ついに発見!「秋葉っ原」の写真

 千代田区外神田一丁目遺跡調査会が纏めた『外神田一丁目遺跡』(平成11年。なぜか警視庁発行)という報告書に『明治21年ニコライ堂からの写真』というキャプションの付いた写真が掲載されていた。

 「あれ…、これ、秋葉っ原が写ってるじゃないか!」

 ちょっとググッてみたら、「ニコライ堂からのパノラマ写真」の内の一枚(第11番)という、有名な写真だということがわかった。

 先だっての秋葉原調査月間(笑)の時、秋葉っ原の写真か絵図がないかと探してみたのだが見つからなかったのである。諦めていたのだが、そんな有名写真があったとは…。まったく無知というのは恐ろしい。

 ところが残念なことに、この報告書に掲載されている写真は少々小さかった。秋葉っ原ではなく、佐久間河岸の遺跡調査の資料なので、当然といえば当然だ。
 で、もっと鮮明なものはないのか探してみた…書店で古写真関係の本を漁っただけなのだが(笑)。

 芳賀徹・岡部昌幸『写真で見る江戸東京』(新潮社、1992年)に、このパノラマ写真のすべてが紹介されている。だがこれも、一枚一枚のサイズが小さく、細部がよくわからない。

 幸い、石黒敬章『幕末・明治おもしろ写真』(平凡社、1996)に、外神田一帯の比較的大きなサイズの写真が掲載されていた。部分的に拡大し、若干の画像補正を加えてみたのがこちら(クリックで拡大表示)。
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 白黒写真のため、ちょっと位置関係がわかりにくいかもしれない。
 『外神田一丁目遺跡』調査書に掲載されている、明治21年の『五千分一東京図測量原図』の秋葉原周辺の地図と見比べてみてほしい。撮影位置であるニコライ堂は、この地図でいうと、向かって左側の方に位置する。
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 写真の真ん中下のほうに見える橋が旧萬世橋、神田川はそのまま右手奥に向かってから逆『く』の字に曲がって伸びている。昌平橋と和泉橋も確認できる(萬世橋と昌平橋の位置関係は現在とは逆で、萬世橋が上流にある)。
 画面真ん中あたりの交差点が花房町の交差点ということになるだろう。
 つまり、写真の中央左側にぽっかりと開いている空き地がいわゆる『秋葉っ原』である。
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 この写真、『写真で見る江戸東京』ではスコットランド人のウィリアム・バルトンが撮影者ではないかと推測されているが、『おもしろ写真』によれば、田中武による明治22年の撮影とのことである。
 『写真で見る~』の説は推測だが、『おもしろ写真』の方は毎日新聞記事という根拠を提示しているので、ここでは石黒氏に従って明治22年と考えておく。
 秋葉原貨物取扱所の影も形も線路も見当たらないので、いずれにしても上野秋葉原間の貨物線が開通した明治23年11月以前の写真であることに違いはない。

 無理を承知で(笑)、秋葉っ原附近をさらに平滑化拡大してみたのがこちら。
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 原っぱの右よりに小さな建物が見えるが、秋葉原の名前の由来となった鎮火神社は、地図ではもっと真ん中よりのように見えるので、これは社本体ではないかもしれない。

 東京市史稿その他の史料によれば、秋葉っ原は、周りをぐるりと高さ1メートルほどの小土手で囲み草木を植え…とある。
 防火林みたいな風景を想像していたのだが、写真では、単に低い塀で囲んであるようにも見える。まあ、この写真の時点では出来てから20年も経ってるのだからそれなりの変化はあるかもしれないが。

 一般書籍で入手できる写真の精度ではあまり細かいところまで判別できないのが残念だ。精度の高いテクスチャが得られれば、地図と合成して3D化してみるのもおもしろそうだ。

 この数年後には鉄道が引かれ、船堀が掘られ、物流の拠点となったわけである。
(東京市編纂「東京案内」(明治40年)から秋葉原船溜の写真)
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 ところで余談だが。

