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秋葉原は「悪魔街」…?

 『街歴リサーチ HISTRIP』という番組が9月29日深夜にフジテレビで放送されていた。
 台風の風音で寝付きが悪かったので、観るとも無しに観ていたのだが。

 番組自体へのコメントは特にない ―非常に多くの間違いがあったが、深夜のバラエティに目くじら立てるほど暇ではない。てゆーか、ツッコンでると切りがない。 あいかわらず根拠薄弱の「秋葉権現勧請説」が一般的には通用しちゃってるんだな、と確認できただけでヨシとする― のだが、Twitter上で、番組中に使われた「悪魔街」というキャッチーな言葉に反応している向きがかなり見受けられたので、ちょっとだけ。

 「悪魔街」。

 そもそも「街」という漢字を当てているのはどうよ?と思うが、そこはひとまず置いておいて、「あくままち」というキーワードに着目すると、俺の知る限り、この言葉の一般書籍の形での初出は、江戸学の大家である三田村鳶魚の『娯楽の江戸』(大正14年)である。
 もちろん、天下の三田村鳶魚がテキトーに言葉をでっち上げるわけがないので、大本には江戸期の史料があるのだろうが、鳶魚が言及していないので、元ネタは俺には判らない。

 さて、同書『娯楽の江戸』は幸いにして近代デジタルライブラリー(近デジ)で現物が読める。

 それは、「秋葉原の火除地」の項だ。

 「あくま町」とかのマメ知識を開陳するのなら、せめて、ここをちゃんと読んで欲しいのである。

 番組中では言及がなかったと思うが、「悪魔町」(あくままち・あくまちょう)というのは、神田川沿いの「佐久間町」(さくままち・さくまちょう)のシャレなのである。
(だから「悪魔街」では意味が通らない。「悪魔町」でないと…)

 もう少し詳しくみると、鳶魚は本書の後(昭和5年)に上梓した『江戸の旧跡江戸の災害』所載の「秋葉ばら」の項でこう述べている。
  1. 佐久間町が出火元である文政の「佐久間火事」と天保の大火は多くの犠牲者を出した。この二度の火事から、誰言うと無く、佐久間町を悪魔町と言うようになった。

  2. その後、明治二年に同所から三度めの出火があったので、その跡地を火除け地にした。これがいわゆる秋葉原。

 ちょっと解説を加えておくと、文政の「佐久間火事」というのは文政12年(1829)3月21日、天保の大火(甲午火事)というのは天保5年(1834)2月7日に、どちらも佐久間町が失火元で発生した大火である。犠牲者数に関しては資料によって諸説有るが、文政は2,800人、天保は4,000人くらい。焼け出された被害者は数知れず。

 五年くらいの間に数千人の犠牲者を出したわけだ。まあ、悪魔町と言われるのも納得だろう。

 「明治二年の三度目の失火」というのが、明治2年12月12日 午後10時ごろ 神田相生町20番地、塗師職の金次郎の家が火元になった、秋葉原誕生の直接のきっかけになった火事である。
 鳶魚は、出火元が佐久間町であるかのように述べているが実際には相生町である。

 余談だが、この火事に触れている多くのWebページで、発生した年を「1869年」と記載している(フジテレビの番組でも確か1869年と伝えていたような気がする)が、これは西暦換算の間違い。
 以前にも書いたが、日本は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰暦を採用していたため、それ以前の和暦は西暦と微妙にずれているのである。西暦1869年は明治2年の11月29日までなので、火事が起こった12月31日は1869年ではなく1870年である。

 さて。

 佐久間町はいわゆる「秋葉原」と近接し、しばしば同一視されていたのは確かだし、佐久間町の"部分"が秋葉原の"一部"に含まれたのは事実である。

 だが、いわゆる「悪魔町」と呼ばれるきっかけだった文政・天保の火事と、明治二年の火事の間には30年以上の期間が空いている。
 もちろんこの期間中も秋葉原周辺では小さな火事は頻繁に起きていたわけだが、いつでも佐久間町が出火元だったわけではない。

 鳶魚が「あくままち」に言及している文脈は、"「このあたり」では、江戸時代から火事が多かった"という、いわば話のマクラであって、この鳶魚の文章を以て "秋葉原は昔「悪魔町」と呼ばれた" と解釈するのは、いささか拡大解釈なのではないか、と思わないでもない。

 まあ、大雑把には間違いではないし目くじら立てるようなことではないのだが、「秋葉原は悪魔町だったんだな」的なツイートも見かけたので、ちと気になったので。


 ついでに、「あきはばら」・「あきばはら」問題、と俺が勝手に呼称している問題に関して。

 この件に関しては既に書き尽くしたし、その時点の見解を変更する新たな根拠も見いだせていないので、別に改めて語ることはないのだが、『娯楽の江戸』の同ページでは、"秋葉の原"に、「あきはのはら」とふりがなが振ってあることにお気づきだろうか。

 俺は、著者ではなく編集者が付けた可能性もある本のふりがなをもって「実はあきははらと呼ばれた」なんて主張しようというのではない。同じ鳶魚の本でも「あきば」とふっている本もあるくらいだ。

 俺が言いたいのは、おそらく「アキバ・アキハ」という発音の揺れは、往事からあったのではないか、だから一部で主張されているような「アキバが元々の<正しい>読み方」なんて断言、することはできないだろう、ということだけである。

 だいたい、「俗称」に「正しい」も「間違ってる」もないもんだ(笑)。
by signal-9 | 2012-10-02 13:36 | 秋葉原 研究(笑)
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