「ニセ科学」という"レッテル"を止めてみたら?と言ってみるテスト。

 togetterとか見てると、こんな議論があったのだな。

「チェルノブイリへのかけはし」批判者は、汗をかいてから批判して欲しい等の主張

「かけはし騒動」関連のまとめのまとめ

ニセ科学

 俺は「ニセ科学」という言葉は使わないようにしている。
 このブログでも引用部以外では使用していないはずだ。

 いくつかの「疑似科学的」論説は批判的に取り上げているが、「科学的に間違ってるから」という表現は使っていないと思う(唯一の例外は多分これくらいだが、これは「科学的」を標榜する側が自己矛盾してないか、という文脈)。

 何故かというと、「ニセ科学」文脈によく出てくるコトバの定義が、俺にはまったく判っていないからである。

 例えば、この文脈によく「科学者」とか「専門家(集団)」のようなコトバが出てくる。
 「医者」と「ニセ医者」の区別は判る。一般的に医者は免許制であり、免許を持っていないのは「ニセ医者」だ。
 だが、「ニセ科学」文脈で使われている「科学者」には「免許」というのがあるのだろうか(笑)

 『科学的方法で研究する人が科学者で、そうでない人は「科学者もどき」(ニセ科学者)』 こういうのは単なるトートロジで、何も言っていないのと同じである。
 「ニセ医者」であっても、やってる医療は「ニセ医療」ではないというケースも論理的にはあり得るし、その逆もあるだろう。「科学」はそうじゃないのか。
 状況によって変わる人の営為を以て、その人の普遍的な属性を決めつけるというのは、常識的に無理がある。

 「ブラックジャック先生は『ニセ医者』じゃなくて『もぐりの医者』なのよさ!」
 うーん、でも「もぐりの科学者」ってのはピンとこないよな(笑)

 そもそも「ニセ科学」というコトバが、「理論そのもの」を言ってるのか「方法」のことを言ってるのか、「手続きやシステム」のことなのかもよく分からない。あちこちの「ニセ科学」関連のページを見る限り、色んな意味で使われているようである。「科学でないのに科学を名乗っている」、だからその「科学」というのは何なのか。

 「ニセ科学」という言葉の定義を試みているページも色々読んでみたが、そもそもこの「科学とは何か」という問題に関しては棚上げにしている(メタな定義論には取りあえず立ち入らない、とか) あるいは、「(科学者である)私のやってる科学が科学だ」というバカボンのパパ理論なもの、「いくらなんでもその定義は古すぎる・狭すぎるだろ」なものしか、少なくとも現時点では見あたらないので、相変わらず?なのである。

 「俺たちの『科学』とはこういうもの」という(暗黙の)合意がなされている特定の「科学者」同士で「○○ってニセ科学だよね」で頷き合うのは判るが、その合意がなされているとは限らない「外の世界」に向けて「○○は『ニセ科学』です」と表明するのは意味がまったく別である。

 つまるところ、定義を「さておいている」・あるいは定義自体が属人的・属文化圏的・恣意的であるのなら、「ニセ科学」というのは、戦術的なスローガン・ラベル・レッテルである、と俺は理解している。

 「ニセ科学」のような言葉が「外」の世界に向けて使用される場合は、それは「プロパガンダ」すなわち「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為」のための道具、ということだ。

 「なんちゃら科学」という、これに似たようなラベル・レッテル・スローガンはかなり多い。

 今思い出せるだけでも、「ブードゥー科学」(ロバート・パーク)とか「バッドサイエンス」(ベン・ゴールドエイカー)とか「病的科学」とか「ジャンク・サイエンス」、いろいろあるが、いずれも定義は恣意的なものだ
 例えばロバート・パークに言わせると国際宇宙ステーションなんてブードゥーサイエンスの最たるもの、だそうだが、これには同意できない「専門家」も多いのではないか。

(上に挙げたのは、いずれも「科学の世界の内側の話」だから「ニセ科学」とは別だ、という反論はあり得る。「科学ではあるが病的だ」とか「科学ではあるがジャンクだ」みたいな使い方だけだったら、そうかもしれない。しかしながら、使われている文脈を見ると必ずしもそういう使い方ばかりではないので、実態と合致しない。恣意的なスローガンだから当然だろう)

