およそ一ヶ月に渡る秋葉原由来調査月間だったが(笑)、
もう飽きたのでここらでひとまず纏めておく。
自分で調べてみてつくづく思ったのだが、
ド素人の俺が、
その辺のチンケな図書館&書店の立ち読みで、わずか
数時間調べただけでも
「おいおい、この話おかしいんじゃねぇの?」「あ。デタラメじゃん」と思える記述が散見された。
Webページならまだしも、
市販の歴史関係の本でまで。
ここでは、そんな記述に関する俺のツッコミを纏めておく。
…とはいえ、あちこちに喧嘩を売る気もないヘタレなので、典型的な記述例を適当に要約し、個別具体的なツッコミ先は明示しないことにする。
また、詳しい議論は過去のエントリも合わせてご参照いただきたい。
秋葉神社の謎
秋葉神社の謎-些かつまらない解決?編-
秋葉原-火除地の成立と鎮火神社
秋葉原-火除け地、その後の様子は?(明治3~21年)
秋葉原-貨物取扱所【秋葉原駅】(明治23年~昭和7年)
秋葉原-表記の歴史:「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」…?
秋葉原-発音の問題1:「アキバは下町訛り」というのは本当か?
秋葉原-発音の問題2:「アキハ」がマズかったのか?
秋葉原-「田舎者の役人」はどこにいる?
もちろん、何一つ断言するほどの自信も能力もないが、いちいち「~と思う」「~じゃないかなあ」と書くのもウザいので、
断定口調で書いておく。
所詮素人が短時間調べただけのとりあえずの結果である。間違ってる可能性は大いにあるし、明日には手のひらを返すかもしれない。まかり間違って参考にしようとかコピペしようとか思ってくださった向きは、ご注意のほどを。また、きちんとした反証を教えていただければいつでも撤回する用意はある。大方の御指導を賜れれば幸いです。
- 『秋葉原には遠州の秋葉神社(秋葉権現)が勧請された』
多数のWebページ、かなり名の通った出版社の大百科事典から山田風太郎の小説まで、この趣旨の記述が成されているが、完全な誤り。
一般に言うところの”秋葉権現”とは、遠州(静岡県)秋葉山本宮秋葉神社のことである。
現在の秋葉原に設立されたのはこの「秋葉神社」ではなく、「鎮火神社」である。
- 以下の信頼性が高い文書に、鎮火神社設立の模様が詳細に記録されている。
- 江戸-東京の初期の歴史に関する基礎資料として高名な「武江年表」(東洋文庫版かちくま学芸文庫版が入手しやすい)
- 東京府/東京市の公文書が収められた「東京市史稿」(東京都内の公立図書館に所蔵多し)
- 神社の戸籍帳「神社明細」(台東区の中央図書館にある)
設立当初は「秋葉神社」という名前ではなかったことがこれらの史料により確認できる。
- 祀っている神様が違う
鎮火神社が祀ったのは火産霊大神(ホムスヒノオオカミ)水波能売神(ミズハノメノカミ)埴山比売神(ハニヤマヒメノカミ)の三神。これは上記史料及び現在の松が谷の秋葉神社の由来書きでも一致・一貫している。対して秋葉山本宮秋葉神社は火之迦具土神(あるいはいわゆる三尺坊大権現もしくは大己貴命)。火之迦具土神と火産霊大神が同一神物(笑)だとしても、「秋葉権現勧請説」では他二神は説明が付かない。
------------- 2/9 追記
『武江年表』の記述に従い大己貴命も書いたが、これは『武江年表』側の間違いくさい。とりあえず削除しておく。
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「元々江戸城の紅葉山に勧請されていた秋葉権現を勧請した」という説もあるが、仮にそうだったとしても、それを「遠州の秋葉権現が勧請された」と表現するのは飛躍しすぎ。
