秋葉神社の謎-些かつまらない解決?編-

『「秋葉の原」には「鎮火神社」とは別に「秋葉神社」が存在した?』

 佐竹商店街脇に存在する「秋葉神社」の由来書きによればそういうことになる。
 これが事実だとすれば、「秋葉原の語源」の「正史」に対する反証となる…というのが、俺の妄想だった。

 直接それぞれの神社にお話を伺ってもいいのだろうが、妄想を根拠に人様の手を煩わせるのもナンである。
 自分でもう少し下調べをした上での方がよかろうということで、ちょうど週末に上野に出る用があったので、少し足を伸ばして合羽橋通りにある台東区中央図書館に出かけてみた。台東区の資料を見るのならここが適当だろうと思ったからだ。

 幸い、面倒な手続き無く一般書架の閲覧は出来るタイプの図書館だった。中央図書館というには少々書架が寂しいように思われるが、まあ仕方あるまい。

 郷土資料室の書架を漁ってみると、台東区教育委員会が取りまとめた『台東区文化財調査報告書第二十八集(基礎資料編XII)』という資料を見つけた。
 これは明治10年の『諸社明細簿』と明治18年の『神社明細帳』が纏められたのもので、神社の戸籍帳みたいなものだ。

 この資料で確認できる秋葉神社はただひとつ

 東京府管下武蔵国 下谷区入谷町町三百八十七四○九
   郷社 鎮火秋葉神社

 一祭神 火産霊神 埴山毘売神 水波能売神

 一由緒 明治二巳年十二月 火災ノ後神田相生町外十ヶ町ヲ火除地トシテ取払ニ付同三午年右地中央ニ神殿建築同年十月十五日勧請ス十一日ノ大火後神田相生町外十ヶ町火除ノ為東京府届ニテ創立神璽ハ神祗官ヨリ下渡ニ相成同六年一月十七日神田神社兼務社ト定メラレ同年八月五日郷社ニ列ス同廿一年七月境内地ハ日本鉄道会社ヘ払下ニ付換地北豊島郡坂本村三百七拾番地ヘ移転ス トシテ下渡相成候現地ヘ移転ス ハ定メタル現地ヘ移転ス
 ご覧のとおり、どう見ても松が谷の秋葉神社(鎮火神社)である。

 取り消し線で表現したのは、訂正され、書き換えられた部分である。
 一瞬、『あれ、昭和5年改名のはずなのに、なんで明治18年の資料に「秋葉神社」という名前で出てるんだ?』と思ったが、人の戸籍と同じく、最初のデータに後年の訂正部分を追記していくため、こういう書き方になっているようだ。
 ちなみに、「鎮火秋葉神社」という部分は、「昭和五、六、ニ○午兵第四八一号 改称許可」と追記がある。

 古い地図も確認してみた。マピオンやらマップルみたいな、年に三回も改訂されるような現代の道路・市街図とは違い、発行年度時点での正確な記録ではないだろうが、ある程度の目安にはなるだろう。

 佐竹周辺は明治9年の地図では陸軍省御用地とされている。これは大火で佐竹屋敷が消失した跡地を陸軍が接収した、という佐竹商店街のホームページに記載のあったとおり。
 同じく明治9年発行の『明治東京全図の内第五大區図』には、現在の秋葉原の場所に「四小區 火除區」という原っぱがあり、その中に「秋葉社」という記載がある(1/16: 国立公文書館デジタルギャラリーで同じ地図を見つけたので貼っておく)。
 明治20年版の『陸軍参謀本部測量図』では同じ建物が「鎮火神社」と記載されている。
 いずれの地図にも「秋葉の原」という俗称は記載されていないが、鎮火神社が「秋葉社」という異名を持っておりそれが混用されていたというのは本当のことのようだ。もしこの誤解が無かったら、アキバ系じゃなくてチンカ系になっていたかも(笑)

 さらに、明治28年、40年、44年、大正11年、昭和5~7年、昭和8年の東京全図の下谷部分や『下谷區全図』など各種地図も参照してみた。
  • 「秋葉の原」には、鎮火神社以外の寺社はまったく記載されてない。
    判りやすかったのは前述の『陸軍参謀本部測量図』であるが、本当に野原の中にポツンと鎮火神社があるだけだったようだ。確かに火除け地なんだから建物なんかやたら建てられるわけもあるまい。
  • 秋葉原駅成立後、松が谷の「秋葉神社」は殆どの地図に記載があるが、佐竹(竹町)の「秋葉神社」はかなり後年の昭和10~20年代の地図でしか確認できなかった。
  • 松が谷の秋葉神社の正式な改名は昭和5年だが、それ以前の地図でも「秋葉社」「秋葉神社」と記載されているものがある。
    鎮火神社が出来たのは明治3年だが、前述の『第五区図』のように、わずか5年後の明治9年頃にすでに「秋葉社」という名前が使われていたフシもある。