 冒頭に挙げた『外神田一丁目遺跡』調査報告書に面白い記述があった。
 明治2年(1869)の火災によって、外神田には約7000坪の火除明地が作られ、明地の中心に「秋葉三尺坊」を安置した「鎮火神社」が勧請される。

 「遠州の秋葉神社を勧請」と書いてある文章は数多いが、その中でも「三尺坊」を祀ったという珍説独創的な説は初めてみた。引用元を見ると江戸子著「江戸の火災」との由だが、明治三年時点に神祇官が三尺坊を勧請というのは、いくらなんでもそりゃ有り得ない、と思う。

 秋葉原に遠州秋葉神社(秋葉権現)が勧請されたというのは間違いである、と俺が考えているのは以前書いたとおりだ。

 公共機関が発行した遺跡の調査報告書が、ちょっと調べれば根拠薄弱と判る説をそのまま引き写して「事実」として記載するのはどうかと思うが、この遠州秋葉神社勧請説、思った以上に広範囲に流布している。

 最近、さすがに問題だと思ったのは、天下の江戸博図書館が公開している「レファレンス事例集」にこういう記述があったことだ。
秋葉原はなぜ「あきばはら」ではなく「あきはばら」なのか(2007年3月)

 電気街として広く知られる秋葉原は、明治2年12月の火災以後火除け地を置き、翌年秋葉神社(鎮火神社)をまつり「秋葉原(あきばはら)」と称し、「秋葉の原(あきばのはら)、あきばがはら・あきばっぱらなどともよばれ」(『日本歴史地名大系 第13巻 東京都の地名』 平凡社地方資料センター/編  児玉幸多/監修 平凡社 2910/139/13-S0 )ました。
 単なる俗称である「秋葉神社」をプライマリに扱うのは明らかな間違いだろう。

 「東京市史稿」の市街51-0001 『火除明地ニ鎮火社設立』によれば、あくまでも「鎮火神社」が正式であり、その意味で、”秋葉原”に秋葉神社が存在したことはない(鎮火社が秋葉神社と改称したのは、はるか後年の昭和5年)。

 この説明では「~をまつり」「~と称し」「~ともよばれ」等、主語が不明なのである。いったい「誰が」祭ったり、称したり、呼んだりしたのか、ソコのところを解説しないと、事実関係を正確に把握できなくなり、またぞろ誤解の再生産をする原因になると思う。
「あきはばら」は明治23年に出来た国鉄(現JR)駅「秋葉原駅」が出来てから地名となりましたが、なぜ国鉄が「あきはばら」としたのかははっきりしないようです。
 明治23年に「国鉄」は存在しない。後に国有化されたにせよ明治23年時点では日本鉄道会社(私鉄)である。

 また、「地名となりました」というのは意味不明。
 俗称としてという意味なら、明治23年以前から世間的には「秋葉ノ原」「秋葉ヶ原」として通用していた(明治20年発行『東京五千分の一』には「字秋葉ノ原」と字付きで記載されている)わけで経緯の説明として不正確だし、正式に「秋葉原」という「所番地・住所」になったという意味だとすれば、同時期の地図には秋葉原貨物取扱所(秋葉原停車場)の住所は「花房町」と記載されているので、事実と異なる。
 (そもそも「地名になる」というのもヘンである。「地名」は勝手に「なる」のではなく、「誰かが」「そうする」ものであろう。こういう客観性を偽装した表現は-俺も含めて-気をつけるべきだと思う)。

 影響力が大きいであろう江戸博のホームページであるだけに見過ごしに出来ず、概ね上記のような指摘事項を連絡申し上げたところ、「ご指摘の箇所は近日中に確認の上、訂正させていただきます。」と丁重なご連絡を頂き、さっそく旧記述は削除してくれた。(2007/08/22追記。本日再度見たら、見出しから削除されただけで原文はそのままだった)

