柳田國男を論じる上で岡田建文に触れているのが、以前紹介した大塚英志『偽史としての民俗学』(角川・2005年)である。
この中で大塚は建文をこう紹介している。
この岡田建文なる人物は今日の感覚でいえばオカルティストということになるだろう。
だが、俺にはこの人物を「オカルティスト」と括るのは違和感があるのである。
ひとつの理由は、「オカルティスト」という言葉から想起されるような、
自らオカルト的な何かを実践しているというような話は、建文の著作には殆ど出てこないためだ。
せいぜい、調子が悪くなったので邪気払いの法-おまじない-をやった…程度で、こんなことはその辺のちょっと信心深い人なら普通のことだろう。
もうひとつの理由は、建文がどこで何を書いてきたのか、
書誌を纏めてみた印象からだ。
まだ非常に不十分なものだが、Google docsに上げたので、是非御一読願いたい。
岡田建文の書誌(不完全版) これがいわゆる「オカルティスト」の足跡だろうか。 ご覧の通り、たしかに多くは今日の文脈では「オカルト」分野のものだが、『風俗研究』や『郷土研究』、『民俗』、『日本及日本人』、果ては
『少年倶楽部』にも、今で言えば史学や民俗学の範疇に属すると思われる記事も多く寄せている。
前回書いたように、今のところ俺は、この建文の変化には柳田國男との交流―勃興期の民俗学クラスタ―の影響がかなりあると思っている。また、元々大きく依拠していた大本教が力を失ったことや、当初は下に見ていた欧米心霊学の台頭など、建文を取り巻く情勢の変化などの要素も大きかっただろう。
この建文の「変化」を追うことで、大正から昭和初期の日本のアカデミズムとオカルティズムの関係の変化や、日本の民俗学の歴史に関しての知見も得られそうな予感はある。
大塚英志『偽史としての民俗学』や、一柳廣孝『1920年代、<心霊>は増殖する』は、民俗学側/柳田側からみた分析だが、
その逆の分析―勃興期の民俗学がオカルトに与えた影響etc―もおもしろそうだ、ということである。
だが、俺にはその能力も時間もないので、細かい論証抜きで「今のところの印象」だけ書いておく。
岡田建文は、
柳田圀男流の民俗学者にも浅野和三郎流の心霊学者にもなり切れなかった人、といえるのではなかろうか。
民俗学というには「宇宙の理法」「心霊学」への信念が強すぎた。かといってコアな心霊学に寄るにはあまりにも民俗的ー土着的すぎた。
いっそ「宗教」に寄る手もあったかもしれないが、建文なりに「自然科学」への撞着があったためか、大本事件の影響か、大本系の新興宗教団体のコネで本は出すものの、大本以降はどこか特定の教団にべったり、ということもしなかったようだ。
結果的にアカデミズムからもオカルティズムからもそのメインストリームではハブられた建文に、手をさしのべたのが
柳田國男という、
根っこの部分では建文と似た嗜好を持つが、上手く立ち回る能力のあった男だった。
だが結局、建文は柳田のようにはならなかった。
オカルト側から見た場合でも、建文の本は、はっきり言えば
「ヌルい」のだ。
俺はいわゆる心霊家とか霊学とか霊術とかにはまったく無知(というか興味がない)だが、大石凝真素美とか荒深道齊とか宇佐美景堂とか、何冊かはパラパラ眺めてみたことくらいはある。そういう
コアな本と比べると、建文の本はあくまでも通俗的=一般読者向けである。
また同じ通俗向けでも、浅野和三郎の霊界通信記録「小桜姫物語」みたいに自分で実践してみた的ガチな話もない。「聞いた話」が殆どである。
この人の著作には、「研究」とか「布教」とかではなく、
「売文」という言葉が当てはまるように思うのである(「売文」を下に見てるつもりはまったくない)。
こういう「印象」に基づくと、この人物を「オカルティスト」と括るのは違和感がある。
そんな
