こちらは佐竹(竹町)の秋葉神社。 元々佐竹屋敷の屋敷神であったらしく、秋葉原とは無関係であろうことは既に述べた。 松が谷の秋葉神社の入り口。こちらが元鎮火神社であり秋葉原の直接の語源となった神社である。この写真だと小さすぎてわからないが、鳥居の脇に立っている英語の表記には「AKIBA SHIRNE」と表記がある。つまりくどいようだが、遠州の「アキハ」権現とは別の「アキバ」神社なのである。 秋葉原周辺で言うと他にも、秋葉原の対岸、柳森神社にも秋葉大社の小さな社がある。お稲荷様ほどでないにせよ、秋葉様が非常にポピュラーな存在だったことを伺わせる。 東京下町-今の基準での下町-にはもうひとつ、古くから有名な秋葉神社がある。 墨田区向島四丁目にある秋葉神社である。 戦災で焼失したため今の社殿は昭和41年の再建と由来書きにある。確かに社殿はま新しい感じであまり歴史は感じられないが、敷地内の石灯籠は1700年代のもので墨田区の登録文化財となっている由緒正しいものだ。 この秋葉神社は江戸時代から(秋葉社にはつきものの)紅葉の名所として知られ、安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれている。 ちなみに明治28年『改正東京全圖』には『秋ハ神社』と記されている。明治期でも観光名所だったようだ。例えば『読売新聞で読む明治』(出久根達郎 中公文庫)所載の明治43年12月8日付けの読売新聞にこんな記事がある。 八歳の少年少女駈落ちす肩揚というのは子供の着物の裄(背中の縫目から袖口)を方のところに縫い上げておくことで、『肩揚をおろす』なんていうと子供の成長を示す表現。 以下、要約しておく。 日本橋区小網町(兜町の対岸、江戸橋ジャンクションのあたり)で、今で言う寄宿舎を営んでいた松井廉氏の次女幹子ちゃん(当時八歳)と、同所に寄宿していた今井欣三郎くん(おなじく八歳)は、同じ小学校に通学し、毎日帰宅の後は自習室で一時間復習をして、その後は仲睦まじくおままごとをすることが常であったそうな。 12月6日、例によって自習室で夫婦ごっこを始めたが、毎日同じ自習室では面白くない。 話に聞いていた『新婚旅行』を思い立ち、まな板に茶碗にお箸、湯飲みに包丁に座布団などの所帯道具一式と人形や絵草子(絵本だね)玩具などを大風呂敷に包み、毛布一枚を携えて、机の上には『これから遠くに遊びに行きます。皆様によろしく』と書き置き、午後2時半ごろこっそり家出してしまった。 体より大きな風呂敷包みを欣三郎くんが引き摺り、幹子ちゃんが毛布を背負いながら、二人は仲良く語らいつつ蛎殻町停車場までたどり着いた。 幹子ちゃんはお小遣いを貯めておいた1円50銭持っていたので『電車に乗る?それとも船にする?』と花婿を誘うが、掏り取られるのが怖かったのか、花婿君『歩こうよ、歩こうよ』 午後5時ごろ、ようやく両人の姿が見えないことに気づいた松井家では、警察に通報し親戚知り合い中を探し回るが見つからない。さては人さらいにでもあったかと上を下への大騒ぎ。 そのころ幼いご両人は、なんと8キロあまりの道のりを歩いて本所(今の墨田区向島)の秋葉神社にたどり着いた。かねて用意の毛布を小山に敷いて風呂敷広げ、差し向かいでの睦言に冬の日の暮れるのも忘れるのだった(いや、読売新聞にホントにそう書いてあるんだから) 現代では国道6号線ぞいの街中だが、明治当時は葛飾郡との境。東京の外れも外れだ。ましてや冬のさなか。 気がつけば日もとっぷりと暮れ、寒いわ寂しいわ腹は減るわ。おやつにもらったパンを齧りつつ、やがて抱き合ってしくしくと泣き出すご両人。 幸い通りかかった押上在住の吉田おかよさん(31)が曳船署に通報し、ふたりは無事に保護され、午後9時に親御さんに引き渡された。 引き渡された両人はただ「すみません、すみません」と泣くばかり。 ふたりが秋葉神社にたどり着いたのは、欣三郎くんが4・5歳のころ、両親といっしょに遊びにきた事があったので思いついたとのこと。 元祖「小さな恋のメロディ」つーところか。しかし八歳とは…。明治のガキはススんでるよな(笑)。
by SIGNAL-9
| 2007-03-06 14:16
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