人気ブログランキング | 話題のタグを見る

まぼろしの銀座線”万世橋駅”

 名所旧跡があるわけでもない、こういう場所でカメラを構えていると、通行人の怪訝な視線を受けることが多い(笑)
まぼろしの銀座線”万世橋駅”_c0071416_10305198.jpg
 ああ、開店準備中の電気店の方の「なにコイツ」な視線が痛い(笑)

 どこだかお判りになるだろうか?
 アキバに詳しい人はわかるだろう。さよう、万世橋の交差点、石丸電気一号館の前である。

 ナニを撮りたかったかというと、ベストの素敵な店員さんの足元の、鉄製の網目である。
 この網目の横にはこういう蓋がついている。
まぼろしの銀座線”万世橋駅”_c0071416_103123.jpg

 「ずい道内消防用連結送水管送水口」。隋道というのはいうまでもなくトンネルのことだ。そう、この網目は、東京メトロ銀座線の通風孔なのである。

 地下鉄の通風孔なんて珍しくも無い。そんなものが注目されるのはマリリン・モンローのスカートを巻き上げる時くらいである…確かに。
 だが、この通風孔は単なる通風孔とはちょっと違う。

 実はここに、かつて地下鉄の駅があった、というのである。

 東京メトロ銀座線、以前は営団地下鉄銀座線であったが、そもそもは東京地下鉄道株式会社という私鉄だった。

 この銀座線設立に関しては、日本初(つまりアジア初)の地下鉄建設という偉業に相応しい、いろいろと面白いエピソードがあるのだが、逐一書いていると本が一冊書けてしまう。中村健治氏の近著『メトロ誕生-地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』(交通新聞社、2007年)を参照されたい。俺もこの銀座線の万世橋駅に関しては、この本で初めて知った。

 で、ここでは、ざっくり概況だけ。

 東京地下鉄道は当初から資金難に悩まされた。アメリカ資本導入計画も折悪しく発生した関東大震災で頓挫、結局、当初計画していた新橋ー上野間の敷設を後回しにし、上野ー浅草間での部分開業を目指し、大正14年9月末に工事を開始した。

 浅草発の銀座線に乗ったことのある人はご存知と思うが、あの路線にはちょっとした特徴がある。
 非常に浅いところを通っていることだ。

 実は当初は15メートルの深さに電車を通すということで許可を得たのだが、この資金難の折、「浅く掘れれば安く済む」という理由で1.5メートルで再申請したところ東京府のチェック漏れというラッキーで(笑)、うまく鉄道省の許可を得てしまう。
 結果、地面を掘り下げて線路を降ろした後で蓋をするという「オープンカット方式」での工事ができることになった。
 逆にいうと、この方式だと民家の下を通るというわけには行かないので、既存の道路を掘り下げて線路を埋めていくということにせざるを得ない。銀座線が大通りの真下を通っているのはこのためである。

 「営団地下鉄五十年史」(帝都交通営団、平成3年)から当時の工事の様子の写真を引用しておく。
 夜間通行止めにした道路(浅草通り)の地面を掘り下げて、今まさに線路を降ろそうとしているところだ。
まぼろしの銀座線”万世橋駅”_c0071416_10311581.jpg

 工法がいくらかラクになったとはいっても、大正当時のことである。
 今のような巨大建設機械があるわけもなく、多くの作業は人手で行わなければならない(「帝都物語」みたいに学天則のような便利ロボットが使えればよかったのにね)。
まぼろしの銀座線”万世橋駅”_c0071416_1031326.jpg

 昭和2年12月30日、アジア初の地下鉄が上野・浅草間2.2キロでの営業を開始する。
 その後も資金難や労働争議に苦しみながら、地下鉄は新橋を目指し、じわじわと掘り進むことになる。

 しかし、何もかも初めての地下鉄工事の前に、またひとつ巨大な障害が立ちはだかっていた。
 神田川である。

 何しろ川底を通さなければいけないのだ。今までのように道路を掘り進むのとはわけが違う。難工事が予想された。
 そこで東京地下鉄道は、ひとまず神田川の手前に駅を作って、そこまでの営業を行いつつ神田川を超える計画を立てたわけだ。

 ところが、この駅は立地上、特殊な条件があった。
 神田川に向かってトンネルを掘り下げていく都合上、駅自体が斜めに下がっていく場所にならざるを得なかったのである。
 この図面を見ていただきたい。東京地下鉄道株式会社『東京地下鉄道史(乾)』(昭和9年)に所載の、万世橋仮駅の図面である。
まぼろしの銀座線”万世橋駅”_c0071416_10314482.jpg

