところ、ご利益を期待して家中の者が参拝するようになり、やがては町人まで参拝を許されるようになった。

 穴の中には薩摩蝋燭を灯したので油煙がものすごかったが、幸い抜け穴として作ってあったので空気も流れて窒息の心配も無く、巳の日には大勢の人々が参拝に訪れた。
 誰言うともなく「お穴の弁天」と呼ばれ、お屋敷の前に参拝客目当ての縁日商人が店を出す始末。

 さて、この騒ぎを聞き及んだのが牛込田町の上屋敷に住んでいた水野家の当主、土佐守である。

 「ご隠居、こんな山師みたいなマネしちゃあ外聞が悪いじゃないですか」

 とご隠居に注意した。

 こうして俄か弁天祭りはわずか三~四ヶ月で打ち止めとなってしまったのである。

 穴はとたんに粗末に扱われるようになり、十年後には代替わりした新しい水野家当主が下屋敷を訪れたときに「この穴ぼこはいったいなんだ?」と聞いたくらい忘れ去られた存在になってしまった。

 たった十年で忘れ去られてたくらいで、七十年後の今日となっては水野家でも知ってる人は皆無。この玉松老人の他に真相を知るものは誰もいなかった………

 と、まあ、これが謎の大穴の真相だったのである。

 「なんでぇ、ただの植木置き場か」
 うん。確かに。

 ただ、いわゆる明治の珍聞で、これほど鮮やかに真相が明らかになっているケースは、珍しいのではあるまいか。考えてみれば、たった一人の高齢の老人が覚えていたから真相が明らかになったのだが、この爺様が生きて見つかっていなければ「謎の大穴」のままで終わっていたことだろう。

 翻って、同じ牛込区原町で発見されたという「謎の地下住居」の件である。
 この地下住居も、麹室や植木室、武家屋敷の抜け道…だったということなのだろうか?

 確かにもっとも妥当な解釈は「麹室」か「耐火地下室」だと思われる。

 以前記事を書いたときには、
『一丈ほど掘った』というと約3メートル、確かにさほど深くはないが、明治26年当時のことだ。地下室なんかそうボコボコ作れるほどの土木技術が一般的だったとは思えない
などと書いたが、テメエの不明を恥じるほかは無い。
 つーか、「麹室」というものの存在を完全に失念していた。今でも麹室を持っているということでしばしばテレビなどでも取り上げられる神田明神前の甘酒の天野屋さんでは何回も甘酒買ってるのに(笑)

 「江戸の地下式麹室」(東京都教育委員会学芸員 古泉弘氏)によれば;
 一九八五年頃以降、近世都市江戸を対象とする発掘調査が盛んに行われるようになり、その結果、江戸の市中には数多くの「地下室」が存在したことが明らかになってきた。これらの地下室によって大地に穴が刻まれ、場所によっては蜂の巣のような観を呈することもある。これらの地下室は大きく六群に大別されるが、その内四群は「穴蔵」で、一群は今のところ性格不明、そして第二群と呼んでいる一群が「麹室」に当たると考えられている。
 ちなみに「穴蔵」とは、いわば地下式の耐火倉庫で、災害時において家財を緊急避難させるために用いたり、あるいは金銀を備蓄するためなどに用いた。土地に不自由する人々の間では土蔵代わりにも構築されたのである。穴蔵は大名屋敷を含む武家屋敷、町屋敷いずれにも広く分布するが、台地と低地という立地の違いによって、それぞれの構造も異なっている。台地上の穴蔵は、一般的に関東ローム層―いわゆる「赤土」―中に掘り込んで、地中に部屋を設けたものである。これに対し低地に存在する穴蔵は、土地が軟弱で地下に部屋を掘り抜くことができないため、四角く掘り込んだ穴の中に、木造の大きな枡形の部屋を設置し、その上に天板を乗せる。火災時にはさらに砂や水畳で覆って、天板の延焼を防いだ。
 つまり、江戸の当時からかなり高度な地下利用が進んでいた、ということである。
 江戸の土木技術を見くびっていました。申し訳ない>江戸のひと。