 ということで、残念ながら佐竹秋葉神社の由来書きにある「秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座」という事実の元になるはずの「秋葉の原の秋葉神社」を確認することはできなかった

 もちろん「見つからない」≠「なかった」は重々承知である。
 これを持って佐竹秋葉神社の由来書きをクサするようなつもりは毛頭ない。

ただ、積極的に支持できる証拠は見つからなかったのは-俺の能力の問題もあろうが-事実である。
 小祠故のことかとも思うが、例えば、佐竹の秋葉神社の近所にある、四国讃岐の生駒屋敷内にあった金比羅神社は現在でも竹町南町会の管理にあるが、こっちの方は神社の台帳でも、地図でも明治期からトレースできる(こちらのページで大正元年と昭和16年の地図を提供されているので参照されたい)。
 仮に鎮火神社とは別に秋葉権現が神田相生町近辺にそれなりの規模であったとすれば、何か痕跡が残っていてもよさそうなものだ。今のところ台東区の記録しか調べていないので、千代田区の神社明細も調べてみるべきだろうが、現時点の個人的印象では佐竹屋敷内にあったという秋葉権現を、昭和初頭に「秋葉の原」とは無関係に独自に復元したのでは?という気がする。

--------------------------- 1/29 追記
台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和Ⅱ』(昭和57年)という、台東区のじい様たちに聞き書きした本の中で、佐竹在住の佐藤金作さんの話を読むことが出来る。
竹町小学校には、佐竹の堀がそのまま残っていて、私が生まれた頃(引用者註:明治32年生まれ、明治39年御徒町小学校入学)は、佐竹の屋敷跡の佐竹っ原も相当家が建て込んできたわけで、一般の民家をつぶして学校ができたわけです。そうこうして震災になって焼けちゃった。それではと、学校をまた広げたんです。私の町内に秋葉神社がありますが、昔はあそこでなくて、道が学校に抜けるようになっていた。学校がのり出してきたので、神社が今のところに変わったんです。今、表門になっているのは、昔私たちが通った頃の裏門です。
つまり、佐藤さんの言によれば大正12年の関東大震災の前から佐竹の秋葉神社は存在した可能性がある。
つまり、「昭和初期の復元?」という俺の推測は、間違いである可能性が高いということだ。

 だが、残念ながらそもそも大本が「秋葉の原」にあったのかどうか、という問題には関係しないので、結論的には変わらない。
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 ということで、俺の妄想はやはり妄想に過ぎなかったようではある。
 そもそも「正史」に対する妄想を検証するのに「政府」の資料なんか使っていいのか…という疑問は我ながら持っている。妄想の輪を広げるとすると、『第五区図』にある「秋葉社」がまさに秋葉神社のことで、そのあとの地図に出てくる「鎮火神社」は乗っ取られた後!みたいな妄想もできないわけではないが(笑)、さすがにソコまでいくと陰謀論者の仲間入りくさいので、考えないことにしよう(爆)

 後は佐竹の秋葉神社の由来書きの根拠となる資料でも見せてもらいにいくしかなかろうが、史学的素養というものが皆無な戦後教育の犠牲者(笑)である俺にとって、読解できない一次資料はブタに真珠であろう。

 個人的には納得できたから良しとしようと思う。

ところで。

 資料を漁っていると、思いもよらず秋葉原生誕の立役者の名前に行き当たった。
『下谷區史』(第十九章第二節『各神社の沿革』)
明治二年十二月十二日午後十一時頃、神田相生町一丁目の指物師金次郎方より出火し、同二丁目、松永町、亀住町、花田町、田代町、山本町の七箇町に亙る廣範囲を殆んど焦土と化した大火災の後、相生町外十箇町を火除のために取拂を命じて、空き地となした。これ所謂秋葉ケ原である。
 指物師金次郎

 お前ンチが火事出したのか金次郎。金次郎が火事出さなきゃ秋葉ケ原もできなかったわけで、つまりは秋葉原駅もできなかったのかもしれないのか。

 まあ、その後関東大震災や東京大空襲つーカタストロフを経て現在のアキバがあるんだから(『下谷區史』によれば松が谷の秋葉神社も大震災で被災し建造物一切丸焼けになったそうな。神様は近所の小野照崎神社に避難させたとか。火除けの神様としては少々情けないかもな)、電気街→ヲタクタウン→再開発オフィスビルの横で贋メイドがビラ配ってる奇怪な町、という歴史の流れは大きく変わらなかったのかもしれない。

