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時をかける少女

 アニメ版「時をかける少女」、数日前に地上波でやっていた。

 劇場でも観たし、DVDも持っているのだが、なんとなく観てしまった。そういや、ジプリのラピュタと魔女宅も、日テレで何回やってもなんとなく観てしまう。テレビっ子世代だからなのか(笑)。

 ところで、「時かけ」といえば、俺的にはやっぱりこれ。
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 書棚の奥底から引っ張りだしてきた、鶴書房盛光社のソフトカバー版である。この筒井康隆の原作は今でも文庫で手に入るが、一緒に引っ張り出してきたこの本はちょっと珍しいかもしれない。
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 石川透版の『続・時をかける少女』である。
 この本はどういうものか、前書きを筒井康隆自身が書いているので引用しておく。
 この「続・時をかける少女」は以前私が書いた「時をかける少女」の続編です。テレビ・ドラマになった「続・タイム・トラベラー」の原作といった方がわかりやすいかも知れません。なまけものの私にかわって、テレビ・ドラマ「タイム・トラベラー」「続・タイム・トラベラー」の脚本を書いてくださっていた石山透先生が、大変面白い物語にしてくださいました。「時をかける少女」に比べると、ずっとSF的でストーリーも複雑になり、小学校高学年から高校生までが文句なしに楽しめるジュニア小説になっています。
 もし私が書いていたとしたら、この本がでるのは一年も二年も先になっていたことでしょう。このページをかりて、石川先生へお礼を申し上げます。
 今で言うメディアミックスのさきがけみたいなもので、NHK少年ドラマシリーズで火が着いたわけだ。
 またテレビ放送中は、少年少女のみなさんから、励ましや質問のおたよりをたくさんいただきました。本当にありがとう。あまりたくさんいただいたので、びっくりして、とうとう御返事は一枚も書けませんでした。まったく申しわけないことをしたと思っています。でも、いろいろな質問の答はこの本の中にくわしく出ているはずです。
 この本を読まれたみなさん方が、ますますSF好きになってくださることを祈ります。

 昭和四十七年十二月十二日
 さよう、このNHK少年ドラマシリーズの『タイム・トラベラー』は人気があった。

 「主演の木下清クンの住所を教えて!」と問い合わせの手紙がきた、と筒井康隆がどこかでボヤいていたが(ソースは失念)、主演の島田淳子(柳ジョージの奥さんだな)と木下清のコンビは実に人気があった。
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 この『続・時をかける少女』のあとがき、『テレビ「タイム・トラベラー」のこと』をNHK青少年部ディレクター 佐藤和哉が書いている。
 私が筒井康隆さんの原作「時をかける少女」をテレビ化するという企画に出会ったのは、46年の夏の終わりでした。SFらしくない日常的なドラマの設定と、巧妙なサスペンスの構成をもったこの原作は、だれにでも親しみやすく、テレビ向けであると思いました。
 テレビ化の許可をいただくために、当時渋谷の放送センターの近くに住んでおられた筒井さんのお宅に、ある夕方伺いますと、起きたばかりらしくまだ眠そうな様子の筒井さんは、「時をかける少女」には是非可愛い少女を配役してほしいということを強調していました。
 ちなみに筒井版の『時をかける少女』では、芳山和子の容姿の描写は皆無である。俺の持っている鶴書房盛光社版の谷俊彦による秀麗な挿絵では、もちろん美少女として描かれているが、筒井自身が書いているのは登場人物に語らせる「やさしくてかわいいけど、少し母性愛過多」といった人物評程度である。

 芳山和子は筒井康隆の希望通り、島田淳子、原田知世、南野陽子、内田有紀 ・・・・・といった当代の美少女が演じてきた。

 で、アニメ版なのだが。

 ストーリ・ラインは、ほぼ原作どおりである。
 であるがゆえに、すっごく違和感を感じるキャラクタがいる。他でもない「芳山和子」である。今回、彼女は主人公のおばさんという役どころだ。

 アニメ版において暗示されているように、過去に未来人と接触していてタイムリープを経験し、その体験が人生に色濃く反映している人間が、自分の姪っ子に同じことが起きたとして、あのように超然としていられるだろうか?
 ケン・ソゴルとの関係を知りたいとか、いっそ姪っ子にタイムリープで30年前に戻ってもらって…とか考えないのか?

 今回のアニメでの芳山和子の役割は原作で言うと”福島先生”の役回りにあたる。いわゆる「解説役」、怪獣映画で言えば「博士」の役割だ。

 逆に言うとそれ以上の役割を果たしていないのである。結果、このキャラクタがなんで「芳山和子」でなきゃいけないのかの明確な理由が無い。
 原作どおり福島先生のままでも話は成立するし、原作を知らない人間にとってはこのおばさんは意味不明の謎の人物以外の何者でもなかろう。

 ファンへのウィンクのつもりなのだろうが、こういうのを楽屋落ちというのではあるまいか。

 原作至上主義的バイアスがかかりまくりであることを自覚した上で、もう少しケナしておくと(笑)、原作では例えば火事とか暴走トラックという突発的で不可避な状況がタイムリープのきっかけになるというシーンがあるのだが、アニメ版でそれに相当するのは自転車のブレーキが故障して踏み切りに突っ込むというシチュエーションである。

 どうにも説得力が無い状況ではないか。チャリンコなら足でブレーキはかかるだろうし、いざとなりゃあ転べばいいだろうに。どんなドジっ子だよ(笑)

 タイムリープの回数制限というアイディアはよい。
 だが、原作版での「ラベンダーのかおり」というギミックの効果が犠牲になっていないだろうか。
 筒井版の冒頭;
 和子は、やっと思いだして手をうった。
 「そう!あれはラベンダーのにおいよ!」
 「ラベンダー?」
 「そうです。わたし、小学生のときだったかしら? いちど母にラベンダーのにおいのする香水をかがしてもらったことがあるんです。そう、たしかに、あれと同じにおいだったわ!」
 和子はそういってから、また首をかしげた。-それだけではない…。ラベンダーのにおいには、何か、もっとほかに思い出がある…。もっとだいじな思い出が…。
 だが、和子には思い出せなかった。
 この未来の追憶という要素は、「時かけ」から切り落とすのは非常に惜しいと思うのだ。

 また原作では、記憶が消去されざるを得ないというルールが淡いながらも悲恋を生み、そこがロマンティックだったわけだが、アニメ版ではそこもすっぱり切り捨てている。

 …とまあ、このアニメ版は原作寄りであるが故に、そこんとこどーなのよ?という思いも感じるんである。

 相対評価として、出来のいいアニメであることは認める。実際、ここ数年のアニメでは、『大きなお友達』ではなくオトナの鑑賞に耐える数少ない作品のひとつだと思う。

 だからこそ、手放しで絶賛するのは、ちょっともったいない気もするのである。

 記憶消去ルールだけでも生かしておけば、少年ドラマシリーズ同様、続編が作れたかもしれないのに(笑)
by SIGNAL-9 | 2007-07-24 10:46 | 読んだり見たり
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