 これらの「穴蔵」や「麹室」の特徴は、まさに「謎の地下住居」に重なるのである。

 もしかしたら、地下住居の正体が「麹室」とか「穴蔵」のような穏当な(笑)ものだったから、「地下住居」事件は、その13年後に発行されている『新撰東京名所図会』にもまったく記述がないのかもしれないな。

 「地下住居」という響きにオカルティックな謎を期待していたわりにはツマラネェ結論だが、ま、個人的には納得できたんでこれでよし(笑)
 もっともこの調子だと、東京の地下にはまだまだ謎が埋まっているかもしれない。ちょっとワクワクする話ではある。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-12 11:10 | 古い話

明治珍聞:牛込の謎の大穴

先日、こういう記事を紹介した。
明治26年(1893年)7月31日

牛込区原町の荒物商中川某は、九人の子供のうち七人までが死んだため、易者の言をいれて乾の方角の古井戸らしい辺りを一丈ほど掘ったところ、大穴があって中に整然とした住宅を見出して珍聞となった。

明治世相編年辞典(東京堂出版)より
 奇妙な話なので興味がわき、引き続き多少調べては見たのだが、残念ながらこの話自体の出所、真偽含めた詳細はわからなかった。

 だが、この謎を解くヒントになるかもしれない事例を発見した。

 いわく、『牛込原町の大穴』事件。

 『風俗画報 新撰東京名所図会 第342号』(明治39年6月25日発行)の牛込区の項に、『水野の原の大穴』と題した記事が掲載されていたのである。

 牛込原町というのは、今でも新宿区原町として名前が残っている。大江戸線の牛込柳町駅で降りた辺りの一帯だ。
 当時の地図も見てみよう。今の地図と違い、上が南になっているので注意して欲しい。
c0071416_1161386.jpg

 当時のこの地域の状況は『新撰東京名所図会』によると、
 原町の通りは、戸山学校、砲工学校、成城学校中学等の往還なれば、方今は漸次繁昌し、商家相接するに至れり。其の他は舊武家地たりしを以て、尚ほ組屋敷の観あり。下宿には東洋、櫻、千歳、養真、高盛等の諸館散在す。然れども未だ割烹店の如きものをあるを見ず。僅かに牛肉店、蕎麦店等の客を引くに過ぎず。
 とある。

 さて、『新撰東京名所図会』は6月6日付の読売新聞の記事を孫引きして、「謎の大穴」についてレポートしている。
 水野の原は、原町三丁目に在りて、今は陸軍の用地たり、此地は元禄年間紀伊家の附家老水野大炊頭の祖先対馬守の拝領したる所にて、明治以後原野となりしものなり。
 頃者其の西南隅少しく高き所に於て大穴を発見せり、六月六日の読売新聞に原町の大穴と題して記して云。
 以下、この読売新聞の記事を孫引きして要約する。そのマンマ引用しても読みにくかろうから表現には潤色を加えるが、基本的には逐語的な要約である。

…………

 原町三丁目八七番地に成城学校中学という学校がある。

 元々陸軍参謀総長の川上操六が創設したため、当初は陸軍士官学校の予備校のような存在だったのだが、学校令改正に伴い普通中学に変わったものだ。
 とはいえ、出自がそういう性格であり、かつ明治当時のことなので、軍事訓練が教育の一環となっていた。
 つまり、この学校には軍事教練を行う練兵場があったのである。

 6月3日、この練兵場の西北隅の地面が少し陥落した

 そのまま放置しておいたら、翌4日正午に再び陥没した。
 陥没場所を調べてみると、その穴は直径約四尺(1.2メートル)、深さ二十間(原文は廿間。つまり36メートルだが、いくらなんでも深すぎると思う。ニ間の間違いか?)くらいあり、穴の中には回廊のようなものが続いていた

 さらに中を調べてみると、八畳と六畳くらいの広さの、土で出来た部屋が二つあり、廊下には土の棚のようなものも発見された。
 穴の高さは、普通の人なら自由に通れる高さのところもあれば頭を下げなければ通れないところもあった。

 その界隈の人々は、麹室(こうじむろ)なのでは?とか、昔この辺りにあった水野対馬守の屋敷の抜け穴なんじゃないの?とかいろいろ噂をしているようだが、どうもその正体は謎に包まれているのである。

 その正体を探るべく6月5日朝8時30分頃、成城学校勤務の陸軍将校が助手5人を従え、安全ランプを携えて穴の奥に突入した!

