煉瓦の名残

 日本における煉瓦利用の歴史は、幕末から明治初頭に始まり、銀座の煉瓦街で最盛期を迎える。wikipediaの「銀座煉瓦街」の項によれば、
1872年(明治5年)2月、和田倉門付近から出火し、銀座、築地一帯を焼く大火が起こった。鉄道の起点で、東京の表玄関である新橋に近いこともあり、政府は西洋流の不燃都市の建設を目指した。同年3月には東京府によって煉瓦をもって再建するよう布告が出された。

大正時代までは残っている建物も多かった。しかし、関東大震災でほとんどの建物が倒壊、焼失し、銀座煉瓦街は完全に消滅した。
 耐火機能を期待して導入したものの、地震に対する致命的弱さが露呈して徐々に使われなくなったと。

 まあ、もっとも、これは大規模な建築での話であろう。
 まさか明治の御世からの残存ではなかっただろうが、1960~70年頃でも、都内にはまだ煉瓦敷きの街路-の残骸-があったと記憶している。漆喰やコンクリートと組み合わせたりして、化粧的な建材としては大正~昭和でもけっこう需要はあったのではないだろうか。全愛知県赤煉瓦工業協同組合のホームページによれば、昭和26年にJISで煉瓦の規格が制定されているくらいだから。

 今時は新築で煉瓦造りというのはほとんど無かろうし、建物丸ごとというのはさすがに歴史的な建造物に限られるような気がするが、都内でもまだ、あちこちで煉瓦の名残を見かける。
 これは谷中の大名時計博物館の煉瓦作りの蔵。
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 耐火性に優れた煉瓦を蔵として利用する例は全国あちこちに見られるが、都内でもたまに見かける。もっとも蔵としてそのまま使っているケースは少なかろうが。例えばこれは三組坂下あたりで見かけた煉瓦蔵だが、酒場として利用していたようだ。
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 壁材として使われているものをいくつか。
 これは荒川区の町工場で。
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 こちらは和泉町のポンプ場。「伝えたいふるさとの100話」によると関東大震災で大活躍した由緒ある建物だ。
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 根岸や本郷あたりをぶらついていると、東大の構内は別格としても、思わぬところにポツンと煉瓦塀が残っていたりしている。
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 建材としての機能面から見ると煉瓦の役割は終わって久しいだろうが、赤レンガの何となく知的な風情というのは捨てがたいものがある。
 木材やコンクリートは、時を経ると、煤ぼけてみすぼらしい感じになることが多いが、赤レンガというのはイイ感じに年老いていくところが好ましい。

 人として俺も、かくありたいと思うのだが、少々手遅れだな(笑)

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by SIGNAL-9 | 2007-07-09 11:08 | 町歩き
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