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秋葉神社の謎

年始に秋葉原に出たついでに、ぶらぶらと散策。

 神田明神にお参りした後、御徒町から佐竹商店街に抜けてみたのだが、竹町公園の横に鳥居があったので、ふと見てみると「秋葉神社」ではないか。

 『あれ?ここにも秋葉神社があるの?』

 ここから歩いて数十分の、上野松が谷にも秋葉神社がある。
 秋葉様は火災避けの神様で、全国各地に多数-800くらい-あるという話は知っていたので、近所に複数あってもおかしくないのかもしれないが、アキバの由来になったのは松が谷の秋葉神社だとばかり思っていたので、こんな近所に別のアキバ神社があるというのはちょっと奇異に思った。

 いちおう(失礼な奴^^;)お参りをして、興がのったので確認の為に下谷神社経由で松が谷に足を伸ばすことに。

 松が谷の秋葉神社は、吉展ちゃん誘拐殺人事件で有名な入谷南公園の近所だ。このあたり、公園の名前の通り、以前の町名は入谷南だったのだが、昭和40年ごろに松葉町と合わせて松が谷と町名が変わったと記憶している。松が谷の秋葉神社の由来書きを見ると、
一 御由緒
明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)に思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始である、明治二十一年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる、秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。

台東区松が谷三丁目鎮座 秋葉神社
とあった。

 う~ん。やっぱりこっちがアキバの由来なのかなぁ? 確かにこっちの方が本殿も立派だもんなぁ。
 念のため、帰宅してから佐竹商店街のホームページを見てみた。
現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、佐竹屋敷の守護としてもと秋葉ケ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを屋敷内に勧請遷座し、更に昭和五年、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。また、竹町公園も開園し、街の子供たちの遊び場として今も親しまれております。
との由。

 やや? 佐竹の江戸屋敷の守護として遷座、つーことは、佐竹の秋葉神社は江戸時代には既に秋葉が原にあったつーことなのか?? 
 さらにぐぐると、俺が見逃していた由来書きの写真を掲載したblogを発見したので引用しておく。
町内に鎮座まします秋葉神社は二十八万石を有する東北地方屈指の大名で秋田藩十二代藩主佐竹右京太夫義尭公、上屋敷の守護神にてこの地にあった広大な屋敷跡である
明治維新の大変動期に秋田藩も財政難となり国に上屋敷を上納その時に新政府によりこの地の住所表示が決まり、竹町十二番地一号地より二十四号地迄と制定され現在もその儘使用されている佐竹町会の号地区分はその時出来たものである、秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座し昭和五年四月町会先人有志の方々により現在地に社殿を造営したもので当町会では火伏せの神として崇め毎年十一月第二日曜日に大祭を行っている
 Wikipediaの秋葉神社 (台東区)の項に因れば、
江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はない(東京府が秋葉大権現を勧請したとする史料もあるが、当時の社会情勢からみても明らかに誤伝である。)。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除け地(空き地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。
これ読むと、どう見ても「別の神様」だ。松が谷のアキバ様は元々秋葉大権現とは別の神様なのに間違って呼ばれたのが定着したんで…ということか。

明治以前?:佐竹屋敷の守護神 (佐竹)
明治初年:宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷 (松が谷)

明治21年:鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮 (松が谷)
明治22年:秋葉が原より勧請遷座 (佐竹)

昭和5年:社殿造営 (佐竹)
昭和5年:秋葉神社と改名(松が谷)

 こうやって由来書きを並べてみるとヘンだよなぁ。両方正しいとすると、もともと秋葉原には秋葉神社(と称される神社)がふたつあったということなんだろうか? つまりは、鎮火社とは別に、秋葉大権現直系の佐竹の秋葉神社のオリジナルがアキバにあった??

 歴史とかはガキの頃から「わかりません」「今考え中です」の世界に追いやってきたのでこういう時に困るわなぁ(笑)



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 なんで、こんなことに拘ってるのかというと、「もしかして、アキバには、鎮火社とは別に、秋葉神社があった? もしもそうだとしたら、『定説』に対する反証になるのではないのか。もしかして皇国史観によって圧殺された陰の歴史って奴なんでは…。『世界のアキバ』の語源に係わることだとすりゃあ、こりゃあおもしろいぞ」と妄想が広がったからなのである(笑)

 で、もうちょっと調べてみた。

 そもそも佐竹の秋葉神社に関する情報は、書いてあることが微妙に違う。

佐竹商店街のHP
現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、(中略)佐竹屋敷の守護としてもと秋葉ケ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを屋敷内に勧請遷座し
神社の由来書き
町内に鎮座まします秋葉神社は二十八万石を有する東北地方屈指の大名で秋田藩十二代藩主佐竹右京太夫義尭公、上屋敷の守護神にてこの地にあった広大な屋敷跡である」
「秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座し
 まず商店街のHPから検討してみよう。

 「佐竹屋敷の守護としてもと秋葉ケ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを屋敷内に勧請遷座」、これはいったい何時の話なのか? 神社の由来書きにある、明治二十二年四月のことなのか。

 同じページには以下のように記述されている。
明治維新の後、廃藩置県が実施され佐竹藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。
明治二年には、火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治五年には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。
 つまり、佐竹屋敷が存在したのは明治二年より前、ということになる。自動的に、秋葉が原(秋葉の原)から佐竹屋敷に勧請遷座したとすれば明治二年以前になるはずだ。