 北の方へ進むと、月桂寺附近と思しきところから微かに日光が漏れているのを発見、これはまさしく抜け穴であることを確認した。
 更に西の方角に進むと、成城学校の校舎の桜の木のあるあたりと思しきところからも、日光が見え地上の人の声が聞こえる始末。

 土砂に埋まってしまい確認できない道もあったが、どうやら抜け穴と見て間違いないのではないか…。
 新聞記者が聞き込んだところでは、穴の中で古い壺や犬の骨のような牙を備えた白骨を発見したという話もある。

 ………というのが読売新聞の報じた記事である。

 だが、諸君、どうも得心がいかないではないか。

 本当に水野屋敷の抜け穴だとすると、何故、部屋や棚らしきものが作られているのだ?

 屋敷の抜け穴といえば火急の時に速やかに脱出する目的で作られるはずだ。抜け穴の途中に部屋や棚など、作る必要があるだろうか?

 しかし逆に、麹を育成するための麹室だとしてもちょっと変だ。そうだとすると抜け穴みたいに通路が長く伸びている説明が付かないではないか。

 勇敢なる我が皇軍将校の探索も結局、謎を深めることとなったわけである。
 
 謎が謎を呼ぶこの奇怪なる「大穴」の正体や如何!

 奇絶!怪絶!又壮絶! その驚愕の真実は次回明かされる! 読者よ刮目して待て!

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by SIGNAL-9 | 2008-02-08 11:12 | 古い話

明治の美女たち

 明治20年3月20日付けの朝日新聞。
 天保弘化の時代には顔の長うて目の張りがようて生下(はえさがり)の毛が長うて背の高い女で無ては美と云ず、女房を迎へるにも芸娼妓を抱るにも多く右の標準に依り、夫より降つて明治の初年にありては、顔は丸く眼は常体で少し眥(まなじり)の釣上り、髪は黒くて背の小柄でなくては当世でないとて、所謂丸ポチヤ顔の流行せしが、此頃に至りては時好大に一変し、今にも一般に束髪洋服の世界にならんとするの勢なれば、芸娼妓を抱える親方は元より判人の如きも、束髪洋服の似合べき背の高い眼の張りのよい鼻の高い女でさへあれば、髪は少々赤ふても縮んで居ても一向頓着なく、其内ABC位の横文字を心得て居る女は猶更足の早きよし。時の勢と云へハテ妙なもの。
 江戸から明治にかけて、うりざね顔→丸ポチャ→洋風という風に、美人の定義が変わってきた…ということのようだ。

 確かに、「大衆の好み」という大きな変遷はあるかもしれない。
 だが、俗に「昔はお多福顔が美人とされ」みたいな話があるが、それは拡大解釈というもので、いわゆる「美人」はいつでも「美人」なのであって、時代によってコロコロ定義が変わるもんではないのではないか…と、明治期の美人写真を見ていて思ったのである。