コアな、求道的な、生活感ゼロの、おどろおどろしいイメージのレッテルは、この人物には似合わない。
この岡田建文なる人物は今日の感覚でいえば、「オカルティスト」というよりも
「オカルトライター」といった方が適当だろうと思うのである。
今で言えば、
並木伸一郎とか
山口敏太郎を「オカルティスト」と呼ぶには違和感があるのと同じことだ。
また、建文を「オカルティスト」と括るのは
多少弊害があるとも思っている。
この人物の著作すべてを、
「はいはい、オカルトオカルト」で葬ってしまうのは勿体ないと思うのである。
『動物界霊異誌』、『靈怪眞話』あたりは、柳田の示唆通り「心霊科学的」説明の部分を抜けば、ほとんど民俗学の伝承採話集(『遠野物語』や、高木敏雄『日本伝説集』みたいな)といっても通るだろうと、俺は思っている。
こんな実例もある。
田中瑩一『伝承怪異譚―語りのなかの妖怪たち』(三弥井民俗選書 2010)によると、
1974年に島根県邑智郡で聞き取りした話と、建文が残した記事が極めて似ていたというのである。
西島氏の語った「蛇と蟾蟇(ひきがえる)」とほぼ同じ話は、大正・昭和期に島根県松江市で著述活動をしていた岡田建文の『動物界霊異誌』の中に、島根県大田市波根の出来事として記されています。
(復刻版『妖獣霊異誌』、19頁要約。)
蟾蟇が蛇を殺して土中に埋めるとそこからきのこが生えてきたという話です。右の引用の中で波根の板倉校長はこの怪異を実際に見たこととして語っています。大勢の見物人があったと語るところは讃岐の「蛇と雀」の話と同じです。
この事実が語られてから八十年後、同じ怪異が比敷の西島氏の口から実際に見たこととして語られたのでした。この間、波根あるいは比敷あたり(波根から比敷までは今日であれば車で走れば一時間もかからない距離です)には、この話に興味を寄せ、「実際に見たこと」として「なんどとなくこれを人に語」ってきた人々が途切れることなくあったに違いありません。
建文の「オカルト記事」が、民俗学的な伝承・説話比較の情報源としても利用できる可能性を示唆している。
『動物界霊異誌』は柳田の肝いりということもあり、一部民俗学辞典などでも言及される程度には認知されているようだが、同工異曲の他の「オカルト」奇談集はあまり積極的に利用されてはいないようだ。
その理由のひとつに「オカルトだから」があるとすれば、これはもったいないことでは無かろうか。
ガクモン的な利用価値は置いておくにしても、俺みたいなアカデミック外の人間にとって、明治から昭和初期(大東亜戦争前)にかけての奇談というのは、
読み物としてけっこう貴重なのである。
ここ何年かの妖怪・怪談ブームで、奇談関連も色々な書籍が新刊として並んでいるが、その多くが「耳袋」だの「甲子夜話」だの、毎度お馴染みの古典か、最近の都市伝説本。
明治-大正-昭和初期のモノというのは、けっこう希少価値があるのである(この時期にはもちろん「実話怪談」というモノもあるのだが、こっちはどうも創作臭が強くて好みじゃない)。
ということで、次回はこの
民俗学者にも心霊科学者にも成りきれなかったオカルトライターの残したモノのを一端を紹介しよう。
そもそも建文は何故、柳田國男とマブダチになったのだろう。
二人の親交がどんないきさつでいつ始まったのかは不明だが、人が友達になるには、
趣味や嗜好が共通してるから、ということは大きな要因のひとつのはずだ。
浅野和三郎の苦言
岡田氏受持の部門には多数の寄書其他が載せられて居る結果、一方からは色とりどりの面白味もありますが、他方から観れば頗る雑駁
この苦言を
逆に捉えると、建文の編集眼・モノゴトの選択眼は「色とりどりの面白味」がある、ということだ。
浅野のような学者肌の人間には「頗る雑駁」と見えるほど「色とりどり」な不思議を収集し、記録している。
だが、
民話・民間伝承―今風にいえば『都市伝説』―を収集する観点からいえば、これはこれで、