 だが、金次郎の家で火事を出さなきゃ、まず間違いなくアキハバラという名前ではなかったであろう
 歴史の機微つーものを感じるわなぁ。



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補足事項を少しだけ。

秋葉原の語源で検索すると、比較的上位に来る秋葉原電気街振興会のページには以下の記載がある
1869(明治2年)の相生(あいおい)町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万・)の火除地(ひよけち)を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現(あきばだいごんげん)を勧請(かんじょう)し、鎮火神社としてまつった。
 当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社(あきばじんじゃ:現在は台東区松が谷に移転)と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。
 現在、「あきば」と略されるのは、このあたりが語源となっている。
 この説、あちこちで引用されているようなので一応突っ込んでおくが(笑)、たぶんこの記述は誤りである。
  • 『遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現(あきばだいごんげん)を勧請』

    『神社明細帳』を見ても、お祭りしている神様は、秋葉大権現とは別の神様である。
    また、明治元年の神仏分離令、明治5年修験宗廃止令があって、秋葉寺も秋葉社も廃仏毀釈の流れの中で混乱のうちに廃止されてしまい、火之迦具土神を祭神とした秋葉神社として再建されたのが翌明治6年という史実から見て、明治3年時点で秋葉社を東京府が勧請したとは思えない(「秋葉信仰とは」など参照)。

    ----------- 1/31追記 ---------------
    三田村鳶魚の『秋葉ばら』を読んでの追記。武江年表の孫引き。
    世人、当社を鎮火の社と号せらるるを以て、仔細を弁ぜずして、遠州秋葉山の神を勧請ありしと心得て、参詣のもの、秋葉山権現と称へて拝する人、ままこれあり、秋葉山は祭神大己貴命にて、後来三尺坊を合祭し、習合(しふがふ)の社たりしが、此頃三尺坊は同国可睡斎に移されて、唯一の社とは改れど、祭神は別神なり、しかるに、此近辺の輩も世間につれて誤れるが多き故、ここに其趣を記せり、上野の両大師へ詣でて、弘法大師と心得、南無大師遍照金剛と唱ふるものあるも、此類なるべし。
    「秋葉権現を勧請した」というのは間違い。決定的だと思う。
    ----------- 1/31追記 ---------------
  • 『当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社(あきばじんじゃ:現在は台東区松が谷に移転)と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった』

     これも経緯的には誤り。
     明治の移転時点でも「秋葉社」という「誤解」があったことは、明治9年発行の『明治東京全図の内第五大區図』で裏付けられる。「秋葉が原」と俗称されたのは、明治3年の設立から殆ど間がなかったのではないか。少なくとも昭和5年の正式な改名以前、「秋葉原駅」は成立していたのだから、改名後に「秋葉原」と呼ばれるようになった、というのは説明としてはおかしい。
 さらに蛇足だが、「鎮火社」という呼称が<正式名称>である、とされているページがあるが(俺もそう覚えていたのだが)、今回みた資料では「鎮火神社」が神社明細上の正式名称のようである(ただし、東京市史稿 市街篇 (第51) 明治三年正月十日火除明地ニ鎮火社設立 などにもあるように、一般的には鎮火社と呼称されていたらしい)。
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by SIGNAL-9 | 2007-01-15 11:07 | 秋葉原 研究(笑) | Comments(3)
Commented by Wolf359borg at 2013-03-15 14:50 x
SIGNAL-9様、この記事で参照されておられます『台東区文化財調査報告書第二十八集』という資料についてお尋ねしたいことがあります。
私も出典として使いたいのですが、秋葉神社(鎮火神社)に関する記載箇所の情報を覚えておいででしたら教えていただけないでしょうか。
さすがにページ数はわからないと思いますが、目次で項目名で引けるようになっていたとかの情報があれば、国会図書館にコピーを請求できるかもしれないので助かります。
『東京市史稿』はブログ記事にページを記載されていましたし、東京都公文書館のサイトに内容目次が載っていましたので、コピーサービスを利用できました。
Commented by signal-9 at 2013-03-18 10:20
Wolf359borg 様;
すみません、今日本にいないのですぐに対応できないです。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA5731394X
この資料のはずです。台東区の中央図書館のリファレンスサービスをお使い頂く方が早いと思います。
【連絡先】台東区立中央図書館郷土・資料調査室
電話:03-5246-5911
Commented by Wolf359borg at 2013-03-18 22:58 x
SIGNAL-9様、今海外でしたか。図書館の情報ありがとうございます。
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