秋葉原-「田舎者の役人」はどこにいる?

 「アキハバラ」という読み方は関しては、
wikipediaの秋葉原駅の項

駅名としての秋葉原の読みは「あきはばら」である。これは、上記地名の読み方がわからない鉄道官僚が、誤って読み仮名をつけたことによる。地元住民を中心に駅開業後も「あきばがはら」と呼ぶ人はいたが、次第にこの本来の読み方が「俗称」と位置付けられるようになった。日本鉄道も鉄道省も、駅名を本来の読み方に改めてほしいとする地元住民の運動を聞き入れることはなかった。
という話がある。
 アキハバラの語源について語っている本やWebページにはよくこの話が出てくる。

 疑問なのは、この話が何時の時代のことなのか? ということである。

 この話の基点となっているのは「駅の命名」であるが、「秋葉原駅」には三つの大きなエポックがある。
 明治23年(1890):貨物取扱所として開業
 大正14年(1925):旅客業務開始
 昭和 7年(1932):乗継駅化

 例えば東京新聞の記事では
火除地には九〇(明治二十三)年、私鉄日本鉄道が貨物駅を設置。「秋葉原駅」と名付けられ、読み方が「あきはばら」になった。地方出身の鉄道省の役人が反対を押し切って決めたといわれ、神田の江戸っ子たちに大変不評だったという
明らかに、明治23年の貨物取扱所時点、という記述である。

 ところが、昭和7年という主張もあるのだ。
 東京港湾事務所 TOKYO PORTAL SIGHT VOL.13:特集 地名でわかる歴史地図では、
 ところが、昭和7(1932)年、山手線と連絡できる秋葉原駅が開業。鉄道省はなぜか駅名を「アキハバラ」としてしまった。神田っ子たちは「アキバノハラ」を主張したが、主張は通らず現在に至っている。
Webページ 台東区の地名の由来
昭和7年総武線を延長して両国駅と御茶ノ水駅が結ばれた時、乗換駅として普通駅が誕生したのだが、地方出身の鉄道省の役人はその間の事情を知らないから字面だけで「あきはばら」と訓じて命名した。神田っ子は猛烈に抗議したが、権力を笠に着て威張り散らす役人は、自己の誤りを認めないばかりか頑として譲らず、「我々が決めたことが正しく地元の都合など考慮しない」と突っぱねたというお粗末。
 明治と昭和、時代がぜんぜん違うのに、「鉄道省の役人」が「反対を押し切って」勝手に決めて「神田っ子たち」が抗議、というストーリーは同じである。

 両説にはそれぞれに疑問がある。

■「明治23年説」の問題

 明治23年に、秋葉原駅(秋葉原貨物取扱所)のひらがな駅名が「あきはばら」と登録されていることは、官報を基礎資料とした『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』(JTBパブリッシング )などで確認できる。計画段階では「アキハノハラ」などの候補もあったようだが、秋葉原駅は明治23年時点、開業当初から「あきはばら」であったことは確かなようだ。

-------- 2008年2月6日訂正

yasuoka の日記 アキハノハラかアキハバラか (2008 年 01 月 28 日)及びyasuoka の日記 アキハノハラかアキワノハラか (2008 年 02 月 05 日)の御論考によれば、ローマ字読みでAKIHANOHARA・もしくはAKIWANOHARAという表記が確認できるそうだ。

設立当初の読み方は「秋葉原」駅と書いて「あきはばら」ではなく「あきはのはら」駅だった、という可能性が高い-少なくとも「一般的な読み方」としては-、ということだと思う。

ゆえに上の一文「秋葉原駅は明治23年時点、開業当初から「あきはばら」であった」は削除して訂正させていただく。

ただ、幸いな事に、「アキバ」説に対する反証のひとつとなることなので、以下の自説は変わらない(^^;)
-------- 2008年2月6日訂正

だが;

  1. 一般の乗客が使うわけでもない、たかが貨物駅の名前の発音がアキハバラかアキバハラかなんて事、そんなに問題になるものだろうか?

