謎の男 岡田建文(1)

 東京神保町の書店街にある、『書泉グランデ』は『書泉ブックマート』と同じく、今やかなりヲタク臭溢れる特殊書店となり果てた(断言)。
 ここの人文のフロアは、俺好みのフリンジな本が充実している。
 21世紀の今日、中岡俊哉の文庫本が並べてある新刊書店なんてここくらいではなかろうか。

 で、たまに行っては本漁りをしてるのだが、オカルト関係の棚に並んでた一冊が目にとまった。
 『妖獣霊異誌』岡田建文著(今日の話題社)、とある。

 岡田建文? なんか聞き覚えあるような…と思って手に取ってみたら、これ『動物界霊異誌』の再編集本だったのだ。

 ちょっと前に、ちくま文庫『文豪怪談傑作選/柳田 國男』を読んだばかりで、その中に柳田の書評『岡田蒼溟著『動物界霊異誌』』が含まれていたので覚えていたのだ。

 本漁りでは時々こういう風に、勝手にコンボが繋がることがある。
 そういう時には、けっこうアタリであることが多い。

 で、購入して読んでみたのだが、案の定これがなかなか面白かったのである。
 いろんな意味で。

 昭和初期の文筆家、岡田建文(蒼溟は雅号)は日本民俗学の祖・柳田國男のマブダチだった。
 柳田の日記『炭焼日記』にも、親交の様子が記録されている。
岡田建文老来、高談。巻紙1本くれる、いろいろめずらしき話あり。(昭和19年3月6日)
岡田建文老来、二月あまり寝てゐたよし。神の示しにて草を採り食ふ夫婦の話をする。本を買う金三十円おくる。(昭和19年8月4日)
岡田建文翁来、月おくりの盆迎に畠の物をさがしに来られたよし。紙色々くれられる。又「わかなみ」といふ昆布製のくすりも。(昭和19年8月13日)
書籍代まで寄付してるのだから、相当な仲良しだったわけだ。

 エッセイ『作之丞と未来』(昭和24/1949)でも、柳田は「空襲のさなかに別れたまま、消息不明になった旧友の岡田蒼溟翁」の思い出を哀切を持って懐かしんでいる。

 さて、この岡田建文という人物、柳田國男というビッグネームのマブダチであるわりには、プロフィールがよくわからない。

 建文に言及している近年の著作としては、大塚英志『偽史としての民俗学』(角川・2005年)と、『日本妖怪学大全』(小学館・2003年)所載の一柳廣孝『1920年代、<心霊>は増殖する』くらいしか知らないのだが、この両方とも、建文のプロフィールに関しては建文の著作を数冊復刻している八幡書店の編集部が『大本七十年史』を基に記述した以下のプロフィールに依拠している(ちなみに『妖獣霊異誌』の今日の話題社も八幡書店傘下なので、同書には同じプロフィールが掲載されている)。
  1. 出身地は島根県松江。
  2. 松陽新聞の記者を経て、心霊関係の雑誌『彗星』を発行していた心霊主義者。
  3. 出口王仁三郎の大本教に傾倒し、『彗星』でその普及に務める。
  4. 大正10年2月の第一次大本事件(大本教に対する弾圧)以降も『彗星』には大本教の記事を載せ続けた。
  5. 王仁三郎に頼み込んで「人類愛善新聞」(大正14年10月創刊)の記者として月給30円という破格の待遇を受けるが、同誌の川津雄次郎は一度も岡田の記事を採用しなかった。古くさい記事ばかり書いて30円の値打ちがないと陰口を叩かれ不遇をかこったらしい。
 で、柳田國男の証言に依れば(柳田自身は断言していないのだが)、おそらく東京の空襲(1944~1945)で死亡したのだろうと。
 逆に言うと、建文のプロフィールはこの程度しか判ってないのだ。
 で、俺もちょっと調べてみた。

 まず生まれた場所。島根県の松江出身であることは、建文の著作のあちこちに書いてある。『幽冥界研究資料 第2巻 靈怪談淵』)には「著者の生地である字内中原町」との記述がある。出身は島根県松江市字内中原町、ここで間違いないだろう。松江城の足下、松江市の中心部だ。

