時計台と言えば
札幌の時計台が全国的に有名だ。
どの写真を見ても同じ
「斜め左下から見上げるアングル」なのは、実際にはビルの谷間にあって、
他に撮り様がない、というのが大きな理由であるということは見に行った人は知ってると思う(笑)。
日本三大がっかり名所とクサされる所以だ。
東京にはゴジラ映画の原風景、
銀座の和光・服部時計台がある。
服部時計台の現在の建物は昭和になってから最竣工されたものだが、元々は明治二十七年の竣工だそうだ。
仲田定之助『明治商売往来』(ちくま学芸文庫)によれば、
文明開化を象徴する時計台が明治時代、都会の建物に簪のように飾られた。それは市街に美観を添えるばかりでなく、まだ懐中時計も、掛時計も一般に普及していなかった時だけに、市民に時刻を告げる重要な役割を果たしたので、宣伝媒体としても大きな効果をあげた。
このように、東京でも明治期に、多くの時計台が造られたのである。
秋葉原にも、かつて時計台があった。 今のアキバで「時計台」というと、秋葉原駅の電気街口の前にある貧乏くさい時計くらいしかない。

そもそも"時計台"というからには、ランドマークとしての役割も果たせるようなものを期待するわけである。アキバのコレはたんなる「時計」、言ってもせいぜい「時計塔」である。
ここでいってる時計台は、これとは別物である。
『新撰東京名所図会 第二百七号』(明治33年)の『神田旅籠町』の項に、秋葉原の時計台に関しての記述がある。
京屋
一丁目十三番地に在る時計商店にして屋上高く広大なる時計を据付け四面より望むことを得。世俗呼んで外神田大時計といふ。蓋し東京にて屋上に大時計を設けたるは本店を創始とするよし。時を報ずること十五分ごとにして十五分にて一ッを打つ(一ッなれど二ッに聞こゆるなり)。三十分に至れば二つを鳴らし。四十五分に至り三つ。六十分に及へは四つを鳴らしたるの後更に時刻の数を報ずるなり。本局一千二百六十四番の電話を架す。
この「外神田大時計」、京屋時計台に関しては、仲田定之助も参照している平野光雄『明治・東京時計塔記』(昭和33年)に詳しい。
明治年間、東京市民に、「外神田の大時計」と呼ばれ、「八官町の大時計」(小林本店時計塔)とならんで、東京名物の一つに数えられていたのは、当時、外神田旅籠町一丁目十三番地に在った京屋時計店本店(現在の千代田区神田旅籠町一丁目十一番地、三菱銀行秋葉原支店の敷地がその跡である)土蔵造二階建の屋上に、屹立していた時計塔のことである。とりわけ、同時計塔は、明治十四年、上野駅が開設されて以降は、上野に下車するお上りさんたちから、「文明開化」のシンボルとして瞠目されるとともに、須田町方面への格好な道しるべとしても、非常に重宝がられたという。
この時期の秋葉原周辺の地図を『新撰東京名所図会』の「現今神田区全図及其近傍」で見てみよう。

地図で見るとおり、外神田旅籠町一丁目というのは、今の神田明神通り沿い、
おでん缶の自販機で有名なチチブ電機のあるアノ一角あたりのことだ。
これは、『明治・東京時計塔記』に掲載されている、明治二十七年に京屋時計店が発行した銅版画である。

店の前に鉄道馬車の線路があり、左から右にカーブしているのが見て取れる。
この当時、鉄道馬車は旧萬世橋つまり今の昌平橋あたりから、上野広小路に抜ける御成街道に向かって伸び、ちょうどこの時計台の前で、御成街道に曲がりこんでいたわけだ。つまり今の道路で言うと、銅版画の左手前側の道が明神通り、向かって右の大通りが中央通り、と推定できる。
また、昭和33年(記事初出は21年)当時の平野の解説によれば「三菱銀行秋葉原支店の敷地」とのことなので、建て直し工事中で三菱UFJは無くなってしまっているが、まさにアキバのど真ん中、この交差点なのではないか(つまりこの銅板画は
愛三電気のビルから目線(笑))。
まあ、区画整理などの影響もあるので、厳密にココとは言い切れないが。

この京屋時計店の時計台がいつ建てられたものなのか、平野は「設置年代は詳らかではないが…明治九年春頃には、すでに建設されていたのではないか」と推定している。『名所図会』にいわく「蓋し東京にて屋上に大時計を設けたるは本店を創始とするよし」、
東京の時計台の元祖のひとつといってもいいようだ。
また平野は、その鳴り方の特徴から、内部の機械は
ウエストミンスター式、即ち英国製だったのだろうと述べている。
文字板直径七尺にも達する、かなり大型の櫓時計型時計塔であった。…その鐘の音は非常に高く、かなり遠方まで鳴り響いたそうである。
この京屋時計店本店は、大正二年ごろ、店を引き継いでいた二代目が手を出した銅山事業がコケ、川崎銀行に売却される羽目になる。
建物はかなり長い間、そのまま放置されていたらしく、後に同行の指示でとりこわされ、川崎銀行神田支店の新築工事に着手したというから、「外神田の大時計」のとりはずされたのは、多分、その折と考えられるが、正確な時日を詳にしないけれども、雑誌「うきよ」大正五年九月号雑報欄の、「唐様で売家と書く三代目とやら、神田区旅籠町一丁目の御成街道筋に高く聳えて居た、名物の大時計が売り払われて姿も見せなくなつて了つた云々」という記事は、だいたいその時期を示唆していると思う。
この時計台、現物の写真も『新撰東京名所図会』に掲載されている。

銅版画が誇張ではないことがわかる、中々に堂々とした時計台である。
残念ながら、秋葉原というのはその土地柄、明治期のモノはほとんど残っていない場所なのであるが、もしもこれが残っていたら、札幌時計台以上の名所になっていたかもしれないなぁ。