     確かに秋葉原貨物取扱所は、地平鉄道問題の悪評、後には物流の一大拠点としては知られていたようだ。だが、テレビやラジオなどの音声マスメディアがあった時代ではない。前にも言ったが「秋葉原」という表記自体は「アキハハラ」とも「アキバハラ」とも無理なく読めるわけだから、音読されるかフリガナが振られて初めて「ヘン」だと認識できるのである。
     大正時代にいたっても、新聞などでは「秋葉ケ原停車場」のような本来の駅名とは違う表記が普通に使われているのだから、貨物駅時代に一般人の「アキハバラ」という駅名の「読み方」の認知度がさほど高かったとも思えない。

     前に引用した永井荷風のイヤミが大正15年のものであることに注意されたい。明治23年前後の時点で、問題視されるほど「アキハバラ」という駅名が一般に認知されていたとしたら、遥か後年の大正15年に、わざわざ『秋葉ケ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり』などと書くだろうか?
     その他の「アキハバラ」批判をみても、三田村鳶魚の随筆は昭和5年、山本笑月は昭和11年、笹川臨風のは昭和21年と、いずれもかなり後年の、旅客駅となって「アキハバラ」という駅名が一般化していたと考えられる時点のものである。

  2. 東京新聞の記事では「鉄道省の役人」という記述をしているが、明治23年には鉄道省という役所は存在していないのである。

    鉄道省が出来たのは30年も後の大正9年。明治23年は未だ内閣鉄道寮(鉄道局)か内務省鉄道庁の時代だ。根本的に「ちゃんと調べてんのか?」という疑問がわく。

     仮に鉄道局か鉄道庁の誤りと好意的に解釈したとしても、国策会社とはいえ"私鉄"であった日本鉄道会社の駅名を「役人」が「反対を押し切って決めた」、という主張には違和感がある。

  3. さらに違和感を感じるのは、以前書いたとおり、開業当時には「地平鉄道」問題で政府・区議会を巻き込んだ大バトルが繰り広げられていたという事実があることである。

     建設中の路線を廃止しろ・しないで大紛糾してる時に「駅名がアキバハラでないのはおかしい!」なんて言い出す奴がいるだろうか?「空気読め」といわれるのがオチなんではあるまいか。
 念のため、明治21年から明治24年の『明治ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ)を参照してみた。この地平鉄道廃止問題に関する記事はもちろんあるが、駅名に対する抗議運動らしきものがあったような記述は見つからなかった。
 アキハバラ駅開業から10年たった明治33年発刊の『新撰東京名所図会 神田区之部』には『日本鐵道會社秋葉原貨物取扱所』の項があり、駅の由来から運賃、取り扱い運送屋の電話番号に至るまで詳細に紹介されている。ここにも地平鉄道廃止問題に関する記述はあるが、駅名をめぐってモメたような話は一切書かれていないのである。

■「昭和7年説」の問題

 昭和7年説は、貨物駅ではなく一般人が使うようになって問題が顕在化した、と考えれば明治23年説より無理は無い。
 だが、秋葉原駅が旅客駅としての機能を持ったのは大正14年なのである。
 6年も前から駅名は変わらず「秋葉原駅」だったわけで、一般人の目にも触れていたはずだ。例えば荷風の批判は大正15年のものである。
 乗り継ぎ駅化したとたんに問題が顕在化し、抗議運動に火がついたのか? という疑問が湧く。
 『昭和ニュース事典』から当時の新聞記事を見てみよう。
御茶の水ー両国間の開通祝賀会 (昭和7年7月1日 東京朝日夕刊)