 次は、プロフィールの基本中の基本である生年月日だが、早くも行き詰まってしまった。

 建文の主要な著作活動は大正末~昭和初頭にかけてのことである。
 それなりに纏まった数の著作はある(書誌に関しては後で)。
 特に『妖獣霊異誌』=『動物界霊異誌』は郷土研究社叢書の一冊として、つまり柳田の『山の人生』や『遠野物語』などと同じシリーズとして刊行されている(恐らく柳田の肝いりで)。
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 早川孝太郎佐々木喜善といった著名な民俗学者と並んでいるし、少なくとも当時は、文筆家として全く無名というわけでもなかろうと思い、国会図書館近代デジタルアーカイブや近所の図書館で、昭和初期の各種紳士録・人事興信録,「国民年鑑」の人名録など、目に付く名簿を片っ端から調べてみた。

 …考えが甘すぎました。

 建文の「け」の字も見つからない。
 もしかしたら「けんぶん」じゃなくて「たてふみ」かも、あるいは「そうめい」の方で出てないか…とか、考えつく限り探してみたが全部空振り。

 「う~ん。なるほど『謎の男』だわ」

 結論的には今のところ生年月日は判明せず。
 例によって勝手な推測でお茶を濁しておく。
  1. 自分の実体験の話で「明治14・5年頃までは」云々と思い出話を書いている。
  2. 大正15年の著作で、五十余歳の人を「~君」と呼んでいる。
  3. 明治8年生まれの柳田圀男が、老とか翁とか呼んでいる。
  4. 『靈怪眞話』(昭和11年)の「書尾」(後書き)には建文のポートレートが掲載されている。写真の状態が酷いのでよくわからないが、禿頭・眼鏡のかなりな老人に見える。
 と、そんなこんなで恐らく、柳田圀男と同年配、明治ヒトケタあたりの生まれではなかろうか、と。

 大正中期、大本教に傾倒し自らの雑誌『彗星』で大プッシュ―はっきり言えば"布教"に努めたのは間違いないようだ。

 建文はこの時期、新興宗教関係でもう一人のビックネームと関係を持っている。
 後の宗教団体『生長の家』の創始者、谷口雅春に大本教を紹介し、入信のきっかけを作ったのが建文のようなのである。
 谷口雅春『神霊界』(大正7/1918)によると;
 いろいろの精神霊法を研究していると、ある日松江から『彗星』と云ふ雑誌を送って呉れました。
 それに仍って永い間不満足に思つて居た社会組織が根底から立替へられる皇道大本なるものを初めて知ったのです。私はその雑誌の御礼に彗星社へ『心霊療法の骨子』と題する原稿を送りました。(中略)
 所が彗星社の岡田射雁氏からの返事に『時節到来の節には早速掲載致すべく候へどもその時節なるものの何日到来するかは明言致し難く』と大本式の面白い文句でした。
 処がその原稿は直ぐ翌月即ち九月号の『彗星』誌に皇道大本の記事と相対する頁に載せられてゐました。それが動機で参綾の時節が来たのでした。そして私は綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥ぢない生活を見出しました。それは実に各人の働きが人類の喜びであるような生活でした。過去を振返って見ますと凡てが大本へ入る前の予備試験のやうに考へられます。
 この「彗星社の岡田射雁氏」というのは建文の初期の別筆名である。
 ちなみに、唐津市近代図書館 郷土史料目録Ⅱより大島家文書によると、彗星社主筆 岡田射雁の名前で、銀行頭取だった大島小太郎に宛てて『「彗星」の購読を願う(大正六年五月十八日付)』という宣伝葉書を出していることが確認できる。佐賀県まで手を伸ばしていたということは、この『彗星』、けっこう手広くやってたようだ。

 ということで、少なくとも大正中期までは西日本を中心に『彗星』の主筆として、大本教関係の活動していたようである。

 さて問題はここからだ。
 八幡書店編集部纏めのプロフィールは大本教関係の情報源に依るものだから、ここから以後の建文の行動がよく判らないのである。

 もう少し、追跡してみる必要がありそうだ…ということで次回に続く。
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by signal-9 | 2012-01-24 13:45 | 奇談・異聞 | Comments(0)
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