秋葉原-火除地の成立と鎮火神社

 勝手に妄想した「秋葉神社の謎」を調べていくうちに、秋葉原の由来について知らなかったことがいくつか判ったので、備忘として書いておく。

 不思議だったのは、「秋葉大権現が勧請された」という説がわりと広範囲に流布していることだ。インターネットだけならまだしも、市販されているそれなりの歴史の本にまで。
 この説は間違っている可能性が非常に高い-個人的には誤りであると確信している-ことは既に書いた

 そもそも、秋葉原に火除地が設定された経緯は公文書として残っているのである。隠された闇の歴史を暴き出すようなタグイの本で無い限り、フツーに調べれば、「秋葉大権現勧請説」が怪しいということは-俺みたいなド素人でも-わかると思うのだが。

 『東京市史稿』、全169巻というトンデモない量の、東京行政の公文書の集大成である。市販もしているし東京都内の多くの公共図書館は所蔵しているらしく閲覧は容易だ。
 近所の図書館にあったので俺も閲覧してみた。

東京市史稿
市街篇第51(市街51-0001 )火除明地ニ鎮火社設立

遊園篇第4(遊園4-0225)鎮火社創建

 これらを参考に、『秋葉の原』について纏めてみる。
 もっとも、時代が時代だけに全編これ候文である。俺はソーローソーロー言われると非常に気分の悪くなる性質なので(笑)、誤読誤訳誤解釈しているところは多々あるはずだ。Blogに晒す以上ウソ書くつもりはないが、浅学菲才の故、誤りがあれば大方のご指導を仰ぎたい。

■経緯
  • 明治2年12月12日 午後10時ごろ 神田相生町20番地、塗師職の金次郎方から出火。周辺八ヶ町全焼、他三ヶ町に延焼。約1100戸焼失。ただし焼死人は女性一名のみ。
  • 明治3年1月20日、年寄より被災地住民・地主などに神田佐久間町一丁目を火除明地とする旨申し渡し。 【訂正:2013/03/11】 コメントでご指摘頂いたので本行削除
  • 明治3年10月15日 鎮火神社の鎮座祭実施。
■「火除地」(火除明地)とはどういうものだったのか?

 『市街51』・『遊園4』に、設計図が付いている。
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  • 北 150間5尺(274メートル)
  • 南 153間4尺(279メートル)
  • 東  57間5尺(105メートル)
  • 西  60間3尺(110メートル)
の長方形で、面積は約9008坪(29、800平方メートル)。
 ざっくりだがサッカーコート(105×68メートル)二面分くらいの広さだろうか。

 廻り四方を高さ三尺(1メートルくらい)の低い土手で囲んで、草木や花を植えたらしい。
 土手に設けた入り口(幅三間≒5.5メートル)は全部で7つ。南側(神田川側)に鳥居を設けた(この入り口だけ大きくて五間≒9メートル)。

 各入り口には立て札を立てた。
1.構内の竹や木をとったり、ごみを捨ててはいけません
1.不浄のもの・車馬の通行は禁止します
1.土手に上ってはいけません
「秋葉原」火除地の絵図・写真を探したのだが見つからなかったので、参考までに、『江戸名所図会』巻之一 天枢之部から護持院ヶ原の様子の絵を上げておく。規模も時代も違うが、イメージ的にはこんな感じだったのではないか。
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2007/08/20追記:その後「秋葉っ原」の写真を見つけた
■場所が確認できる地図は?

 一般書店で入手しやすい、当時の地図帳を探してみた。

 『江戸から東京へ 明治の東京』人文社 所載の『明治11年実測東京全図』と『明治20年 東京5千分の1』が地図精度が比較的高く、現代の地図と相互参照しやすい。
 ちなみに前者では『秋葉社 火除地』として、後者では『鎮火神社 字秋葉ノ原』と記載されている(秋葉ノ原と記された地図、ようやく見つけた)。字(あざ)がついている所をみると、秋葉ノ原という俗称がこの時代にはある程度公的に通用していたのかもしれない。

 同書に含まれている他の地図でも鎮火神社は確認できる。
 『明治4年 東京大絵図』では『鎮火社』、『明治8年 東京大区小区分絵図』では単に『鎮守』と記されている。
 『明治45年最新番地入東京市全図』には鎮火神社移転後の『秋葉停車場』が記載されているが、停車場のすぐ脇に、神田川から運河が伸び小さな港のようになっている様子が確認できる。

 余談だが、この本でも『この一帯の焼失地の住民を立ち退かせ、空き地として火除地を造成した。そこに火伏せの神様である秋葉大権現が祀られた』と書いてある。そうじゃないんだってば~(笑)

■立ち退きの様子は?