 たとえばこれ。新橋新恵比寿家の芸妓、栄龍さんの写真とされている一枚。
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 ぜんぜんイケてるではないか。俺はこんな女性に「おひとつどうぞ」なんて言われたら理性を保つ自信はないぞ。
 あるいはこれ。「鼓を打つ女」と仮称されるおねぇさんの着色写真。
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 こちらも着色写真だが、ファサリ商会が発売した美人芸者のプロマイド。
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 とどめは、超有名写真。陸奥亮子(1856~1900)。
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 陸奥宗光夫人である。父は旗本金田淡路守(播州竜野藩士とも言われる)。
 維新後、新橋柏屋の芸奴となり小鈴と名乗るが、宗光に見初められて、明治5年に結婚。翌年長女を産む。明治15年、宗光は獄につながれるが亮子は先妻が残したニ子と長女を抱え留守を守った。明治23年、宗光が駐在公使となると、ともに渡米、美貌と聡明さで社交界の名花と称えられた。

 明治21~22年頃にワシントンDCの写真館で撮影したものらしい。気品あふれるというかなんというか、実にイイ女ではないか…他の写真はこれほど写りはよくないような気もするのだが(笑)。

 まあ、確かにこれらの写真は欧米人撮影者の手になるもので、その意味では「今風」の美人だから違和感がないのかもとも思う。おまけにみんな"プロフェッショナルな"女性だ。だとすると特殊な例なのだろうか?
 いやいや、どうしてどうして。
 以下、日本初の美人コンクールの応募写真。当然素人の女性である。

 山形代表の豊田ワカ子嬢。
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 同じく山形代表、野々村サダ子嬢。
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 石川代表は林玉子嬢。
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 彼女たちは今の基準で見ても充分に美形だと思うのである。
 少なくとも俺は全然イケる(なにがだ)。

 たしかに時代時代によって、大衆の平均的な好みの顔立ちというのはあるのだろう。

 ここに挙げた明治の美女たちも、今の目で見ると「やぼったい」「古臭い」と見る人もいるかもしれない。特にスイーツ(笑)セレビッチ最近そういう言葉があるそうだ。直訳すると「成金売女」だな^^;)な今風の審美眼からすれば。

 彼女たち明治の美人から、現代には希薄になった「品」というものを感じてしまう俺は既にジジイなのかもしれないし、その謗りは甘んじて受けよう。ああ、古いと言わば言え。ちなみに昭和に生きる(笑)俺の美人基準はこの方である。
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 『まぼろし探偵』の一場面である。1959年、確かに古い作品だ。だが、21世紀の基準で見ようが何をしようが、どう見ても美少女である。これはもう誰が何と言おうと美少女なんであって一切の反論は認めないのである(笑)。

 おそらくこの写真を明治や江戸のヒトビトに見せたとしても「おお、綺麗な娘さんだねぇ」という感想が得られると思うのである。
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by SIGNAL-9 | 2007-12-26 14:51 | 古い話

明治珍聞:謎の地下住宅

先日、明治世相編年辞典(東京堂出版)を眺めていて奇妙な記事を発見。
明治26年(1893年)7月31日

 牛込区原町の荒物商中川某は、九人の子供のうち七人までが死んだため、易者の言をいれて乾の方角の古井戸らしい辺りを一丈ほど掘ったところ、大穴があって中に整然とした住宅を見出して珍聞となった。
 たった、これだけ。

 牛込区原町と言えば、かの池田亀太郎、通称「出歯亀」がパクられた銭湯があったことで有名だ(有名なのか?)。
 今でいうと新宿区あたり、東京15市では"町はずれ"の方にあたる。地名に牛が入っていることからも判るように、元々、牛が放牧されていたような武蔵野の野原だったところだ。

 「九人の子供のうち七人までが死んだため」-子供の連続死というのは当時の社会状況を考えてみるに、家族にとっては大いなる不幸だろうが、さほど奇異には感じない。「何かのタタリか?」→易者に見立てを頼む、といった流れも、よくある因果因縁の怪談話のフォーマットで、ありがちな話である。

 だが、ここから単なる怪談話とは微妙に位相がずれる。古井戸から出てきたのはしゃれこうべ、ではなく、地下の住居だったというのだ。

 「一丈ほど掘った」というと約3メートル、確かにさほど深くはないが、明治26年当時のことだ。地下室なんかそうボコボコ作れるほどの土木技術が一般的だったとは思えない。
 しかも、「整然とした住宅」というからには、天災で埋没した廃墟みたいなものではなく、わざわざ大穴を掘って、その中に住宅を建築していた事を伺わせる。だとすると、「古井戸らしい」ものはそこへの入り口だったのだろうか。

 そもそもいつの時代の建物なのかもはっきりしないが、発見された当時ですら、今みたいに電気水道使い放題という時代ではない。地下住居なんぞ作って、ソコで生活が出来たとは思えない。
 とすると、何か特別な目的に使用するためのものだったのだろうか。だとすると、いったい何に使ったのだ。いや、そもそも、誰が?