アリな手法といってよかろう。
奇談・異聞なんてものは昔からそういう風に、バラエティ豊かに集められてきたのである。「耳袋」しかり。「甲子夜話」しかり。「雲霞綺譚」や「諸国里人談」も。
テーマとか作業仮説とかそういうご大層なものとは無縁に、ただ「不思議」「面白い」「恐ろしい」といった原初的な理由で。
つまり、
建文には元々、今で言う民俗学的な嗜好があったのだと思う。
柳田は『山の人生』の中で、後に建文の『霊界談淵』が収められる天行居の『幽冥界研究資料』に言及している。
また建文は大正14年(1925)半ば頃から数本の記事を、心霊専門誌ではない一般紙(『日本及日本人』)に寄稿しているので、柳田は建文の文章を読む機会もあっただろう。
ここで俺の得意技・
根拠薄弱な推測を炸裂させるが、柳田はおそらく、建文の文章に、
自分と共通する「いろいろめずらしき話」に対する嗜好を読み取ったはずだ。
そして多分、前回指摘したような建文の能力的限界や、「理学に対する果し状」を送りつけてアカデミックな場で争う困難さに気づいていたのだろうと思う。
(『動物界霊異誌』と、柳田山人論の終尾『山の人生』が同じ叢書に入っているのは象徴的だ。さらに想像を逞しくすると、もしかしたら柳田の脳裏には、自分の「山人論」を巡るいきさつ-南方熊楠らからのダメ出し-が過ぎったのかもしれない)
建文が記録した数々の奇聞は「行く行くこれを支配する法則が、この中から発見せられる希望を我々に与える」が、その法則の発見自体は建文の手に余る、と柳田は見通していたのではないか。
だから柳田は、ヘンな理学(心霊学)的解釈はなるべく入れず、いわゆる民俗学的採話に努めるよう、つまり「いろいろめずらしき話」の紹介に注力するよう忠告したのではないか。
西洋でも神霊学会の人々には、最初から理学の力を見放している者が多い。さうして居ながら可なり敏感に、いはゆる唯物論者の批判を気にかけて居るのである。そんな風だから余計に論証があり主張がある。しかし自分等の知る限り、今だけの人間の知識であらゆる世の中の不思議が説明し得られると、公言した学者は一人も無く単に素人の中にさう過信する者が時々あるだけである。そんな連中は最初から構ひ付けぬ方がよかつたのである。
けしからぬ者は通例事実をよく知らぬ人の中に多い。前から先生の論法を予期して、さうだと直ぐいふ者にはこれ程の証拠は無用である。同派引導と異派退治とを、一つの本で片づけるのは混乱に陥り易い。まづ事実をもつて未信者を動かし、説明は尋ねてくるまでお待ちなさるように
つまるところ、
柳田は建文に、「こっちへ来い」と勧誘しているのではないか、と思うわけだ。
そしてこの柳田の忠告を、建文は
ある程度受け入れた様に思われる。
確かに『動物界霊異誌』は、それ以前の同趣向の奇談集『靈怪談淵』に比べると、幾分「証拠だけをまづ例示して、心霊理学はほんの少しばかり、片端の方に説いてある」状態になっている。
(とはいえ、『靈怪談淵』で「念写すなわち思想が写真の乾板に焼き付くのは…人間の思想は心霊の末梢であって、一種の荷電性の光線を放射するもので…その思想の光線は眼から盛んに放射する」とかいってた<謎の光線>を、「精神光波」と名付けた上に「
狐は尾っぽからこの精神光波を出して人間を誑かす。 人を化かす狐が尾っぽを縦や水平に動かすのはこのためである」とか、相変わらずの超心霊学をブチかましてるのだが)
そして『動物界霊異誌』からおよそ九年後に出した『霊怪真話』の「自序」では、建文はこんな風に言っている。
多年の研索と体験とで、この世に超科学と見るべき霊怪や奇蹟とか言うべき事蹟が、予期しないほど多くあったことは、現代に一大権威として巌立する自然科学なるものの勢力圏の、案外に矮小であることに驚かれる。
(中略)
