【近デジ漁り】女性(2) 『女は魔性である』と『女罵倒録』

『女は魔性である』(野元北馬 大正5)
『女罵倒録』(よぼ六 大正9)

 ― 本日の【近デジ漁り】、座談会形式でお送りします。
  ご参加くださるのは
  『女は魔性である』(大正5年)の著者、野元北馬さんと
  『女罵倒録』(大正9年)の著者、よぼ六さんです。
  早速ですが、お二人とも女性に関してはかなり厳しいご見解をお持ちのようですね。

 よぼ六

仏者は女を外面如菩薩・内面如夜叉と言ったが実にその通りである。花の如く美しく優しい容貌をして居るが、内心の醜悪は実際悪魔外道と撰ぶ所のない凄まじいものがある。見よ、美しく飾り立てた化けの皮を引剥く時、第一に出てくるものは燃え立つばかりの猛烈な性欲ではないか。その猛烈なる性欲も、彼らは巧みに虚偽を以て隠し包んでいる。虚偽は女の命である


 野本

遠慮無く申せば、我輩は、『女』という動物に対して、原始的に、且つ根本的に大なる疑問を有して居る一人者である。
 『女は果たして人であろうか』
 即ちこれである。
 女は『人』として、絶対の権利を有する代表的資格者ではない。女は直覚的に『人』と称し、『人』と許さるべき生物ではない。『人』という意義ある名称は、男性に依りて代表せられ、女は男性に依りて始めて『人』という意義と、存在と、資格とを付与せられて居るのではあるまいか


 ― 『女性は人ではない』ということですか?

 野本

女は『人』として男性と相対並立すべき資格者でなく、ただ『人』としての『参与者』に過ぎない。一面から言えば、女は男の付随者・付属物である。
 『奴隷』即ちこれである。女は先天的に男の『奴隷』として、僅かに『人』たるの参与権を神は付与している


 ― 『奴隷』ですか…

 よぼ六

当世の才媛方は口を開けば、女が男の奴隷状態に在るのは自立の精神と才能とが無いからである、ただ食わして貰うために夫に服従する妻は売春婦と撰ぶ所がない、なぞと恐ろしいことを仰有る。だが立派に生活を続けて行かれる女が、その生活を続けようとはせずに、世間から物笑いになっても構わず男に飛びついていくのは何としたものだろう


 ― 旦那さんに先立たれ、ご自分で六人のお子さんを育て上げた、大正三美人にも数えられる日向きん子さんのことですね。

 よぼ六

この賢母良妻たる才媛が、病夫の死後、その墓の土の未だ乾かぬ間に、まさか自分よりはるか年下の二十七歳の青年と結婚しようとは誰が知っている者があったろう。虫も殺さぬような優しい顔をした女、男なぞには用も無げに見える品行方正らしい女も、その上皮一枚引剥けば、恐ろしや身も魂も焼き尽さんばかりの猛烈な性欲が燃え立っているのだ。優しい顔も品行方正も、所詮はその醜い性欲を包み隠す方便道具に過ぎない者である



 野本

世の実例に徴するに再縁の女は兎にも角にも尻が軽い。何となく浮き腰で気に落ち着きがない。これもそのはずだ、いったん前夫に『処女』の『神聖』な生血と『秘密』とを捧げて『性』の地色を新しく染め変え様とするのだもの。エバが毒果を喰ったような『眼明き』になった、彼と是と、昨日と今日とを対照比較せずにはいられない


 ― (『大正美人伝』によると、きん子さんはそんな軽薄な女性じゃなかったみたいなんだけどな…) えー、お二人とも女性の虚栄心ということについても書いておられますね。

 野本

女は虚栄の化身である。詮約していえば、『虚栄』は女の全生命である。女からこの『虚栄』を抜き去るのは、その生命を奪うのにも値しよう

 よぼ六

女ほど虚栄心の強いものはなく、服装の華美を誇りたがるものはない。だから何事かあって人中へでも出るというようなことになれば、身上ありったけを尽して美装して出かけなければ虫が納まらぬのだから厄介な代物と言わなければならぬ


 野本

『虚栄』は女が男に対して、自己の権利を保障する武器であると同時に、一面には同性間に『自我』の幸福を誇る、慢心の発露である。今やあらゆる女の脳裏に、かかる『虚栄』の血が湛えられて、女の道徳とか、女の『分』とかいう問題などは、陳腐がられて、新しがる女の血管には一点だも宿っていない


 よぼ六

今の女に節操なぞと言うだけ野暮だ、と言ってしまえばそれまでだが、さほど極端なことは言いたくない。とは言うものの新しい女なぞという連中の放縦極まる淫奔生活を見ては、実際節操などと今時言うのが時歳錯誤かも知れん、というような情けない感も起こる


 野本

女は家庭より外に、社会もなければ世間もないはずだ。これが女の宿命である。要するに女は『奴隷』ではないか。『従僕』ではないか。己を鼻に掛けて事を誇るというのはその身の『分』でもあるまい



 …とまあ、こんな調子なのであるが、俺の恣意的引用で誤解させては申し訳ないので念のために言っとくと、この二冊、実際にはかなり趣が異なる。

 『女は魔性である』の方は観念的で、はっきり言えば晦渋で、楽しむために読む類の本ではない。
 ではあるが、そこここに中々鋭い分析・フレーズが垣間見える。風俗・文化史的には興味深い本である。

 片や『女罵倒録』、おちゃらけたペンネームからも判る通り、世相や女性の生態を揶揄・風刺するという趣旨のエッセイである。
 日向きん子(きむ子)とか、女優の村田喜久子とか松井須磨子など、当時の著名な女性のうわさ話や、見てきたようなバクロ話を盛り込んで、よぼ六氏の筆は軽妙に進む。
 こなれた文章といい、匿名だが実は割と名の通った操觚者なのではなかろうか。

 大正中期と云えば、「新しい女」・女性の社会進出が進んだ時代である。
 『女は魔性である』も『女罵倒録』も、そんな時代ならではの「女性批判」本なのだろうが、こういう本が出せていたのも、社会がある程度平穏だったからで、このしばらく後には、こんなノンキな本は出そうと思っても出せなくなるわけだ。

 「女なんて」と、男どもが愚痴っていられる時代というのは、そーゆー意味では「よい時代」といえるのかもしれないな。
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by signal-9 | 2012-08-13 20:31 | 読んだり見たり | Comments(0)
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