 町中に空き地を作ろうというのだから、住んでた人はどうしたのだろう? ほとんど江戸時代といっていい時代のことだ、やっぱり強制的に立ち退かせたのかな…と勝手に思い込んでいたのだが、『市街51』を読んで驚いたのは、強制には違いないがけっこう民主的なのだ、これが。

 年寄(今で言うと区長か都議会議員くらいか)から町々に出された通知によれば;

『地主めいめいが代地として望む場所を申し立てていい。吟味の上問題なければ代地として提供する。地代金での申請もど~ぞ』

引越料も出してあげる

 町側からも、ついでに川岸の工事もやってくれだのの嘆願も出ている。

 やれ「ずっと商売してるのに」だの「土蔵があるのに」だの「慣れ親しんだ地元の人情はどうしてくれるんだ」だの苦情や陳情が多く、趣旨を再三説明するなど、調整に苦労したようだ(『遊園4』鎮火社創建始末書)。

『尤其地住居来候諸民エは夫々代地相渡し、惣金六千四百弐拾両余 民部大蔵省ヨリ請取、家作土蔵等為引料相応ニ手当テ致シ』云々(『遊園4』)。

 いやぁ、いつの時代も変わらないねぇ。

 なお、現在の秋葉神社の由緒書きには「市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)に思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり」とあるが、東京市史稿を見る限り、皇室の積極的関与があったような節は見られない
 むしろ;
  • この付近からたびたび出火していること
  • 住居が建ち込んでいて道幅が狭く、消防の手が回らないこと
  • 冬・春に西北の風が強く吹くため、延焼しやすいこと
といった、火除け地設置の必要性の、非常に実際的な理由が挙げられている。


■鎮火神社というのはどういう建物だったのか?

 鎮座させた鎮火神社は4間×3間(7.3×5.5メートル)、お社本体は前2間奥行き9尺(3.6×2.7メートル)とある。
 だだっ広い空き地の真ん中に小さな社があった…ということだろう。延焼を防ぐのが目的なのだから馬鹿でかい建物なんざ建てるわけはないが。神田神社(神田明神)の管理の下になった(神社明細「同六年一月十七日神田神社兼務社ト定メラレ」)ということから見ても、常設の社務所みたいなものはなかったのではないか。

 東京の名所案内である明治41年版『東京名所図会・下谷区・上野公園之部』の「鎮火神社」の項に、松が谷に移転した後の記述があるが;
素木の粗造にて間口二間、奥行九尺に過ぎず、廣前の石貌、創建当時の奉納と知られ、明治三牛年と刻む
とある。社をそのまま移転したのかは不明だが(東京市史稿の中には移転の為の予算取りの資料-市街74-566 『鎮火神社移転地所買上』-もあるが、読みきれていない)、元々さほど豪華なものではなかったのであろうことは伺える。

----- 1/26訂正。-----
市街74-566 『鎮火神社移転地所買上』を参照したところ、『鎮火神社移轉費用豫算調』即ち移転費用の予算取りの資料があった。それによると
一、金七拾圓 社殿、神楽殿、鳥居、水屋、社務所、燈籠、獅子、鐵水盤其外木石共一式運搬費
とある。
また、あちこちの項目に付箋朱書きとして、『引建直し』という言葉がある。例えば、当初は『本社壹棟取崩費』と書かれているのが『本社引建直シ之内』と訂正されている。
つまり、火除け地から一式運搬し、組み立てなおしたらしい。『東京名所図会』にある「素木の粗造」という社は、サイズが合致しているところからみると、もしかしたら設立当初のものそのままという可能性もある。
 また、社だけで社務所などはなかったのではという推測も間違いで、移転時点では神楽殿や社務所まで、ひととおり揃っていたようだ。
リカちゃんハウスじゃあるまいし、そんなものが全部設計図とおりの3×4間に入るとも思えない。後年の増築なのかもしれないが確認できていない。
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 ただし、鎮座式はけっこう盛大に行われたようだ。『明治東京庶民の楽しみ』によると、酒肴が振舞われ、雅楽が奏でられ見物人も出たようである。

 『市街51』には鎮座式の式次第も書かれているが、時間厳守雨天決行だの烏帽子と白張は神祇官から借りることになってるだの知事の付き添いはどーするこーするとか…イベント企画ってのはいつの時代も大変だねぇ。
----- 1/31追記。-----
三田村鳶魚の『秋葉ばら』を読んでの追記。
武江年表に以下の記述があるそうだ(鳶魚からの孫引き)
十七十八日には、此辺のもの、御宮廻り新築封疆(小土手なり)土持とて衣類を飾り、小石川御門外御堀端の泥土を運ぶ、二十一日には三度目にて、婦女声妓等美しく装いて出たり、よって見物群集をなせり
芸者さんに盛装させて土砂を運ばせるとはイキなことをしたもんだ。
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 というのが、設立当時の大体の様子。

 その後「秋葉の原」がどうなっていったのかは、また別のエントリで。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-22 13:53 | 秋葉原 研究(笑)
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