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「秋葉権現勧請説」 千代田区から返事が来た。

「秋葉権現勧請説」を天下の千代田区に質問してみる。の続きである。

<akiba-i事務局>である千代田区まちづくり推進部都市計画課から回答が来た。

 まず訂正しておくが、この「秋葉原インフォメーション」というサイトは、俺はてっきり千代田区自身の持ち物かと思っていたのだが、
秋葉原地区の駐車場案内システムとともに運営され、駐車場案内システムにご参加いただいております、駐車業事業者様の負担金にて運営されております。現在、当ホームページの管理主体の移行期にあたるため、私ども千代田区で運営を預かっております。
のだそうだ。

 ま、そうはいっても運営に責任を持っている以上、千代田区殿に管理責任があることに違いはあるまい。

 で、いよいよ「秋葉権現勧請説」の根拠になっている史料が教えてもらえるか、と思ってメールの下を読んでみたら。
掲載記事に関し、文献等について確認しておりますが、未だその該当資料を確認できておりません。
したがいまして、ご指摘いただきました事項に関するホームページについて、掲載を削除させていただきたいと存じます。
うわっ、江戸博と同じ、「削除」だよ(泣)。

 該当ページを見てみると
※当掲載記事について不正確な記述等がございましたので、掲載を削除させていただきます。
   ご迷惑をおかけします。
…疑問があったこと自体を無かったことにしてしまった江戸博よりはちょっとマシかもしれないが、事情を知らないと、何がどうしてこうなったのか、「不正確な記述等」つーのが何なのか、絶対にわからないわな。

 江戸博の時にも書いたが、誰も削除してくれだの無かった事にしろだの言ってないのである。

 そもそも俺はテメエの見解が絶対正しいなんて思っていない。
 そりゃあ、ある程度確信と自信があるからこそ疑問を呈しているわけだが、疑問に対するリプライを示してもらえればいいだけで「お詫び」なんざ求めちゃいないのだ。

 回答がすぐに示せないなら示せないで、その旨追記した文書に変えてもらう方がよほど親切かつ文化的態度だと思うのだが。

 重要なポイントなので何度でも同じ事を言うが、クレーム付いたら即削除というのは、Web上の文書のあり方としては十分な対応とは思えない。
 残しておくこと自体が問題であるような文書-例えば直截的に誰かを傷つけているとかで、「抗議」を受けるようなケース-は例外だろうが、これはそういう文書ではないだろう。

 もっとも、評価すべき点もある。
 今回、俺はあえてハンドル名で問い合わせをしている。
 このハンドルはパソ通だのfiだのの時代からン十年も使ってるから、俺自身は"匿名"というつもりはないのだが、相手とすりゃあドコのドイツかもわからないわけだ。
 そんな相手に対して対応してくれただけでもありがたいと思うべきかもしれない。
 また、問い合わせ先が明示してあり、機能しているのも好印象だ。
 公共機関でも、問い合わせ先が書いていなかったり、メールしても宛先不明になったりというヒドイところもある。

 きちんと対応してくれたのだから、このまま放置ということではなく、そのうち一次資料を確認して再掲載されると期待している-このままじゃあサイトのバランスも悪いしね(^^;)。



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 個人サイトまでいちいちあげつらう気は無いが、公的・準公的な組織や団体のページは参考にされることも多かろうから、それなりの責任を持った記述であって然るべきと思うのであるが、ど~も素直に頷けないページがまだまだある。

 いちいち相手にするほどヒマはないが、目に付いたものを備忘として挙げておく。

秋葉原電気街振興会 秋葉原の歴史
現在の秋葉原電気街のあたりは、江戸時代は下級武士の居住地域であった。「火事とケンカは江戸の華」と言われたように、当時は火事が多く、この秋葉原かいわいも江戸時代を通じて火災に悩まされていた。
 1869(明治2年)の相生(あいおい)町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万・)の火除地(ひよけち)を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現(あきばだいごんげん)を勧請(かんじょう)し、鎮火神社としてまつった。
 当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社(あきばじんじゃ:現在は台東区松が谷に移転)と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。
 現在、「あきば」と略されるのは、このあたりが語源となっている。