 俺は手前の判断が絶対正しいなぞとはビタ一文思っちゃいないし、「どーでもいいこと」と言えばその通りなのだが、明らかに根拠が薄い・怪しいと思われる説が事実として流布されるのは、瑣末な事であるとしても良いこととは思えない。特に公的・準公的な機関の文書であれば尚更である。

 さて、どのように訂正されるのか、ちょっと楽しみである。
 ここで書くネタができるかもしれないし(笑)



…追記なのだが。

【アキバ物欲】メイドさんはアキバの達人!萌えるメイド店&アキバ初体験ツアーlivedoor
その後、万世橋で「秋葉原」の名前の由来をメイドさんから説明してもらう。「火事と喧嘩は江戸の華」というように火事の多かったアキバに、明治時代、火除けの秋葉大権現を勧請し、鎮火神社として祭ったという。当初は、"鎮火原"と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社と改名され、"秋葉原"と呼ばれるようになったそうだ。
可愛らしいメイドさんが遠州秋葉神社勧請説を事実として流布してるのか(嘆)

 俺みたいなキモ親父が反論しても意味はないわな。

これ、秋葉原電気街振興会のホームページのマンマ引き写しの「説明」なんだろうが、どうも困ったものである(笑)
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by SIGNAL-9 | 2007-08-20 11:05 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(2)
Commented by らむ at 2010-06-23 14:14 x
現在私はちょうど秋葉原の生い立ちをまとめているところでして、SIGNAL-9さんの調査をありがたく読ませていただきました。たいへん参考になります。さて、秋葉原の写真ですが、撮影が明治22年ということですね。しかし私の調べでは明治21年に日本鉄道は鎮火社と火除け明地の払い下げを受け、明治23年に秋葉原貨物取扱所を開設しています。その際神田川から短水路を引いた上で船着き場を作っていますので、明治22年の写真ならばその形跡があっても良さそうなのに、工事をしている様子が見られませんね。その辺りの時代考証についてはどのようにお考えになりますか?
Commented by signal-9 at 2010-06-28 12:13
らむさん、コメント有り難うございます。

さて、船溜りがない件ですが、http://signal9.exblog.jp/5390402/
こっちにもちょっと書いたのですが、私は明治23年11月1日の日本鉄道会社上野・秋葉原間開通のタイミングではまだ工事が完了しておらず『開業の明治23年時点ではまだ神田川から引き込んだ小さな港(舟掘り)は出来ていなかった』と考えています。

例えば明治25年5月18日の郵便報知新聞には「秋葉の原に達する掘割工事は最早や秋葉の原まで進みしが、同所に於いて昨今人骨又は鎧など種々の異物を掘り出す事しばしばあり」とあります。
運輸駅としては開業していたが、工事は続けていたということでしょう。

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe6_d04_04.html
こちらに「交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察」という論文が紹介されていますが、

>この過程で1886(明治19)年上野・秋葉原間の鉄道建設を決議し,
>1890(明治23)年にこれを完成し秋葉原貨物駅の営業を開始している.
>この秋葉原駅は,東京市内での貨物取扱いを目的として,神田川に沿い,
>昌平橋と和泉橋間にある佐久間町河岸を利用し,鉄道と舟運との連絡を
>はかるものであった.したがって,秋葉原駅には上屋付貨物積卸場・貸倉
>庫等を設備し,1891(明治24)年からは東西約120m,南北約50mの船溜りを
>設け,掘割をもって神田川に通ずる工事を行い,1893(明治26)年より使
>用を開始した13).

つまり、掘割工事は、駅ができてから本格的な工事がスタートし、翌々々年に運用開始、と見るのが妥当かと思います。


この写真が明治22年・田中武によるものという明確な証拠は未だないようですが、バルトン説よりは説得力がある、というのは本文にも書いたとおりです。
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