広瀬中佐の銅像(5) いくつかの「謎」

 長々書いてきた廣瀬中佐の銅像の話であるが、よくわからなかったことがいくつもある。
 つーか、この話、激動の時代を跨っているので深堀しようと思うといくらでも出来て、カネもヒマもない三流会社員の手慰みのブログ如きでは手に負えない。

 そもそも最初は「秋葉原研究(笑)」の流れで調べ始めたのに、いつの間にやら「秋葉原」とは何の関係もなくなっちゃった(爆)

 で、わからないこと=俺個人の「謎」を備忘として書いておく。

 廣瀬中佐のファンという方は世の中に多いようだ。「ナニ馬鹿なこと言ってんだこのド素人のチンカスが」という親切な方、よろしければご教授ください。





■銅像「行方不明」説

 廣瀬中佐の銅像が「行方不明」…という話がある。

 この話を小説にしたのが『広瀬中佐の銅像』(もりたなるお、新人物往来社、2002)である。
戦後「戦犯銅像」として撤去処分を受けた広瀬中佐の銅像。他の銅像が復活するなかで、中佐の銅像だけが行方知れずに…。銅像消失の謎と戦後の美術界の混迷を描く小説。
 一部のWebページで、この本の記述をもとにしたらしい「行方不明」説を記述している向きがある。

 だが、これはあくまでも「小説」である。

 例えばこの小説のストーリーの取っ掛かりは「撤去の対象となったはずの大村益次郎像や楠正成像が何故か撤去されていなかった…」というものなのだが、前回提示した朝日新聞記事を読めば判るとおり、実際にはこれらはそもそも「撤去せず」と公表されていたわけである。
 このように、創作上の必要性からであろう、史実と異なる記述もあり(小説なんだから当然だ)、そのまま事実であるかのように扱ってはまずいと思う。

 さて、そもそもこの「行方不明」説、昭和41年頃に神田のれん会が銅像の行方を調査したことに由来していると思われる。

 前回も引用した『幻の東京赤煉瓦駅』(中西隆紀,平凡社新書,2006年。以下『幻の~』と略)に、昭和41年6月2日付の読売新聞(中央版)の『「消えた銅像」さがし 神田のれん会が始める』という記事が紹介されている。

 ところが、引用されているこの読売記事をよく読んでみると、ど~も怪しいのである。
 そのむかし、中央線万世橋駅(現在廃止)前の名物だった、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像さがしが、千代田区神田で行われている。…太平洋戦争末期か、終戦後間もなく取り除かれたが、その行方はまったくわからない。
 ほら、記事のリードの段階でもう怪しい(笑)。
 銅像の撤去が太平洋戦争末期か終戦後かも、この記事ではあいまいなのだ。
 銅像は、戦争末期に鋳つぶされてしまったという話や、戦後進駐軍の命令で解体されたという話などいろいろ。東京国立文化財研究所美術部の話では「昭和二十二年五月、都の銅像忠魂碑等撤去委が取り除いた」というが、都にも当時の記録はなく行方はまったくわからない。
 「昭和22年7月に撤去されたことはわかっているが、その売却先がわからない」とか「○○に売却されたはずなのに売却した履歴がない」、だから行方不明だ-みたいな具体的な話ではなく、そもそも「いつ無くなったのか」もわからない、といっているのだ。

 おそらく神田のれん会は、この記事取材の時点では、単に昭和22年7月(5月は撤去決定の時点)に撤去されたという記録を知らなかったのだろうと思う。戦争直後の混乱期に住民の頭越しに撤去されたんだから、当然と言えば当然だ。
 こういう時こそ、プロである新聞記者は当然ウラを取るべきだと思うのだが、どうもこの記者氏、神田のれん会に聞いた話をそのまんま書いているだけのようなのである。

 要するにこの記事は、調査不足を称して「行方不明」といっているだけなのである。

 引き倒された銅像の写真まで掲載されている「銅像は金属会社に売却、台座は入札の予定」という撤去時の朝日新聞記事を積極的に疑う理由はない。

 今更詮無いことだが、読売の記者氏は東京国立文化財研究所美術部などではなく、東京都建設局の公園課や交通博物館(国鉄か交通公社)あたりに聞いてみるという想像力を持っているべきだったろうと思う。
 一般的に役所の文書の保存期間は永年保存を除き長くて30年くらいだろうから、60年以上も経ってしまった今日では資料も残っていないかもしれない。だが、昭和41年と言えばまだ銅像撤去から20年たっていない時点だ。ちゃんと調べれば売却や入札の記録が残っていたかもしれないと思うと非常に惜しい気がする。

 いずれにしても、行方不明説の由来がこの記事にあるとすれば、これをもって「行方不明」と表現するのは言い過ぎだろうと思う。
 これが「行方不明」なら不用品として撤去されたモノはみんな「行方不明」だ(笑)。

 最終的にこの神田のれん会の調査がどうなったのかは俺は確認していないが、おそらく昭和22年に東京都によって撤去されたという話には行き着いたのだろうと思う。
 ただ、この時の「銅像は行方不明、地元で調査している」という話だけが生き残って、それから40年以上も経った今日でも「銅像は行方不明だそうです」という伝聞として流布されているのだとすれば、読売の記事もそうとう罪なことをやったものである。

■杉野像は朝倉文夫の作?

