広瀬中佐の銅像(2) 銅像の建立

 廣瀬中佐がなぜ「軍神」と呼ばれるようになったのか。
 「旅順口の物語」だけからはピンとこない人もいるかもしれない。

 確かに部下たちを真っ先に避難させ、自らは危険を顧みず沈み行く船の中を杉野を捜索し、最後には肉片一片を残して海中に没したというストーリーは感動的である。
 だが、従事した作戦自体は残念ながら失敗だったわけである。戦功という意味では廣瀬は明らかに成功者ではない。
 つまりこの国における「軍神」という概念は、その語感とは異なり、必ずしも戦争で華々しい結果を出した<英雄><勝利者>ではない…ということである。

 この「軍神」という概念については『軍神 近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡』(山室建徳、中公新書。以下『軍神』と略)が詳しい。
 廣瀬だけではなく、明治から昭和の「軍神」を包括的に取り上げていて、2007年7月発行の新刊書だし、税込み1000円ちょっとでお買い得。新書なので持ち運びにも便利(笑)。
 また、俺が見つけられた限り、現在書店で簡単に手に入る書籍の中で廣瀬中佐の銅像に関してもっとも詳しく書かれている。
 以下の記事も多くをこの『軍神』に拠っている。
 ただし、この記事では「銅像」を話題にするつもりであるので、廣瀬武夫という人物個人に詳しく触れるつもりはないし、「軍神」の分析は俺の手には到底あまる(個人的には『軍神』の分析に諸手を挙げて賛成というわけでもない)。興味のある向きは『軍神』を参照されたい。

さて、廣瀬の死後、すぐに銅像建設の話は持ち上がったようである。




 広瀬死すの報の直後、明治37年3月30日付の時事新報、廣瀬と杉野の昇任と受勲を報じた記事の中に、既に、
故廣瀬中佐銅像建立の議

 故海軍中佐廣瀬中佐戦死の報伝わるや、府下の有力者間にはその殊勲を永世に伝うるため、市内適当の地を相し銅像を建立せんと議なすものあると聞く
とある。
 明治37年4月21日の都新聞。
廣瀬中佐の銅像に就て

旅順口閉塞の壮挙と共に廣瀬なる名は軍神として児童走卒に至る迄も知らるるに至りたるがその銅像の寄付金も陸海軍々人の殆ど全部之に賛成を表したるは廣瀬を敬慕するの余りではあるが中佐の人格も察せらる、殊に或紳士は若し銅像の資金不足せば幾等でも一人にて引受けて出金すべしと申出でたるものさへありとぞ
このような世論の盛り上がりを受けて、新聞社が寄付金を募り始める。明治37年5月2日付け時事新報。
廣瀬中佐銅像建設寄付金募集

廣瀬海軍中佐が前後二回の旅順口閉塞に抜群の偉勲を奏し名誉の戦死を遂げたる次第は人のよく知る所にして、中佐の一死はただに帝国軍人の士気を鼓舞するに足るのみならず我が国民のために、いわゆる万世不滅の好鑑を遺したるものと云うべし。今や海軍部内有志者相謀りて中佐のために一基の銅像を適当の地に建設し、後人をして永くその英風を欽迎せしむるの計画あり。世間篤志の士にしてこの挙を賛成し、その費用を寄附せんには、本社は喜んで紹介の労を執らんとするものなり。

 附言 寄附金額は一円以上とす。ただし団体を成せる寄付者にして一人の出金額その以下に在るものは、この限りにあらず。
                     時事新報社
■資金集めと製作

 『軍神』を元に、銅像建設の経緯を纏めておく(同書P67~)。
  • 中心人物
      「ともに大本営参謀だった財部彪と森越太郎が中心となって立ち上げられ、これに彼らと同じように廣瀬と海兵同期だった眞田鶴松、吉川孝治らが加わって実務を進めている」
  •  
  • 資金集め
      時事新報、東京日日新聞、大阪毎日新聞三社の取り扱い
      寄附人数:約一万人
      寄附金額:二万千五百五十円
  • 資金
      総資金:約二万六千四百五十円(寄付金+銀行利子四千九百円)
      制作費:約二万五千四百五十円(維持費として千円残)
  • 製作
      原型:渡邊長男
      鋳造:岡崎雪聲
      工事:杉井組、海軍造兵廠
    c0071416_9574283.jpg
     渡邊長男は、同じ彫刻家、朝倉文夫の実の兄であるということを覚えておいてほしい。弟・朝倉文夫はこの銅像の物語に後に登場することになる。

  • 銅像の大きさ
     台座の高さ:二丈四尺(7.3メートル)
     身長:一丈二尺(3.6メートル)

■銅像のサイズはなぜ一丈二尺だったのか?