 畢竟、この手の「スローガン」は、
悪用される科学 日経サイエンス  2005年10月号
不確実性は科学に内在する問題だが,それをでっちあげることは全く別の話だ。業界の利益を脅かすような問題が起きると,業界団体がその問題の研究を始める例がここ30年間で非常に増えている。
 例えばある企業の従業員が危険なレベルの化学物質にさらされていることが研究から明らかになったとしよう。そういう場合の企業の典型的な対処法は,自社で研究者を雇ってその研究を批判する研究をさせることだ。また,ある薬の安全性が取りざたされると,製薬会社の経営陣は健康に対する深刻な危険はないとする実験結果をさかんに宣伝する。この手の研究は会社の資金で行われ,不安を感じさせるような結果は無視したり隠したりする。
 米国産業界の一部では脅威となる研究を「ジャンクサイエンス(ニセ科学)」だと非難し,反対に業界が委託して行った研究を「健全な科学」として正当化することが常套手段になっている。
 このように、社会的にあまり健全でない使われ方もする。

 「プロパガンダ」だからダメとか悪いとかいってるのではない。
 「外の世界」(「社会」)に対して、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝」を行う目的の為に、こういうレッテル(「キャッチ・コピー」?)を使うことは別に「悪いこと」でも何でもない。
使っている当人がその恣意性に自覚的であるならば。

 だが、これが恣意的な戦術的用語であるということに、無自覚に利用している向きもあるようである(このあたりの「無自覚性」を評して「信仰」という表現も使われているようだ。「信念」・「常識」・「主義」、なんと言い換えても「主観的」・「恣意的」であることに違いはない)。

 さて。

 「ニセ科学」という概念を使用する・「それはニセ科学です」とラベリングできる戦術的メリット(プロパガンダにおける合目的的な有効性)は、現状それほど大きいものなのだろうか。

 もっとはっきり言っちゃうと、例えば;

「科学は信仰するもの」という科学者って、いったい誰のことなのかしら?

 ここの議論に代表されるような、「かみ合わなさ加減」にいささか辟易している。
 このやりとりを見ていると、メリットよりもデメリットの方が大きいような気がしてならないのである。

 科学論・科学方法論・科学史その他の分野で、この手のメタな議論(「科学とは何か」)はそれこそ延々と続いてきている。
 「メタな議論はさておき」といっても「いやいや<さておき>で、そういうコトバを使っちゃダメだろ」という人々は確実にいるわけである。

 ド素人の俺でも、今時「検証可能性が」「反証可能性が」とかで話を済ませている言辞を読むと「なーに何十年も前の話をしてるんだ」と鼻白むことがある。「観察の理論負荷」だの「共約不可能性」だのの議論はそっちのけかい。
 今時の科学を論ずる文脈で、「科学的事実」とか「客観性」とかの言葉を何の留保も疑いもなく使ってるのを見ると「なんと素朴な」と哀れみさえ覚える

 「外の世界」の人との定義の合意を求めるようなメタな議論を引き受ける気がない、能力的・時間的制約で引き受ける事が出来ないのであれば、わざわざ「論敵」を増やすようなラベル・戦術は使わない(あるいは使う時を選ぶ)方が、合目的的なのではなかろうか。

 といってみるテスト(笑)。

 というのは、俺は心情的に「ニセ科学」を批判すること自体は「概ねよいこと」だと思っているからである(だからこの文章もかなり「丸めて」書いている。足を引っ張る意図は毛頭無い)。
 これが有効な戦術である(と「信じる」)のであれば使えばよかろう。

 ただ、
  1. 「これは批判した方がよい」と主観的に判断した考え・情報を、批判する上で、「カガク的でない」というのは大抵の場合、批判の「ごく一部分」でしかないし、「カガク的でない」という批判は自分が思っているほど有効ではないかもしれない、ということは考えてみてもいいかもしれない。
  2. 批判的文脈で、メタな用語を使うときには、十分な合意が行われていない可能性に自覚的であった方がいいかもれない。
  3. この種の用語を使う「時と場所と相手(読者)」は、選んだ方がいいかもしれない。
  4. 自分がそのメタな概念を使う能力・時間的余裕・気構えがあるか考えてみるのはいいかもしれない
とは思う。

 だから俺は「ニセ科学」というコトバは使わないのである。
[PR]
by signal-9 | 2011-09-30 12:29 | 奇妙な論理 | Comments(0)
<< スティーブ・ジョブズ氏死去 減容と保管の方策を急ぐべきだ。 >>