 ところで、問題の読売新聞の記事にはもうひとつ、トンデモない話がしれっと書いてある。
 作者は、広瀬中佐を彫刻家故渡辺長男氏(故朝倉文夫氏実兄)杉野兵曹長が朝倉氏という芸術的にも高い作品
 この話を信じるなら、朝倉文夫は自分の作品の撤去に自ら関与したということになる。
 『幻の~』によれば、「公式の発表はすべて作者は兄渡辺長男。弟文夫の作品目録に「広瀬・杉野像」は見当たらない」、確かにこれが公式の話だと思う(『幻の~』の著者中西氏は、こう言った上でウラがあるような書き方をされているが…)。

 この、「杉野像は朝倉文夫作」という話、Webページ上で主張されている方もいるのだが、いったいどんな史料に書いてあることなのだろう?

 勿論、渡邊と朝倉は実の兄弟だし、銅像製作時点の明治40年頃なら朝倉は既にプロデビューしてバリバリ働いていた頃(年表参照)である。実質的に共同制作(朝倉が手伝った)だったみたいなことが事実としてあったとしても違和感は感じない。
 だが公式には渡邊作とされている以上、それ相応の根拠がないとマズいと思うのだ。

 ところが、少なくとも問題の読売の記事中には根拠も出典も書いていないのである。
 一応調べてはみたのだが、そもそもの話の出所からしてわからなかった。出典をご存知の方は是非教えて欲しい。

 個人的には、もしも「杉野像は朝倉文夫作」の話の出所もこの読売の記事だとしたら、信頼するに足りない話だと思う。
 前に見たように、この記事を書いた記者氏がきちんとウラを取って書いているとは思えないからだ。

 ただ、この朝倉文夫という人物、非常に興味深い人であることは間違いない。

 例えば、首相井上馨の密命を受けてシンガポール・ボルネオで軍事探偵(スパイ)的な活動を行っていた(横田順弥『明治時代は謎だらけ』)とか、サンカ小説で有名な三角寛に元ネタらしき偽書『上記』を紹介したとか(真偽不明)、チャールズ・ブロンソンの吹替えで有名な大塚周夫のおじさんで、周夫の息子でスティーブン・セガールの吹替えの大塚明夫と合わせて名付け親だとか(笑)、単なる芸術家にしてはいささかヘンな場面でひょっこり名前が出てくる。

 ほじくり返すと、まだまだ色々面白い話が出てきそうな人ではある。

■杉野兵曹長は生きていた?

 さて「行方不明」といえば、廣瀬中佐の物語にはひとりの「行方不明」者がいる。
 いうまでもなく、杉野兵曹長である。今風に言えば作戦中行方不明者(MIA)というやつだな。

 ところで、この杉野兵曹長が実は生きていたという話が太平洋戦争後-銅像撤去のおよそ半年前-に持ち上がったのである。
 昭和21年12月21日付の朝日新聞。
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 ちなみにこの続報が1月3日の記事にあった。
 杉野兵曹長 怪しくなった生存説 関係者の話は皆あやふや

 杉野兵曹長が生きているという話(一日付本紙)は十月下旬満州から引揚げてきた福井県武生町の元軍属谷川房治氏が次の二人から聞いた話として伝えたのであったが、この二人ー江戸川区新田町二ノ一二九四佐久間節直氏と高松市木太町の杉山俊氏は、ともに谷川氏の言うところを訂正、または否定しているので、この話は、どうもあやしくなってきた
 一方が「谷川が尾ひれをつけて話したのだ」「杉野とあったこともないし、谷川と杉野の話をしたこともない」といえば、一方は「今になって杉山氏があっていないというのは嘘です」と水掛け論。

 どうもアヤシイ話ではある。
 だが、この話を改めて取材をした『日露戦争秘話  杉野はいずこ』(林えいだい,新評論,1998)によれば、「実際に杉野にあった」と『証言』する人が確かにいたらしいのである。

 杉野生存説の詳細は同書を参照されるとよい。
 源義経、西郷隆盛、プレスリーからイエス・キリストなどなど、「あの有名人は実は生きていた」話というのは洋の東西を問わずよくあるものだが、そういう話が「出てくる事情」というのは非常に興味深いテーマだと思う。

■廣瀬の遺体はどこに?