ここに言う、科学外の勢力なるものは、やはり宇宙の活理の一で、我々の自然科学の原能とは同胞の間柄で、将来は必ず科学者の認識に入って、教科書内のものとなるべき運命を担っている。
(中略)
かく言うものの、私は世に現れた霊怪や奇蹟なるものの全部を肯定しようとするものではない。いわゆる実覚錯覚や無稽の虚誕になる巷説も少なくないことを断言する。
しかし事実確実であるのは、いかんともこれを葬り去ってしまうわけにはゆかぬ。私はこれを記録に収めて、多彩的な人生なるものの糧に供したいのだ。
基本的主張は変わらないものの、そうとう穏当になってきている。
事実『霊怪真話』は『靈怪談淵』や『動物界霊異誌』に比べると「心霊学的解説」や「既存科学批判」がぐっと少なくなっている。
別に建文が心霊主義と決別したわけではない。
『霊怪真話』とほぼ同時期に上梓した『奇蹟の書 心霊不滅の実証』は
ガチガチの心霊学の解説書である。
だが、そこにも変化が見える。
『奇蹟の書』は心霊学の解説書である。つまり
柳田いうところの「同派引導」の性格であるため、
事例の列挙ではなく、理論説明の方に比重が置かれている。 それは実際のページ数でみれば明らかだ。
『奇蹟の書』は心霊学解説部分が事例部分より遙かに多い。
『霊怪真話』と正反対である。
柳田の助言に従って、
民俗学的なモノと心霊学的なモノを、建文が
意 識 的 に切り分けていたのかどうかはわからないが、建文の著作の変化には、柳田の影響があったことは確かだと思う。
以下次回。
…旧漢字や旧仮名遣いをマンマ打つのに疲れちゃたし読みにくいので、以後の記事内の引用は俺的必要に応じて適当に当用漢字と現代かなに変更する。まかり間違ってコピペしようとかいう時には注意して欲しい(笑)
さて、岡田建文のプロフィールは、
- 『生長の家』の創始者谷口雅春に大本教を紹介し、入信のきっかけを作った
- 大正末期に東京に出てきており、浅野和三郎の『心霊と人生』誌の編集に携わった
というところまで調べが付いた。
八幡書店編集部のプロフィールだけ読むと、第一次大本事件-大正中期以後は鳴かず飛ばずみたいな印象になっちゃうのだが、どうしてどうして、東京に出てきてからも建文はアクティブに活動してるんである。
それにしても、この岡田建文という人物、かなりのビッグネームと直接コネクションを持ってたわけである。出口王仁三郎に仕事を斡旋させ、谷口雅春を大本教に誘導し、浅野和三郎と一緒に仕事をして、柳田圀男のマブダチ…。
けっこうすごいメンツである。 だのに何故、「忘れられた謎の心霊主義者」になってるのだろうか。
話はちょっと遡るが、大本教時代の大正7年、建文はある雑誌に記事を寄稿している。
中村古峡が主宰し、科学者から歴史家・文学者まで、錚々たるメンバーが寄稿していた雑誌
『変態心理』に、である。
『変態心理』といっても、今でいう「このヘンタイ!」の意味ではない。異常心理とか神経性疾患とか、そーゆー問題に対して、幅広い分野の専門家が論文や報告を寄せて、学際的な議論を繰り広げていたマジメ極まりない雑誌である。
当時の『変態心理』は、基本的に
迷信排斥が基調であり、神秘主義・心霊主義、それを反映した新興宗教などは打破すべきものとして扱われていた。
主宰の中村古峡を筆頭に、多くの論者が迷信批判を繰り返し行っていた。
大本信者の建文は、事もあろうにその雑誌にわざわざ投稿して、ケンカを売ったのである。「本誌主幹及び寄稿家諸氏に寄す」(第2巻12号)
『変態心理』関係者全てが科学迷信に囚われ、神仏の霊や生物の亡霊を認めていない
「再び本誌主幹に寄す」(第2巻13号)
心霊問題を虚心平気にて研究する者は甚だ少く、世の該研究者は最初より在りと信じて為すものと、迷信たるものと断信して為すものと両様あるように候。大阪府下の田中祐吉君などは後者に御座候。先入主に捉はれては真摯なる研究は出来不申候
言ってみれば