 側面図(一番上)を見てほしい。線路が左の神田川方向に向かって下っているのがお分かりだろう。
 また断面図(真ん中右)を見てのとおり、ホームが片側ひとつしかない。つまり、この前の末広町までは複線なのに、ここでは単線になってしまっているのだ。

『東京地下鉄道史』によると(読みやすさを考えて適時空白を補う)
 之が為 同所に設けた終端複線の下り線上を乗降場に供し、末廣町と萬世橋仮停留場間は上り線上を単線運転をして往復に使用し 末廣町に列車折返しの亘線を設け 浅草より上りの列車は交互に末廣町行萬世橋行の2種とし 前者は末廣町止りとし亘線によつて直に浅草に折返し 後者は其の儘萬世橋停留場迄進入し単線を逆行 末廣町停留場の亘線に依つて下り線に移るの運転組織とした。
 とまあ、一読したくらいではよくわからない複雑な運用となっている(笑)

 ホーム自体の長さも33.5メートル、車両二両分しかない
 仮停留場個所は神田川河底隧道に向け下降する2.5%勾配線内に在るので 列車運転上の安全を期し停留場部分を水平線となす為 1部分隧道構築の天井を高く造り、元設計通り 上り下り両線共軌道を敷設し 下り線上に長110尺(33.53m)の木造仮乗降場を設け 本線は敷設せる軌道上に木造仮架臺を置き 其上に更に 別に仮本線を敷設した。
 神田側の川底下に向かって線路は下り勾配である。もしも、他の駅のように列車いっぱいの長さのホームを作ると、ホームの途中を階段状にしないといけなくなってしまう。
 さらに、この先の接続のために後で使う線路を予め敷設しておき、その上に仮の木造ホームを置いた、というわけである。

 それにしてもやたら「仮」が多い(笑)。まさに仮駅というに相応しい、無理のある駅だ。
 とはいえ、資金難という背に腹は変えられない。万世橋仮停留場は昭和5年1月に開業に漕ぎ着けた(写真は工事当時の万世橋付近)。
まぼろしの銀座線”万世橋駅”_c0071416_1031562.jpg

 今の目で見ると、そうまでして運用する必要があったのか疑問に思われるかもしれない。末広町駅からほんの数百メートルの距離だ。わざわざ電車に乗らなくても…と思うのだが、秋葉原駅の近くでもあり、市電のターミナルも近くにありで、けっこうな利用客がいたようである。

 さてその一方で、神田川を越える工事は着々と進んでいた。これも詳細に見ていくといろいろ面白いのだが、ここでは写真を一枚紹介しておくことに留める。
まぼろしの銀座線”万世橋駅”_c0071416_103272.jpg

 万世橋の横に仮橋を作って工事を進めたことが判ると思う。
 仮停車場は其の設置に関しては特記すべき事項は無いが 次工区営業開始に当り駅務を1日も中断することなく開業する工事を施工した順序方法に関しては特記の価値がある。先づ仮停留場閉鎖に先立ち、第3工区構築完成し神田方面に至る上り線軌道の敷設をなす必要上、使用しつつあつた仮本線及仮架臺を撤去し、其の下部に敷設してあつた勾配本線を運転に使用する事とし、列車運転休止後 深夜之等の撤去工事及仮乗降場の柱を切り詰め乗降場位置を下げ 本線の勾配に準拠せしむる工事を数時間内にて完了し、尚低下乗降場と客溜室床との間に仮に階段を作り 停留場に到着の列車は停留場前にて一旦停車し後急勾配の乗降場に進入する事とした。
 後暫くして神田方面迄営業開始の時日が迫った際、1夜に仮乗降場を取払ひ、下り線を末廣町停車場より萬世橋に至る単線往復運転に使用し 車両と客溜室の間に小階段を付して営業を継続して 神田方面よりの下り線の軌道敷設及試運転に支障なからしめ、開業の前夜客溜室前の階段を撤去し普通複線路に復帰したのである。
…つーか、そんな面倒なことするなら最初から複線の階段ホームにしといた方がよかったんではなかろうか…というのは素人の浅はか見附なんであろーな(笑)

 銀座線万世橋仮駅は昭和5年1月に開業したが、神田駅までの工事が翌昭和6年11月に終了し、わずか1年11ヶ月の短い生命を閉じることになった。

 その入り口の後が、通風孔に改造され、今でも石丸電気の前に残っているというわけなのである。

 最終的に銀座線の駅として残った末広町・神田とも、いわゆるアキバの端と端である。
 万世橋仮停車場、その後の秋葉原の賑わいを考えると、今にして思えば銀座線にとっては惜しい駅だったかもしれない。
by SIGNAL-9 | 2007-08-10 10:43 | 秋葉原 研究(笑)
<< ついに発見!「秋葉っ原」の写真 秋葉原の時計台(京屋時計店) >>