 七月一日開業のお茶の水・両国間高架線の開通祝賀会は、三十日午前十時から秋葉原駅三階ホームで行われた。同駅を始めお茶の水、浅草橋、両国の各駅はいろとりどりの小旗に飾られ、脚無鉄橋には「祝開通」の大文字をはりつけ、更に沿線民家には紅白の幕を張り回してお祝い気分横溢。久保田次官を初め本省各局課長、改良事務所員、東鉄職員等多数が、五十尺の新ホームにニコライ堂と国技館を見下ろしながら、ビールとサンドウィッチに完成の喜びを見せていた。試乗電車は特に五輌を連結して、東京の屋根の上をゴウゴウと行ったり来たり。新井東鉄局長など、珍しがる貴衆両議員を相手に大得意であった。
中央線と総武線を結ぶ新動脈(昭和7年7月2日 中央商業夕刊)

 帝都の新動脈、中央線お茶ノ水と総武線両国との連絡線は一日、賑やかに開業した。午前四時二十五分お茶ノ水発、両国駅発は、同四時二十四分で双方から運転の封切りをした。この一番乗りを目ざして徹夜で駅前に立て籠った熱心家もいたが、新駅浅草橋のナンバーワンは横浜市中区本牧の中山さんであった。午前十時までに秋葉原乗降六千二百名。うち見物半分でエスカレーターを使用したもの約一千名であった。
(中略)
 早朝から秋葉原駅構内で設けられた開通祝賀会の煙火(はなび)のとどろく中を、乗客はぞろぞろと繰り込む賑わいを呈した。
 お祭り騒ぎである。

 紅白幕まで張り巡らせて協力した住民が、「やっぱり駅名が気に入らないからアキバハラに変えろ」なんて反対やら抗議やらするものだろうか?
 前述のごとく昭和7年の時点では秋葉原駅はとっくに旅客運転を始めていて、総武線開通で乗換駅化しただけなのである。新駅である隣の浅草橋ならいざしらず、いまさら駅名がどうこう言うタイミングであろうか? 神戸大学新聞記事文庫でも、大正期には多い「秋葉ケ原」表記が昭和期に入るとまったく見つからないことを考えても、既に「アキハバラ」は定着していたとみるべきではないか。

■「大正14年説」

 明確に主張しているページは見当たらなかったが、消去法でいくと、シナリオとしては大正14年頃というのがいちばん納得できるのである。
 貨物駅当時は知名度も低く問題ではなかったが、一般客が使うようになり駅名の周知が進む。で、「おいおい、アキハバラじゃなくてアキバハラだろうが」「でも、明治23年から使ってる駅名なんだし今更言われても」みたいな。

 明治39年に日本鉄道会社は国有化されているし、鉄道省もちゃんとある。これで「鉄道省の役人」もばっちりだ。大正末~昭和初頭の荷風・鳶魚・臨風らの批判も年代的にしっくり収まる。

 つまり、明治23年説や昭和7年説に比べると無理がないのだ。

 だが、困ったことに神戸大学新聞記事文庫『大正ニュース事典』の大正14年前後の新聞記事には、上野からの高架化に伴う沿線の用地買収でモメたらしき記事はあるが、「駅名の抗議運動」らしき記事は見当たらないのである。
 また、荷風・鳶魚・臨風らの批判は、確かに年代的にはしっくりくるのだが、その中に「抗議運動」らしき事に関する記述が一切ないのも妙な話だ。大正14年~昭和初頭に「駅名を本来の読み方に改めてほしいとする地元住民の運動」だの「猛烈に抗議」だのがあれば、誰か(特に鳶魚)触れていてもよさそうなものだが。


 柳田国男『水海道古称』(昭和26年)に以下のような記述がある。
 東京市中の駅名のアキハバラなども、鉄道でそういうから誰も争わないが、明治初年に始めてこの地名の出来たときは、アキバガハラだった。
 『鉄道でそういうから誰も争わないが』。
 これをどう考えるべきか。柳田国男が単に、駅名でモメたことを知らなかっただけなのだろうか?

 様々なWebページや出版物に「アキハバラという駅名は田舎者の役人が地元の抗議・反対を押し切って勝手に決めた」という趣旨のトリビアが書いてある。

 書いてはあるが、その「秋葉原駅」というのは、明治23年の貨物駅なのか、大正・昭和になってからの旅客駅なのか、いったい「いつ」の「秋葉原駅」なのか書いていないものも多い。-書いてる人は、いったい何時ののつもりなのだろう?