 いわゆる「珍聞」の類は、書いてあることをそのまま信じることはできない。三面記事・ゴシップやオカルト記事がウソ・デタラメ・誇張に満ちていることは今も昔も変わらない。

 そうはいってもこの話、「丸ごとデッチアゲ」と切り捨てるには、いささか話がトビすぎているような気がするのである。

 例えば、これが「易者の言うとおり、古井戸からしゃれこうべが」的な話だったら「ああ。はいはい」と薄く笑ってスルーするところなのだが、「古井戸を掘ったら家が出てきた」というのは、デタラメにしてもデタラメすぎるので、逆に真実味があるではないか(笑) 面白おかしい話をでっち上げるのならもう少しもっともらしい話にするんじゃなかろうか、と思うのである。

 どうも訳がわからない。訳がわからなすぎて、逆に好奇心が刺激される。

 あえて合理的説明をしようと思うと、元々地下室としてあったものが、地上部の建物を取り壊して埋められてしまったのだろうという憶測はできるのだが、どうにも情報が少なすぎてはっきりしない。

 困ったことに、この記事、出典が書いていないのである。
 手元にある奇談・珍談関係の書籍を見ても、この牛込の謎の地下住居に関しての記述があるものが見つからないのだ。

 ううううううん。まさか地底人だの最低人だの、新撰組の極秘地下基地だのではなかろうが。もし真相をご存知の方がいらっしゃったら是非教えて欲しい。
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by SIGNAL-9 | 2007-12-17 17:31 | 古い話

「江戸文化歴史検定」のデタラメ広告

8月24日の読売新聞夕刊を見ていて、思わず吹き出した。

『第二回「江戸文化歴史検定」特別企画 Take2 東貴博 江戸文化歴史検定体験記』と題された広告である。
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 この江戸文化歴史検定というのは江戸文化歴史検定協会というところが主催しているが、ホームページをみると、江戸東京博物館と小学館がその本体のようである。

 さて、広告によれば、「浅草生まれの浅草育ち。ちゃきちゃきの江戸っ子・東貴博さんは江戸文化歴史検定二級の合格者」なのだそうである。

 この広告、突っ込みどころは他にもあるのだが、噴飯したのは、これだ。
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東さんがおすすめの江戸の名残を味わえる場所とかありますか?

浅草寺は焼け残っているから江戸のまま。浅草でさえどんどん改築して、古そうなものを造ったりしているけど、本物が残っているうちに見てほしい。
(つд⊂)ゴシゴシ→(;゚ Д゚) …!?はぁ? 浅草寺が焼け残ってる? 江戸のまま?