敵地に乗り込んで「お前ら全員ダメだ」と、disりまくったわけだ。
(余談だが、大本教の神道霊学などを念頭に置いているのだろう、返す刀で「西洋の心霊学者の知らんと欲して知る能はざる霊界の秘密に属する諸事項は、予等一派の研究者にては夙に知悉されあり。霊界の真相は顕界の人に秘密にさるべき理由ありたる為め、千古以来幽冥界の真相が顕界に秘せられたるものに外ならず」などと、欧米の心霊主義に対する「予等一派」独自の心霊学の優越性を誇ってる辺りも興味深い。ちなみに『霊怪談淵』ではこの西洋に対する優越性の理由が述べられている。「西洋よりも我が国の方が霊的現象が多くあり、かつ質も優れているから」だそうだ(^^;)。こんな事書いてたくせに後期の著作では欧米心霊学にすり寄ってるのも、建文らしいといえば言えるのかもしれない)
この、
既存アカデミズムや既存科学に対するあからさまな非難は、その後の建文の著作にも共通する特徴である。例えば比較的初期の『霊怪談淵』(大正15 1926)では緒言10ページ余りを費やして
disってdisってdisりまくる。この事を知らざる世の自然科学者は、地球上に実現する物理を宇宙全般の理法と早のみこみをしている。その故にいささかにても、彼らの平素の経験外の現象に対しては、直ちにまずこれを否認してかかり、しかして後にこれを解説すべく学理を作成するのが常習である。
死後の生命や妖怪などを信じない現代科学の教養者も、もし実際の神や幽霊や妖怪に取り当たったならば、必ずこれが客観的実在を認めるには違いないが、今のところ彼らの知識と無経験とが頑固に顕界の理法だけを指示するのである
世の科学的教養者は、既に知られたる力法を以て、地上一切の現象を解説し得べしと傲傲語し、たまたま自然現象中に不可解のものあるときにわずかに超理学の語を以て対するも、いわゆる霊象的の不可解現象に対しては妄覚または錯覚の産物と断言し、強いてこれを信ずるものをば迷信愚昧視するを常とする。畢竟これ真の霊怪に無経験なために生じた謬見である
書評『岡田蒼溟著『動物界霊異誌』』で、柳田國男はこの建文の性向をこんな風に述べている。
(欧米に比べて日本では、不可解現象の)観測が粗末であり、取り扱いが冷淡であった。真摯なる岡田氏はこの態度を公憤して居るうちに、自身いち早く霊魂信者となった。そうして甚だ愚劣にしてまた手剛い仮設敵と、際限も無く闘って居るのである。
柳田は建文のこのような既存科学との対決姿勢、すなわち「甚だ愚劣にしてまた手剛い仮設敵と、際限も無く」闘うことは、不毛と考えていたようだ。
岡田氏の著述は沢山の争うべからざる事実を含み、行く行くこれを支配する法則が、この中から発見せられる希望を我々に与える。それを著者自身だけが理学に対する果し状の如く考えて居ることは、これもまた事実であるが、悲しむべき事実である
確かに建文の『変態心理』誌上への殴り込みは、
失敗に終わったと言わざるを得ない。
匿名氏から名指しで、「岡田は未だ科学に立脚しながらも、科学の妄想迷信から脱したと信じる一霊界の盲者である」…建文は科学をdisるくせに、その科学に乗っかってるじゃないか、と噛み合ってない批判を受けたのみ。
基本無視されたようだ。
では逆に、神秘主義・心霊主義サイドから建文はどう評価されていたかというと、
こちらもあまり芳しくないようなのである。
ここで前回紹介した浅野和三郎の建文の編集に対する批判を思い出してほしい。
岡田氏受持の部門には多数の寄書其他が載せられて居る結果、一方からは色とりどりの面白味もありますが、他方から観れば頗る雑駁で、時に単なる一家言としてのみ通用するような気焔や鼻元思案も見受けらるるのは当然であります。
「一方からは色とりどりの面白味もありますが、他方から観れば頗る雑駁」
「時に単なる一家言としてのみ通用するような気焔や鼻元思案(浅はかな考え)も見受けらるる」
