秋葉原-貨物取扱所【秋葉原駅】(明治23年~昭和7年)

 明治19年のチャリネ曲馬団の興行から数年後、庶民の行楽地だった「秋葉の原」は東京府から日本鉄道会社に払い下げられ、明治23年、上野から、秋葉の原跡地に建設された貨物駅まで貨物鉄道が引かれる事になる。
 秋葉原駅の誕生である。

 こと鉄道関係は鉄ヲタエキスパートの方が多数いらっしゃるので滅多な事は書けないし、書くつもりもない(笑)。
 だが、今回自分で調べてみたら、今まで目を通した「秋葉原の名前の由来」では読んだ事がなかった大騒動が起きていたことを知ったので、記しておきたい。


■経緯

  • 明治20年11月17日 上野・神田佐久間町河岸間貨物鉄道敷設認可
  • 明治21年 6月 7日 上野・佐久間河岸間鉄道敷地買上価額決定
  • 明治21年 7月11日 鎮火神社移転地所買上
  • 明治22年 5月17日 上野・佐久間河岸間鉄道敷地買上価額更正
  • 明治23年 1月28日 上野・佐久間町河岸間地平鉄道廃止ノ建議
  • 明治23年 5月24日 廃線訴訟裁判開始
  • 明治23年11月 1日 日本鉄道会社上野・秋葉原間開通
■どんな駅だったのか

 東京市史稿 市街80-560『日本鉄道会社上野・秋葉原間開通』(明治23年11月1日)に当時の『時事新報』の記事が記録されている。
 秋葉停車場は同所(引用者註:神田秋葉ノ原)の中央より少しく西の方に設け、往復二線を挟み数十間の荷物積込場二棟を建築し、場の南端は神田川に面し、此に運搬口二箇所を開き、門を入りし左手には同社運輸課の事務室一棟、又北隅には内国通運会社を始め府下各運送業者の荷物倉庫二棟をい、ろの二号に別ち建設せり。棟行各三四十間、其他運送問屋の事務所あり、人夫小屋及び運送馬車、荷車置場等の配列は都て運搬の便に意を注ぎたるものの如し。
 内国通運会社というのは今の日本通運の前身の国策会社。
開業の明治23年時点ではまだ神田川から引き込んだ小さな港(舟掘り)は出来ていなかったようだ。

 この時代なら駅舎の写真くらい残っていてもよさそうだが、俺には見つけられなかった。
 その手の資料は鉄ちゃん鉄道に通暁している人に譲る。

 かなり後年のものと思われるが、『神田市場史 上巻』(神田市場協会 昭和43年)口絵より、「震災以前の秋葉原貨物駅」とキャプションされた写真を引用しておく。これがここで言ってる秋葉原貨物取扱所と同じ駅舎なのかは不明だが、「震災以前」というキャプションを信じるなら、旅客営業の前の写真ということになる。
c0071416_9394636.jpg
尚、この写真、まったく同一のものが大正14年のものとして紹介されている事もあるらしい。大正14年だと旅客駅になった後の駅舎ということも考えられる。確かに貨物駅にしちゃあ立派で新しいようにも見えるよなぁ。
いったいどれを信じたらいいのやら(笑)。

千代田区立和泉小学校のページでは、かなり初期のものと思しき秋葉原貨物駅の写真が紹介されている(同写真提供の「レオ マカラズヤ」とは神保町の鞄屋さんであるようだ)。

---------------------------- 2/5 追記 -----------------------
「震災前」という記述は間違いである可能性が高い。
『写真集山手線』(立風書房 昭和55年)に同じ写真が掲載されているが、こちらによると「大正14年頃」というキャプションである。よくよく見てみると、左上の方に見えるのは高架のホームのようだ。だとすると、神田ー上野間の高架線開通が大正14年11月1日であるから、その時分の写真ということであろう。
 この写真集には戦前の秋葉原山手線ホームや昭和初期の秋葉原駅内部、高架線の工事の模様など珍しい写真が掲載されている。

また、明治32~33年『新撰東京名所図会 神田区之部』の中に、 和泉小学校のページで紹介されている写真と同じものが掲載されている。
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■秋葉原貨物線の大問題:地平鉄道