 1890年(明治23年)に上野から鉄道が延長されて、新しく当地に駅が開設されることになり、駅名は「秋葉原(あきはばら)」と名付けられ、その名前が一般化し、全国的には「あきはばら」という読み方が定着していく。
このページ、「誤解の根源」なんじゃないかと思われるほどコピペの形でばら撒かれているようだ。
  1. 下級武士の居住地だったから→治安が悪くて→失火が多いという説だが、秋葉原成立の起因となった火事は指物師(工芸職人)宅からの出火である。また移転交渉の記録を読む限りは、商家や職人も多く居住しているように思われる。いずれにしても、明治に入ってからの出来事と、「下級武士」の居住地だから「火災が多かった」という論理を繋げることには疑問が残る。
  2. 遠州秋葉神社勧請説を唱えるのならば、東京市史稿や武功年表の記述が不備・誤りであるとする理由に答える必要がある。
  3. 「当初は鎮火原と呼ばれた」という明確な史料(地図など)はあるのだろうか? 少なくとも明治20年時点では「秋葉ノ原」と記載した地図は存在しているが、それ以前だと単に「火除區」(明治9年『明治東京全図の内第五大區図』)とか、何も記載していないものしか見たことが無いが。そもそも「呼ばれた」というが、その主語は誰なのだろう? 誰がそう呼んだのか?
  4. 神社の改名には許可が要る。「秋葉神社」の公式の改名は昭和5年であることは公文書で確認できる。つまり、「秋葉原」駅が出来た40年も後の話だ。
  5. 「あきば」読みが「正しい」とする根拠は? 例えば土岐善麿は「あきはっぱら」(濁らない)と断言しているが。
  6. 火災が発生したのは明治2年12月である。日本は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰暦を採用していたため、それ以前の和暦は西暦とずれているのである。西暦に換算すれば火事が起こったのは1869年ではなく1870年である。
東京都議会ネットリポート/東京発世界文化
江戸時代、現在の秋葉原周辺は、多くの武士たちの住居地区でした。当時は頻繁におこる火災に悩まされ、明治2年におきた大火災の後、火災防止のために、周囲一帯を火除け地とし、火除けの願いをこめて「秋葉大権現(あきばだいごんげん)」を祭りました。その後、その周辺を秋葉原と呼ぶようになったと言われています。
  1. 明治2年の大火の出火元は指物師宅であることからもわかるように、下級武士云々という解説は直接繋がらないのである。過去以来たびたび大きな火災に悩まされてきたという「前フリ」だったらいいのだが…。火除け地設置の大きな理由の中には、建物の周密・季節風などの環境要因で大火になりやすかった為、ということ含まれていることには留意が必要だろう。
  2. だから「秋葉権現」を勧請したという証拠を出せ証拠を(笑) 参考文献くらい記しておいてもバチは当たらないとおもうのだが。もしかして冒頭の電気街振興会の解説のコピペなんではないのか?
  3. 「と言われています」って、誰がそう言ってるの?
秋葉原ラジオセンター
これはすごい。ほぼ全行突っ込める(笑)
現在の秋葉原は江戸時代には下町の火事を江戸城に延焼させないための火除地として野原でした。明治になって現在のJR秋葉原駅のある場所に遠州の秋葉神社(火除の神様)を勧請して神社を建てお祭りしました。そのため土地の人々はこの地を江戸弁で「アキバッハラ」と呼びました。だから「あきばはら」が正しい発音なのです。大正時代には総武線の汽車が走っていて中央通りは踏み切り番がいて旗を振っていたそうです。
  1. いわゆる「秋葉原」の元になった火除け地の成立は明治3年である。
  2. 遠州の秋葉神社を勧請したというマトモな史料は見たことが無い。
  3. 「アキハッパラ」など多様な音読例が認められる。そもそも「江戸弁」には、濁音は排除する傾向がある、という説もあるくらいで、「呼びました」「正しい発音なのです」と断定するには相当の根拠が必要と思うが、証明することができるのだろうか?
  4. 総武線が大正時代に中央通りを走っていた? 上野-秋葉原間貨物線と混同している上、そもそも線路は中央通り(御成街道)は通っていない。
    「秋葉権現勧請説」 千代田区から返事が来た。_c0071416_1024503.jpg

 と、まあ目に付いたものを挙げてきたが、共通して言えることは
  1. 参考文献や原資料の記述が皆無。
  2. 「といわれている」だの「だそうです」だの「呼ばれた」だの、主語・主体が不明な表現が多い
という点だろう。

 「論文じゃないんだから」と言われればそれまでだが(笑)、その組織発の情報の信頼性を推し量る上でひとつの尺度にはなるかもしれない。
by SIGNAL-9 | 2008-03-05 13:09 | 秋葉原 研究(笑)
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