 台座+廣瀬像で全高約11メートル。巨大である。

 銅像の一丈二尺というサイズだが、どうも意味無くこのサイズ、というわけではなく、基準となった先例があったらしい。
 廣瀬の銅像について調べているときに、上野の西郷さんの銅像を作成した高村光雲のインタビュー記事『歴訪録 犬をつれたる西郷銅像』(明治43年1月8日付け都新聞)を発見した。
 『昔は丈六の佛といって…一丈六尺のものが行はれたが、明治の銅像は大概一丈二尺に出来て居るから之は丈ニとでも云ったら可いだらう▲そこで、銅像一丈二尺の因縁は如何かと云ふと』と、高村は一丈二尺の由来について語っている。

 上野に西郷の銅像を建てるため、高村は原型の彫刻の監督に当たったのだが、参考にすべき資料がたった一枚の写真と、常に西郷のそばにいたという河野主一郎の話だけで、身長からしてわからない。松方正義が「私よりも丈が高かった」と証言したので松方候の身長を測ってみたら五尺六寸四分(170センチ)。
 これでも当時としてはけっこう長身なので、高村は、西郷はよほど大男だったのだろうと見当をつけた。
 高村は西郷の自宅を訪れ、西郷の軍服一式を借りて自ら着用してみた。すると『洋袴(ズボン)などは非常に太くて私の足が二本は入り、深さは上が私の乳の所まで届き、帯革は私が締めると未だ七八歳の小児が一人楽に入られる程だぶつき、靴も私の足が二つも入ろうという』大男だったことがわかった。
 高村はこれらの調査から西郷は六尺ほどの大男と判断した。そして、六尺を二倍にして銅像のサイズは一丈二尺と決まったのである。
 されば此寸尺には深い意味がないのですが其後出来た種々の銅像は新に寸尺の心配しないで老西郷の先例に倣つたものと見え大概なものが一丈二尺に拵へられて居る
 ようするに、俺の作った西郷像が明治の一丈二尺銅像の元祖だと。まあ、手前味噌な感が無きにしも非ずだが、天下の高村光雲のいうことだ。なるほどという気もする。

■なぜ須田町に建てたのか?

 ところで、以前から俺にはひとつの疑問があった。
 それは、「銅像は何故須田町に建っていたのだろう?」ということである。
 昭和11年に東京商工会議所の東京土産物協会が発行した『大東京の魅力』という観光ガイドに、
 ここに銅像があるのは、廣瀬中佐は神田ッ子だといふ因縁があるからだと言はれています。
 という記載がある。確かにこの『説』、俺も市井で聞いた覚えがある。
 だが、廣瀬は銅像製作者の渡邊長男と同郷の大分県の出身(大分県豊後区直入津竹田村711番)なのである。確かに15・6歳の頃、家族揃って東京に引っ越しているので、そのことを指して「神田っ子」と言っているのかもしれないが、「因縁」だの「と言はれています」だの、どうも怪しげな話だ。
 直截的に廣瀬ゆかりの地というわけではなさそうだし、海軍関係の施設があったわけでもなし、何故須田町の万世橋畔に銅像は建設されたのか?