- 国家神道・廃仏毀釈の流れという時代背景を考えてみても、明治3年の時点で東京府が神祇官に依頼して秋葉山本宮秋葉神社から勧請することは考えにくい。
『東京市史稿』には、神祇官と東京府でやり取りされた公文書が収録されているが、遠州秋葉権現の話はビタ一文出ていない。
本来別の神社である鎮火神社を、庶民が「ゴホンといえば龍角散、火伏せといえば秋葉神社」的誤解をし、その名前で呼んだという解釈が妥当であり、武江年表にもその旨の記述が存在する(東洋文庫版から現代語に超訳)。 世間では、当社(鎮火神社)が「鎮火社」と命名されたので、細かいことを考えず「遠州秋葉山の神を勧請したんだな」と早合点し、「秋葉山権現」と唱えてお参りする奴も多い。
秋葉山のお祭りしてる神さまは大己貴命で(以前から三尺坊を合わせて祭ったいわゆる「神仏習合」状態だったが、この頃三尺坊は移転されたので、いわゆる神社にはなったのだが)、鎮火社とは祭ってる神様は別神28号である。
だが、世間につられて勘違いしてる奴も多いのでここに特に書いておく。上野の両大師に参拝して、実際には良源と天海を祀ってるのに「大師と言えば弘法大師」と思い込んで「南無大師遍照金剛」なんて唱えちゃうのもこのタグイである。
明治9年『明治東京全図の内第五大區図』では既に鎮火神社が「秋葉社」と記載されており、この「誤解」はかなり早い段階から始まっていたことを伺わせる。
明治20年発行の『東京5千分の1』には『字秋葉ノ原』と地名表記がなされている。字表記なところを見ると「秋葉ノ原」は地名として準公的に通用していたらしい。
明治33年『新撰東京名所図会 神田区之部』の『神田花岡町 秋葉の原』の項には、『之を好機として其の跡を火除地となし、始て鎭火社即ち秋葉神社を建つ。是れ秋葉の原の名ある所以なり』とある。明治晩期には完全に「秋葉神社」として定着してしまったようだ。
昭和5年に、鎮火神社が"通名"を採用し秋葉神社と正式に改名したことで、現在にまで影響を及ぼす誤解の輪を広げたことは否めない。
この辺の経緯を知るのに、書店で入手しやすく読みやすいものとして中公文庫の三田村鳶魚『江戸の旧跡江戸の災害』所載『秋葉ばら』を推奨する。(『江戸の実話』(昭11)近デジ・オンライン版)この本にもっと早く会えていたら、俺もこんなに右往左往迷わなかった(笑)
- 『秋葉の原にあった秋葉神社は明治22年に佐竹の秋葉神社に移転した』
誤りである可能性が極めて高い。
ある地名辞典にこの趣旨の記述があったが、誤伝であると思われる。- 佐竹(竹町)に現存する秋葉神社と鎮火神社(松が谷の秋葉神社)では祀っている神様が異なる(1-b参照)。
- 公文書等の記録(土地の買取など移転資料)から見ても鎮火神社の移転先は(現在の)松が谷である。
- この説が成立しうるのは、鎮火神社とは別の「秋葉神社」が秋葉の原に存在した場合だが、可能性は低い。
- 『鎮火神社は英照皇太后に思召を以て、明治天皇の下命で設立された』
後付けである可能性が高い。
設立当初の記録には上記に相当するような経緯の記述が見当たらない。
「東京市史稿」には、火除け地設置の必要性の実務的・実際的な理由(度々の出火、消防困難、西北の季節風での延焼など)が挙げられており、皇室の直截的関与を伺わせる上意下達的な記述はない。
ただし、設置作業を神祇官に依頼して行ったということは事実であり、極めて広い意味でなら明治天皇の下命と言えるかもしれない。
- 『鎮火社は明治21年に移転し、跡地が国鉄に払い下げられた』
デタラメ。明治21年に国鉄は存在しない。
秋葉原貨物取扱所を作った日本鉄道会社は後に国有化されるが、この時点では国策会社とはいえ私鉄である。