 すなわち、明治二年以前に「秋葉の原」に「秋葉神社」があった…ということになる。

 明治以前に「秋葉の原」に「秋葉神社」が存在したか、「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」で確認してみた。

 少なくとも、この書籍の江戸末期の切絵図では、秋葉原という地名も、原っぱも、秋葉神社も確認できなかった。
 「切絵図~」によれば、佐竹右京太夫の上屋敷は、佐竹の秋葉神社がある現在の台東三~四丁目あたりの一角にあり、現在の秋葉原近辺にはその名前の屋敷は見当たらない。佐竹屋敷は現在の台東区内では最大の武家屋敷だったようだが屋敷の見取り図を見てもさすがに現在の秋葉原まで屋敷内というほどは広くない。また、別宅のようなものがが現在の秋葉原にあったようにも見えない。
 「切絵図~」では神田明神や湯島天神は記載されているが「秋葉神社」らしきものも見当たらない。もちろん切絵図には街角のお稲荷さんみたいな小さな神社までは出ていなくても不思議は無いので、記載がないことをもって存在しなかったとは言えない。
 ただ、地名に関して言えば、「切絵図~」には今の昭和通りや秋葉の大通りに相当する道筋にもそれぞれの呼称が書いてあるが、いずれの場所にも「秋葉」に相当する名前は見当たらない。

 残念ながら、江戸末期の切絵図では、明治以前の秋葉神社というものの存在は確認できなかった。本日時点では、明治以前の秋葉神社の存在には疑念があると言わざるを得ない。

 では、神社の由来書きとおり、明治二十二年四月勧請遷座された、としたらどうだろうか。

 この案を採用すると困るのは、商店街のホームページの内容が、明らかに神社の由来書きとは食い違ってしまう、ということだ。
 由来書きにある明治二十二年四月には佐竹屋敷は既に焼失してしまっているのだから、佐竹屋敷に「勧請遷座」できるわけがない。また、佐竹屋敷由来の秋葉神社が既にあったとしたら、改めて「勧請遷座」するというのも理解できない。

 両者の記述をすり合わせてなるべく穏健な解釈をすると、こういうストーリくらいしか考えられない。
  • もともと佐竹屋敷内には守護神として秋葉神社があった。
  • だが、明治二年の火災によって屋敷が消失し、その時に秋葉神社も失われた。
  • 明治二十二年四月に佐竹屋敷の跡地に、秋葉が原にあった秋葉神社を勧請遷座した。

 これなら時間的には一応辻褄は合う。

 明治二十二年説を採ると、佐竹の秋葉神社は松が谷の秋葉神社の"分社"のようなものなのかもしれない、という可能性については検討してみる必要がある。もしかしたら松が谷側の記述とも合致するのではないか。

 ところが、松が谷の秋葉神社の由来書きによれば、鎮火社が松が谷に遷宮(移転)したのは、明治二十一年であり、その時点では名称が「秋葉神社」ではなかった、とされている(これがいわば「定説」であり、例えば平凡社の「東京の地名」事典などでもこの説が-参考文献とともに-記述されている)。
 分社だとすれば、遷宮した翌年に秋葉の原から「勧請遷座」できるわけがない

 一年くらいのズレだったらささいなミスという可能性もあるが、そもそも松が谷と佐竹の「秋葉神社」では祭っている神様が違う。
 松が谷の方は火産霊大神(ホムスヒノオオカミ)水波能売神(ミズハノメノカミ)埴山比売神(ハニヤマヒメノカミ)の三神。これは宮城内から勧請した神様。
 ところが佐竹のほうは「火貝土之尊」とある。これおそらく火之迦具土神のことだろうから、秋葉山本宮秋葉神社が奉ってる神様と同じだと思われる。

 つまり、松が谷と佐竹は名前は同じ「秋葉神社」だが、別の神様を祭っている別の神社なのである。
 佐竹分社説は、これを考えるとあり得ない話だ。

 ということでやはり、明治二十二年時点で「秋葉の原」には「鎮火社」と別の「秋葉神社」があったということでないと、両方の由来書きのツジツマが合わないのである。

 ちなみに、明治二~三年頃に秋葉神社が秋葉原に勧請されたという説があるが、明治元年の神仏分離令、明治五年には修験宗廃止令があって本宮だった秋葉寺も秋葉社も廃止されてしまい、火之迦具土神を祭神とし秋葉神社として再建されたのが翌明治六年…という社会状況を考えると、この説には無理があると思う。
 あり得るとすれば、もう少し後年の勧請(明治六年~二十二年の間のどこか)だろう。

 もうひとつ気になるのは、佐竹側にある「勧請遷座」という表現だ。
 一般的に勧請というのは「分霊」のことである。つまりMOVEではなくCOPY。だとすると、COPY元の「秋葉の原の秋葉神社」はどこにいったのだろうか? 現在の秋葉原には「秋葉神社」が存在しないことは周知の通りだ。いわゆる遷座は御神体ごとのMOVEなので、遷座だとしたら判らないではないが…(ちなみに松が谷の秋葉神社は遷宮=遷座なので、まるごとMOVE。分社が秋葉原駅駅長室にあるそうだ)。

 一次資料に当たらずに、ネットで調べられるのはこのくらいだろうか。
 時間があれば、明治六~二十二年頃の地図を調べてみようと思うのだが…。
by SIGNAL-9 | 2007-01-05 13:24 | 秋葉原 研究(笑)
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