建文奇聞 ― 秋山中将を悩ました石 (霊怪談淵)

 日露戦争の日本海海戦に三笠艦に参謀長として乗り組み、盛名を博した秋山眞之氏は、戦後の少将時代に、一時大本教を信仰していた。
 ある日、京都の綾部に住んでいた大本教の出口教主を訪問したときに、座敷の床の上に鉄瓶大の奇石が置いてあるのを見て、自分に譲ってくれまいかと所望をした。

 王仁氏は、「その石は霊のある石として、某信者から奉納して来た石で、神仕えをしない普通人が持つと煩いが生じるかも知れない」と注意したが、秋山氏は身柄に自信があったと見えて、とにかく自分にくれといって、無理にその石を貰い受けた。

 この石を書生に持たせて汽車で東京へ持ち帰る途中から、秋山氏は気が変になってしまった。秋山氏の発狂沙汰はこの石から起こったことである。
 氏の家庭では、それと気がついたので大いに驚いて、石を隅田川へ投げ棄てた。

 その頃、東京市外の中野町に在住の大本教の信者であった医学博士の岸一太氏が、ある夜、水中の霊石の夢想を受け、数十人の人夫を使って隅田川の水底を捜索させて問題の石を拾い上げ、持ち帰って邸内の神祠に奉安したが、その後、石はまた元の出口家に送り返された。





 出口王仁三郎はいうまでもなく新宗教教団大本教教主。

 『坂の上の雲』でお馴染みの秋山眞之が一時、大本教の信者だったというのは既に書いたとおり
 岸一太も実在の人物である。

 登場人物が全部実在の人、しかも大本教の関係者だけで話が完結しているので、たぶん大本教人脈の中での情報だろう。(出口と岸は本書『霊怪談淵』出版時点で存命。秋山は既に死去)

 実在の人物ばかりなので、その線で多少詮索してみよう。

 秋山が大本教と直接的に繋がりがあった時期は、大正5年12月14日に浅野和三郎を綾部の大本教本部に訪ねてから、大正7年2月4日の死去までの、長く見積もっても1年ちょっとという極めて短い期間である。

 この短い期間に起こったイベントとしては、この呪いの石の話、ちょっと時間的に違和感がある

 秋山がいくら豪放磊落な性格だったとしても、出会ってすぐの出口に向かって「この石譲ってくれ」とは言わないだろう。
 また、こんなネガティブな事件が大本教とコンタクトして直ぐに発生したとしたら、家族も公的身分もある秋山が、その後ますます大本教と密接になるとは考えにくい。

 なので、この事件が発生したとしたら、秋山が盲腸炎による健康問題で現場から離れ(離され)名誉職(海軍将官会議議員)に付き、大本教の本部綾部と東京の間を頻繁に往復していた大正6年7月以降、とみるのが妥当だろう。

 だが、秋山は、その年末には小田原の山下汽船会長の別邸で療養生活に入り、そのまま東京には戻らずに小田原で死去している。

 つまりこの事件が大正6年7月以降に起きたとすれば、年末までの間、わずか5ヶ月弱の間でなければならない。建文はこの事件が「戦後の少将時代」に発生したというニュアンスで書いているが、かりにそうだとすると秋山が少将から中将に昇進したのは大正6年12月1日なので、さらに一ヶ月ほど短かくなる。

 しかもこの時に既に秋山の病状はかなり進行していた。「身柄に自信があった」というのは非常に違和感がある――というか、そ れ ど こ ろ ではなかったはずだ。
 秋山の評伝によれば、綾部詣では、病気の激痛を抑える心霊治療のためだったと伝えられている。病状がそこまで行っている人間が「この石譲ってくれ」なんていうだろうか。(12月1日の中将昇進は海軍が用意した花道であることは言うまでもない。つまりこの時点では「もう長くない」と判断されていたわけである)

 ではやはりこの事件は、大正6年7月以前のことなのだろうか。

 ところが、「秋山氏の発狂沙汰」というのが、この期間―大正6年前半―にあったという史料が見あたらないのである。

 英才の性か、秋山は毀誉褒貶の烈しい人物だったことは確かで、「狂った」と言われたことがあるのは事実のようだ。

 例えば大正3年、都新聞紙上で、始まったばかりの第一次世界大戦の見通しを聞かれ「少なくとも六年、長ければ八年かかる」と答え、そんなにかかるわけはない、英国のキッチナー陸軍元帥の「三年」という見込みですら批判されているではないか、秋山もとうとう頭がおかしくなったな、と軍政官民マスコミから総ツッコミされたことがあった(結果的には秋山の見込みの方が正解に近かったわけだが)。