「ドグマが沢山混っている」
この苦言は建文の著作にそのまま当てはまるのである。
例えば『霊怪談淵』で取り上げられている「霊怪」は以下のようなものだ。
妖怪山童、火災の予言、勝手に動く占い版、縮地の法、15分間で80キロ走った自転車、生き霊の頭を殴った禅僧、長期絶食者、突然重くなった御輿、呪いに化け物屋敷に心霊写真…。

自分で取材した話から、「今昔物語」「耳袋」など古典からの採話まで、
「不思議」だったらなんでもアリ。 ジャンルも体系も統一感もクソもない、まさに浅野の言う如く「一方からは色とりどりの面白味もありますが、他方から観れば頗る雑駁」である。
大本教系の「人類愛善新聞」の記者として採用されながら「古くさい記事ばかり」との理由で一度も記事が採用されなかったというのも、恐らくこの辺に理由があるだろう。
おまけに、建文は既存科学の範疇を超える理法として、しばしば心霊学的な説明を持ち出すが、それがこんな感じなのである。
- いにしえから霊能力者には蚊が近寄らない。
霊能力者というのはつまり霊の強い人である。霊が強いと皮膚から外部に放出する霊分子が濃密で強烈であるから蚊のような小虫は強風に吹かれる状態になり近寄れないのである。
- 念写すなわち思想が写真の乾板に焼き付くのは理外の理でも何でもない。人間の思想は心霊の末梢であって、一種の荷電性の光線を放射するものであるが、その思想の光線は眼から盛んに放射する。この光線が乾板を照らして文字なり絵なり風景なりを映し出すのだ。つまり普通の写真と同じで光線の作用である。
念写は「目からビーム!」 浅野でなくても、この
「超心霊科学」には、「ちょっと待った」をかけたくなるのでは無かろうか。
「時に単なる一家言としてのみ通用するような気焔や鼻元思案も見受けらるる」「ドグマが沢山混っている」、浅野の苦言はそのまま建文への批判になっているのだ。
(『動物界霊異誌』の「日本の狐は化かすのに、なぜ欧米には化かす狐がいないのか」に対する建文の心霊学的回答は、「アド・ホックな説明」の見本のようなモノで一読の価値がある―もちろん
悪い見本としてだが)。
こういう書き方はちょっと躊躇するのだが。
建文は柳田や浅野のような、一高→帝大→官職という絵に描いたようなエリートではない。いわゆる学問的訓練にも相当な差があったはずだ。
だから(柳田や浅野や『変態心理』に参加しているようなアカデミシャンに比べれば)、
論者としてはちょっと…であることは否めない。
論旨・術語のブレ、場当たり的な説明、上手いとはお世辞にも言えない文章力。
理学科学を振り回す割には、専門的なフィールドで丁々発止できるほど知識があるとも思えない。
おそらく建文は本気で、自然科学(理学)の範疇を拡大することで、超常現象も合理の世界に取り込みうると思っていたはずだ。
だが残念なことに、それを実現・それに誘導するだけの能力は無かった。
極言すれば、建文という男は、
コアな舞台では科学サイドからも心霊主義サイドからも、ハブられていたわけである。
以下次回。
大正15(1926)年5月1日付けの『心霊と人生』の第三巻第五号には、
「昼飯時の幽霊 東京 岡田蒼溟氏」という記事が掲載されている。
つまり、メインの著作活動を始めていた
大正15年時点では建文は東京在住だったと思われる。
またしても推測だが、大正13~14年頃に東京に居を移したのではないだろうか。
というのは、建文の著作には大正12年9月1日の関東大震災を直接体験したらしき記述が見あたらないからである。
この『心霊と人生』とは、「心霊科学研究会」(今の財団法人「日本心霊科学協会」の前身)を立ち上げた日本心霊主義運動の父・
浅野和三郎が発刊した機関誌である。
『心霊と人生』は、改名前には『心霊界』という名前だったが、建文はその頃から記事を寄せていたようだ(現時点で俺が確認できているもっとも古いものは大正12(1923)年11月『心霊界 第十号(十一月号)』の『瀧姫の霊と女修行者(一)』)
