「差異のない相違は相違ではない」


 どんな天の配剤なのか、「パクリ」とか「オリジナリティ」とかについて考えさせられる作品に立て続けに行き当たった。

 友人に借りた「瀬戸の花嫁」とかいうマンガなのであるが、数冊読んだところで「こりゃあ、『うる星やつら』のマンマじゃねぇか」と思った。
 なにしろ、プロットからキャラクターの配置・性格づけにいたるまでソックリなのである。かといってパロディというわけでもない。

 「うる星やつら」は、大本をたどると直系としては「魔法使いサリー」+「オバケのQ太郎」つーところに帰着すると思うのだが、そこに「ラブコメ」の要素を加味したからエポックメイキングな作品になったのだと思うのである。

 もちろん「魔法使いサリー」自体、「奥様は魔女」から出てきたものだが、同様に、魔法「少女」という要素を足したから、メグちゃんやサクラちゃんという芳醇な後継作品を生み出してきたのではないかと思うわけだ。
 かたや「瀬戸の花嫁」は、『うる星やつら』+ゼロ。「差異のない相違は相違ではない」というのはマイクル・クライトンの小説に出てくる格言だが、まさにそれだ。

 同じく友人にDVDを貸してもらった「冒険野郎マクガイバー」というアメリカ製のTVドラマ。これもまた、脚本のクオリティという面ではイタダけないシロモノであった。正直、Amazonのカスタマレビューで絶賛の嵐なのが信じられない。

 例えば「失われた大地」という回であるが、ほとんど「黒い絨毯(1954)」の使いまわしである。まあ、製作費が厳しいTVドラマだから、バンクフィルムなんか当たり前なんだろうが、密林の奥地で苦労して自分の王国を築いた孤高の男→アリの大群攻めて来る→アリとの戦いつープロットもほぼ同じなんで興ざめもいいところ。

 さらに酷かったのは「恐怖の時限爆弾」という回で、こっちはバンクはないものの、お話がまるっきり「ジャガーノート」(1974)と同じである。いやホント、似てるとかのレベルではなく、まったく同じなんだからあきれ果てた。
 せめて、あっちこっちで引用されまくっている有名な「二択」のクライマックス(古畑やパトレイバーでもあったね)くらい、ちょっと変えりゃあいいのに。

 そもそも創作物なんてものはほぼすべて先人の資産の上に成立するものであるから、やたらめったら「パクリ」だのなんだの言うことには賛成できないが、それにしてもリメイクやパロディですらない「そのまんま」というのは幾らなんでも酷い。

 たとえ現著作権者との間で話が付いていたとしても、鑑賞者に対する誠実さなんてものはないのか? しかも、そういうのに限っていわゆる「劣化コピー」で、オリジナルに価値を足すどころか引きまくっているのが大半なような気がするのだが。
[PR]
by SIGNAL-9 | 2006-07-26 17:47 | 読んだり見たり
<< 「意図的ではなかった」 マイクロソフト、「Privat... >>