アキバを襲った大災害(2) 大震災からの復興

 未曾有の被害を出した関東大震災の発生から約1ヶ月後の大正12年(1923)9月27日、当時の内務大臣後藤新平率いる帝都復興院が設置され復興事業がスタートした。
 財政・政治状況により当初目論見よりも大幅に計画は縮小されたが、区画整理や橋梁整備、防災用の緑地・公園の設置など、この時の復興事業で実施された都市のグランドデザインは、現在の東京にも残っているものが多い。

 例えば、中央区にある浜町公園。当初は熊本の細川家の屋敷だったところを復興事業の一環として公園として整備したものだ。
 これは昭和4年に東京市役所が発行した『TOKYO and ITS UNDERTAKINGS』という写真集から、復興事業で創設された浜町公園の姿である。
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 浜町公園は現在でも市民の憩いの場となっている。
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 こちらは墨田区の向島、墨田公園。こちらも復興の一環で整備された。
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 隅田公園も、-少々うら寂れてはいるものの-現在も公園として機能している。
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 ちなみに、これは『大東京写真帖』(昭和5年)掲載の「震災復興後の言問橋」。言問橋というのは、上で紹介した隅田公園に架かっている橋だ。写真奥に見える、下流に在る吾妻橋は、木製の橋が震災で焼け落ちてしまった。この写真の撮られた時点ではまだ復作業中なのだろう(現在の橋がかかったのは昭和6年)、醜い姿を晒しているのが見て取れる。
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 前回見たとおり、神田明神は灰燼に帰した。
 『東京震災録』(東京市役所/大正15年)に、その復興後の姿が記録されている。
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 同書から「神田明神から秋葉原方面を望む」という写真。撮影日は大正15年10月17日と記録されている。震災発生から丸三年。復興が一段落付いた頃の秋葉原の様子だ。
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 規模縮小につぐ縮小で、当初目論みのような防災都市化は十全なものではなかったが、防火を意識した区画などの整理はある程度行われた。

 下は「御成街道から蔵前橋方面を望む」と題された、整理前の写真。
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 御成街道というのは、今で言うアキバの中央通りのことだ。つまりこの写真は、地下鉄銀座線の末広町駅のある交差点から昭和通り方面を写したものと思われる(写真の中央部に大正14年開通の上野-秋葉原間の高架線が写っているので、震災の後の撮影であろうことに注意)。

復興により区画整理を行ったものがこの写真。
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道幅などは変わっていないようにみえるものの、道の真ん中に突っ立っていた電柱が整理され、だいぶすっきりした様子が見て取れる。

 次は大阪朝日新聞社『大震災写真画報』から「震災復旧後の万世橋駅」。
 外装を残して焼け落ちた駅舎が復興されている。軍神廣瀬中佐の銅像は焼け残り、あいかわらず街を睥睨している。
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 せっかく綺麗に直したのに、万世橋駅は、20年と立たずに廃止されることになる。
 その廃止の一因となったのが、大正14年11月1日に上野までの高架線が開通して、秋葉原駅が旅客扱いを開始したことである。
以前にも紹介したが、その時分の秋葉原駅の駅舎がこちら。
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 最後は『大東京写真帳』から「震災復興後の神田市場」。
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 かくして、徐々にではあるが、この大災害から人々は立ち直ってきていた。
 だが、それらの努力も20年そこそこで、またしても灰燼と帰す事になるのである。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-21 00:00 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)
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