浅野和三郎も大本教人脈である。
浅野は大正5年(1916)に大本に入信しており、布教に熱心―というより中心人物の一人だった。一高→帝大のエリートで、英文学者としての名もあった浅野は、海軍機関学校教官という経歴もあり、帝国海軍内での大本教布教のキーマンだった。
秋山真之を大本教に入信させたのも、機関学校教官時代以来、個人的な付き合いのあった浅野だったとする見解もある(田中宏巳『人物叢書 秋山真之』吉川弘文館,2004)。
建文が大本教と出会ったのは、浅野入信後の大正6年12月なので、浅野とは恐らく大本以来つながりがあったはずだ。
この
『心霊と人生』の編集に岡田建文は関わっていくことになる。
『第四巻第六号』(昭和2年6月1日)
尚お本誌の為めに甚だ慶賀すべき事は、会友岡田建文氏が次号から本誌の編輯事務を助けてくださることに内定したことであります。同氏は「慧星」の主幹として多年斯界の為めに健闘され、又操觚家として老成練達の士でありますから、必らず会員諸氏の期待に背かぬことを確信します。
「操觚家」(そうこか)というのは「文筆業・ジャーナリスト」のこと。
『第四巻第七号』(昭和2年7月1日)
本月からいよいよ岡田建文氏が編輯室に陣取られることになったのを機会に、編輯締切期日を前月の五日に切り上げ、二十日前後には製本が出来上るようにしたい計劃で進んで居ります。就きては御寄稿又は広告御希望の方々も、そのおつもりで御手まわしを希望致します。
皆様の御寄稿は従来私一人の編輯であった為めに、その整理に割くべき時間がとぼしく、心ならずもそのままに取残す傾向がありましたが、これからは岡田氏がその方面の編輯事務を負担してくださるので、ドシドシ整理の上紙面を賑わすことになります。何卒旧に倍して御投稿のほどを折入って御依頼申上げます。
と、浅野和三郎の右腕として機関誌を切り盛りし始めた様子が記録されている。
…ところが不協和音が聞こえ始める。 建文が編集に参加した
わずか三ヶ月後の『第四巻第十号』(昭和2年10月1日)の「編輯室より」で、浅野は以下のような苦言を呈している(「憑虚」というのは浅野の雅号)。
御承知のとおり本誌七月号以後は編輯部に岡田蒼溟氏が加わって居ります。そして報道以下約十六七頁は常に同君の手でまとめられ、以前私一人で編輯して居た時とは大分面目を更めて居ります。
岡田氏受持の部門には多数の寄書其他が載せられて居る結果、一方からは色とりどりの面白味もありますが、他方から観れば頗る雑駁で、時に単なる一家言としてのみ通用するような気焔や鼻元思案も見受けらるるのは当然であります。
怪しいと思わるる点はお互に遠慮なく批判し合い、指摘し合うべきで、決して盲従すべきではないと思います。本誌はどこまでも自由なる研究壇場であって、勝手な熱を吐く説教壇場であってはならぬのであります。
一例を挙ぐればO生の「天界旅行談評」の一説「遊魂を肉体に繋留するに必要なる霊紐なるものは精々四五里内外しか伸びぬ」などは単なる一家言で、幾多の実例がこの説を否定するのであります。他にも斯う言った種類のドグマが沢山混っているように見受けます。今の所心霊研究が発達の途上にある丈それ丈お互に虚心坦懐衆智を集めて大成を期せねばなりません。議論のある方々は何卒御意見を発表してください。成るべく紙面を割いて掲載したいと考えます。(二・九・六 憑虚)
プライマリには投稿記事への苦言の体だが、遠回しに建文の編集を非難しているように見える。
ようするに、
建文が編集している部分は、「頗る雑駁」で「単なる一家言」や「ドグマが沢山混っている」と。自分一人でやってた頃はそんなこと無かったと。
この浅野の評価は、岡田建文という人物を考える上でけっこう重要だと思う。
それについてはまた次回。