 この文脈で「浅草寺」といえば、本堂(観音堂)のこととしか受け取れない。

 馬鹿なことをいってはいけない。
 浅草寺本堂は昭和20年の空襲で丸焼けになったのである。

 昭和33年に浅草寺自身が発行している『昭和本堂再建誌』によれば;
(昭和二十年)三月九日午後十時四十分、折柄烈しい西風の吹きすさむ夜の街々に、不気味な警戒警報が伝えられた。十日零時三十七分空襲警報発令、南方海上を旋回しつつあったB29多数機は、逐次房総南部より帝都に侵入し、京浜周辺各所に分かれて焼夷弾を投下しつつあり、尚後続部隊ありとの情報である。
(中略)
午前二時過ぎ、本坊庭園に、多数の焼夷弾が落下し、火の粉は倉裡の諸所に燃え移った。辛くも一同これを消し止め、再び本堂を見上げれば、こわ如何に、巍然として夜空を圧する如く聳え立つ観音堂大屋根の西破風から、一条の光焔が鋒芒として走り出で、愕いて見返せば、風下の東破風から迸ばしる黒煙は烈風に薙ぎて真一文字に東に靡き、大屋根内部の発火はも早や疑うべくもない様相となっているではないか。
 慶安二年再建以来ここに二百九十六年、昭和大修繕成って僅か十二年、百万信徒に親しまれ来つた観音堂も遂に業火を免れ得ず、(中略) 観音堂の全く焼け落ちたのは午前五時頃にて、仁王門、五重塔、経蔵等も総てこの日焼尽した。
 この空襲で、浅草寺境内で焼け残ったのは、二天門、淡島堂、伝法院、浅草神社(三社様。厳密には浅草「寺」境内ではないが)など、わずかな部分だけなのである。

 浅草寺観音堂は昭和26年6月から七年がかりの大工事(総工費約4億円)で、昭和33年(1958)10月に再建されたのだ。

同書付録の『浅草寺本堂再建工事報告書』に工事の写真が掲載されている。

これが基礎工事。
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これが鉄骨の骨組みである。
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さよう、今ある本堂は鉄筋コンクリート製なのである。
再建事務局工事顧問の工学博士、大岡実によれば
…最初から鉄筋コンクリートの近代的不燃焼構造にするか、昔通りの木造建築にするかについては大いに議論のあったところであったが、私は断然鉄骨鉄筋コンクリート造を主張したのである。というのはたとえ宗教建築を旧来の形式で建てるにしても今日のように人家の密集した地区においては火災の危険は頗る大きいのである。人々の浄財によって造られる宗教建築が一度の火災によって烏有に帰し又々巨大な財力を集めなければならないという様な事は技術家としてなすべきでないという信念が一つと、戦争中防空問題で数度浅草寺を訪れ、旧本堂の材料の大きい事、例えば床下に二尺角近い欅の束が林立している状態を見て「この建物が焼失したら」再びこのような材料は集まらないという実感を持っていたので木造で再建するということは不可能でないまでも非常な困難があり本格的な建築をするには費用も大変な額になると考えたからである。
 一般観光客が好んで記念撮影に勤しんでいる雷門や観音堂は、すべて戦後のものなのだ。
 大体、昔の浅草を取り上げた、一般書籍で販売している写真集のタグイにだって、丸焼けになって外観だけ残った仲見世や、本堂修復中の仮本堂の写真が必ず載っているのである。

 東氏がナニをもって「浅草寺は焼け残っているから江戸のまま」といっているのか、是非知りたいものである。あの鉄筋コンクリの本堂が、本当に江戸時代のままだと思っているのか、この御仁は。
東氏のいってる「江戸」つーのは鉄筋コンクリート製の本堂を構築するような超古代文明のタグイなんだろーか(哂)

 つーか、「浅草生まれの浅草育ち」だそうだが、本当に浅草寺を見たことがあるのか? とすら疑いたくなってしまう。あれがコンクリート製であることは一目で判ると思うのだが。

 ま、これが単に東氏がどこぞのお笑い番組で喋っただけだったら、『これはひょっとしてギャグでいっているのか』と笑って済ませるところだ。

 だが、これは「江戸文化歴史検定」の広告なのである。掲載内容には広告主である江戸文化歴史検定協会、すなわち江戸東京博物館と小学館の責任があるはずだ。

 卑しくも他人の歴史文化の知識を検定しようという組織が、明らかな誤りを全国紙の紙面で喧伝する、これが果たして責任ある、誠意ある活動といえるだろうか。
 この「広告」が全国紙の紙面を飾るまでに、内容のチェックを行った中の人はいないのか?

