読売「異議あり匿名社会」キャンペーンに思う

 過去二度ばかり言及したが、読売新聞が「異議あり匿名社会」というキャンペーンを展開中だ。不定期掲載ではあるが、10/16付けの紙面などでは、一面トップ記事扱いであった。力を入れているのであろう。

 このキャンペーン記事に対する現時点での俺の評価、「エピソードを書き連ねても説得力がない」ということは以前にも書いたので、ここでは再度取り上げない。

 読売のキャンペーンのスタンスは、10月15日付けの社説から読み取れる;
 個人情報保護法の完全施行に伴い、行政、医療、教育などの現場では、過剰反応とも言える情報の“出し渋り”が始まっている。

 懸念されるのは、公的機関が公共性の高い、社会で共有すべき情報まで公表を控えるようになったことだ。記者は真実に近づくために、これまでの何倍もの努力を強いられている。
 ここでは官公庁や病院などの公的・準公的機関の出し渋りの問題点に注力しているように書いてあるが、「異議あり匿名社会」キャンペーンでは、「個人」の出し渋りの問題も取り上げられており、それらを纏めて「匿名社会」と呼称している様である。

 俺がこのキャンペーンに決定的に欠落していると感じるのは、キャンペーンを展開している報道機関自らを省みる視点である。
記者は真実に近づくために、これまでの何倍もの努力を強いられている。
 この文言にあえて難癖をつけるが、努力が強いられているのなら努力すればいいじゃん?

 それとも何ですか、マスコミだけは特権階級だから別扱いしろとでも?
 そもそもある情報が「公共性の高い、社会で共有すべき情報」である、というのは誰が決めるのか?
 「俺たちマスコミ」が基準なのか?
 その「共有すべき情報」の定義-社会的合意-が困難だから、予防措置的に多少「過剰な」反応があるのではないか、といった視点は必要ないのだろうか。

 マスコミのこういう物言いには「俺たちは正しいんだから」的驕慢さを感じてしまうのである。
 そもそも個人情報の保護がこれだけ重要視されるようになった一因には、無意味な個人情報報道による報道被害もあったとは思わないのだろうか?

 この種の驕慢さは、毎日新聞の2005年10月23日付社説「犯罪被害者 匿名は不正も痛みも隠し込む」ではより顕著である。
 考えてみてほしい。被害者名が判明しないと、メディアは被害の事実について確認する手立てを失う。現在は担当記者が警察発表をもとに裏付けのため、被害者本人や周辺から取材、検証し、確認が得られてから報道している。仮名、匿名による警察発表が許されれば、極論すれば、警察の情報が虚偽や架空であってもメディア側は鵜呑(うの)みにするか、報道を断念せざるを得なくなる。もちろん今の警察がメディアを意図的に誤誘導するとは思わない。だが、戦前の特高警察の歴史を思い起こすまでもなく、メディアによる監視や活動の公開が不十分になれば、警察という権力機関が暴走しないと言い切れるだろうか。

鵜呑みか断念か。無茶な二分法である。
ようするに毎日新聞社は単なる警察の広報組織だ、というわけか(笑)

 最近のマスコミをめぐる様々な問題を通してみると、「俺らで調べるのがメンドくさいから警察はちゃんと発表するように」、どう読んでも自らの仕事における怠慢を、他人のせいにしているようにしか見えないのである。

 隗より始めよ、という言葉がある。まずはマスコミが署名記事の充実や、犯罪報道での加害者隠し・身内かばいの報道姿勢の問題など、自らの前に山積する問題に手をつけるのが先なのではあるまいか。

 笑ってしまうのは、「匿名社会がダメだダメだ」といっている読売のキャンペーン記事自体が無署名記事だってことなんだが
[PR]
by SIGNAL-9 | 2005-10-24 18:23 | 奇妙な論理
<< 「楽天市場」個人情報流出、店舗... 「のまネコ」報道でちょっと思っ... >>