 ところで、「実は生きていた」話だったら、杉野兵曹長より廣瀬中佐は生きていたって話の方がおもしろかろう、と不謹慎なことを考えた(笑)

 もしも俺が話をでっち上げるのなら「海に没した廣瀬中佐は頭に重症を負いながらも実は生きており」みたいな話にするだろう…と思ったのだが、廣瀬の遺体がロシア軍によって回収され葬られたという話は、旅順口閉塞作戦の直後に報じられていた。

 明治37年4月11日の毎日新聞。
[三月九日北京発]
 四月一日、旅順に於いて日本海軍将校のために葬儀を営めり。当時将校及び水夫これを見送り、かつ楽隊を附せり。この将校の死体は、福井丸の船首なる海上に浮かびしものにて、頭上に砲丸にての大疵あり、その深さ一寸、外套の袖に金線あり、頸には革紐にて望遠鏡をかけ、ポケットには短剣を差し居れり。

 註:右電報によれば、露人は該死体の廣瀬中佐たる事は知らずして葬儀を営みたるものならんも、その廣瀬中佐たる事は当時船上に留めたる一塊の肉片が、右電報に伝える頭部の深さ一寸の大疵と符合する事、並びに外套の袖に金筋の入り居りし事だけにても疑いなきがごとし。
 つまり、廣瀬の遺体はロシア軍によって回収・埋葬された、と報道されていたのである。
 だから廣瀬生存説みたいな話は出てきようがなかった…ということで納得は納得なのだが、だとするとちょっと奇妙に思うことがある。

 不思議なことに、旅順附近に葬られたであろう廣瀬の遺体を、日本に埋葬しなおそうとか、せめて線香をあげに訪れようとか、そういう話がこの後どこにも出てこないのだ。日本での廣瀬の葬儀は、ボートに残された肉片を元に行われたという記事はもちろんあるのだが…。

 確かに日露戦役は最終的に膨大な数の戦死者を出した。その多くが恐らく異国の地に葬られたのであろうから廣瀬だけ特別扱いというのはヘンかもしれない。

 だが、廣瀬は銅像建設であれだけ盛り上がった「軍神」である。
 旅順を陥落させた後にでも「軍神の墓参りをしよう」というような動きは一切無かったのだろうか?
 杉野兵曹長のように「行方不明」ならいざ知らず、ロシア軍がちゃんと埋葬してくれたらしいということは判っていたのに?
 旅順には慰霊碑や記念碑-日本軍によるロシア軍人の慰霊碑や墓も-が建てられたわけだし、機会はいくらでもあったはずだ。

 もしかしてこの「遺体埋葬記事」自体が怪しいのかなぁ…とも思ったのだが、Webを漁っていたら、「よ~いち」さんがお作りになった春や昔~「坂の上の雲」ファンサイト(大労作である。詳しい資料と珍しい写真満載)の第二回旅順口閉塞のページで、こういう話を見つけた。

 平成17年に日露文化センターというNPOが発行した『日露戦争100周年・第2次世界大戦終結60周年を後世に残す記録映画にかんするお願いの件』という記録映画製作の支援を求める文書(PDF)によると、『世界の諜報戦争シリーズ・ロシア対日本篇』という番組が「今年の2月16日に前編、3月2日に後篇がロシア全土とCIS諸国で放映され」たというのだ。同文書によるとその番組の内容は:
日本では「ロシア側の砲弾直撃で一片の肉片を残して戦死した」とされている広瀬武夫中佐は、港湾入り口に停泊していたロシア戦艦レトビザンから水兵達が乗り組んで近付いた複数のモーターボートの一斉射撃で戦死、遺体は軍外套を着た,全く損傷の無い状態でロシア側に収容され、ペテルブルグ時代に親交のあったコヴァレフスキー子爵の二人の子息(セルゲイ、アナトーリー共に極東艦隊勤務の海軍将校)が旅順港の埠頭で遺体の確認に立会い、これが広瀬である事を証明し,外套のポケットから、彼等の妹アリアドナが広瀬に贈った形見の時計を見出した事、遺体は、ロシア海軍葬をもって旅順のロシア海軍墓地に埋葬された画面と、広瀬の恋人であったアリアドナのポートレートは、竹田市の広瀬神社にもない貴重なものです。
(注=映画では割愛されて居りますが、最初のシナリオでは「旅順陥落後、広瀬の遺体は日本へ運ばれた」とあるのですが、日本では上記の事実は報道されて居らず、杉野兵曹長の生存説<林えいだい著「日露戦争秘話 杉野はいずこ」 新評論社 1998年刊 >と併せ、調査・検証の要があります。
 「遺体は、ロシア海軍葬をもって旅順のロシア海軍墓地に埋葬された画面」!? 廣瀬の葬式の模様が映像として残っているということ? うわ、超見たい…(笑)。

 もしも本当に「旅順陥落後、広瀬の遺体は日本へ運ばれた」のだとしたら、廣瀬の墓参り・墓探しが行われたフシがないのはそのためなのだろうか? だが何故、その話が日本側の記録のどこにも出てこないのだろう? もしかして遺体を収容した話が表ざたに出来ないようなウラがあるんじゃないか?

 …妄想は勝手に深まるばかりだ(笑)

 このままだと怪しげな陰謀論の陥穽に落ちそうなので、長々書いてきた廣瀬中佐の銅像の話もこの辺でひとまずおしまい。
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by SIGNAL-9 | 2008-05-20 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)
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