明治珍聞:牛込の謎の大穴【解決編】

 その後の追跡調査で『牛込の大穴』の謎は解かれた。

 生き証人、玉松千年人という八十一歳の老翁が発見されたのである。
 この顛末は萬朝報が「牛込大穴の来歴」という記事で報じた、と『風俗画報 新撰東京名所図会 第342号』(明治39年6月25日発行)は伝えている。

 老翁は、こう証言した。

 「穴」のある場所は、もともとは水野家の下屋敷で、対馬守という御隠居が住んでいた。
 そこに出入りの植木屋で長四郎という男が、常時数名の職人とともに絶えず庭の手入れをしていた。邸内は一万五千坪もあって-今で言うと白金台の八芳園と同じくらいか-、月桂寺と尾州邸に隣り合ったところには馬場まで設けてあった。

 その馬場の傍らに、土を盛って小さな丘のようにしたところがあった。
 植木屋の職人たちは、この小丘に横穴を掘って、そこを道具置き場代わりに使っていた。
 その横穴をたまたま目にした対馬守、元来お気軽な性格の方だったので、

 「ちょうどいいや。ここを植木室にしちゃおう。いいからもっと深く掘っちゃえ(笑)」

 へい、とばかりに植木屋たちは、さっそく一間三尺幅(2.7メートル)に掘り下げて、そこからさらに掘り広げて「部屋」を造ってしまった。

 「う~ん。これだけだとちょっと不便かなぁ。よし、隣の月桂寺の方からも掘って抜けられる様にしちゃえ」

 造ってるうちにどんどん盛り上がってしまったのか、最も広い場所は八畳敷きくらいもあり、幸い土質が赤土なので崩れる心配もないので鏝細工で天井を掘り、棚などを設えてしまった。

 と、まあ、こういう次第で、抜け穴のようでもあり地下室の様でもあり、というヘンな穴が出来上がったのである。

 …と、これが天保六年(1835)頃のこと。話はまだ続く。
 そもそも、なぜこの穴の存在が忘れ去られ、「謎の穴」となってしまったのか?

 現在(明治三六年当時)八十一歳の玉松老人は当時十歳の少年で、対馬守の小姓を勤めていた。
 当時はこの穴で面白半分に遊んでいたのだが、その後、この穴は信仰の場所に変わってしまった、というのだ。

 対馬守の奥方は富士浅間神社の信者で、八丁堀在住の喜八という行者の元に出入りしていたのだが、この行者が

「弁財天が夢枕に立って、『われを邸内に祭れば心願成就すべし』とお告げがありました」

と奥方に吹き込んだ。

「ちょうどいいわ。ダンナ様が掘ったあの穴にお祭りしましょう」

 小さな祠を穴の中に設えたところ、ご利益を期待して家中の者が参拝するようになり、やがては町人まで参拝を許されるようになった。

 穴の中には薩摩蝋燭を灯したので油煙がものすごかったが、幸い抜け穴として作ってあったので空気も流れて窒息の心配も無く、巳の日には大勢の人々が参拝に訪れた。
 誰言うともなく「お穴の弁天」と呼ばれ、お屋敷の前に参拝客目当ての縁日商人が店を出す始末。

 さて、この騒ぎを聞き及んだのが牛込田町の上屋敷に住んでいた水野家の当主、土佐守である。

 「ご隠居、こんな山師みたいなマネしちゃあ外聞が悪いじゃないですか」

 とご隠居に注意した。

 こうして俄か弁天祭りはわずか三~四ヶ月で打ち止めとなってしまったのである。

 穴はとたんに粗末に扱われるようになり、十年後には代替わりした新しい水野家当主が下屋敷を訪れたときに「この穴ぼこはいったいなんだ?」と聞いたくらい忘れ去られた存在になってしまった。

 たった十年で忘れ去られてたくらいで、七十年後の今日となっては水野家でも知ってる人は皆無。この玉松老人の他に真相を知るものは誰もいなかった………

 と、まあ、これが謎の大穴の真相だったのである。

 「なんでぇ、ただの植木置き場か」
 うん。確かに。

 ただ、いわゆる明治の珍聞で、これほど鮮やかに真相が明らかになっているケースは、珍しいのではあるまいか。考えてみれば、たった一人の高齢の老人が覚えていたから真相が明らかになったのだが、この爺様が生きて見つかっていなければ「謎の大穴」のままで終わっていたことだろう。

 翻って、同じ牛込区原町で発見されたという「謎の地下住居」の件である。
 この地下住居も、麹室や植木室、武家屋敷の抜け道…だったということなのだろうか?

 確かにもっとも妥当な解釈は「麹室」か「耐火地下室」だと思われる。

 以前記事を書いたときには、
『一丈ほど掘った』というと約3メートル、確かにさほど深くはないが、明治26年当時のことだ。地下室なんかそうボコボコ作れるほどの土木技術が一般的だったとは思えない
などと書いたが、テメエの不明を恥じるほかは無い。
 つーか、「麹室」というものの存在を完全に失念していた。今でも麹室を持っているということでしばしばテレビなどでも取り上げられる神田明神前の甘酒の天野屋さんでは何回も甘酒買ってるのに(笑)

 「江戸の地下式麹室」(東京都教育委員会学芸員 古泉弘氏)によれば;
 一九八五年頃以降、近世都市江戸を対象とする発掘調査が盛んに行われるようになり、その結果、江戸の市中には数多くの「地下室」が存在したことが明らかになってきた。これらの地下室によって大地に穴が刻まれ、場所によっては蜂の巣のような観を呈することもある。これらの地下室は大きく六群に大別されるが、その内四群は「穴蔵」で、一群は今のところ性格不明、そして第二群と呼んでいる一群が「麹室」に当たると考えられている。
 ちなみに「穴蔵」とは、いわば地下式の耐火倉庫で、災害時において家財を緊急避難させるために用いたり、あるいは金銀を備蓄するためなどに用いた。土地に不自由する人々の間では土蔵代わりにも構築されたのである。穴蔵は大名屋敷を含む武家屋敷、町屋敷いずれにも広く分布するが、台地と低地という立地の違いによって、それぞれの構造も異なっている。台地上の穴蔵は、一般的に関東ローム層―いわゆる「赤土」―中に掘り込んで、地中に部屋を設けたものである。これに対し低地に存在する穴蔵は、土地が軟弱で地下に部屋を掘り抜くことができないため、四角く掘り込んだ穴の中に、木造の大きな枡形の部屋を設置し、その上に天板を乗せる。火災時にはさらに砂や水畳で覆って、天板の延焼を防いだ。
 つまり、江戸の当時からかなり高度な地下利用が進んでいた、ということである。
 江戸の土木技術を見くびっていました。申し訳ない>江戸のひと。

 これらの「穴蔵」や「麹室」の特徴は、まさに「謎の地下住居」に重なるのである。

 もしかしたら、地下住居の正体が「麹室」とか「穴蔵」のような穏当な(笑)ものだったから、「地下住居」事件は、その13年後に発行されている『新撰東京名所図会』にもまったく記述がないのかもしれないな。

 「地下住居」という響きにオカルティックな謎を期待していたわりにはツマラネェ結論だが、ま、個人的には納得できたんでこれでよし(笑)
 もっともこの調子だと、東京の地下にはまだまだ謎が埋まっているかもしれない。ちょっとワクワクする話ではある。
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by SIGNAL-9 | 2008-02-12 11:10 | 古い話
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