 江戸文化歴史検定二級とやらのレベルはこんなものです、と恥をさらすのは勝手であるが、テメエの広告の内容『検定』もできないようでは、その『検定』自体のレベルも押して知るべしである。

 …と、久しぶりに半ギレしているが、なんでこんな些細なことに目くじらを立てているかというと、俺の近しい親族がこの再建事業に微力ながら係わったという個人的事情があるからだ。
 俺自身は浅草という地域にはほとんど縁もゆかりもないが、先人たちの営為を踏みつけにするような無神経な広告を、江戸博だの小学館だのの名前でやらかされるのは愉快な事ではない。

 3月9~10日の空襲で、浅草地区の約9割が焼け野原となり、隅田川には死体が山と流れていたのだ。
 空襲で死んでいった多くの人々、焼け野原だった浅草の再建に尽力した人々の辛苦を無視して、な~にが江戸文化歴史なのか。

 江戸に遡る前に、他に学ぶべきものがいっぱいあるんじゃないのか?
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by SIGNAL-9 | 2007-08-28 09:52 | 古い話

地上の橋

 最近は建築資材置き場兼喫煙者のたまり場みたいになっちゃている秋葉原公園であるが、その脇にある『佐久間橋』の痕跡は知ってる人も多かろう。
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 秋葉原にかつて貨物駅があったころ、貨物の積み下ろしの為に神田川から引き込んだ掘割(舟堀)があった。
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 ヨドバシアキバのあるあたりは昔、ちいさな港だったわけである。その掘割に架かっていた佐久間橋の名残がこれだ。

 ところで、この掘割には実はもう一本橋が架かっていたらしい。
 毎度おなじみ『新撰東京名所図会』神田花岡町の項から。
秋葉橋
 元秋葉原の東南隅にありて、神田川より鉄道会社貨物取扱所構内に通つる掘割に架し。明治二十五年十一月の新築なり。

佐久間橋
 秋葉橋の南に架す。即ち佐久間川岸通りに存り。
 この『秋葉橋』の正確な位置は調べきれていないが、佐久間橋の北、秋葉原の東南隅ということは、今で言うとヨドバシカメラの南側の入り口あたりだろうか? この橋の痕跡も佐久間橋のようにいずこかに残っているのだろうか。

 さて。

 このような今は消えてしまった橋というのは、東京の下町には多い。
 地名に『橋』が付いている場所には、大抵実際に橋があったわけである。川だの掘割だのがあちこちにあったのだ。

 最近は観光スポットにもなっている、厨房道具で有名な『合羽橋』
 合羽橋本通りと道具街通りの交差点が「合羽橋」交差点であるが、昔ここには新堀川という川が流れていて、そこに橋が架かっていた、と『東京の橋ー生きている江戸の歴史ー』(石川悌二、昭和52年)にある。

 同書によれば、元々名前も無いような橋だったらしいが、近くにあったお寺に因んで俗称『清水寺(せいすいじ)橋』とも呼ばれたとの由。一説には、この橋のそばに合羽を売る店があったので合羽橋となったそうな。合羽橋の語源に関しては諸説聞いたことがあるが、この説は寡聞にして知らなかった。
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 そういえば、道具街通りと浅草通りの交差点(コックさんの巨大ディスプレイで有名なニイミのある交差点)の名前は『菊屋橋』、そこを渡った通りの名前がずばり新堀通りである。
 かつて掘割があって橋が架かっていたことを思い起こさせるものは現在では何も見当たらないが、名前だけは残っているというわけだ。

 合羽橋や菊屋橋は地名にその名残をとどめるだけだが、秋葉原の佐久間橋跡みたいに、物理的な痕跡の残っている「地上の橋」が大量に残っている場所もある。

 台東区にある『山谷掘公園』である。

 この公園、地図で見ても妙な形で、長さ700メートル以上に渡る、『紐状の公園』である。
 「上流」の方では幅5~6メートルしかないウナギの寝床状態。おまけにせっかく整備して水が流せる親水公園っぽいつくりにしてあるのに、墨田区の大横川親水公園あたりと違い、水なんかビタ一文流れていない。