 『軍神』を読んでいて、この疑問が氷解した。
 『軍神』(P68)で引用されている吉川孝治の証言に拠れば;
 最初は公園に建設の計画なりしに模型の略々成りたる頃、公園は絶対に許可せずと聞きて一同大に狼狽し、俄に市内に十数ケ所の候補地を選みて各方面より其得失を研究中、偶と従来東京市内の銅像は悉く山の手に集りて、純粋の下町と称すべき場所には一も之れなきに気付きたれば、寧ろ中佐の銅像は之れを四通八達なる繁華の地に建設すべしと協議一決し、扨てこそ往来繁き万世橋畔を選みたるなり
 この「公園」とは日比谷公園のこと。渡邊長男は、当初の構想では日比谷公園の池を旅順港に見立てて閉塞作戦の情景を再現してやろうと目論んでいたらしい。
 つまり、最初は日比谷公園に作ろうとしたが、管理元の東京市の許可がおりなかった。それなら銅像の少ない下町の、人の往来の多い場所にぶったててしまおうというわけだったのである。
 今の須田町あたりは近隣に比べて特に賑わっているという場所ではないが、当時の須田町の賑わいを、児玉花外は『東京印象記』(明治44年)でこう記している。
電車の四通する十字街は、神田須田町だ。市中の繁栄と、生活とは茲に塵埃と、渦巻いてゐる様である。
誰やらが須田町を、都会の親不知といつたが、実にその言葉通りで、田舎出の椋鳥先生抔は、電車の鈴と軋る音と、人間の足音と声と、風の日などは立揚る濛塵と、まごゝすれば迷児に、生命に掛かることも出来る。
 『生命に掛かる』たぁチト大袈裟なような気がしないでもないが、『都会の親不知』、そんな感じの賑わいだったのだろう。

■銅像の除幕式の様子

 当初、銅像の除幕式は、日本海海戦勝利を記念した海軍記念日であり廣瀬の誕生日でもあった5月27日(明治43年)に予定された。ところが5月6日、英国国王エドワード七世が逝去。この影響で除幕式は二日後の5月29日に延期される。

 あいにくなことにこの日、東京は「脳天を打貫くばかりの豪雨となり風さへも横なぐりに荒んで正午までも続きし為め市中の低地は例に依つて浸水」(都新聞 明治43年5月30日。以下同)という記録的な豪雨。
 そんな中、二日遅れの除幕式は挙行された。
c0071416_957511.jpg

 萬世橋畔に出来上がりし故海軍中佐廣瀬武夫氏の銅像除幕式は昨朝十時より夜来の風雨颯たる中に開かれたり 銅像を中心に万世橋より神田郵便局前に亙り紅白の段段幕を廻らし銅像前約百坪を區劃して式場に銅像に向つて左右に式壇に右方の天幕内を海軍々楽隊に後方の天幕を休憩所に充て銅像は紅白の布を以て覆はれたり
 皇族方や東郷・鮫島両大将、そして廣瀬の実兄である廣瀬勝比古、杉野兵曹長の家族、廣瀬と共に戦った閉塞隊員13名らの待つ中、10時15分にまず廣瀬像の序幕が行われる。
 颯と落る布の上に双眼鏡を左手に握つて直立する中佐の英姿は活るが如く 群集は我を忘れて万歳を絶叫し 次いで同二十分兵曹長の幕は無邪気に綱を握れる其遺子の手に除けられたるが 小児心にも嬉しそうに帽庇を傳ふ雨水を拂ひも敢ず一心に父の像を睜る可愛らしさ 云ひ知れぬ感は均しく群集の胸に湧きつつも小斧を執つて見上ぐる兵曹の勇姿に轟くばかりに万歳を叫ぶ
 大雨の中にも関わらず、見物人は次々と押し寄せた。
 風は横なぐりに雨は潮の落すばかりなる中を須田町目蒐けて八方より濡るゝも厭はず押寄せし群集で道は僅か電車線路を残すのみ 傘が邪魔なら畳んぢまへと人の傘の雨垂を浴び乍ら騎馬巡査に驚かされて湧き返る騒動 お天気なら人死疑ひ無しと保障した老人もあり

c0071416_95817.jpg

 雨の中だというのに獅子頭は出るは木遣りは行進するはのお祭り騒ぎ。余興の相撲と講武所芸者衆の手踊りは雨のために翌日に順延されたそうだ(笑)
 夜に入って天気が回復すると、神田っ子が押しかけて「明神様の祭りほどの」騒ぎ。翌日は輪をかけて盛況で、万世橋から昌平橋にかけて出店が出て、まさにお祭りそのものだったと伝えられている。

 今も昔も神田っ子が祭り好きなのは変わらないようだが(笑)、いかに廣瀬の人気が高かったかうかがい知れる。
c0071416_9581321.jpg

-まだまだ続く-
[PR]
by SIGNAL-9 | 2008-05-11 00:00 | 秋葉原 研究(笑)
<< サマータイム法案提出へ 広瀬中佐の銅像(1) 旅順口閉塞作戦 >>