 『市街80-560』に記録されている『時事新報』の記事は、いきなり『苦情多かりし彼の上野・秋葉間の鉄道線路工事』と書き出している。
 何がそんなに苦情が多かったのだろう。
 十三箇所踏切の内道路狭隘にして最も危険の場所なる山下及び神田花田町には特に番人三名を置きて運搬汽車通行の際は一々綱を張る事になし、又仲徒町一二三四丁目忍川通り里俗青石横町提灯店の間には木戸を設け、番人二名を置き、其他の場所には一名宛見張りを置く事に定めたりと。
上野迄凡一哩余を十分間の速力にて行進せり。尤も昨日は此一回限なるが、本日よりは日々六回として左の如き定時往復をなすと云ふ。

(ダイヤは省略)
 上野・秋葉原間10分間? 1.2マイル≒1.9キロほどの距離で? 山手線だと御徒町に停まっても4・5分、のんびり歩いてもせいぜい20分くらいじゃないか。時速12キロってのはいくら岡蒸気でもちと遅すぎないか?
僅に一哩程の行進時間に於て十分を消するは甚しき遅行なれども、右は兼て本線の布設工事に就ては苦情の百出したる暁なるがゆえに、注意に注意を重ねて斯く行進時間を緩慢ならしめたるもののよし。猶ほ又線路に当る十三箇所の横切往来には充分なる警戒をなせりとぞ
 街中を走らせたため、危なすぎると苦情百出だったんで、踏切に番人や見張りを置き、わざとゆっくり走らせる、と。
 う~む。確かに、街中に後付で蒸気機関車走らせりゃあ、そういう事になるだろうなぁ。

 実は、計画の当初からこの点は指摘されていたのである。

 市街73-001『上野・神田佐久間町河岸間貨物鉄道敷設認可』の中でも、再三『一般に不便の害を蒙るべき懸念』だの『公衆の安全を妨害する懸念』だの「鉄道なんかよりウチが答申している運河の拡張事業の方がいいってば」だの、内務省や農商課から横槍が入っている様子が記録されている。

 結局、規模縮小などの修正を加えた上で認可はされ、工事が始まったが、なんと開通前から廃止が審議されちゃってるのだ(笑)
「上野・佐久間町河岸間地平鉄道廃止ノ建議」(市街78-896 明治23年1月28日、資料として掲載されている東京日日新聞の記事)

 明治23年1月28日、下谷区会より東京府知事に対し、上野・神田佐久間町河岸の間に建設中の日本鉄道会社貨物線は地平鉄道なるを以って在来道路を切断し交通上の一大障害となるのみならず、火災予防上憂慮すべき点少なからずとし、該線路を廃止せられたしとの建議をなす。
 これより該線路廃止の運動盛んとなり工事一時中断の姿となりたるも、五月に至り閣議は、将来市区改正設計に議定しある新橋・上野間の高架鉄道着工に及んでその一部分たる同社地平鉄道も又高架に改たむることを条件として工事の再開を認む。
 地平鉄道とは高架でも地下でもなく普通の地べたを走ってる鉄道のこと。
上野 秋葉原間鉄道に地元住民反対(明治23年2月23日 時事)

上野、秋葉原間の鉄道に就いては、下谷区に於いて、このほどよりしきりにその布設を危険なりとし、これが苦情を訴うるもの少なからず。現に下谷区会のごときはその決議を以って、該布設を変じ運河を開鑿せしむる事に改めたしとの建議を、その筋に提出せしが、なおまた同区の公民も前同様の意見にて、去る十七日、区会の議事堂に於いて会議を開きたる末、鈴木信仁、宮木経吉両氏外三名を総代に撰定して、これに建言書の起草をも委托し、その筋に建議する事に決定し、
 下谷区会(今で言う区議会)が、「街中横切って交通の邪魔だし、機関車の火の粉で火事になったらどうするんだ! 鉄道なんか廃止して運河を作れ!」という決議を出したのである。
 防火の神様に由来する名前を持つ駅を作ろうって時に、火事を心配されるとは(笑)

 で、とうとう裁判沙汰
廃線訴訟の審査開かれる(明治23年5月25日 毎日)