 晩年の秋山が大本教始め宗教に傾倒したことを指して「狂った」と表現する向きもある。確かに秋山の死亡記事などを読むと、晩年の宗教「狂い」を指摘する談話などもいくつか確認できる。また常識的に考えて、盲腸炎の手術を断って心霊治療に励むなど狂気の沙汰と見えても仕方がない。
 が、これと「発狂騒ぎ」というのは大分ニュアンスが異なるように思う。

 つまり、「狂った」と中傷されたことがあったのは事実だが、「発狂騒ぎ」と称せられるようなことが大正6年前半頃にもあったのかどうか、少なくとも俺には確認できなかった。

 さらにもうひとつ違和感がある。

 秋山と大本教を繋いだキーマン・浅野和三郎は、秋山が初めて綾部に浅野を訪ねたまさにその日(大正5年12月14日)に、日本海海戦の三日前にバルチック艦隊の陣容を夢に見て、それが歴史的大勝利に繋がった、という話を秋山から直接聞いたという話を残しているそうだ(『心霊現象を知る事典』春川栖仙、東京堂出版、平成5年、P49)。
 個人的には、この「霊夢」話自体は、秋山の浅野に対するリップサービス的なものだったのではないかと思っているが、秋山と浅野の緊密な関係を示すエピソードといえる。

 「秋山氏の発狂沙汰はこの石から起こったこと」なんて事件があったのなら、浅野は当然知っていたはずだ。
 だが、浅野和三郎がこの事件に触れている形跡は無いようなのだ(あるなら誰か教えてください)。

 ということで、この「秋山中将を悩ました石」の話、登場人物が全部実在という割には、すっごく怪しいと個人的には思っている(笑)
 (極めてうがった見方をすると、秋山が大本教に「狂った」という中傷を打ち消す為、、「いやあれは霊石のせいで」というストーリーが仕立てられた…という見方もできるかもしれない。が、証拠はない)

 ちなみにこの話、昭和11年の『霊怪真話』にも再掲されている。

 八幡書店の復刻版『霊怪真話』では、前年(昭和10年)に第二次大本事件発生という状況で出口王仁三郎の霊験をたたえるような話を掲載したのは度胸があるというような評価をしている。

 それはその通りだと思うが、実はこの話、『霊怪真話』では多少リライトしてあるのである。
 出口教主→出口王仁三郎、王仁氏→王仁、と出口王仁三郎の尊称・敬称が省いてあるのだ。

 時代背景が垣間見えて面白い。


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■■■ 2012年7月26日 補遺

 最近、『大本教の正体』(狩野力治、大正8年)という本を近デジで発見した。
 脱会信者による大本教の批判本である。

 同書66ページで、
 故海軍中将秋山眞之氏は、晩年大本教に迷い込んだが、その邪教たることを看破したる人であるが、ここに録するものは、大正六年の夏、友人某氏(現任海軍将官)宛てられた信書の一部の抄録である。

 として、大正6年7月23日付けの「秋山の私信」が引用されている。

 『過般小生が欺瞞されたる大本教の如き』

 『右大本の級長たる出口王仁三郎の魔霊

 『大本教祖出口ナヲに憑き居る悪霊は……時には改心帰順したる事もあるも、元来が悪霊なれば、いつかはその本性を現はし、不穏の挙を企て居るものにして』

 …明らかに大本教に批判的な内容である。

 さて困った。

 元記事に書いたように、秋山の評伝(田中宏巳『人物叢書 秋山真之』吉川弘文館、など)によれば、大正6年7月以降、秋山は病気の激痛を抑える心霊治療のため大本教の本部である綾部に頻繁に詣でていた、とされている。

 だが、もしもこの「秋山の手紙」がホンモノだとしたら、秋山は同時期には既に大本教にかなり批判的だったということになる。教祖や教主が悪霊に憑かれている、と判断していた大本教に詣でるというのは非常に違和感を感じる。
(教団には批判的でもそこで提供される「修行」などに実利を見いだすケースはままある…などと、テキトーに忖度することは出来なくはなかろうが)

 俺としてはこの「私信」の信憑性には現時点では疑念を抱かざるを得ないが、面白い資料であるのは確かだ。
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by signal-9 | 2012-02-06 10:53 | 奇談・異聞
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