 年代を特定しているWebページ・文献でも、俺が目を通せた範囲では、この「鉄道省の田舎者の役人」→「抗議」の経緯がそもそもどんな史料に書いてあることなのか、情報の元が書いていないものばかりなのである。
 『地方出身の鉄道省の役人が反対を押し切って決めたといわれ、神田の江戸っ子たちに大変不評だったという…だから、そう「いってる」のは誰やちゅーねん。
 出所不明の伝聞で新聞記事なんか書かれても困るんだが(笑)。

 結局、素人の俺にはこの「反対」だの「抗議」だのを示す史料を見つけることができなかった。
 年代あいまい、関係者の名前もなし、情報源も不明では、いったい何を手がかりに調べたらいいのかさっぱりわからない。こちらのページで紹介されている高田馬場問題のように『戸塚町誌』といった具体的な資料名があると検証もできるのだが。

 要するにこの話、すごくアヤシいのだ。

 実を申さば現時点では、そもそも本当にそんな「反対」運動や「抗議」があったのか? もしかしたらこの「ストーリー」は『友達の友達が言ってたこと』レベルの話が針小棒大に膨らまされてるんではないか…と少々疑っている。

 「アキハバラ」という駅名に文句がある人々がいたのは事実だ。それは荷風や臨風みたいなハードコアな証拠があるのだから間違いない。地元住民の中にだって文句を言ってた人はいただろう。今だって文句言ってる人がいるのだから(笑)。
 ちなみに、昭和7年説には上で疑義を呈しておいたが、 昭和8年発行の『大東京写真案内』では、”アキバハラ”という表記になっている。これは観光案内の類の書籍なので、「駅の正式名称」のままなのかどうかは今のところ判断できないが、後年まで”アキバハラ”派の人がいたであろうことは類推できる。

 だが、「神田っ子の猛烈な抗議」だの「反対を押し切って」だのという衝突が本当にあったのか?
 「アキハバラ」と誤読した「田舎者の役人」、「反対を押し切った」り「突っぱねた」りした「役人」というのは本当に存在するのだろうか

 「田舎者の誤読」というが、もともとの読み方も「アキバガハラ」ひとつだったとは思えないということは前回・前々回述べてきたとおりである。
 「抗議」したという「神田っ子」たちは、いったいなんと変えろと主張したのか?
 この説を紹介している書籍・Webページからして、「あるべき駅名」は「アキバノハラ」だったり「アキバガハラ」だったり、一定していないのである。

 この経緯に関する信頼に足る史料が存在するのなら、何故年代すら一致しない曖昧な「説」が並列しているのか? もしかしたら史料そのものが存在せず、『知り合いの爺さんが言ってたけど』的な単なる伝聞しかないのではないか…? もっと言ってしまうと、荷風らが「田舎漢」と批判したことや、地平鉄道に纏わる現実の抗議運動、高架化の時の土地買収での係争などが、いつの間にやら曲解と拡大解釈へ経て「物語化」したんではないのか、という気さえしているのである。

 根拠が薄弱なものであるのなら、「庶民の意思を踏みにじる田舎者の役人の横暴」という耳に快い物語として歴史を語るのは、公平なこととは思えない。

 ということで、この経緯-特に住民の反対「運動」-の原資料、ご存知の方は是非教えて欲しい。いや、マジで。

 確認できればすぐにでも自説を撤回する用意はある。
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by SIGNAL-9 | 2007-02-07 10:40 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(1)
Commented by 安岡孝一 at 2008-02-06 17:58 x
リンク、どうもありがとうございます。で、私もここを読みながら、「昭和7年説」の部分で、『唐沢俊一の雑学王』にそのネタがあったのを思い出しました。http://slashdot.jp/~yasuoka/journal/429935 に書いてみましたので、よければごらん下さい。
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