上野、秋葉原間地平鉄道廃止勧解願の件は、昨二十四日を以って、京橋区治安裁判所に於いて初対審の開廷あり。(中略)願い人は、上野、秋葉原間に地平鉄道を敷設することは、不利と危険と営業上の妨害ある理由を詳申したるに掛り、判事曰く。本件は新聞紙上に於いても、しばしば記載あるを散見したれば、理由ある所は疾く承知せり。
(中略)
元来、被願人に於いては、たとい政府の許可ありたるにもせよ、下谷区三千六百有余人有志者等より、廃鉄道の請願書を差し出し居り、かつ区会市会等の決議の趣きをも知りながら、断わりなく工事に取り掛かる等のことは、穏やかならずと説諭ありて、(後略)
 工事は一時中断の憂き目にあう。結局、将来的に高架にすることを約束して工事再開。

 そんな非難ゴウゴウの紆余曲折の中、ようやく開業したが冒頭のザマだった…というわけである。
--------------------------------- 2/5 追記 ----------------------------
 明治32~33年『新撰東京名所図会 神田区之部』『日本鐵道會社秋葉原貨物取扱所』によると
 而して其列車の進行速度は殆んど人歩するが如く極めて緩慢とす。当初區民の苦情多きより、同社技師長毛利重輔及び取扱所々長村上彰一氏等の如きは、其緩なることを示さんか為め汽罐車の前面に歩行せしことなどありしといふ
カイワレ大根だの鶏肉だの喰ってみせるみたいなものか。
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 もっとも、開業後しばらく立ってからは好意的な記事も出てきたようだ。
荷主も会社も利益大きい(明治24年4月19日 朝野)

上野、秋葉原間鉄道開通後の結果 開通の際、一時非常に世間の攻撃を蒙りたる同鉄道は、その後すこぶる好結果を呈し、(中略)従来牛馬の力を借りて運搬し、高価なる賃銭を払いたるものをば、神田河岸より舟に積み替え、直ちに本所、深川等へ転漕するを得る都合にて、荷主の利益一方ならず。(中略)元来、同会社が割合に多額の費用を投じ、興論攻撃の焦点となるを顧みず、断然開通の運びに至りたるは、その実会社の利益を図らんがためにあらずして、またただ荷主の便益に注意したるまでなりといえり。

 なんだかチョウチン記事くせぇなあ(笑)。

 まあ、根本的に無理のある路線であったことは間違いない。
東京上野高架決定 電車開通十一年初 蒸汽線は十五年中 時事新報 1919.10.22(大正8)によると
 秋葉原貨物停車場は高架線の貫通する処となるを以て現在の状態を維持し難く又現在の秋葉原線は市の道路を平面交叉し交通上の不便及危険測り難きものあり
 従て同停留場設備の変更は勿論同線路も之れを高架とするの要あるは論を俟たず
 又同停留場は若し将来貨物の増加を慮り今日よりも大規模の高架式貨物設備を設けんとせば巨費を要するのみならず敷地買収の為附近関係住民の迷惑多大なるべし
 然りとて同駅は古き歴史を有し且つ市民の物資集散上必要欠くべからさざる貨物駅なるを以て到底全廃するを得ず
 仍て構造は高架式とするも多大の面積を要せずして比較的貨物取扱能力を著しく発揮し得べき設備を施す様考慮を廻らしたり
 斯くの如くするも猶艀取貨物の大部分と陸扱貨物の一部に制限を加うるの要あるに至れるは已むを得ざる処なりと雖も此苦痛は将来越中島線の開通によりて自ら大に緩和せらるべし
 叙上の如く運転上の制限を加え線路□の□少を図るのみならず工事施工上多大の困難を顧みず秋葉原線現在敷地は努めて之を利用することとせり
 この「秋葉原線」というのは貨物線とは別の路線かもしれないが、いずれにしても秋葉原の鉄道事情は大正8年にいたっても、『市の道路を平面交叉し交通上の不便及危険測り難きものあり』だったわけだ。

 明治23年の高架化の約束が完全に果たされたのは、結局40年あまり後の昭和7年になってからだった。

 さて、秋葉原の初期の歴史に関していろいろ調べてみたのだが、そろそろ飽きてきたので纏めに入ろうと思う。

 俺のそもそもの興味の焦点、「アキハバラという呼称」に関する問題を次回以降で。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-29 09:45 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(0)
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