 他人事だが、素人目にはすっげー税金の無駄遣いのように思えるのだが。台東区民は怒らないのかねぇ。

 『新撰東京名所図会』によると;
 山谷掘は日本堤外を東流する溝渠にして、石神井用水たる根岸川の末流なり。眞乳山の北に至りて隅田川に注ぐ。彼の吉原に赴く遊蕩子が昔時猪牙船(ちょきぶね)を入れしは此川なりなす。

 名所図会によると、猪牙船(ちょきぶね)という奇妙な名前の由来はこういうことだそうだ。
 この船は「押送りの長吉」という人が発明したのだが、その高速性に目をつけた浅草橋附近の船宿の主人が建造を依頼した。つまり本来は長吉船なのだが、その外観が猪の牙のようだということで、猪牙船(ちょきぶね)と呼ばれるようになったのだと。
 素より小艇なれば動揺すること甚しく乗り方にも口傳ありたりとぞ。「ほととぎす猪牙で猪の目の揉心」とは七代目團十郎の名句として傳ふる所なり。文化文政の頃は其の数最も多かりしが、明治以後は著しく減少し、十五六年頃は十五六隻ほどに減じ、今日(引用註:この本は明治41年発行)にては全く其の影を見ず。
 一時は「今戸橋上より下を人通る」と詠われるほど利用されたらしいが、明治にはすっかり姿を消してしまったということだ。

-------追記
 その後、ちくま学芸文庫の「昭和の東京」(小松崎茂)を読んでいたら、昭和初期の小松崎茂のスケッチに、隅田川に係留してある猪牙船が描いてあるのを発見した。
 つまり猪牙船自体は少なくとも昭和初期までは利用されていたらしい。
 余談だが、さすがに後年メカもので名を馳せる小松崎画伯のスケッチ、猪牙船の構造が一目瞭然である。
-------追記

 『東京名所図会』所載の坪川辰雄撮影の二葉を引用しておく。

 「山谷掘の入り口」
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 「今戸橋より金龍山下瓦町」
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 写真を見る限り、確かに明治期には寂れた感じであったようだ。

 この山谷堀も徐々に埋め立てられ、永井荷風の「日記」(昭和10年10月)によると
 新築の今戸橋際より山谷堀の北側に沿いて歩む。堀は四五町行きたるところに尽き、其先は土管にて地中に埋められたり。堀には新築の橋多し。第一は今戸橋、第二は聖天橋、第三は吉野橋、第四は正法寺橋、第五は山谷掘橋、第六は紙洗橋、第七は地方新橋、第八は地方橋、第九は日本堤橋にて、堀はこの下より暗渠となるなり。
 「新築の」というくらいで、荷風が山谷掘で見た橋はほとんどが大震災の復興事業で架け替えられたものだったのであろう。例えば今戸橋は大正15年の竣工である。

 荷風が見た頃にはまだ堀があった。いや、つい最近まで堀は残っていたのである。
 昭和40年末期頃に俺はこの近所にけっこう頻繁に出向いていたのだが、今戸橋の下はバリバリの川だったし、隅田川には水門があった。山谷掘が完全に埋め立てられたのは昭和50年代前半と記憶している。

 その名残として今でも一部の欄干が残されている。

 これは第一の橋の今戸橋。
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 これは第三の橋、吉野橋。
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 今戸橋や吉野橋の痕跡に比べると大分こじんまりとした第五の橋、山谷掘橋。
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 そしてこちらが第六の橋、紙洗橋。
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 この石柱の横には一枚の銅版がはめ込まれている。
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紙洗橋来歴

本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
一 起工 昭和四年七月
一 竣功 昭和四年九月
一 工費 壹萬貮千圓

東京市
 荷風がそぞろ歩いた頃には新築も新築だったのだろうなぁ。今やかなり想像力を働かせないとその面影を偲ぶべくもないが。

 今もなお 柳散るらん山谷掘  子規
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by SIGNAL-9 | 2007-03-28 14:51 | 古い話