ついでに言っておくと、鉄道省という役所も明治には未だ存在していない。
明治21~22年頃の、鎮火神社移転-秋葉原駅設立のエピソードで、国鉄だの鉄道省だの記述している文章は、ちゃんと調べないで書いていると疑った方がよかろう(笑) デタラメを平気で書いている新聞記事もあるのでご注意を。
- 『秋葉原は下町訛りで<あきばっぱら><あきばがはら>と呼ばれた』
不正確。
「アキバハラ・アキハバラ」問題と呼称したいくらいポピュラーな疑問であり、Web上では「アキバ」説が優勢のようだが、少なくとも排他的・断定的に述べられるほど根拠はない。
反証として「あきはっぱら」や「あきはがはら」と濁らず発音されていたと思しき事例も確認できる。多様な読み方が確認できる以上、「下町訛りで秋葉は必ずアキバと発音された」的な表現は妥当ではない。
- 『下町ではアキバと発音していたので、永井荷風らはアキハバラという呼び方を批判した』
文脈として疑わしい(=(理由-結果の論理がヘン)
前項のとおり、「下町訛りで秋葉はアキバ」という予断は、疑える余地が十分にある。
私見だが(ってこの文章全部私見なんだが)、荷風らの「アキハバラ」に対する違和感の根本原因は、「原」を「バラ」と、東京近辺では耳慣れない読み方をしたためという可能性もある。
- 『鎮火神社が秋葉神社と改められると、「秋葉原」と呼ばれるようになった』
誤り。少なくとも経緯の説明としては不正確。
- 鎮火神社の公式な名称変更は昭和5年。秋葉原にいた期間に名称が「改められた」ことはない。
その意味では、「秋葉の原」に公式に「秋葉神社」が存在していたことは<無い>。
- 一方「秋葉原」という表記は最低でも明治19年-鎮火神社はまだ秋葉の原にあった-まで遡って使用されていたことが新聞記事などで確認できる。
鎮火神社が明治3年の設立からさほど間を置かず「秋葉神社」と俗称された証拠はあるので(『武江年表』、明治9年発行『明治東京全図の内第五大區図』など)、その意味でなら間違いとまではいえないが。
- 『"秋葉原"という表記は秋葉原駅が誕生してから使うようになった』
誤り。
前項のように駅成立以前に「秋葉原」表記を使用していた例がある。
ただし、実際に何と読まれていたかは不明。"秋葉原"という表記に「アキハノ(ハラ)」というフリガナを振っている例もある。
表記(どう書いたか)と発音(実際にどう読まれたか)をごっちゃにして論述することには注意が必要である。
- 『(本来アキバハラであった)秋葉原をアキハバラと名づけたのは田舎者の鉄道省の役人であり、神田っ子は抗議運動をした』
かなり怪しい。
- 「アキハバラ」という読みに不満・違和感を持った人々がいたことは事実だが、一部で記述されているような「神田っ子の猛烈な抗議」・「反対」・「地元住民の運動」などの表現から受ける印象を裏付けるような新聞記事や公的記録の類は見つからない。
- 現在流布しているこの「伝説」の中には、年代不明・一次史料不明なものや基礎的事実の錯誤(明治23年には存在しない鉄道省の役人の行為としている、など)が含まれているものが多く、信頼性に欠ける。単なる「伝聞・言い伝え」としか思えない。
「文句」をいっていた人が継続的にいたのは事実だろうし、もしかしたら苦情を寄せたりした人もいたかもしれないが、「抗議運動」とまで評するのは誇張ではないか。
以上、これが現時点での俺的見解である。
秋葉原に関しては青果市場やら闇市やらの歴史もおもしろそうだし、俺的には70~80年代の方が実体験を踏まえてイロイロ話せることもあるのだが(話せないことの方が多いが^^;)、その辺はまた気が向いたら。