広瀬中佐の銅像(1) 旅順口閉塞作戦

 秋葉原研究(笑)のテーマとしてこの話題を取り上げるのはいささか反則なような気もする。
 舞台は神田須田町。どう考えてもいわゆる「秋葉原」には含まれない。

 だが心情的には「広義の秋葉原つーことでもいいんじゃね?」と思うし、『坂の上の雲』がNHKでドラマ化されるそうなんで、ちょっとミーハー心を出して取り上げることにする。

 元の万世橋停車場─交通博物館の前に建っていたという「廣瀬中佐の銅像」に関してである。
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 さて、この銅像の話を始めるには、まずはそのモデルである「軍神・廣瀬中佐」という人物がナニモノであったのか、を確認しておく必要がある。

 まずは廣瀬中佐の物語から始めよう。




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 その前にひとつご注意を。
 以下の「物語」は、軍神・廣瀬中佐が誕生した時点の新聞記事からそのまま構成したものである。
 当時の人の読んだ「物語」をそのまま提示するのが趣旨だからだ。
 「実際の戦史と違う」あるいは「昔聞いた話と違う」的ツッコミは御勘弁願いたい。

 …言い訳終了(笑)。

 さて。時は明治。

 緊張の高まっていた日露間は明治37年(1904)2月10日、ついに互いに宣戦を布告、ガチンコ勝負が開始された。日露戦役(戦争)である。
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 露西亜太平洋艦隊の主力は旅順港に立てこもった。そこで我が聯合艦隊は、旅順港の入り口の海峡に老朽船で突入、故意に爆沈させ海峡を塞ぎ、露西亜太平洋艦隊を湾内に雪隠詰めにする作戦を立てた。いわゆる「旅順口閉塞作戦」である。
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 2月24日、作戦は実行された。だが露西亜軍に発見・砲撃され、失敗に終わってしまう。
 日本海軍は、再度この作戦を実行することにする。

 第一回作戦に副指揮官格で参加し勇猛果敢な働きによってすでにその名を轟かせていた海軍少佐廣瀬武夫(37)は、第二回作戦では四隻の閉塞船の内の一隻、福井丸の指揮を執っていた。

 閉塞隊は3月26日再び旅順口に向い、同27日午前3時30分、第二回閉塞作戦を決行した。
 四隻の閉塞船は駆逐隊と水雷艇隊の掩護の下に旅順港外に達し、敵の探海燈の照射をくぐり抜け港口に直進。だが約二海里に達する頃、敵に発見され両岸の要塞と哨戒艇から猛烈な砲火を浴びせられた。

 これに屈せず四隻は相次いで港口水道に闖入した。

 第一の千代丸は黄金山の西側、海岸から約半鏈のところで投錨爆沈。
 廣瀬の指揮する福井丸は千代丸の左側を過ぎて少し前方に進み、爆沈作業を開始した。
 上等兵曹杉野孫七が爆沈用の火薬に点火するため船倉に下りた時、敵駆逐艦から発射された魚形水雷一発が福井丸に命中した。
 船はみるみる沈み始める。
 廣瀬少佐は乗員を端舟(ボート)に避難させたが、杉野上等兵曹が見当たらないことに気づいた。
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 廣瀬は沈み行く船内を自ら三度捜索した。だが杉野の姿は見つからない。

 とうとう海水が福井丸の甲板を洗い始める。
 やむを得ず廣瀬もボートに乗り移った。
 降り注ぐ敵弾の下を退却していたその時、一発の弾丸が廣瀬少佐の頭部を撃ち抜いた。
 ボート内にひとかけらの肉隗を残し、廣瀬の体は海中に消えたのである。
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 廣瀬少佐と杉野上等兵曹は、作戦前日の26日付でそれぞれ中佐と兵曹長に昇任した。
 前掲の東京日日新聞の号外は29日付、聯合艦隊広報に基づく記事であるので、昇任後の肩書きになっているものと思われる。

 これが「廣瀬中佐」の物語である。

 第一次閉塞隊の頃からすでに廣瀬をして「軍神」と評した新聞記事はあったが、これ以後廣瀬の名は「軍神」の代名詞となる。

 -つづくー

(都新聞 明治37年3月30日)
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by SIGNAL-9 | 2008-05-09 00:00 | 秋葉原 研究(笑)
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